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光を求めつつ2

作者: 宮嶋 裕司

六.昭和三七年六月二十日 遠足


 私は明日の遠足を前に、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。明日は生徒たちとの貴重なひととき……笑顔と驚きに溢れる特別な瞬間を共有できる機会。私は、遠足先での光景や、生徒たちの興奮した声を思い浮かべながら、小さく微笑んだ。


 四月の職員会議で、年間行事には家庭訪問、遠足、運動会、社会見学、学習発表会などが含まれることを知った時、私は正直に言って、驚きを隠せなかった。

 これらはどこの学校にもある普通の行事だが、目が見えない生徒たちが公園を駆け回る遠足や、トラックを疾走する運動会はどうしても想像できなかった。

 校長先生はこう教えてくれた。

『視覚という窓が閉ざされているぶん、生徒たちは音や匂い、触感を頼りに世界を感じています。私たちには見えない豊かさが、そこにはあるんです』

『また彼らは、私たちと同じように太陽の下で笑い、風を感じ、土の匂いを嗅ぎながら、喜びや悲しみを分かち合う存在です』

『このような行事は、生徒たちとより深く関わり、彼らの世界を垣間見る絶好の機会となります。そして彼らの世界は、私たちが普段目にしているものとは全く異なる。音、匂い、触感、そして心で感じる世界。そこには、私たちが忘れかけていた大切なものが詰まっているのです』

 校長先生の言葉を聞いて、不安はいつしか、あたたかな期待へと変わっていた。

 生徒たちとの遠足を通して、彼らの世界にもっと近づきたい。共に学び、共に歩んだこの一日が、生徒たちの心にそっと残ってくれるように——そんな想いを、私は胸に抱いていた。

 遠足の目的地は、沖縄本島最南端にある摩文仁の丘。貸し切りの大型バスで、生徒と職員が一緒に向かう。現地では戦争犠牲者を悼む慰霊碑を巡り、歴史の重みを感じたあと、公園で弁当を広げて穏やかな時間を過ごす予定になっている。

 私は摩文仁の丘についてもう少し知りたいと思い立ち、懐かしい大学の図書館を訪れた。

 学生時代に幾度も足を運んだ図書館の扉を久しぶりに押し開けると、変わらぬ静寂と、やさしい木の香りが迎え入れてくれた。

 久しぶりの訪問にもかかわらず、受付にいた職員は私のことを覚えていてくれて、温かい笑顔を向けてくれた。「摩文仁の丘について調べたいんです」と尋ねると、職員は快く頷き、資料が保管されている書庫へと案内してくれた。

「この本は写真が多くて、解説も丁寧でお勧めです。個人的には、被災者の証言が載っているこの章がとても印象的でした」

 ページを開いて見せながら、静かに語ってくれた。

「ありがとうございます。とても助かります」私は深く頭を下げた。

職員は微笑んで、「他にも関連する資料がありますので、必要でしたらいつでも声をかけてください」と続けた。

「はい。ゆっくり読ませていただきます」

 館内には人の気配がほとんどなく、静まり返った空気が広がっていた。窓から差し込む柔らかな午後の光が、木の机の上に静かに落ちている。

 私はその光に手を伸ばすようにして、一冊の本をそっと開いた。擦れた表紙の中には、時を越えて語りかけてくるような写真と文章が詰まっていた。

 ページをめくるたびに、知らなかった事実や、心に響く言葉が飛び込んでくる。読み進めるうちに、胸の奥がじんわりと熱を帯びてきた。

 沖縄戦末期、摩文仁の丘は激戦の末、多くの命が失われた終焉の地となった。丘には、各都道府県や学校、部隊ごとに建てられた慰霊碑が静かに立ち並び、訪れる人々を迎えている。

 添えられた写真には、摩文仁の丘の高台から見渡す断崖の向こうに、果てしなく広がる青い海が写っている。その風景は、息をのむような美しさと、言葉では言い尽くせない深い重みを同時に湛えている。

けれど、それは単なる景勝地ではない。戦争の悲劇を今に伝える場所だ。命を落とした多くの人々の想いは、今もなお、この丘に吹く風の中に息づいている。

 魂魄の塔、白梅の塔、黎明の塔、ひめゆりの塔……一つひとつの慰霊碑が語る物語が、私の心に深く沁み込んでいく。沖縄師範学校の女生徒たち、ひめゆり学徒隊、名もなき人々。戦火の中で生き抜き、やがて命を落とした彼らの姿が、胸の奥に浮かび上がってくる。

 ノートには、私が調べたことを、一つひとつ丁寧に書き込んでいった。

 生徒たちにわかりやすく、心に残るように伝えたい。その思いを胸に、言葉を選びながら、そっとペンを走らせた。

「きっと、何かを感じ取ってくれるはず」

 そう信じて、私はまた静かに、一行ずつ文字を綴っていく。

 明日、生徒たちとどんな一日を過ごすのだろう。どんな言葉を交わし、どんな気づきを共に得るのだろう。彼らが何かを感じ取ったその時、そっと寄り添える私でありたい。

 共に見て、共に感じ、共に考える。

 そんな一日になりますようにーー祈りを込めて、私は静かにノートを閉じた。

 図書館を出ると、夕暮れの光が町をやわらかく包んでいた。

 街並みは茜色に染まり、どこか穏やかな期待に満ちている。

 明日は、生徒たちと歩む、きっと忘れられない一日になる。

 私はそう信じて、ゆっくりと帰路についた。


 翌朝、カーテンの隙間から朝の光が差し込むころには、私はすでに目を覚ましていた。

 いよいよ今日は、先生として迎える初めての遠足の日。胸の奥には、少しの緊張と、それを上回る大きな期待が入り混じっていた。

 台所に立つと、エプロンの紐をきゅっと結び、手早く弁当作りに取りかかった。

 料理は決して得意とは言えないけれど、今日は特別な日。ふと頭に浮かんだのは、学生時代に何度も食べた学食のフーチャンプルーだった。あの素朴な味が、なぜか今朝は恋しく思えた。

「うまくできるかな……」

 心の中でつぶやきながら、卵をとき、車麩を戻し、野菜と一緒に炒めていく。湯気の立ち上るフライパンの音が、静かな朝の空気をやさしく包んだ。

 仕上げには、隣に住むアメリカ人のご婦人からいただいたソーセージを焼いて彩りを添えた。

 最後に、生徒たちへのささやかな心遣いとして、ポークランチョンミートを八等分に薄く切り、焦がさないよう気をつけながら丁寧に焼いた。

 焼き上がったら、別の弁当箱に一つひとつ、慎重に詰めていく。見た目にも美しく仕上がるように位置を少しずつ整えながら、気がつけば手が自然と優しい動きになっていた。

「今日が、いい一日になりますように」

 私は小さくつぶやき、完成した弁当箱のふたをそっと閉じた。

 学校に着くと、生徒たちはすでに登校していて、遠足の始まりを心待ちにしている様子が伝わってくる。

 梅雨明けの空は限りなく青く澄み、太陽は眩しい光を降り注いでいる。これこそまさに「遠足日和」というべき一日だろう。

 各教室から聞こえる生徒たちの元気な声と笑顔には、遠足への期待と高揚感が溢れていた。

 三年一組の教室の扉を静かに開け、生徒たちを驚かせようと忍び足で中に入った。しかし、生徒たちはまるで背中に目がついているかのように、すぐに私の気配に気づいた。

「石川先生、おはようございます!」

 元気いっぱいの声で挨拶され、驚きとともに気づかれた理由が気になった。

「どうして先生が入ってきたことが分かったの?」そう尋ねると、生徒たちは口々に「美味しそうなお弁当の匂いがしたから!」と笑顔で答える。

 その鋭い感覚には思わず驚かされ、笑ってしまった。目の前の生徒たちの笑顔が、まるで太陽のように眩しく、私の緊張をすっかり和らげてくれた。

「おはようございます、みんな。今日は一緒に楽しもうね!」

 私の挨拶に、生徒たちは明るい声で応えてくれた。

 校内は活気に満ちていて、先生方や生徒たちの笑い声が響いている。すでにバスも到着しており、運転手さんと中学部の川上先生が何か相談をしている。きっと、これからの予定について打ち合わせをしているのかもしれない。

 時間になると、小学一年生から順にバスに乗り込んでいった。通路側の補助シートまで使われ、車内はにぎやかな空気に包まれている。私もバスに乗り込んだが、受け持ちの三年生とは離れた席になってしまい、ほんの少しだけ寂しさを感じたが、生徒たちは、隣同士で楽しそうにおしゃべりし、笑顔ではしゃいでいる。

 バスが走り出すと、川上先生がバスに備え付けられたマイクを手に取り、生徒たちに語りかけた。

 川上先生は、中学の先生で、学校に勤務する六人の男性教諭のうちの一人。少し近寄りがたい印象があり、話しかけやすい雰囲気ではないものの、行事の中心となる頼れる存在として、みんなから大いに信頼されている。生徒が何か悪さをすると厳しく叱ることもあるが、生徒たちのあいだでは一番人気のある先生でもある。

 マイクの調子が悪いのか、ピーピーと耳障りな音が響いている。

 川上先生はボリュームを調整し、マイクが静かになったのを確認すると、「あ!あ!」と小さく声を出して具合を確かめ、それから一度咳払いをして話し始めた。

「みんな、今日は楽しみにしていた遠足の日です!でも、楽しい時間を過ごすためには、いくつか守ってほしいことがあります」

「まず最初に、摩文仁の丘に着いたら、戦争で亡くなられた方々のご冥福を祈って、心を込めて黙祷を行います」

「遠足中は先生の話をよく聞いて行動すること。移動するときは必ず先生の指示に従い、急いだり走ったりせず、ゆっくり歩いて安全を確認すること」

「遠足はみんなで一緒に楽しむものです。困っている友達がいたら助け合い、勝手に離れず、クラスで行動すること」

「ゴミはちゃんと持ち帰って、公園を汚さないよう心がけること」

「三年生の屋比久、それに内間。おしゃべりは先生の話が終わってからにしろ。今の話、ちゃんと聞いてたのか?」

 川上先生が鋭く声を飛ばすと、二人はぴたりと動きを止めた。車内の空気が一瞬にして張りつめ、バスの中に緊張が走る。

「ご、ごめんなさい……ちゃんと聞いてました!」と屋比久くんが、小さく縮こまりながら答えた。目は泳ぎ、手元でぎこちなくシャツの袖を引っぱっている。

 すると隣の内間くんが、ちょっと顔をしかめて口を開いた。

「いや、あの……今の話、ショパンが、いや間違えました。屋比久くんがわからないって言うから、ちょっと説明してただけで……ごめんなさい」

 言葉につまずきながらも必死に弁解するその様子に、バスのあちこちからクスクスと笑いがもれた。中には手で口を押さえて笑いをこらえる子もいる。

 川上先生は一瞬、目元をわずかにゆるめたが、すぐに表情を引き締めて言った。

「言い訳はいい。ただ、大切な話をしているのだから静かに聞きなさい」

 きっぱりとした口調に、再び空気が引き締まる。先生は前を向き直り、話を続けた。車内は、先ほどのざわめきが嘘のように静まり返っていた。

「先生が話をしているときは静かに耳を傾けること。遠足を楽しくするためには規律を守ることが重要です」

「それから、持ってきた荷物は忘れたり、なくしたりしないように、自分でしっかり管理すること」

「それじゃあ、今日の遠足、みんなで思いきり楽しみましょう!」

 川上先生のお話が終わると、バスの車内は生徒たちの興奮と期待で満ちあふれた。窓の外には緑豊かなサトウキビ畑が広がり、その鮮やかな景色が遠足の気分をさらに盛り上げてくれる。

 屋比久くんと内間くんが川上先生に叱られたとき、まるで私が怒られたような気分になって驚いたが、けれども、生徒たちの楽しそうな笑顔と弾む声がバスいっぱいに響き渡る中、私は窓の外の景色と彼らの明るい姿を眺めながら、今日という一日が素晴らしい思い出になることを、心の中でそっと願っていた。

 やがてバスが摩文仁の丘に到着すると、揺れる車内で乱れた呼吸をそっと整えた私は、生徒たちに優しく声をかけながら、静かにバスを降りた。

 目の前に広がる摩文仁の丘は、どこか静謐な空気に包まれていた。澄み渡る青空と一面に広がる緑の芝生、そして遥か彼方まで続く海。その美しさは穏やかで、優しく、けれど、その風景の奥には、消えることのない過去の痛みが、静かに息づいていた。

 張り詰めた静けさが辺りを包むなか、川上先生がそっと私のそばに歩み寄り、小さな声で口を開いた。

「石川先生、黙祷の号令をお願いできますか?」

 思いがけない言葉に、私は思わず目を見開いた。

「えっ、私がですか……?」

 不意を突かれたような戸惑いが胸を走り、心の中に軽い動揺が広がる。けれど、すぐに川上先生のまなざしに込められた静かな信頼に気づき、私はゆっくりと頷いた。

 その重みのある役目に緊張が走ったが、戸惑う気持ちを表に出すわけにはいかない。私は小さく息を整え、静かに姿勢を正した。

 そして、生徒たちの方へ向き直り、深く息を吸い込む。できるだけ落ち着いた声で、静かに語りかけた。

「皆さん、これから戦争で亡くなられた方々のために、一分間の黙祷を捧げます」

 ざわついていた空気が、すうっと落ち着いていくのがわかる。生徒たちは静かに耳を傾け、私の言葉に真剣に向き合おうとしていた。

「その場でかまいません。荷物を持っている人は、足もとにそっと置いてください」

「手は自然に下ろして、目を閉じて、少しうつむいてください」

 その瞬間、風が木々を揺らし、さらさらと葉の音が耳をかすめた。そして、その風が通り過ぎると同時に、空気はぴたりと止まり、世界が静寂に包まれた。

「それでは、黙祷」

 私の短いひと言に、生徒たちは一斉に動きを止めた。まるで時が止まったかのように、誰一人として声を発することなく、ただ静かに、それぞれの思いを胸に刻んでいる。

 私もまた、心の中でそっと祈った。今ここに生きる私たちが、あの時代に命を落とした人々の想いを、少しでも感じ取れますようにと。

「……黙祷、終わります」

 静けさを解くように、私はゆっくりと声を発した。生徒たちは目を開け、互いに顔を見合わせることもなく、ただ自然と、あたりに小さなざわめきが戻ってくる。

 けれど、その静寂の余韻は、たしかに皆の心に残っていた。言葉にならない何かが、胸の奥に静かに灯っている。

 私はもう一度、目の前の風景を見渡した。

 どこまでも穏やかで美しいこの場所にあった過去。その記憶を、忘れてはいけない。それを私は、生徒たちにしっかりと伝えなければならない。

 見えない子と少し見える子が手を繋ぎ、私はゆかりさんと屋比久んの手を引いて、ゆっくりと公園内を歩き始めた。

 この場所で何があったのかを小学生でも分かるように、慎重に言葉を選びながら私は語り始めた。

「十七年前、沖縄で大きな戦争がありました」

「ここが沖縄最後の激戦地になった摩文仁の丘です」

「今では、平和を願い、戦争で亡くなった人たちを思い出すための公園になっています」

 私は一呼吸置いてから続けた。

「ひめゆり部隊という、女学校に通っていた女の子たちがいてね、戦争中、彼女たちは兵隊の手助けをするよう命じられていたの。怪我をした兵隊を介抱したり、包帯を巻いてあげたり、励ましの言葉をかけたり、水を飲ませてあげたり……とても過酷な任務をこなしていたの。でもね、その大変な仕事の中で、多くの少女たちが命を落としてしまいました。それは本当に悲しく、痛ましいことです」

「その女学生たちを忘れないために、『ひめゆりの塔』という記念碑が建てられました」

「みんなの目の前にあるんだけど、少し離れているので触ることはできません。でも、その慰霊碑には亡くなった女の子たちの苦しみや、二度と戦争を繰り返してはいけないという願いが込められているのよ」

 ふるとゆかりさんの表情が強張っていることに気づき、私は近くにあったコンクリート製のベンチにみんなを座らせ、休憩を取ることにした。

「みんな、ちょっと休憩しながら、先生のお話を聞いてね」

「今、みんなの左前のほうに、魂魄こんぱくの塔という慰霊碑があります。塔は丸い柱のかたちで、高さは大人の背より少し高いくらいです。ここから二十メートルほど先に建っています」

「魂魄の塔は、沖縄戦で亡くなったたくさんの人たちを悼み、祈るために建てられたものです。敵も味方も、民間の人も、すべての命に向けて、心を込めて手を合わせる場所なの」

「“魂魄”というのは、ちょっと難しい言葉だけど、“たましい”と“からだ”の両方をあらわす言葉で、人が亡くなったあとも、その人の想いや存在は、この場所に静かに寄り添っている。そんなふうに考えられています」

「戦争はとても悲しいこと。家族を失った人も、帰る場所をなくした人もたくさんいました。だけど、こうして祈る場所があることで、わたしたちは“二度と同じ悲しみをくり返してはいけない”と、心に刻むことができます。そして摩文仁の丘やひめゆりの塔、魂魄の塔を訪れることで、みんながもっと優しい気持ちになれるといいですね」

 話し終えた私は、生徒たち一人一人の顔を見つめながら静かに問いかけた。

「何か分からないことや聞きたいことありますか?」

 生徒たちの表情には、戦争の悲惨さを知り、平和への願いを新たに抱いた感情が滲んでいた。

「石川先生、ひめゆり部隊の女の子って、何歳くらいなの?」順子さんが今にも泣き出しそうな声で尋ねた。

 順子さんの小さな肩が震えていることに気づいた私は、そっと手を添えながら答えた。

「ひめゆり部隊の学徒隊は、今でいう高校生の年齢です。一六歳、一七歳くらいの女の子たちです」

「戦争に動員された二四〇名の生徒と先生たちのうち、一三六名が命を落としたの」

 しばらくの沈黙の後、恵子さんが小さな声で尋ねた。

「石川先生、なんで戦争するの?」

 その問いに、私はふと空を見上げ、それから優しく恵子さんの目を見て、ゆっくりと話しはじめた。

「うん……恵子さん、大事なことを聞いてくれて、ありがとう。戦争が起こる理由ってね、一つだけじゃないの。たとえばねーーある国の人たちが『ここは昔から自分たちの土地だ』って思っていて、でも、別の国の人たちも『いや、ここは私たちのものだ』って言いはって、おたがいにゆずらなくて、けんかになってしまうことがあるの」

 私はみんなの顔を一人ひとり見ながら、言葉をつづけた。

「それからね……『うちの国が一番えらくて強いんだ』って思いこんで、ほかの国を無理やり言うことをきかせようとした時代もあったの。話し合いをしないで、いきなり武器を持ち出して、おどそうとするの。そんなことが、本当にあったのよ」

 私は少しだけことばを切って、また語りかけた。

「それにね、信じている神さまやお祈りのしかたがちがうことで、ぶつかってしまうこともあるの。『自分たちの信じているものが正しい』って思うあまりに、ほかの人の考えや生き方をゆるせなくなって、争いになってしまうことがあるのよ。宗教って、本当は人をしあわせにするためのものなのに、悲しいことだよね」

 私は一度、息をととのえてから、さらに静かに話をつづけた。

「昔の大人たちの中にはね、『相手を力でおさえつけることが正しい』って思っていた人たちもいてね、そうやって国と国がぶつかって、気がついたときには、もう止められないくらい大きな戦争になってしまったこともあったのよ」

 その争いのうしろには、「もっと土地がほしい」とか「相手をじぶんの思いどおりにしたい」とか、そして「自分の信じるもの以外を受け入れられない」という気持ちもあったのかもしれない。人と人との心が、かみあわなかったのかもしれない。

 私は、それを生徒たちの心にちゃんと届くように、ひとつひとつ、言葉をえらびながら話した。

 さらに、内間くんが問いかけてきた。

「石川先生、今でも戦争ってある?」

 私は少し眉をひそめながらも答えた。

「悲しいことに、今でも世界のどこかで争いが起きている場所があります。でも、それをなくそうと頑張っている人たちもたくさんいるの」

「こういう場所を訪れて、みんなが平和の大切さを学ぶことで、争いを少しずつ減らすことができると先生は信じているのよ」

 その時、川上先生の大きな声が聞こえてきた。

「はい、みなさん。そろそろお昼の時間です。みんなで弁当にしましょう!」

「やったー!」「弁当の時間だ!」と嬉しそうな声があちこちから聞こえてくる。

 私は、その生徒たちの揺れ動く感情を目の当たりにし、胸が締め付けられるような思いに駆られた。

 戦争の悲惨さを知ったことで傷つき、それでもなお笑顔を取り戻そうとする彼らの心に、せめて少しでも明るい光を灯したい……その強い願いが、胸の中に湧き上がってくる。

 草の香りに包まれた広場に、次々と弁当の包みが広げられていく。

 ふたを開けた瞬間、ほんのりと漂ってくる香ばしい匂いが、空腹の心をくすぐってくる。

 生徒たちのお弁当は、寮の厨房で働く職員たちが、朝早くから心を込めて用意してくれたもの。麦ご飯の上には半月型の黄色いたくあんが二枚、おかずはジャガイモとタマネギの炒め物。素朴な弁当だが、その一つひとつに、職員たちの「行ってらっしゃい」という思いが詰まっている。

 私は今朝早起きして、生徒たちのために焼いたポークランチョンミートをそれぞれの麦ご飯の上にのせてあげた。その瞬間、生徒たちは香ばしい匂いを嗅ぎ分け、目を輝かせた。

「石川先生、ありがとう!」

 生徒たちは口々にそう言いながら、勢いよく頬張った。

「マーチェー!」と知念くんが、久しぶりに味わうポークランチョンミートを大いに楽しみながら、沖縄の方言なのかはやり言葉なのか聞いたことの無い言葉で喜びを表現する姿に、私は思わず微笑んだ。

「石川先生、これ、すごく美味しい!」

 恵子さんは目を丸くして興奮気味にそう言った。

「そうでしょ?たくさん食べて、元気いっぱいになってね」

 私は生徒たちの笑顔に応えながら優しく言った。

 その時、通りかかった川上先生が、ふと足を止めた。

「屋比久、内間。弁当、美味しいか?」

 そう言いながら、先生はにこやかに二人の肩に手を置いた。

 屋比久くんと内間くんは、びくりと小さく肩をすくめた。

 叱られるのかと一瞬身構えたが、川上先生の声にはいつもの厳しさがなく、むしろ柔らかい温もりがあった。

 二人はほっとしたように顔を向け合い、少し照れくさそうに笑いながら、声をそろえて答えた。

「はい、とても美味しいです」

 川上先生は、うんうんと満足そうにうなずくと、「石川先生が担任で良かったな」と、にこやかに言葉をかけ、続けて静かに付け加えた。

「石川先生、午後も生徒たちのこと、宜しくお願いしますね」

 その一言を残すと、川上先生は軽く手を振り、背中に柔らかな風をまといながら去っていった。

 私は、その後ろ姿をしばらく目で追っていた。

 風に揺れるシャツの背中。時おりふと見せる、あの優しいまなざし。どれもが、胸の奥にそっと灯るような温もりを残していく。

 はっきりとした形にはならないけれど、私の中に、何かが生まれつつあるのを感じていた。

 それは、小さな火だねのように静かに灯り、ゆっくりと動きはじめている——そんな予感があった。

 その間にも、生徒たちは弁当をあっという間に平らげ、満足そうな顔をしながら、弁当箱を丁寧に片付け始める。

「ごちそうさまでした!」

 その明るい声が響く中、周囲の空気は先ほどの重苦しさを消し去り、穏やかで温かな雰囲気に包まれていた。

 弁当が終わると、ゆかりさんがまるで秘密を打ち明けるように、ひそひそと私の耳元でささやいた。

「石川先生、おしっこいきたい…」

 その小さな声には、他の生徒たちに聞かれたくないという、ゆかりさんの恥じらいがにじんでいた。

「みんな、ちょっと待っていてね」

 男の子たちにそう声をかけ、女の子三人を連れてトイレへ向かった。

 トイレから戻ってくると、私は男の子たちにも声をかけた。

「みんな、トイレ大丈夫?」

 すると、知念くんと内間くんが手を挙げた。

 ほかに希望者がいないことを確認し、二人を連れてトイレへ向かった。

 その道中、知念くんが内間くんのお尻を軽く叩きながら、節をつけて歌い始めた。

「マーイ マーイ ミジグヮー マーイ ミジグヮー」

「マーイ マーイ ミジグヮー マーイ ミジグヮー」

 その歌を、知念くんは何度も繰り返した。私は、不思議に思い、知念くんに尋ねた。

「知念くん、それ何の歌?」

「小便がたくさん出てくるおまじない」

 知念くんは、得意げに答えた。初めて聞く歌に少し驚き「知念くん、誰に習ったの?」と聞くと、「島ではみんな小便しながら歌っているよ」と言う。

 知念くんの村に伝わる歌なのか、それにしても聞いたこと無い変な歌だ。

「内間くんも知ってる?」

「知らない!でも、子どもたちが道ばたで小便していたら、うちのおばあが怒ってね、『ながなが しょうべん、じゅんさが とおる〜』って歌ってたよ」

 生徒たちの豊かな知識に感心しながら、二人の手を引きトイレへと向かった。

 トイレから戻ると、まるでそこは小さな歌声の海になっていた。生徒たちは流行りの歌謡曲を口ずさみながら、体を揺らし、手を叩いて、大はしゃぎしている。屋比久くんは持参したハーモニカで、器用に伴奏をつけていた。

 その輪の中に、私もそっと声を重ねる。小さな声で歌い始めると、生徒たちはふと私の方を振り向き、満面の笑顔で迎えてくれた。

「♪ うえを むういて あるこおおよ」

「♪ なみだが こぼれないよおおに」

 すると、屋比久くんが茶目っ気たっぷりに言った。

「石川先生、もっと大きな声で歌ってよ!」

 少し照れながらも、私は声のボリュームを上げて歌い始め、音を外してしまうと、「石川先生、音がズレてる〜!」と誰かがからかい、みんなで笑いながら遠足の楽しさを一層盛り上げていった。

 歌声に包まれたひとときは、まるで時間が止まったかのように穏やかで、笑い声や拍手が響き合う。その中で、私は生徒たちと心が通じ合っている温かさを感じ、心の中に静かな幸せが広がっていった。

 ふとした瞬間、仲宗根くんの姿が見えなくなっていることに気づいた。

「上地くん、仲宗根くんはどこに行ったのか知らない?」と尋ねると、上地くんはあっさりと答えた。

「コージーは五年生のジョージーとチャンミーの三名で空手の練習するって言ってたよ」

 視線を公園の隅に向けると、砂埃が舞う小さな広場の片隅で、三人の少年が空手の型を繰り出していた。その中に、仲宗根くんの姿もある。小柄な体をいっぱいに使って、真剣な表情で突きを繰り出し、勢いよく蹴りを放っていた。その集中した眼差しからは、遊びとは違う気迫が伝わってくる。

 しばらくその様子を見ていると、川上先生がゆっくりと近づいていき、三人に何か声をかけた。川上先生の口調は穏やかだが、その表情は少しだけ厳しい。少年たちは静かに頷き、型を止める。

 間もなくして、仲宗根くんが小走りで戻ってきた。頬は火照り、額には汗がにじんでいる。少し息を切らしながら立ち止まると、こちらを見上げた。

「勝手に離れたらダメでしょう」

 そう言うと、仲宗根くんは少し肩をすくめて、「ごめんなさい」と素直に謝った。ポケットから取り出したハンカチで顔の汗を拭きながら、うつむく姿がどこか健気だった。

「毎日、寄宿舎で三人で練習していて、近くに住んでる大学生が空手を教えてくれるの」

そう話す口調には、誇らしさとほんの少しのはにかみが混じっていた。

「怪我しないように、気をつけながらやってね」

そう言うと、仲宗根くんは少し恥ずかしそうに笑って頷いた。その笑顔は、まるで晴れた日の空のようにまぶしかった。

 歌がひと段落すると、上地くんが「石川先生、水が飲みたい」と言ってきたので、私は頷き、生徒たち全員を水飲み場へ連れて行くことにした。

 水飲み場へ向かう道中も、生徒たちはじゃれ合いながら歩き、「あっちの方から海の匂いがする!」「風が涼しくて気持ちいいね!」と、それぞれが五感を楽しみながら賑やかにおしゃべりをしていた。私はそんな生徒たちの声を聞きながら、遠足ならではの解放感に満ちた空気を存分に感じていた。

 水飲み場に到着すると、すでに盲学校の生徒たちで賑わい、長い列ができていた。生徒たちは順番を待つ間、少しそわそわした様子を見せることもあったが、私は一人ひとりに優しく声をかけながら、「もうすぐ順番だから、ちょっとだけ我慢してね」と落ち着かせていった。

 順番が回ってきた上地くんは、水が飲みやすいように工夫された上向きの蛇口に気付かず、うっかり勢いよく飛び出した水を浴びてしまい、顔から頭までびしょ濡れになってしまった。

 上地くんは、失敗をごまかすように、何事もなかったかのように蛇口を絞り、水を飲みながら「冷たくて気持ちいい」と言っている。その様子に周囲の生徒たちもつられて笑い出し、場の空気は穏やかになった。

 ハンカチを持っていない様子の上地くんを見て、私は自分のハンカチを取り出し、濡れた顔や頭を丁寧に拭いてあげた。そして、ほかの生徒たちにも蛇口の扱い方を一つずつ教えながら、順番に水を飲ませた。

 生徒たちの無邪気な姿に目を細めながら、私は、こうして過ごす日常のひとときがどれほど貴重で愛おしいものなのかを改めて感じていた。


 帰りのバスは、行きの賑やかな雰囲気とはまるで別世界のように、静けさに包まれていた。生徒たちは席に座り、それぞれが静かに過ごしている。

 一日中全力で遊び、心地よい疲れを感じているのか、それとも摩文仁の丘で目の当たりにした戦争の悲惨な歴史に、胸を痛めているのか。その答えを知ることはできないが、彼らの表情には深い思索の影が漂っていた。

 窓の外をじっと眺める生徒たちの姿が多く見られる中、時折バスの振動に身を任せ、こっくりとまどろみの世界へと引き込まれていく生徒もいる。穏やかな寝息を立てながら、無邪気な顔で夢の中を漂っているその姿は、昼間の賑やかさとは対照的で、なんとも愛おしい光景だった。


 生徒たちの穏やかな寝顔を見つめながら、私は今日の出来事を振り返ってみた。

 彼らは、戦争の悲惨さを、それぞれの胸に刻み込んだだろうか。平和の尊さを、少しでも感じ取ってくれただろうか。

「明日の授業では、今日うまく伝えられなかった部分を、もっと分かりやすい言葉で話してあげたい……」そう心の中で呟いた。

 戦争の悲惨さ、平和の尊さ。それは、ただ教科書の文字として覚えるのではなく、生徒たちの心に深く刻まれるべきもの。

 未来を生きる彼らが、決して忘れてはならない大切なこと。それをしっかり伝えたいという思いが、私の中に強く湧き上がってくる。

 戦争のない、平和な世界を生徒たちに繋いでいきたい。その思いを胸に、私はそっと目を閉じた。




七.昭和三七年七月四日 寄宿舎生活


 学校の門をくぐり少し歩いた先に、子どもたちにとってもうひとつの家がある。そこは家が遠く通学が難しい子どもたちのために用意された、宿泊施設だ。

 学校から徒歩五分ほどの場所に佇むその建物は、隣接する聾学校との共同利用施設であり、子どもたちの笑い声が響き、暮らしの温もりに包まれた居心地のよい場所となっている。

 ほとんどの子どもたちは、この宿泊施設で生活しながら学校に通っている。共同生活の中で、互いに支え合い、助け合いながら、自立心を育む日々を送っている。時には言い合いになったり、喧嘩をすることもあるが、ほどなくして仲直りし、また一緒に笑い合う。

 そうした日々のなかで、子どもたちは友情を深め、かけがえのない思い出を一つひとつ積み重ねていく。

 宿泊施設では、子どもたちが安心して暮らせるように寮母さんたちが温かく見守っている。寮母さんたちは、幼い子の食事を手伝ったり、洗濯のしかたを教えたりするだけでなく、悩みを聞いたり、一緒に遊んでくれたりもする。

 夜になると、男性の先生方が交代で宿直に入り、子どもたちの安全を守っている。

 寮母さんと宿直の先生は、子どもたちの生活を支える、かけがえのない存在であり、彼らの温かな眼差しと深い愛情に包まれることで、子どもたちは安心して日々を過ごし、健やかに成長していく。

 宿泊施設での生活は、子どもたちにとって学校とは違う、もうひとつの学びの場だ。教科書では学べない知恵や経験を、日々の暮らしの中で育んでいく。

 共同生活を通じて、子どもたちは他人と関わる力や自立心を身につけていく。時にはぶつかり合いながらも、譲り合い、助け合うことで、思いやりや協調性を学んでいく。

 異なる年齢の子どもたちがともに暮らすこの場所では、自然と異年齢交流が生まれる。年上の子は年下の子を気にかけ、年下の子は年上の子に甘えたり、憧れたりする。遊びや勉強を通して支え合うなかで、互いに思いやる心が育っていく。

 この宿泊施設には特別な名前はないが、子どもたちは「寄宿舎」と呼び、親しんでいる。


 カタカナの「コ」の字型に建てられた、二階建ての鉄筋コンクリートの建物は、時間の流れからふと置き去りにされたような、静かな佇まいを見せている。けれども、耳を澄ませば、そこには子どもたちの笑い声や、暮らしの息づかいが、優しく響いている。

 正面の玄関をくぐり、左手に目をやると、厨房や風呂場、便所など、生活に欠かせない設備が集まっている。

 建物の南側には視覚に障害のある子どもたちの部屋があり、北側には聴覚に障害のある子どもたちの部屋がある。それぞれの空間で、子どもたちは自分たちのペースで、今日という一日を過ごしている。

 視覚障害と聴覚障害の部屋は南と北に分かれていても、廊下や階段ですれ違うこともあれば、お風呂や便所は共同で使っている。

 しかし、「見えない子」と「聞こえない子」のあいだには、やはり心を通わせる難しさがあった。

 同じ寄宿舎で暮らし、同じ庭で遊んでいても、その世界の感じ方はまるで違っていた。

 見えない子たちは、音や声、空気の振動から人の気配や気持ちを読み取ろうとする。けれど、聞こえない子たちの世界には、その「音」が存在しない。

 一方で、聞こえない子たちは、視線や表情、手話といった視覚的な手がかりを頼りに

気持ちを伝え合う。だが、見えない子には、それが見えない。

 だから、お互いに「仲よくなりたい」と願っていても、どう近づけばいいのか、その方法さえ見えなかったり、聞こえなかったりするのだ。たとえば、手を振って呼びかけても、相手にはそれが届かない。微笑んでも、伝わらない。声をかけても、返事がない。そうした小さなすれ違いが、やがて心の距離となっていく。

 「ここにいるよ」と伝えたくても、「あなたの声が聞きたい」と願っても、肝心な思いが届かない。そのもどかしさは、まるで風の中で呼びかけ合っているようだった。声は風に消え、手は空をつかみ、気持ちだけが宙を舞う。

 すぐそばにいるのに、互いの世界には透明な壁があるようで、その存在は、近くて遠い。

 けれど、それでもなお、子どもたちはゆっくりと、少しずつその壁を乗り越えようとしていた。伝わらない思いに悔し涙を流しながら、それでもまた明日も声をかける。手を伸ばす。笑いかける。

 その姿は、不器用で、儚くて、けれど、まっすぐだった。


 この寄宿舎は、子どもたちにとって、単なる宿泊施設ではなく、第二の家のような存在であり、そこは、子どもたちが互いに支え合い、助け合いながら、自立心を育んでいく場所でもある。

 部屋は十畳の和室で、廊下との仕切りにはガラス戸がはめ込まれている。昼間には窓からやわらかな光が差し込み、明るく開放的な雰囲気をつくり出していた。

 窓際には、五人が並んで勉強できる長い机が備え付けられ、中学生や高校生が主に自習に使っている。

 一部屋には十人の子どもが暮らしており、夜になると布団が敷き詰められ、蚊を防ぐための大きな蚊帳が二つ吊るされる。足の踏み場もないほどの狭さになるが、それでも子どもたちは窮屈さを気にすることなく、互いに寄り添いながら、ぬくもりのある空間をつくり上げていた。

 寄宿舎の夜は、思ったより長い。夜九時に消灯され、子どもたちは布団にもぐり込む。けれど、そこで一日が終わるわけではない。むしろ、ここからが“本番”だとばかりに、目を輝かせる子もいる。

 なかでも、寝床での一番の楽しみといえば……やっぱり幽霊話。

「ねえ、今日もなんか怖い話してよ」

「やだよ、こわいもん……」

「でも、ほんとは聞きたいんだろう?」

 そんなやりとりをきっかけに始まる、“こわい話の時間”。中学生たちは得意げに、秘密を打ち明けるような声で語り出す。

「あのさ、川上先生が宿直のときに見たらしいんだけど……寄宿舎の裏口から、厨房の横を抜けて、廊下を……逆立ちで女の子が歩いてたんだって」

「真夜中の二時になると現れるその子は、五歳くらいの小さな女の子でさ。にこにこ笑いながら、長い髪を引きずって、廊下をすうっと進んでいくんだって。何かを探してるみたいにさ」

「たまに部屋にも入ってきて、冷たい小さな手で蚊帳から出ている足をそっと触ったり、蚊帳のまわりをずっと……ぐるぐる回ってたりするんだって」

「やめろよ、ほんとに出そうでこわいよ!」

「じゃあ、今夜二時に起こしてあげるよ。一緒に確認しようぜ?」

「……むり。寝る!」

 小学生たちは布団をかぶりながらも、しっかり耳をそばだてている。怖い、怖いと言いながら、布団のすき間から顔だけは出したまま。

 なんだかんだ言って、みんな怖がるのが大好きなのだ。

 「もう寝ようよ」と言いつつ、次の晩にはまた、「昨日の続き、聞かせて」とせがんでくる。

 寄宿舎の夜は、そんなふうにして更けていく。


 部屋には、大きな食台が二つ置かれている。普段は壁際に立てかけられているのだが、食事の時間になると、子どもたちは協力して食台を部屋の中央まで運び出す。そして、食台を囲み、みんなで一緒にご飯を食べたり、この食台で勉強したりする。

 食台は、子どもたちにとって、食事をする場所であり、勉強をする場所であり、そして、みんなで語り合う場所でもある。そこは、子どもたちの生活の中心であり、憩いの場だった。

 食事は朝夕の二回。各部屋の当番が、一階の厨房から大きな食缶を二つ運んでくる。一つには麦ご飯、もう一つにはおつゆが入っている。

 食事当番の子どもは、食器にご飯とおつゆを等分に盛り付けていく。

 食事の内容はほとんど毎日同じで、麦と米が半々に混ざった麦ご飯に、わかめや油揚げ、その時々で変わる大根やジャガイモなどの野菜が入ったおつゆが定番だが、おつゆに月に一度だけ、小さく切られたポークランチョンミートが入っていることがあり、これが子どもたちにとってのささやかな楽しみとなっていた。

 たくわんや塩昆布、小魚の佃煮が漬け物として麦ご飯に添えられ、また、たまにゆで卵がつくこともあるが、それは年に一度あるかないかというほど珍しい出来事だった。

 この食事に不満を訴える子どもは一人もいない。子どもたちは与えられた食事に感謝し、残さず食べる。質素ながらも栄養豊かな食事を、生きるための大切な糧として心から受け入れていた。

 使っている食器は、アメリカ軍から提供されたものだった。

 プラスチックのご飯茶碗は、表面が擦り切れ、細かい傷や、噛み付いたかのような跡が無数にあり、金属のおつゆ茶碗は、長年の使用で凹凸ができ、光沢を失っていた。それでも、子どもたちはこれらの食器を大切に使い続けていた。

 食事の準備から後片付けまで、すべて子どもたち自身の手で行われた。自分たちで厨房から食缶を運び、自分たちで盛り付け、食べ終われば自分たちで一階の食器洗い場で洗う。

 その過程には、寮母さんの手は一切借りずに行われていた。

 食事の時間が終わると、子どもたちは一斉に食器洗い場へと向かう。そこは、子どもたちの活気と笑い声が溢れる場所だった。

 洗い物をしながら、今日あった出来事を話したり、冗談を言い合ったりする。食器洗い場は、子どもたちにとって、単なる作業場ではなく、おしゃべりの場でもある。


 お風呂は男女共同で利用するため、週に二度だけの貴重な時間だった。限られた時間の中で、子どもたちは互いに譲り合い、協力しながら体を洗い、温かい湯船に浸かっていた。そこは、単に体を清潔にする場所ではなく、仲間との絆を深める特別な空間でもあった。

 子どもたちは水を掛け合ったり、手のひらで水鉄砲のように湯を飛ばしたりして、浴室が遊び場と化すこともあった。はしゃぎすぎて年上の子に叱られることもあったが、それでも子どもたちは懲りることなく、すぐにまた遊び始める。湯船の中で笑い合う無邪気な姿には、友情が育まれているのを感じさせるものがあった。


 便所は男女別々だったが、男子便所の扉の鍵はいつも壊れていた。そのため、子どもたちは誰かが入ってこないか、無理やり扉を開けられないかと、びくびくしつつ必死に扉を押さえながら用を足していた。

 特に朝の便所は大賑わいで、「おい、早くしろよ!」と、外で待っている子が焦れたように声をかける。

 中では、鍵のかからない扉を押さえながら用を足している子が、落ち着かない様子で返事をする。「まって!まって!もうちょっとだから待って!」

 用を足し終えると、すぐに戸を開け、外で待っていた子と交代する。

 この状況は、子どもたちの間でちょっとした笑い話になっていた。

 開けられないかとひやひやしながら扉を押さえながら用を足す子どもと、漏れないかとひやひやしながら順番を待つ子ども。そんな光景が、毎朝繰り広げられていた。


 お風呂では、見えない子と聞こえない子が一緒に入浴するため、まるで湯船がジャングルジムと化したかのように、あちこちで衝突事故が多発。互いに声をかけながら移動するのだが、泡だらけの手で誰かの頭を触ったり、思わぬ場所を触ってしまったり。その度に、「きゃー!」とか「うわー!」とか、悲鳴にも似た叫び声が響き渡る。

 しかし、本当の戦場は、お風呂ではなく、便所だった。

 聞こえない子が小便をしていることに気がつかず、見えない子が誤って聞こえない子のお尻に触れてしまう。

「ごめん!」

 見えない子は、慌てて謝りながら後ろに下がる。しかし、その声は聞こえない子の耳には届かない。

「な、なんだとー!」

 聞こえない子は、いきなりお尻を触られたことに、雷に打たれたかのように飛び上がり、怒りの炎を燃え上がらせる。そして、後ろにいる見えない子に、必殺の肘鉄を食らわす。

「ぐえっ!」

 見えない子の悲鳴も虚しく、聞こえない子の肘鉄は、見事に命中。しかし、その勢いで、聞こえない子は自分の小便でズボンを濡らしてしまう。

「こ、これは…!」

 聞こえない子は、自分の失態に気づき、顔を真っ赤にする。しかし、怒りは収まらない。

「絶対に許さん!」

 聞こえない子は、復讐を誓い、見えない子が小便をしている時に、忍者のように静かに近づき、見えない子の背中に小便をかける。

「ひゃー!」

 見えない子の悲鳴が、便所に響き渡る。

 このような出来事は、特に珍しいことではなく、日常的に頻繁に起こる。

 見えない子と聞こえない子との間に生じる些細な勘違いから始まり、いわば「小便戦争」とでも言えるような小さな争いへと発展する。


 寄宿舎では、月に一度、第二土曜日の午後になると、寄宿舎に賑やかな声が響き渡る。

 アメリカ人の男性が、大きな袋を抱えてやってくるのだ。その袋の中には、子どもたちが待ち焦がれていたチョコレートがぎっしりと詰まっている。

「チョコレート、いかがですか?」

 アメリカ人どくとくの訛りのある日本語で、子どもたちに声をかける。その優しい笑顔と、チョコレートの甘い香りが、子どもたちの心を躍らせる。

 小学生にとっては、月に一度のチョコレートは、何よりも楽しみなイベントだった。普段お菓子など食べられない子どもたちにとって、甘いチョコレートは、まさに夢のような味だったのだ。

 子どもたちは、チョコレートを頬張りながら、幸せそうな笑顔を見せる。しかし、高校生になると、事情は少し違ってくる。

 アメリカ人に対する感情は、子どもたちによって様々で、物資の支援に感謝する者もいれば、複雑な思いを抱える者もいる。

 特に、アメリカ軍の占領下に反発している高校生の中には、アメリカ人に対して反感を抱いている者も少なくない。

 彼らにとって、チョコレートはただの甘いお菓子ではなく、複雑な感情を呼び起こすものでもある。

「チョコレート、いらない」

 そう言って、受け取りを拒否する高校生もいる。

 彼らの表情は、一言では言い表せない複雑さを湛えていた。それは、感謝と反発、喜びと悲しみ、希望と絶望。様々な感情が幾重にも重なり合い、深く沈殿している。

 ただチョコレートを拒否しているのではない。その行為には、彼らが抱える複雑な思いが込められている。アメリカ軍の占領下で生きることに対して、アメリカ人からの施しは、単純な善意として受け止められるものではない。そこには、屈辱や葛藤、そして未来への不安が入り混じっている。

 一見穏やかに見える湖面の下には、様々な感情が渦巻いていて、その感情を押し殺し、静かに自分たちの意志を示している。


 寄宿舎でのいちばんの楽しみは、日曜日に行う室内野球。点字用紙をとじるのに使うのりの空き容器に鈴を入れてボールにし、壊れたほうきの柄をバット代わりにして遊ぶ。狭い十畳の部屋が、たちまち歓声と熱気に包まれた、小さな野球場へと早変わりする。

 三名あるいは四名でチームを作り、部屋の真ん中あたりからピッチャーが海苔瓶ボールを、下から転がすようにバッターに向かって投げる。

 バッターは、転がってきた海苔瓶ボールを、ほうきのえで打ち返す。

 ピッチャーの後ろで守っている三名の間をうまく抜けたらヒット。頭を越えて廊下まで飛んでいったらホームラン。三回空振りしたらアウト。両チームで攻撃と守備を繰り返しながら、点数を競い合う。

 しかし、子どもたちの熱気は、時に思わぬ惨事を引き起こすこともある。力余って廊下と部屋の間にある仕切りのガラス戸にボールが当たり、ガラスを割ってしまうことも度々あり、そのため、ほとんどの部屋がガラスの割れたままの仕切り戸を、そのまま使っている。

 室内野球以外にも、子どもたちは様々な遊びを楽しんでいる。プロレスごっこをしたり、相撲を取ったり、点字が書かれたトランプでトランプ遊びをする。

 子どもたちは、限られた空間の中で、工夫を凝らし、自分たちだけの遊びを生み出していた。

 中学生や高校生の中には、手作りの将棋盤と駒を使って将棋を楽しむ子もいる。

 針金でマス目を作った盤に、小刀で印を刻んだ駒……それらには、見えなくても遊べるようにという工夫と、手作りならではの温かさが込められている。

 盤面をそっと触れながら駒を動かす手は真剣で、静かな緊張感が漂う。

 この将棋盤と駒は、子どもたちにとって、遊び道具であると同時に、創造と工夫の象徴でもあった。

 子どもたちの遊びの中で、ひときわ異彩を放つのが「布団お化け」だった。

 それは、布団を頭からかぶり、その中に隠れた人物を当てるという、一見単純な遊びだが、その単純さの中に、子どもたちのエネルギーが爆発する、熱狂的な要素が秘められている。

「布団お化けやろうぜ!」

 誰かがそう叫ぶと、小学生たちは一斉に集まり、じゃんけんで負けた者が鬼になる。

 そして、誰か一人を、鬼にばれないように布団の中に隠す。

 鬼になった者は、布団の上から触って中に誰がいるのかを当てる。

 うまく当てることができれば良いのだが、外れると、鬼はたちまち標的となり、鬼は、布団をかぶせられ、みんなから容赦のない攻撃を受けることになる。殴られたり、蹴られたり。布団の中とはいえ、その痛みは相当なものだ。

 攻撃する側も、どれくらい殴れば、どれくらい蹴れば危険か、どこを叩けばまずいか、といったことをなんとなく心得ていて、一応の加減はする。

 それでも、鬼になった子は、身を小さく丸めて痛みから逃れようと必死になって身を守る。全員が攻撃を終えると、再びじゃんけんをして、次の鬼を決める。

 この遊びは、見えないからこそ、子どもたちの好奇心を刺激し、興奮させたのかもしれない。

 寮母さんからは、危険だからと何度も止められていたが、子どもたちは寮母さんの目を盗んで、この「布団お化け」を楽しんでいる。

 中学生や高校生は、ばかばかしいと思っているのか、誰一人参加する者はいない。しかし、小学生たちは、このスリル満点の遊びに夢中になっている。

 布団を返して繰り広げられる攻防戦。それは、子どもたちにとって、日常の鬱憤を晴らす、格好の機会なのだ。見えないからこそ、五感が研ぎ澄まされ、仲間との絆が深まる。そんな不思議な魅力が、「布団お化け」にはある。

 夢中になって遊んでいると、寮母さんの叱声が響き渡る。

「もう九時ですよ、早く寝なさい!」

 子どもたちは、名残惜しそうに遊び道具を片付け、しぶしぶと十畳の部屋にそれぞれの布団を敷き、眠りにつく。夜の静けさが、子どもたちの寝息だけを優しく包み込む。

 翌朝午前六時になると、寮母さんの呼びかけが、子どもたちを眠りから呼び覚ます。

「起きて、起きて!」

 眠い目をこすりながら、子どもたちは布団から這い出し、中庭に集まり、全員でラジオ体操をして体を伸ばし、眠気を吹き飛ばす。

 ラジオ体操の後は、朝食の時間。子どもたちはいつもの麦ご飯とおつゆをかき込み、食器を片付けると、それぞれ学校へと向かっていく。


 寄宿舎での生活は、毎日決まった時間に起き、食事をとり、夕食後は毎日一時間家庭学習して同じ時間に眠るという、規則正しいリズムの中で進んでいく。一見すると単調で変化のない日々のようにも見えるが、その中には、子どもたち一人ひとりの小さな発見や、ささやかな喜び、時には悩みや戸惑いといった、心の揺れ動きが存在している。


 朝の光が差し込む中、まだ眠たそうに目をこすりながら布団をたたんでいたトーシーが、ぽつりとつぶやいた。

「コージー、昨日の夢さ。海がすごく青く澄んでて、赤とか黄色の魚がいっぱい泳いでたんだ。見えないのに、なんで夢は見えるんかな」

 その言葉に、隣で同じように布団をたたんでいたコージーが、ちょっと考えてから笑いながら答えた。

「トーシーは、小さいころ少し見えてたから、夢に出てくるんじゃないか?」

「そうかなあ。でも、あの魚、ほんとに見たことないくらいきれいだったんだよ。ひれがふわーって動いてさ……。あれ、どこかで見たのかな」

「海の音とか、魚の名前とか、誰かに聞いた話が混ざってるのかもよ。トーシーの頭の中が、勝手に作ったんじゃないか?」

 トーシーはふと黙って、たたんだ布団を抱えたまま、少し考え込む。

「でもさ、ショパンは生まれたときから見えなかったって言ってたよな。ショパンは夢、見ないのかな」

「うーん……。どうかな。音だけの夢とか、においの夢とか、あるかも。ショパンの夢、聴いてみたいな」

 二人はしばらく黙って、でもどこか楽しそうに、くすくすと笑い合いながら布団を片づけた。


 日中の生活は、なかなか慌ただしい。学校にも行かないといけないし、掃除も洗濯もしないといけない。食事の準備や後片付けもしないといけないし……やることは山ほどある。けれど、誰かがつまずいたときには、言葉にしなくても、そっと手を差し伸べる子が必ずいる。多くを語らなくても、心と心が通じ合う瞬間が、そこにはある。

 夕方、風が少し涼しくなってきたころ。寄宿舎の裏庭にあるブランコに腰かけていたゆかりさんは、鼻先をくすぐる香りにふっと顔を上げた。

「……あ、この匂い……」

 風に乗って、ふわりと月桃ゲットウの花の香りが漂ってきた。甘くて、どこか懐かしい匂い。

 それは、庭先で遊んでいたとき、おばあが干していた洗濯物のそばから漂ってきた、あの香りだ。

 ゆかりさんは、じっと遠くの空を見つめたまま、小さな声でつぶやいた。

「オバー、今頃何してるかな?……うちに帰りたい……」

 隣のブランコに座っていた恵子さんも、その言葉にうなずきながら、小さな声で言った。

「うん、わたしもおうちに帰りたい……」

「うちはね、お姉ちゃんと弟を合わせて、兄弟が八人もいるの。毎日けんかばかりしてたし、オモチャは取り合い、ご飯だってのんびりしてたら誰かに食べられちゃう。でもね……全部が楽しいの。今ごろ、みんな何しているんかな?帰りたいな……」

 すると、二人が乗るブランコをそっと押していた順子さんが、少し照れくさそうに笑いながら、ゆっくりと言った。

「でもさ、ここにも月桃の匂い、ちゃんとするでしょ。わたしたちも、ここにいるんだし……寂しくなんて、ないよね。だから、きっと大丈夫だよ」

 三人はしばらく黙ったまま、風の中に混じる月桃の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 そして同時に、声には出さずとも、心の中で同じことを思っていた。「……ここも、悪くないよね」って。


 この寄宿舎での時間は、ただ生活をするだけの場所じゃない。

 子どもたちが自分自身と向き合い、仲間とつながりながら、少しずつ心を育てていく。

 それは、かけがえのない「日々の教室」なのだ。




八.昭和三七年十月一八日 運動会


 二学期に入ると、学校は一気に運動会モードへと突入した。生徒たちの間には、待ちに待ったイベントへの期待感が溢れ、校庭には活気が満ち始めた。しかし、その裏側では、運動場作りが、想像を絶するような苦労を伴っていた。

 そもそも、その運動場づくりは、夏休み前の七月に始まった。ブルドーザーが唸り声を上げ、校舎の前に広がる草むらを右へ左へと進みながら、容赦なく草をなぎ倒していった。

 轟音が夏の静けさを切り裂き、土と草の匂いが空気に混じって立ち上る。バッタやトンボやチョウチョウ、そして名前も知らない小さな虫たちが、突然現れた巨大な機械に住処を奪われ、命を絶たれていく。

 ブルドーザーが通った後には、茶色い土がむき出しになり、草の緑は跡形もなく消えていた。

 私は、胸が締め付けられるような思いでその光景を見つめていた。運動会のために必要なことだとは頭ではわかっていても、小さな命を踏みにじることに、どうしても心が痛み、心の中でそっとつぶやいた。

「ごめんね……」


 午後の授業はすべて中止となり、全校をあげての運動場づくりが始まった。

 先生たちは鎌やスコップ、バケツを手に、草を刈ったり土を運んだりと、運動場づくりに駆り出された。

 生徒たちも二列に並び、バケツリレーでせっせと土を運んだ。バケツは少し重たく、受け取るたびに腕がびくりと震えたが、誰もが真剣な表情で作業に集中していた。

「はい、お願い!」

「よしきた!」

「ほいよ!」

 声をかけ合いながら、バケツを受け取っては隣へ手渡す動作を、額に汗をにじませながら、何度も何度も繰り返す。

 途中でバランスを崩し、バケツを傾けてせっかく入れた土をどさっとこぼしてしまう子もいれば、バケツごと転んでしまう子もいた。

 それでも、そのたびに周囲の子たちが「大丈夫?」「また入れればいいさ!」と笑顔で声をかけ、土まみれの手で手伝ってあげる。顔を見合わせて笑い合うその様子は、どこか楽しげで、まるで遊びの延長のようにも見えた。

 ひとつの目標に向かって力を合わせる喜びが、子どもたちの表情にじんわりと広がっていた。


 夏休みに入っても、先生たちの運動場づくりは続いていた。強い日差しが照りつけるなか、先生たちは毎日のように学校に通い、額に汗をにじませながら黙々と作業に励んでいた。

 やがて、ご父兄の方々も「何か手伝えることはないか」と、次々に顔を見せるようになった。

 近くで雑貨屋を営む玉城さんは、「芋の天ぷらを揚げたから、みんなで食べてね」と、にこやかに差し入れてくれた。その心遣いに、疲れもどこかへ吹き飛び、先生たちは「いつもありがとう、おばちゃん!」と、親しみを込めて声をかけた。

 また、上地くんのお父さんは、「今日焼いたばかりのチンスコーです。休憩時間にでもどうぞ」と、両手いっぱいの包みを持ってきてくださった。

 “上地チンスコー”といえば、首里では知らない者がいないほどの名物だ。思わぬ差し入れに先生たちは驚きつつも大喜びし、「まあ、こんなにたくさん!ありがとうございます」「わざわざ届けてくださって嬉しいです。皆でいただきますね」と、口々に感謝の言葉を述べた。

 すると、校長先生がさっと場を見渡し、「皆さん、せっかくですから上地チンスコーをいただきながら、ひと休みしましょう」と声をかけた。そのひと言に場の空気はふわりと和らぎ、先生たちの顔にも自然と笑みがこぼれた。

 炎天下のなか、草を刈り、土を運ぶ作業は想像以上に過酷だった。それでも、生徒たちの笑顔を思い浮かべれば、不思議と力が湧いてくる。少しずつ形をなしていく運動場を見つめながら、先生たちは運動会の日が来るのを、心から楽しみにしていた。

 次に始まったのは、土地の表面を平らに整え、雨が降ってもぬかるまないようにする作業だった。そのために使われたのは、細かく砕かれた石。校長先生はそれを「イシグー」と呼んでいた。

 初めて耳にする言葉だったが、おそらく沖縄特有の方言か、土地の言い回しなのかもしれない。その音の響きには、どこか土地のぬくもりが感じられた。

 運動場のあちこちに積まれたイシグーを、先生方全員で均等に広げていく。誰もが額に汗を光らせながら、スコップや鍬を手に、丁寧にイシグーを伸ばしていく姿は、まるで巨大なキャンバスに絵を描いている画家たちのようだった。

 それぞれが心に描く未来の風景……生徒たちの歓声が響くその一日を想像しながら、黙々と手を動かしていた。

 私は、足元に敷き詰められたイシグーが気になって、隣で作業をしていた川上先生に尋ねてみた。

「川上先生、この細かい石、何て言うんですか?」

「実は僕も知らなかったんですが、今日これを運んできたトラックの運転手さんに、石川先生のように聞いてみたんです。砕かれた石と書いて、“砕石さいせき”って言うそうですよ」

 そう言いながら、川上先生は首に巻いたタオルで汗をぬぐい、穏やかな笑みを浮かべた。

「校長先生は、これを“イシグー”って呼んでいましたけど、響きがやさしいですよね。なんだか、沖縄の土や風のように、どこかやわらかくて温かい感じがしませんか?」

 私は思わずうなずいた。砕かれた石だというのに、その言葉の響きには不思議と、土地のぬくもりが宿っているように感じられた。

「石川先生、少し疲れているんじゃないですか? あそこの木陰で、少し休んでください。若いからって無理をしすぎると、二学期の運動会で本領発揮できませんよ」

 そう言うと、川上先生は私の様子をちらりと見ながら、冗談めかして笑った。

「それに、もう少しで完成です。あとは僕たち男連中だけで何とかなりますから。こう見えて、力だけはあるんですよ」

 思いがけない優しい言葉に、私は驚いて目を見開いた。

「……では、お言葉に甘えて、少し休ませていただきます」

 そう答えはしたものの、その場を離れがたく、つい名残惜しそうに立ち尽くしていると、川上先生がふいにまた口を開いた。

「この砕石、建設現場ではよく使われるそうです。水はけが良くなるし、地面をしっかり安定させる効果もあるらしいです。見た目は地味だけど、土台を支える大事な役目を果たしているんだそうです」

 彼は砕石の地面を見つめながら、どこか静かな口調で続けた。

「……川上先生に、似てますね」

 私がそう言うと、川上先生は一瞬きょとんとした顔をしたあと、照れたように笑った。

「いやいや、それは砕石に失礼ですよ」

 冗談めかしたその言葉に、思わず私も笑った。蝉の声が、木陰の奥でしきりに鳴いていた。

 私は軽く会釈すると、大きなガジュマルの木の下へと歩き出した。背中には、川上先生のやわらかな視線がそっと寄り添っていた。


 運動場は、もうすぐ完成する。それなのに、琉球政府にお願いしていた予算は下りず、結局、米軍政府が費用を出してくれることになった。

 ブルドーザーも、運動場に敷く採石も、みな米軍政府が提供してくれた。

 教職員組合は、「ヤンキー・ゴー・ホーム」や「沖縄を返せ」と叫びながら、本土復帰を目指してたびたびデモ行進をしている。

 だが皮肉なことに、その運動場は、追い出そうとしている米軍の援助によって作られようとしている。

 私は、複雑な思いで運動場を見つめた。

 本土復帰を願う気持ちは、私にもある。それでも、目の前の生徒たちにとって必要なものが、米軍の手を借りなければ手に入らないという現実に、胸の奥がひどくざらついてくる。

 声高に正義を叫ぶことも、現実を無視して理想を押し通すこともできない。

 結局、誰かの与えるものに頼りながら、小さな日常を積み重ねていくしかないのだーーそんな無力感と、それでも目の前の生徒たちを守りたいという切実な思いが、交互に胸に押し寄せてくる。

 なんとか狭いながらも、運動場というより、砕石の広場ができあがった。決して広いとは言えないけれど、生徒たちが走り回り、歓声を上げるには十分な広さだ。これで、なんとか運動会を開くことができる。先生方の顔にも、安堵の表情が浮かんでいた。


 二学期が始まると同時に、運動会の練習も始まった。小学生は全員で校歌に合わせた遊技を披露することになり、その準備が進められた。

 具志堅先生を中心に、校歌の歌詞にふさわしい振り付けについて話し合い、低学年の生徒でも無理なくできる、やさしい動きを考案することになった。

 何度も試行錯誤を繰り返した末、ようやく振り付けが完成し、いよいよ校歌遊技として生徒たちに教えることになった。

「みんな、これから運動会の練習について話すから、ちょっと聞いてね」

「運動会では校歌に合わせて小学生全員で遊技を行うことが決まりました。そして、来週から校歌遊技の練習を始める予定です。遊技では両手に日の丸の小旗を持ちますが、練習は割り箸を日の丸の小旗に見立てて行います」

 このことを一気に説明すると、教室中がざわつき始めた。

「えー!遊技やるの?」「嫌だなー」「やりたくない」「石川先生、恥ずかしいから別のものにしてよ」と、教室のあちこちからそんな声が聞こえてくる。

「みんな、ちょっと聞いてください」

 私は、ざわめき始めた生徒たちに優しい声で語りかけた。

「先生の話、聞いてくれる?」

「みんな、学校の校歌がどれほど素晴らしいか知ってますか?その素晴らしい歌を、みんなの動きでさらに表現できたら、すごく素敵だと思わない?」

 私は、生徒たちに校歌遊技の重要性を理解してもらうために、わかりやすい言葉で説明した。

「私たちの学校の校歌には、戦争が終わったあとの喜びが込められています。光り輝く広い草原に集まって、みんなで手を繋いで平和の歌を歌いましょう。そして、これからはみんなで力を合わせて、もっと明るい未来を築いて行きましょうという願いが込められているの」

 すると、嫌そうな態度だった生徒たちが少しずつ理解してくれたのか、うんうんと頷き始めた。

 それでも完全に納得した様子ではなく、渋々やる気になったようで、ゆかりさんが「石川先生、難しくない?」と聞いてきた。

 上地くんは、「石川先生、どうして日の丸?」と疑問を投げかける。

 さらに内間くんは、「毎日練習するの?」と嫌そうに尋ねてきた。

 そんな中、知念くんはおどけるように「石川先生、暑いから教室で練習するんでしょ?外なんて、暑すぎて無理無理!」と苦笑いで言いながら、場を少し和ませてくれた。

 私は、遊技がそれほど難しくないことを生徒たちに伝え、そして、知念くんの冗談には笑顔でこう答えた。

「知念くん、新しい運動場ができたんだよ。せっかくだから、小学生全員でそこで練習しようね。あまり暑くない午前中に練習するよう工夫するからね」と伝えた。

 上地くんの質問には、小学生にも分かりやすいように言葉を慎重に選び、少し声を落として丁寧に話した。

「上地くんの質問は、とても大切で、そして少し難しいお話なんです」

 私はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。

「日の丸にはね、いろんな気持ちや意味が込められています。戦争が終わったあと、沖縄はアメリカの一部になってしまいました。でもね、たくさんの人が『日本に戻りたい!』って強く願っていて、その願いを日の丸が表しているの」

 私は一度言葉を区切り、生徒たちの表情をそっと見渡した。

「でもね、日の丸を見ると戦争のときの悲しい思い出を思い出してしまう人もいて、だから、日の丸をどう感じるかは人それぞれなんだよね」

 そして、少し微笑みながらこう続けた。

「日の丸を使うときは、ただの旗だと思うんじゃなくて、昔あったことやその中に込められた気持ちを考えながら、みんなで力を合わせて頑張る気持ちを大事にしてほしいです」

 私は最後に、少し声をやわらげて尋ねた。

「ちょっと難しい話になっちゃったけど……上地くん、少しは伝わったかな?」

 上地くんは少し首をかしげて、困ったような顔をした。

「うーん……あまり分かりません。でも、石川先生が一生けんめい話してるのは分かりました」

 私は思わず笑みをこぼした。

「そうね、ちょっと難しかったですね。でも、これから勉強していくうちにだんだん分かってくると思うから、頑張って勉強してね」

 難しい話が続き、教室は静まりかえってしまった。そこで私は雰囲気を変えるため、全員で校歌を歌うことにした。

「では、みんな起立してください。これから校歌を歌いましょう」

 私がそう声をかけると、生徒たちは少し戸惑いながらも立ち上がり、教室は静かな緊張に包まれた。

 やがて、私の歌に合わせて生徒たちが歌い始めると、その声は次第に力強くなり、教室いっぱいに響き渡った。

 歌詞の一つ一つを噛み締めるように、みんな真剣な表情で歌っている。その様子を見ていると、生徒たちの中に校歌の意味がじんわりと届いたのか、歌い終わる頃には、先ほどまで不満そうだった顔つきが一変し、どこか誇らしげで晴れやかな表情に変わっていた。教室の空気も軽やかになり、生徒たちの目が少し輝いて見えたのが印象的だった。

 運動会では、日の丸の小旗を両手に持って踊ることになっている。練習では、割り箸を二つにして、それを小旗に見立てて練習を始めた。


 できたばかりの運動場に、小学生全員が集められた。白い砂がまだまぶしく、足を踏みしめるたびにふわりと砂煙が舞う。その真ん中で、私は手にした割り箸を軽く振り、生徒たちの前に立った。

 先生方は、校歌を一節ずつ区切りながら、生徒たちの手を取り、ひとつひとつの動きをゆっくりと丁寧に教えていった。すぐに動きを覚える生徒もいれば、何度繰り返してもなかなか覚えられず、ついには泣き出してしまう生徒もいた。

 一年生や二年生は、複雑な動きに戸惑っている。涙をぬぐいながら、必死に割り箸を握り直す小さな手。その姿に心を打たれながらも、先生方は根気よく指導を続けた。

 六年生ともなると、また別の困難がある。「なんでこんなことをやるんだ」と言いたげな顔で、仕方なさそうに体を動かす子たち。誇らしくもあり、もどかしくもあった。


 休み時間、運動場で遊んでいた一年生が転んで、膝をすりむいてしまった。先生が心配して駆け寄ってみると、砕石の中にシークヮーサーほどの大きな石がいくつも混じっているのに気づいた。

「これは危ないね」

 ということで、その日の午後、みんなで大きめの石を拾うことになった。

 けれど、それは想像以上に骨の折れる作業だった。容赦なく照りつける陽ざしの下、生徒たちの額からは汗が滝のように流れ落ち、太陽に熱された砂利の中から手探りで石を探し出すのもひと苦労だった。

 それぞれがバケツを手に、しゃがみこんで大きな石を拾い、重たくなったバケツを引きずるようにして運動場の隅へと運ぶ。息をつく暇もなく、またしゃがんで石を探す。その繰り返しだ。誰かが「もう腰が痛い」とつぶやき、別の子が「喉かわいたー」と文句を言った。先生たちも一緒に汗だくになりながら作業をしていたが、生徒たちの疲れは隠せなかった。

 そんな中、ヤッシーが「遠くへ飛んでいけー!」と叫びながら、石を放り投げてふざけていた。

「いたっ!」

 すぐそばで、トーシーの叫び声が上がる。ヤッシーの投げた石が、運悪くトーシーの頭に当たってしまったのだ。

「なにすんだよ!」

 トーシーが立ち上がる。怒りで声が震えていた。

「ご、ごめん……! わざとじゃないんだ……」

 ヤッシーの声もまた、不安と後悔で揺れていた。

「おまえ、いっつもふざけてばっかだからだろ! もっと気をつけろよ!」

「……なんだよ、それ」

 二人の間に、ぴたりと冷たい空気が流れる。

 言い合いは次第に熱を帯び、ついには手が伸び、肩がぶつかり合い、取っ組み合いへと発展してしまった。

「い、石川先生ーっ! ヤッシーとトーシーがけんかしてるよ!」

 順子さんが不安そうな声で叫んだが、石川先生は遠くにいるのか、こちらには気づいてくれない。

「おい! やめろよ!」

 ウンチューの太い声も、空に吸い込まれていった。

「コージー、止めてー!」

 恵子さんの叫ぶ声で、ヤッシーとトーシーがけんかしていることに気づいたコージーは、慌てて駆け寄り、二人の間に割って入った。

「やめろってば!ケガするよ!」

 コージーが両手をそっと差し出すと、ようやく二人の手がほどけた。残ったのは、荒く息をつく音だけだった。

「……ごめん、ごめん! そんなつもりじゃなかったんだよ。まさか当たるなんて……」

 ヤッシーの声が、小さく震えていた。

「……オレも、すぐ怒鳴ってごめん。そんなに痛くはなかったんだけど、びっくりしただけだ……」

 コージーがぽつりと言った。

「トーシー、これくらいで怒るなよ」

 トーシーは少しだけ間を置いて、大きく息を吸い込んだ。

「……なんか、暑くてさ。石拾いつまんないし、イライラしてたんだよ」

 その言葉に、ヤッシーも笑いながら応じた。

「わかるよ。オレも汗だくだし、頭がぐらぐらするくらい熱い。でも……アイスケーキ食べたら元気出るかも!」

 ぱっと空気が変わった。誰かがくすっと笑い、子どもたちの間に、ほのかな期待の匂いが広がった。

「そうだ!このあいだ家に帰ったとき、お母さんに小遣いもらったんだ。今日学校の帰りに、みんなにごちそうするよ!」

「え、ほんと?いいなー、私も食べたい!」

 ゆかりさんの声が弾んだ。

「みんなで行こうよ!」

 ショパンの声も明るかった。

「でも……十センしかないけど、足りるかな」

「ヤッシー、大丈夫だよ。オレたち、八人だろ?一人一センで、ちゃんと分けられるよ!」

「やったー!」

「ヤッシー、ごちそうさまー!」

 さっきまで怒鳴りあっていた子どもたちが、いまは照れくさそうに笑い合っている。心と心が、そっとふれ合いながら繋がっていく。ぶつかって、許して、笑い合える。


 運動会まで、あと二週間。全体の動きはバラバラで、まるで息が合ってない。時間をかけて練習すれば、下級生は疲れて集中力が切れ、上級生はどんどん機嫌を損ねていく。それでも私は言う。

「あと少し、頑張ろう!」

 励ましながら、時に休憩を挟み、時に笑いを交え、どうにか集中力を保たせる工夫を重ねた。そしてようやく、運動会直前になって、全員が揃って踊れるようになった。あのときの生徒たちの顔。安堵と達成感が入り混じった、誇らしげな笑顔が忘れられない。

 だが、練習はそれだけではない。足並みをそろえての行進や、「気をつけ」「前へならえ」「休め」「回れ右」といった動作の練習もある。まるで軍隊さながらの号令が、運動場に響き渡る。

「右!左!もっと足を上げて!一、二、一、二!」

 遠くにいる生徒にも届くよう、声を張り上げる。その響きが、空っぽの箱にぶつかって跳ね返ってくるように感じられるのは、私の心がどこかで拒んでいるからかもしれない。

「これ、本当に必要なのだろうか?」

 その疑問は、練習のたびに私の胸に浮かんでは、飲み込まれていく。

 思い返すのは、父のこと。第二次世界大戦で戦死し、金鵄勲章とともに送られてきた額縁の賞状。それを宝物のように扱い、親戚や近所に自慢げに飾る母の姿が、幼いころの記憶の中に鮮やかによみがえる。

 けれど、あれを誇る気持ちが、どうしても私には理解できなかった。

 たしかに父は「立派に国のために戦った人」なのだろう。でも、私はその父の記憶が無い。写真の中でしか知らない父を、どこか遠い他人のように感じてしまう自分がいた。

 母の誇らしげな笑顔を見るたびに、私は心の奥に、言葉にできないしこりのようなものを抱えた。

 戦争は多くの命を奪った。若い学徒が、女性が、子どもが、恐怖と絶望の中で命を落とした。

 その悲劇の果てにあるべき未来は、「二度とこんなことは繰り返さない」という強い願いの上に築かれるはずだった。

 なのに……なぜ、今も学校の中で軍隊のような訓練が行われているのだろう。

 一糸乱れぬ行進、号令、規律。そして、個よりも集団が優先される空気。

 まるで、過去の亡霊が形を変えて今に生きているようで、私にはそれがどうしても納得できない。

 教育委員会の指導といえば、それまでだが、けれど、その理由だけで、生徒たちにこの形を押し付けていいのだろうか。私の中に渦巻く違和感は、日々少しずつ膨らんでいる。

「気をつけ」や「前へならえ」といった号令は列を整えるには有効なのかもしれない。けれども、「休め」といって左足を半歩出すだけの動きで休ませるくらいなら、いっそ椅子を用意して座らせたほうが、よほど親切ではないかと思ってしまう。

 「回れ右」もそうだ。号令に合わせて一、二、三と右足を引き、体を右に半回転させ、再び右足を引いてかかとを揃える……。なぜ、こんな一連の動きを子どもたちに教える必要があるのか。その意味を考えるたびに、じわじわと心の奥に虚しさが広がっていく。

 それでも、私は今日も号令をかける。納得がいかなくても、生徒たちにその動作を覚えさせねばならない。この教えにはきっと意味があるのだと、何度も自分に言い聞かせながら。

 生徒たちはまっすぐに私を見つめ、懸命に体を動かそうとする。そのひたむきな姿が、胸の奥を締めつける。信じたい。これが彼らの未来のためになると。だが、そう信じることでしか自分を支えられないと気づくたび、どうしようもなく情けなくなってくる。

 私は今日も声を張る。疑問を胸に抱いたまま、それでも号令をかける。その声は風に乗って、運動場の彼方へと消えていく。


 運動会の朝。空はどこまでも高く、抜けるような青さに包まれていた。山の方からは心地よい風が吹き降ろし、運動場をやさしく撫でていく。

 広々とした運動場には、保護者たちのためにいくつもの日よけテントが並べられ、空には色とりどりの万国旗が糸で繋がれて、四方に張り巡らされている。風を受けてぱたぱたとはためく旗たちは、まるで今日という特別な一日を祝っているかのようだった。

 前夜の雨の名残で、運動場のあちこちには小さな水たまりが残っていたが、男の先生たちと父兄たちが力を合わせて砂を運び、水たまりに撒いていた。その甲斐あって、地面は徐々に落ち着きを取り戻し、生徒たちが元気に走り回れるようになっていた。

 校門のそばでは、玉城商店のおばちゃんが冷たいジュースとアイスクリームを売っている。

 ぴいっと、笛の音が高く空へと伸びた。いよいよ、運動会の幕が上がる。

 やがて、校長先生がマイクの前に立ち、開会の言葉を朗々と語りはじめた。その声は、青空の下に広がる運動場いっぱいに響き渡る。

 整列した生徒たちは、胸を張りながらもどこかそわそわとした面持ちで、緊張と期待が入り混じった表情を浮かべていた。

「これより うんどうくゎいを くゎいくゎいします!」

 校長先生の力強い声が、運動会の幕開けを告げた。

 列に並んでいた知念くんが、小さな声で校長先生の口まねをしながら「これより うんどうくゎいを くゎいくゎいします」とつぶやいている。

 私はそっと近づいて「知念くん、静かに」と小声で注意した。

 中年以降の男性の中には「開会式」を「きゅゎいくゎいしき」と発音する人がいる。

 以前、そのような言い方について校長先生に尋ねたところ、「よく分からない。軍隊などでよく使われていた言い回しが口癖になったのかもしれない」と教えてくれたことがある。

 さらに、「貝殻」を「くゎいがら」や「階段」を「くゎいだん」とは言わないのに、「開会式」を「くゎいくゎいしき」と発音するのは、中国的な発音が影響している可能性もある、ともおっしゃっていた。

 その後、スピーカーからラジオ体操の音楽が流れ始めた。その音に合わせて、生徒たちは一斉に体を動かし始める。腕を大きく伸ばし、腰をしっかり落としながら屈伸する。どの子の顔にも、今日という特別な日を迎えた喜びと期待がにじんでいた。

 動きは真剣そのもの。校庭のあちこちに、生き生きとした空気が広がっていく。きらきらと舞う砂ぼこりすら、生徒たちのエネルギーに弾かれて光って見えた。

 体操が終わると、いよいよ競技の開始だ。最初の種目は、かけっこ。合図のピストルが鳴ると同時に、生徒たちは勢いよくスタートを切った。

 運動場の端から端まで、ぴんと張られた細い鉄線には、三〇センチほどのプラスチック製のパイプが通っており、そのプラスチックのパイプを握りしめ、鉄線沿いにまっすぐ走る。その姿は、ゴールだけを見つめるまなざしと、精一杯の全力があふれていた。

 白線に沿って走ることのできない目の見えない生徒たちにも、ゴールまでの道がしっかり示されるように工夫されたこの仕掛け。見守る私たちの胸の奥が、じんと温かくなる。

 続いて行われたのは円周リレー。運動場の二か所に打ち込まれた杭にはそれぞれ二本の

ロープが伸びていて、その先の丸い輪を手にして、生徒たちは円を描くように走る。

一周してゴールすると次の走者が同じように走り出す。

 中には、転んでしまう子もいた。途中で止まりそうになる子もいた。でも、そのたびに観客席から飛ぶ「がんばれー!」の声が、生徒たちを前に進ませた。走る姿は、不恰好でも、まっすぐだった。

 そして、ついにやってきたのは、あの校歌遊技。割り箸での練習を思い出しながら、生徒たちは本番用の日の丸の小旗をしっかりと握りしめ、全力で演技に臨んでいた。

 音楽が流れる。旗が揃って舞う。一つひとつの動きが揃うたびに、それまでの努力がひと筋の光となって、校庭にあふれていくようだった。

 観客席からは、感嘆の声。小さな動作にも、懸命に揃えようとするそのひたむきさに、拍手と歓声が次第に大きくなっていく。保護者たちは手を振り、カメラを構え、時に目頭を押さえながら、我が子の姿を誇らしげに見つめていた。

 演技が終わる頃には、校庭全体が大きな安堵と喜びの空気に包まれていた。生徒たちの笑顔、保護者の笑顔、先生方の笑顔。すべてが太陽の光の中で輝いていた。

 お昼になると、生徒たちは家族と一緒にむしろを広げ、手作りのお弁当を囲む。どの家族にも、笑い声とおしゃべりが絶えず、美味しそうな匂いが風に乗って運ばれてくる。運動の緊張感とは打って変わって、そこには穏やかで、優しい時間が流れていた。

 午後の部は、中学生や高校生たちが登場する。迫力満点の騎馬戦、息をのむような組み体操。その一つ一つの技に、観客席からどよめきが起こる。運動会は、年齢と共に高まる挑戦のステージでもあった。

 そして、運動会のクライマックス……全員参加の綱引き。子どもから大人まで、家族も先生も入り混じって、一本の綱を全力で引き合う。年齢も立場も忘れて、ただ「勝ちたい!」という想いで笑顔を交わし合いながら、一つになって綱を握る。

 勝っても、特別なご褒美はない。それでも、みんなが笑っている。そこには勝敗を超えた何かがあった。全員で作り上げた、温かな一体感。校庭には、その余韻がいつまでも、心地よく漂っていた。


 初めて体験したこの運動会は、私に深い感動を与えてくれた。見えなくても、これほど一生懸命に、そして心から楽しそうに過ごすことができる。その姿に、私は何度も胸を打たれた。

 彼らが感じている世界には、私の想像をはるかに超える豊かさと力強さがあった。競技のひとつひとつ、笑い声や声援のひとつひとつが、生き生きと教室や校庭に響き、彼らの世界を鮮やかに彩っていた。

 私はこれまで、ごく自然に「見ること」を特別な力のように捉えていたのかもしれない。でも今日、彼らと過ごした時間が、その考え方を静かに揺さぶった。見ることがすべてではない。彼らは別の方法で世界を感じ取り、表現し、誰よりも深く人とつながっている。

 この一日が、私に新しい視点と感受性を与えてくれた。それはきっと、時間がたっても色褪せることのない、大切な記憶になるだろう。今日ここで過ごした一瞬一瞬が、私にとって、かけがえのない宝物となった。




九.昭和三七年一一月一二日 弱視教育


 昭和三七年四月、私は盲学校の門をくぐった。そこは私にとって、未知の世界だった。戦後の混乱がまだ色濃く残る時代、視覚障害児教育は黎明期を迎えようとしていた。

『視力を使うと失明につながる』

――かつては、そう信じられていた。弱い目に負担をかけることは避けるべきだとされ、できるだけ視力を使わせないようにするのが、正しい指導だと考えられていた。

 そのため、わずかに視力が残っている子どもに対しても、視覚の使用は控えさせ、点字の学習に限る方針が一般的だった。

 しかし、戦後になると、その考え方に見直しの動きが起こり始める。医療や教育の分野で「残存視力をできるだけ活かし、生活や学習に役立てるべきだ」という新しい視点が生まれ、昭和二六年に和歌山県立盲学校で弱視学級が設置され、昭和二九年には大阪府立盲学校でも同様の取り組みが行われた。

 このような動きが全国的に広がり、弱視教育が制度的に整備されていった。

 文部省は、実験研究指定校を設け、三か年計画で弱視児の教育方法や教材の開発を進めていた。


 沖縄盲学校でも、弱視教育がたびたび職員会議の話題となり、昨日、校長先生から、盲教育と弱視教育の違いやその教育方法について詳しく書かれた資料を渡され、「しっかり読んで勉強しておくように」と言われた。

 さらに、「石川先生のクラスの弱視の生徒三名を、弱視教育の試みの第一歩として

取り組んでもらいたい」とも言われた。

 盲教育についてもまだ十分に理解していない私にとって、その提案は重荷だった。断りたい気持ちはあったものの、校長先生の真剣な眼差しを前にしては言葉にすることができず、とりあえず資料を受け取り、曖昧な返事で承諾したような形になってしまった。

「なぜ私のような新米教師に、こんなにも難しい教育を任せるのだろうか」

 経験不足の自分に本当に務まるのか——そんな不安が、心にじわじわと重くのしかかってくる。

 悩みながら資料に目を通してみたものの、専門用語が並んだその内容は、まるで医者の専門書のようで、一ページも読み進めないうちに疑問符が頭の中にあふれ、つい資料を閉じてしまった。

 とりあえず今は、弱視教育について考えるのはひとまず後回しにして、来週生徒全員で行く映画鑑賞についてどうするべきかを考えることにした。

 見学予定の映画は『アンネの日記』。外国映画で、字幕が付いている。

 生徒たちに字幕を分かりやすく伝えながら、映画の状況をより深く理解させるにはどうしたらよいのか、生徒たちが映画を楽しめるようにするにはどうしたらよいのか。とりあえず、大学入学当時に購入したものの、読まずに本棚にしまい込んでいた岩波書店から出版された『アンネの日記』の翻訳版を久しぶりに取り出して読んでみることにした。

 内容は小学三年生には少し難しく感じられる部分もある。そのため、分かりやすく噛み砕いて説明する必要がある。

 どうしたら生徒たちにうまく伝えることができるだろうか、私は難しい部分を何度も読み返しながら悩んでしまった。

 まずは明日の授業で『アンネ・フランク』について話し、彼女の日記の内容や、戦時中にアンネの家族や他のユダヤ人たちが経験した苦難について伝えることで、生徒たちが映画鑑賞をより理解しやすくなるかもしれない。


 いつもの朝礼の後、校長先生に「弱視教育の進捗はどうですか」と尋ねられ、全く勉強していないとは言えず、「少しずつ勉強しているところで、来週の映画見学が終わってから本格的に取り組もうと思っています」とその場しのぎの返事をしてしまった。

 気まずい思いを抱え、いつもより少し早足で三年一組の教室へ向かった。

 教室に入り、上地くんの授業始まりの挨拶が終わると、緊張が和らぎ、夕べから準備していた「アンネの日記」について話すことにした。

「みんな、『アンネの日記』って聞いたことありますか?」

「知らない、聞いたことない」とあちこちから声が上がった。

「二〇年前にね、アンネ・フランクという十三歳の少女がいたの」

「アンネさんは、ユダヤ系ドイツ人の女の子でした。ナチスというドイツの独裁政権がユダヤ人を差別し、迫害を始めたため、アンネさんの家族は故郷のドイツを離れ、オランダへ逃れました」

「けれど、やがてオランダにも戦争の影が広がり、ドイツ軍が攻め込んできたの。それで、ユダヤ人たちは再び追いつめられるようになりました」

「アンネさんの家族は身を隠すため、建物の裏にある隠し部屋に移り住みました」

「そこでは、昼間は物音ひとつ立てられず、窓のカーテンも開けられません。外の世界を見ることもできない、八人だけの小さな生活が、二年以上も続いたのです」

「その間、アンネさんは日記を綴り続けました。未来への思い、自分の夢、家族や周囲の人たちへの気持ち、そして戦争への不安――さまざまな想いが、その日記に込められていました」

「けれど残念なことに、隠れ家はついに見つかってしまい、アンネさんたちは捕えられて、強制収容所という場所に送られました」

「アンネさんは、その収容所で十五歳という若さで亡くなってしまいました」

「けれど、彼女が書き残した日記は無事に残り、お父さんの手によって世に出され、いまでは世界中の人々に読み継がれています」

「この日記が教えてくれるのは、人を見た目や宗教、出身で差別してはいけないということ。そして、どんなにつらくても希望を持ちつづけることの大切さ、平和のありがたさを、私たちに静かに語りかけてくれているの」

「来週みんなでアンネさんの映画を観に行きます。その前にこうしてアンネさんのことを知って、少しでも心を寄せてみてください」

 私の話が終わると、教室のあちこちから手が上がった。

「石川先生、アンネさんは、なんで日記を書いてたの?」

 私はうなずいて言った。

「いい質問ね。アンネさんはね、隠れ家の中で自由に動けなかったり、友だちとも会えなかったりして、とてもさびしかったの。だから日記は、自分の気持ちを安心して話せる、大事な友だちみたいな存在だったのよ」

「アンネさん、怖くなかったのかな?」

 私は少し目を伏せてから、やさしく答えた。

「とても怖かったと思うの。でもね、アンネさんは、その中でも『人間は本当はみんないい心を持っている』って信じていたの。それは、すごいことだと思うの」

「アンネさんは、日記に自分の夢も書いていたんですか?」と順子さんが聞いた。

「うん、そうなのよ。大人になったら作家になりたいって書いてたの。だから今こうして彼女の日記がたくさんの人に読まれていることは、アンネさんの夢が叶ったとも言えるのかもしれないね」

「映画って、こわいの?、かなしいの?」と、小さな声で上地くんが聞いてきた。

 私は、上地くんの目を見て、微笑みながら言った。

「悲しい場面もあると思うけど、とても大切なことをたくさん教えてくれる映画だと思うよ。アンネさんの勇気や優しさ、そして希望を持ち続ける心に、きっと触れられると思う。みんなで一緒に観て、そのあと感想を話し合おうね」


 映画見学当日は、あいにくの雨だった。傘を差しながらの路線バスでの移動は大変だったものの、小学生全員で「アンネの日記」を無事に鑑賞することができた。

 先生方は、それぞれ担当する生徒に寄り添い、字幕を読み上げたり、映像の状況を丁寧に説明したりした。

 事前にあらすじや背景を説明してはいたものの、映画の内容が果たして生徒たちにきちんと伝わったのか、不安が拭えなかったが、映画が始まると生徒たちはみな、小声で語りかける私の声に耳を傾け、映画に釘付けになっていた。誰一人として退屈そうな様子も、眠そうな顔をする生徒もいない。

 映画が終わると、生徒たちの表情にはさまざまな感情が浮かんでいた。悲しそうな顔をする子、考え込んでいる子、そして何かを伝えたいと私を見つめる瞳。それらを見て、アンネのメッセージがしっかりと生徒たちの心に届いたことを感じることができた。


 翌日、登校すると正門で生徒たち一人一人に挨拶をしている校長先生と出会ってしまった。いつものように「おはようございます」と挨拶を交わしたが、弱視教育について何か言われるのではないかと気になり、その場を早々に離れてしまった。

 その日の放課後、校長先生から渡された盲教育と弱視教育についての資料を憂鬱な気分で読み返してみた。


『盲教育は、イタリアの教育学者であり医師でもあったマリア・モンテッソーリによって開発された』

『この教育法は、子どもの自主性や独立性を尊重し、自然な発達を促すことを目的としている』

『子どもを独立した個人として尊重し、彼らの発達段階や興味に応じた学びを提供する』

『子どもが自由に選択し活動できる環境を整えつつ、社会的な規律や責任感も育てる』

『子どもが特定のスキルや知識に対して特に敏感になる時期(敏感期)を見極め、その時期に適切な学びを提供する』

『子どもが自発的に学びたくなるような教具や教材が整えられた環境を提供する』

『異なる年齢の子どもたちが一緒に学ぶことで、互いに学び合い、助け合う文化を育てる』

『特別に設計された教具を使い、子どもが自らの手で操作しながら学ぶことを重視する』

『教師は指導者ではなく、子どもの学びをサポートする「ガイド」としての役割を果たす』


「ふうん……」

 一年足らずで全てを理解するなんて、どう考えても無理だ。それなのに、今度は弱視教育まで任されるなんて……。こんな私に、本当に務まるのだろうか。思わず机に突っ伏した。

 そのとき、不意に校長先生の言葉が頭をよぎる。

「まずは、石川先生のクラスの三人の生徒から試験的に弱視教育を始めて、そこから本格的な導入を目指したいと考えています」

 その言葉を思い出すたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、課せられた役目の重みに、押し潰されそうになる。

 目の前の机には、読みかけの資料と、白紙のままのノートが広がっている。その一文字一文字が、まるで新しい世界の壁を私に見せつけているようだった。

 何度も瞬きを繰り返し、視線を落ち着ける。こめかみを揉みながら、「これなら大丈夫」と、心の中でそっとつぶやくが、不安はなかなか消えてくれない。

 首を軽く回して緊張をほぐし、深呼吸をして気持ちを新たにする。そして、重い心を抱えながらも、私は再び資料に目を通し始めた。


『弱視教育は、視覚に障害を持つ子どもたちが学びやすい環境を整え、彼らの学習や生活能力を向上させることを目的とした教育である』

『子どもの視覚能力やニーズに応じた教材や指導法を提供する』

『拡大印刷された教科書や弱視用レンズなどの視覚補助具を活用して、学習をサポートする』

『適切な照明など、見やすい環境を整えることが重要』

『弱視児童が読みやすいように文字や図表を拡大した教科書を使用する』

『視覚認識能力を向上させるための訓練を行う』

『適切な明るさを確保し、反射や眩しさを軽減する』

『視覚的に最適な位置に座れるように配慮する』

『子ども一人ひとりのニーズに応じた対応が求められるため、教師の専門知識やスキルが重要』


  資料を読み終えた後も、私の頭の中は混乱したままだった。

 同じ教室で点字を使う全盲の生徒たちと一緒に、どうやって弱視教育を行えばいいのだろうか。その答えを見つけようとするたび、私は目の前にそびえ立つ高い壁を見上げているような気持ちにとらわれ、その壁はとてつもなく頑丈で、乗り越えることなど到底できそうにない。それでも、乗り越えるための方法を考え出さなければならない。

 教室の環境を改善するために、まず思いついたのは、照明を適切な明るさに調整すること。しかし、教室には天井からぶら下がる裸電球が四つあるだけで、それ以上の照明を増やすことは、予算不足のため今のところできないと校長先生は言っていた。

 私は思わず、資金不足という現実にため息をついた。

 とりあえずできることとして、弱視の生徒たちの席を教室の窓際の明るい場所へ移す計画を立てた。その小さな工夫がどれほど役立つかは分からなかったが、他に選択肢がない。

 さらに、拡大教科書があれば良いのだが、それも揃っていない。拡大鏡を手に入れることさえもかなわない。

 この不自由さの中で、私は何度も自問した。

「どうしたものだろう」

 東京や大阪といった大都市では、弱視の生徒のために、拡大教科書や本を読むための拡大鏡などが整備されていると言うが、ここには無い。

 私は深い溜息をついた後、教室の静けさの中で覚悟を決めた。

 外部の条件に悩まされるよりも、まずは私にできることを始めるしかない。

 「とにかく、できることから始めよう」と、心の中で自分に言い聞かせ、その言葉に背中を押されるように、私はゆっくりと立ち上がった。


 三年一組の教室は、いつも通り明るく賑やかだった。生徒たちは、昨日の野球の話で興奮しながら盛り上がっている。その中で、級長の上地くんが、私が教室に入ってきたことに気づき、いつものように号令をかけた。

「起立!礼!」

 生徒たちは号令に従い、静かに立ち上がると一礼し、大きな音を立てずに椅子を引いて座った。

 私は教卓の前に立ち、緊張を感じながら生徒たちに向かって話し始めた。心の中では、うまく伝えられるだろうか、という不安が渦巻いていたが、それでも今こそ話すべき時だと感じていた。

「みんな、これから大切なお話をします。集中して聞いてくださいね」

 教室に静けさが訪れた。ざわついていた空気が、私の言葉をきっかけに一瞬で引き締まる。生徒たちの目が、黒板の前に立つ私に一斉に向けられた。期待と、ほんの少しの緊張が混じった真剣なまなざしが並ぶ。

 私はその視線をやわらかく受け止め、微笑んだ。彼らの心に届くように、ひとつひとつの言葉を丁寧に選びながら話しはじめた。

「恵子さんや内間くん、それから仲宗根くんのように、少し見える人のことを『弱視』といいます」

 その声には、わかりやすく伝えたいという優しさが込められていた。教室の空気がふっとやわらぐ。弱視……生徒たちにとってはまだ耳慣れない言葉かもしれない。それでも、私の静かな語りかけに、誰もが耳を傾けていた。

「弱視の人たちはね、目を使っても、小さな文字が見えにくかったり、遠くのものがはっきり見えなかったりするんです」

 少し間をおいて、私は教室を見渡す。生徒たちはうなずいたり、首をかしげたりしながら、一生懸命に理解しようとしている。その姿に、私の胸が少しあたたかくなる。深く息を吸い、気持ちを落ち着け、話を続けた。

「これまでは目をあまり使わないように、点字で勉強してきました。でも、これからは目を使いながら、いろいろなものを見たり、本を読んだり、鉛筆で文字を書いたりして、勉強を進めていこうと思います」

 教室の中にほんの少しざわめきが戻り、生徒たちの表情に見え隠れする変化への驚きや戸惑いを感じ取った私は、安心させたいという思いを込めて、少し声のトーンを上げながら明るく言葉を重ねていった。

「それでね、三人には明るい窓際の席に移ってもらうことにしました。これから席替えをしますので、それぞれの机を持って移動してもらえますか?」

 その時だった。教室の空気がふと揺れたように感じたのは。恵子さんがそっと手を上げたのだ。小さな手がためらいがちに、けれど確かに宙を切る。私の視線が自然とそこに向かう。

「石川先生……私、あまり見えないので……これまで通り、点字で勉強したいです……」

 恵子さんの声は細く、しかし、その奥にある決意ははっきりと伝わってきた。まっすぐに言葉を選び、勇気を振り絞るようにして話すその姿に、教室の空気が静かに引き締まる。

 間を置かず、今度は内間くんが声を上げた。椅子に座ったまま、少しうつむきながら、それでも一生懸命に自分の気持ちを言葉にしようとしている。

「僕も……一年生の頃からずっと点字で勉強してきたから、文字を書くのはちょっと難しいと思います。やっぱり、点字の方が安心するっていうか……」

 その言葉に、私の胸は静かに揺れた。

 ふたりの率直な想いが、まっすぐに心の奥へと沁み込んでくる。目の前で語られる小さな声が、これほどまでに力強く、人の心を動かすとは……。

 私は、その一言一言を、そっと丁寧に心に刻みつけた。

「そうだよね……」ぽつりと呟いたあと、私はゆっくりと頷いた。理解しようとする気持ちを、その仕草に込めるようにして。

 恵子さんと内間くんにとって、そして仲宗根くんにとっても、これまでの学び方がどれだけ大切で、安心できるものだったのか。その重みを思えば、ただ「新しい方法」を押しつけるだけでは、きっと届かない。けれど同時に……弱視の生徒たちが自分の目を使って、世界をもっと見つめ、感じ、広げていけるようになるためには、どこかで一歩を踏み出すことも必要だ。

「どうすればいい……この子たちにとって、本当に最善の道って、何だろう」

 私は静かに自問する。答えは、まだわからない。けれど、立ち止まることはできない。今、できることから始めていくしかない。そう心に決めて、私はやさしく語り始めた。

「まずはね、内間くんと仲宗根くんには、明るい窓際の席に移ってもらおうと思います。窓際なら光もたくさん入るし、気持ちよく勉強できると思うから」

「それから、勉強の進め方については、ほかの先生方とも相談しながら、みんなにとって一番いい方法を一緒に考えていきたいと思います。内間くん、どうかな?」

 内間くんは一瞬、戸惑うような気配を見せたが、やがて真剣な顔でコクリとうなずいた。

 私は次に、静かに座っている恵子さんに目を向けた。

「恵子さんは、これまで通り点字で勉強を進めていこうね。でも、せっかくだから、ひらがなや自分の名前くらいは漢字で書けるように練習してみたらどうかな?」

 その言葉を聞いた恵子さんの顔が、ぱっと明るくなった。そして、小さく、けれど力強く、何度も何度もうなずいた。

 すると上地くんが、目を輝かせて言った。

「石川先生、僕も自分の名前を漢字で書けるようになりたいな。見えなくても漢字って書けるんかな?」

 すると、教室のあちこちから声が上がった。

「私も、自分の名前を漢字で書いてみたい!」

「見えなくても書けるんだったら、僕もやってみたい!」

 子どもたちの声が重なり、教室に活気が広がっていった。

「じゃあ、今度みんなで、自分の名前を漢字で書く練習をしようね」

「上地くん、大丈夫。見えなくても、ちゃんと書けるようになるからね。一緒に覚えて、ゆっくり練習していこうね」

 私はそう言ってから、少し声のトーンを落とし、ゆっくりと言葉をつづけた。

「漢字が書けるようになるとね、その漢字がどんな意味なのかも、少しずつわかってくるよ。そうすると、自分の名前にどんな思いが込められているのか、お父さんやお母さんがどんな気持ちでその名前をつけてくれたのかも、見えてくるかもしれないね」

 生徒たちはみんな、うれしそうに笑った。でもその笑顔には、不安や迷いはなかった。ただ、何か新しい一歩を踏み出す前の、静かな決意がにじんでいた。

 私は、胸の奥で何かがそっと動き出すのを感じていた。それは不安と希望が入り混じる、小さな一歩。でもその一歩こそが、生徒たちと共に歩む未来へとつながる、大切な一歩だった。


 秋のそよ風が窓からそっと吹き込む穏やかな午後の光の中、内間くんは静かに帳面に向かっている。机の上に広げた白いページに、鉛筆の先を慎重に運びながら、ひと文字、またひと文字と、丁寧にひらがなを書き込んでいく。

「あ・い・う・え・お……」

 大きく書かれた五十音が帳面に並ぶたびに、内間くんの表情には真剣な眼差しの中に、かすかな喜びが浮かんでいた。まるで、新しい世界へ一歩踏み出すときのような、ときめきがにじんでいる。

 点字の教科書を傍らに置きながらも、彼は新たな挑戦を楽しんでいるかのようだった。

 私は、その姿をそっと見守りながら、安堵の息をついた。

「最初は嫌がるかもしれないと思っていたけれど……こんなにも目を輝かせて取り組んでくれるなんて」

 その心配は、どうやら杞憂だったらしい。鉛筆の先から生まれる「文字」という新しい世界に、内間くんは自然と心を引き寄せられていった。

 一方で、仲宗根くんは少し事情が違っていた。彼は二年生まで普通の小学校に通っていたため、ひらがなやカタカナ、簡単な漢字までしっかり書ける力を持っていた。しかし、新しい環境での学びには、思わぬ壁が立ちはだかった。

「石川先生、この教科書、字が小さくて、ちょっと読みにくいんです。点字の教科書も使いながら、書くときは普通の字でやってもいいですか?」

 控えめながらも、仲宗根くんは真剣な口調でそう伝えてくれた。

 大きな文字の教科書が手元になかったため、試しに普通の教科書を使ってもらっていたが、やはり読みづらさは否めなかったようだ。

 その結果、仲宗根くんは点字の教科書を併用しつつ、ノートには大きな字で書き写すという方法に切り替えることになった。

「でも石川先生、算数だけは……この教科書のままで勉強したいです。図とか記号は、目で見たほうがわかりやすいので」

 そのひと言が、私の心に強く響いた。

 彼は、自分にとっていちばん理解しやすい方法を模索している。その姿勢こそが、何よりも尊く、頼もしかった。

 そこで算数に関しては、本人の希望を尊重し、今の教科書をそのまま使うことにした。

 その決定に、仲宗根くんの表情にも、少しずつ前向きな光が差しはじめていた。

 授業の中で、ひとつひとつ確かめるように文字を書き、図を眺め、手を動かすふたりの姿。その姿には、不安と戸惑いを超えて、自分の力で学ぼうとする静かな決意があった。

 私は、そんな彼らを見守りながら、胸の奥で小さな希望の芽が育っていくのを感じていた。それは、まだ始まったばかりの学びの旅路。しかし、その一歩一歩が、未来につながっているーーそんな確信を抱かせる光景だった。

 雨の日や曇りの日には、窓際の席ですら十分な明るさが確保できず、教室全体がどこか沈んだような空気に包まれる。そんな中でも、内間くんと仲宗根くんは静かに帳面に向かっていた。眉をひそめながらも、懸命に鉛筆を握るその姿が、薄暗い教室の中でひときわ印象的だった。

「石川先生、早く蛍光灯つけてよー!暗くて見えないよ!」

 ふたりの声には、少しばかりの苛立ちと、それでも前に進もうとする意志がにじんでいた。

 私はその声を聞きながら、胸が締めつけられるような思いに駆られていた。

 今、彼らに必要なのは、もっと明るい教室。ただそれだけのことなのに、それすら叶えてあげられない私が、情けなかった。

 本当は、すぐにでも蛍光灯をつけてあげたい。けれど、学校にはその予算がない——校長先生からそう聞かされていた。どうにもならない現実が、重たく心にのしかかる。

「ごめんね」と声に出すことさえできず、胸に広がるのはただ、どうしようもない申し訳なさだった。

 けれど、謝るだけでは何も変わらない。気持ちだけでは現実は動かせない。

 それでも私は、自分に問い続ける——“いま、自分にできることは何だろう?”と。

 心の中で何度も自分に問いかけた。

 どうすれば、生徒たちの負担を少しでも軽くできるのか。その答えを探しながら、今日も私は思いを巡らせていた。

「石川先生、弱視の生徒たちの授業、どうですか?何か、私に手伝えることはありますか?」

 昼休みの静けさが戻った職員室。自席で頬杖をつきながら思い悩んでいたら、不意にかけられた声に顔を上げた。そこには、湯気の立つ湯呑みを手にした川上先生が、心配そうな表情でこちらを見ていた。

「あぁ、川上先生……ありがとうございます。実はちょうど悩んでいたところなんです。教科書の文字が見えにくいみたいで、生徒たちが顔を近づけて読む様子を見ると、なんだか気の毒で……。授業中も集中しづらそうで、何か助けになる方法がないかと……」

 川上先生はうなずきながら、隣の空いた椅子に腰を下ろし、唇に手を添えてしばし考え込んだ。

「そうですね……。拡大教科書があれば一番いいのですが、取り寄せには手続きも時間もかかって、すぐには難しそうです」

「私も以前、参考書を取り寄せたことがありますが、手紙のやり取りに手間取り、結局届いたのは半年後でしたからね」

 少し沈黙が流れたあと、川上先生がふと思いついたように言った。

「そうだ。石川先生、理科の実験で使っている虫めがねを試してみたらどうですか?手軽ですし、意外と文字が見やすくなるかもしれませんよ」

「虫めがね……あっ、なるほど!それならすぐにでも使えますね。生徒たちも、楽しみながら使ってくれるかもしれません。さっそく試してみます!」

「内間くん、仲宗根くん。ちょっと、これ試してみてくれる?」

 虫めがねを手渡すと、内間くんは目を近づけた途端、ぱっと笑顔を浮かべた。

「石川先生、これすごく見やすい!すごくいい感じです!」

 その目は、まるで新しい世界を発見したかのように輝いていた。

 けれど、その隣で仲宗根くんはしばらく黙って虫めがねをのぞき込んでいたが、やがてそっとため息をついた。

「うーん……ぼやけて、逆に見えにくい……」

 その小さな落胆の声に、私はハッとした。同じ道具を使っても、同じやり方がすべての子に合うわけではない……それは、わかっていたはずだった。けれど、その現実を改めて目の当たりにした瞬間だった。

 弱視一人ひとりの「見え方」は本当にさまざまで、そこに対応する手段も簡単には見つからない。それでも、諦めるわけにはいかなかった。

「石川先生、これなんて書いてあるの?」

 仲宗根くんが何度も尋ねてくるたびに、私は笑顔でそっと寄り添い、文字を一緒に読んでいった。時には彼の手をそっと取り、大きな文字の輪郭をなぞるように書いて見せる。わからず不安そうにしているときには、そっと背中を撫でて、「大丈夫だよ」と言葉ではなく心で伝えるようにした。

 単に「教える」のではなく、「学ぶ楽しさ」を感じさせることーーそのために、私は心を砕き、知恵を絞り、毎日を積み重ねていく。

 どんなに小さな一歩でも、ふたりが視覚を使って世界とつながるその瞬間を見守れること。それこそが、教師としての自分の使命なのだと、私は静かに感じていた。


 休み時間になると、仲宗根くんは黒板の前に立ち、恵子さんにひらがなの書き方を教えていた。

 チョークを握る恵子さんは、何度も書いては消し、また書いては首をかしげながら、一生懸命ひらがなを覚えようとしている。

「コージー、これであってる?」

 そう言って、恵子さんが黒板に書いた文字を指さすと、仲宗根くんは少しだけ首をかしげてから、やさしい声で答えた。

「うん、だいたい合ってるよ。でもね、ここの曲がり方をもうちょっと丸くすると、もっときれいに見えるよ」

 そう言って、自分の指で空中に文字をなぞるように形を示すと、恵子さんはそれを真剣なまなざしで見つめていた。

「なるほど……あ、わかったかも!」

 今度は少し自信ありげに、もう一度そのひらがなを書いてみせる。

「お、いいね。さっきよりずっと上手くなってる」

 仲宗根くんの言葉に、恵子さんはぱっと顔を輝かせた。

「おもしろいな。早く、全部のひらがな覚えたいな。ぜんぶ書けたら、手紙も書けるよね?」

 その言葉に、仲宗根くんはふっと笑ってうなずいた。

「うん、きっと書けるよ。恵子さんなら、すぐにぜんぶ覚えられるさ」

 黒板の前には、並んで立つ二人の肩越しに、やわらかな午後の光が差し込んでいた。


 弱視教育が始まってからというもの、私の毎日は、まるで山あいに続く細く曲がりくねった小道を歩くような日々だった。どこに曲がり角があるのか、足元の石につまずかないかーーそんな緊張と戸惑いが、私の歩みに絶えず付きまとっていた。

 道は平坦ではない。時に足を取られ、立ち止まり、後ろを振り返りたくなる日もある。それでも私は、前を向いて歩くことをやめなかった。どんなに小さな歩みでも、生徒たちが自分の力で一歩を踏み出す、その瞬間に寄り添いたい。彼らの背中をそっと支える存在でありたい。

 いつしかその思いは、私の中で確かなものへと変わっていた。

 ーー教えるということ。それは、ただ知識を与えることではない。信じること。生徒の力を、可能性を、心から信じ、共に歩むこと。それが、私が選んだ道の意味だった。




十.昭和三八年三月二六日 未来へ、静かに手を伸ばす日


 盲学校に来てからというもの、私はこれまでにない数々の経験を重ねてきた。

 点字に触れたのも、小学生の授業を受け持ったのも、すべてこの場所で始まったことだった。家庭訪問を行い、遠足に同行し、運動会に参加し、映画見学にも出かけた。

 家庭訪問の季節が来ると、予定表を見つめながら、ため息まじりに肩をすくめた。

 この学校には、離島をはじめ、本島の北の山原から南の島尻まで、さまざまな地域から生徒たちが通ってきている。家庭訪問となれば、半日かけてバスを乗り継ぎ、さらに歩くこともしばしば。決して楽な仕事ではなかった。

 蒸し暑い日差しのなか、手にした地図と住所を頼りに細い道をたどる。汗をぬぐいながら、知らない土地を歩くその時間は、どこか日常を離れた冒険のようでもあった。

 しかし、離島の家庭まで直接訪ねることは、さすがに難しい。そんなときは、那覇に住む親戚の家が家庭訪問先として指定される。玄関の戸を開けて出迎えてくれるのは、祖母だったり、おじだったりーー親ではない、けれど子どもを思う誰かの姿だった。

 訪問先の家庭は、まさに千差万別だった。

 ある日、私は整った庭と大きな門構えの家を訪れた。広い応接間には扇風機が回っていて、きれいに磨かれたテーブルの上には、温かいお茶とお菓子が並んでいた。母親は丁寧な口調で話し、生徒の将来の計画を、教育熱心に語った。

 別の日には、狭くて薄暗い路地裏の一角を訪ねた。傘を差しながら泥濘んだ足元に気を配りつつ、やっと見つけた木造の平屋。戸を開けた先には、すぐ座敷が広がり、畳はところどころ擦り切れていた。そこでは、お母さんが遠慮がちに腰を下ろし、少し申し訳なさそうに子どもの様子を話してくれた。

 小さなちゃぶ台の上には、ふかし芋が皿にひとつ。話す間にも、小さな弟妹が部屋の隅でこちらをじっと見つめていた。

 経済的に苦しい家庭。視覚に障害のある親がいる家庭。夜の仕事をしながら子どもを育てている母親——。

 私は、それらを「特別な事情」だとは思わなかった。そこにあるのは、紛れもない「現実」だった。それぞれの家に、それぞれの暮らしと、生き方がある。そのことを、私は訪ね歩く中で、肌で感じていた。

 玄関をくぐるたび、胸の奥にふっと灯るものがあった。

 それは哀れみでも、同情でもない。

 もっと静かで、もっと確かな、名もなき感情だった。

 映画見学では、小学生全員で『アンネの日記』を鑑賞した。外国映画で字幕だったため、先生方はそれぞれの担当の生徒たちに字幕を読み聞かせたり、場面の状況をわかりやすく説明したりと、工夫を凝らしていた。

 二月には、学習発表会が行われた。これまで学んだことや、合唱、器楽合奏、演劇などの発表が行われた。

 各クラスの生徒が少ないため、学校全体で、あるいは学部に分かれて、それぞれ練習してきたことを両親や兄弟を招いて発表した。

 私が受け持つ小学三年生は、小学部で笛やハーモニカ、カスタネットなどで器楽演奏を行った。特に私のクラスは音楽の上手な生徒が多く、屋比久くんがオルガンを弾いて下級生にハーモニカの吹き方などを教えていた。順子さんはマリンバを上手に弾いてくれた。

 とてもうまくできたと思っている。

 中高生たちは、それぞれの舞台に情熱を注ぎ、演劇で物語を紡ぎ、ブラスバンドで力強く音を奏で、混声合唱では心を重ねて美しいハーモニーを響かせていた。どの発表も、生徒一人ひとりの努力と輝きが感じられるもので、観る者の胸を静かに揺さぶった。

 学習発表会に訪れた家族たちは、子どもたちの堂々とした姿に目を細め、舞台が終わるたびにあたたかい拍手と、満ち足りた笑顔で応えていた。その姿には、日々の成長をそっと見守ってきた者だからこそ湧き上がる、誇らしさと感動がにじんでいた。


 あっという間に一年が過ぎようとしていた。

 先生方は、授業の準備に追われ、行事の段取りに走り回る日々を過ごしながらも、生徒とともに過ごす教室での時間だけは、何にも代えがたい、かけがえのないひとときだった。

 笑い合った昼休み、時に厳しく叱った放課後、悩みを打ち明けてくれた静かな夕暮れ……それぞれの瞬間が心に深く刻まれ、気づけば一年という時は、まるで音もなく、静かに通り過ぎていた。

 目まぐるしくも密度の濃い日々の中で交わされた言葉、流れた涙、あふれた笑顔……そのすべてが、大人も子どもも等しく心を揺らし、静かに、そして確かに記憶の奥へと刻まれていった。

 そして今、季節の風が少しずつ春の匂いを運びはじめたこの日、教室には穏やかな光が差し込んでいる。そう、今日は修了式。別れではなく、新たな一歩を踏み出すための、大切な節目の日だ。

 それぞれの胸に、たくさんの思い出と、未来への小さな希望を抱きながら、生徒たちは静かに立ち上がろうとしていた。


 迎えた学年最後の日、教室はいつもと少し違う、どこか柔らかな明るさに包まれていた。窓から差し込む春の光が、生徒たちの髪にやさしく触れ、机の上に柔らかな影を落としている。

 生徒たちはそれぞれの席に座りながら、期待と寂しさが入り混じった表情で静かにその時を待っていた。私は一人ひとりの顔を見渡しながら、この一年を共に過ごした時間の尊さを胸にかみしめていた。

「順子さん、マリンバとても上手だったね!」

 通信簿を手渡しながら声をかけると、順子さんは恥ずかしそうに頬を染め、それでも嬉しそうに微笑んで頷いた。

「習ってたの?」と聞くと、彼女は少し首をかしげ、「習ったことはないの。なんとなく触ってたら、いつの間にか弾けるようになってたの」と、無邪気な笑顔で答えた。

 私はその言葉に胸が熱くなった。彼女が楽しんで楽器と向き合い、自然にその音を自分のものにしていったことが、ただただ嬉しかった。

「それなら、今度はオルガンにも挑戦してみたらどうかな?いろんな楽器に触れたら、きっともっと音楽が好きになると思うよ」

 順子さんの瞳がぱっと輝き、「うん、四年生になったらオルガンやってみたい!ずっと弾いてみたかったの」と元気に返してくれた。

「じゃあ、その気持ち、音楽の山内先生にも伝えておくね。きっと喜んで手伝ってくれると思うよ」

「ほんと?ありがとう、石川先生!」

 彼女の声には、希望と未来がまっすぐに込められていて、私の心にも優しい光が差し込んだ。

 教室の笑い声の中心には、やっぱり知念くんがいた。相変わらず元気いっぱいで、時には校長先生のものまねをしては笑わせていた。もちろん校長先生本人が後ろに立っていたことに気づかず、見事にげんこつをもらっていたけれど、それさえも、教室全体の笑いに変えてしまうのが彼らしかった。

 夏休み明け、粟国島から帰ってきた彼は、誇らしげにみんなに黒砂糖を配っていた。砂浜を駆け回った話や貝を拾った思い出を語る彼の顔は、太陽のように明るかった。

「知念くん、いつも教室を明るくしてくれてありがとう。先生ね、知念くんと話すと元気をもらえるの。本当に助けられてたのよ。それと、黒砂糖、とてもおいしかったわ。ありがとうね」

 知念くんは照れたように笑ったあと、いたずらっぽく言った。

「石川先生、クルジャーターをいっぱい食べたら、校長先生みたいにデブーになっちゃうよ!」

 その瞬間、教室中に笑い声がどっと広がった。

「そうなの?それは大変!でも、どうして校長先生のこと知ってるの?」

「この前、音楽の山内先生が言ってたんだよ。『校長先生のお腹、エイサーの大太鼓みたいだ』って!」

 私も笑いをこらえきれず、口元を押さえて肩をふるわせた。

 すると、後ろの席から別の子が声を上げた。

「でもさ、運動会のとき、校長先生、最後のリレーで一生けんめい走ってたよね。どすん、どすんって、すごい音がしてた」

「うんうん。あの足音で、校長先生だってすぐわかったさ。ゴールのとき、転んだ音も大きくてさ。あとで先生たちが、ズボンが破れたって笑ってたよ」

 子どもたちの笑い声と冗談が飛び交う教室の空気の中で、 私も笑いをこらえきれず、思わず吹き出しそうになりながら、次の生徒の元へと歩いていった。

 屋比久くんは、いつものように机の上で指を動かしていた。その指先は、まるで見えないオルガンの鍵盤をなぞるように、右へ左へと軽やかに踊っている。

「屋比久くん、この一年、本当によく頑張ったね。学習発表会でオルガンを弾いてくれたとき、先生、本当にびっくりしちゃった。すごく上手だったけど、小さい頃からピアノの先生に習っていたの?」

「ううん、誰にも習ったことないよ。家にピアノがあって、小さい頃からずっと触ってただけ」

 そう言って、屋比久くんは少し照れくさそうに笑った。レコードを聞いただけで、たいていの曲は弾けるという。まるで、音の記憶がそのまま指先に降りてくるように。

もちろん、目が見えないからといって、誰もがそんな力を持っているわけではない。

 見えないということは、形も動きも色も……すべての「目で見る情報」が手探りの世界になる。

 動いているのか止まっているのか。

 動いているならどのように動いているのか……。

 それを知るには、触れるしかない。

 とりわけ致命的なのは、「色」がわからないことだ。

 生まれながらにして視力を持たない屋比久くんには、色という概念そのものが存在しない。赤や青といった名前を知っていても、それが何を意味するのかは想像できない。明るい、暗いといった感覚も、彼にはただの言葉でしかない。

 ……そんな世界で生きるというのは、どれほどの孤独だろう。

 私たちは成長の中で、世界の新しい姿を発見し、そのたびに驚きや喜びを感じる。

 けれど屋比久くんは、成長するたびにできないことや届かない世界が少しずつ明らかになっていくのかもしれない。新しい発見ではなく、新しい絶望を一つずつ知っていく……そんな成長を強いられるとしたら、あまりにも過酷すぎる。

 だからこそ神様は、彼に音楽という力を授けたのかもしれない。音の中で自由に生きることのできる、小さな天才の指先を。

「屋比久くん、これからもたくさんピアノを弾いてね。もしできたら、ピアノの先生について習ってみると、もっともっと上手になると思うよ。お父さんとお母さんにも、相談してみてね」

「うん、相談してみる」

 そう言って、屋比久くんはまっすぐに頷いた。その表情には、未来を見つめるような確かな光が宿っていた。

 最後に私は、窓際の席で静かに待っていた仲宗根くんのもとへ歩み寄った。教室の隅に差し込む午後の光が、彼の横顔をやさしく照らしている。手にした通信簿を差し出しながら、私はそっと声をかけた。

「仲宗根くん、普通の教科書はきっと見づらくて、大変なこともたくさんあったよね。でも、それでもあきらめずに取り組んで……本当によく頑張ったね。

あの教科書で問題が解けたとき、先生ね、あまりに嬉しくて、思わず心の中で小さく手を握りしめちゃったの」

 仲宗根くんは、少し照れくさそうに微笑んでから、そっと視線を床へ落とした。そして、小さな声で、心の奥にしまっていた想いをぽつりぽつりと語りはじめた。

「でも……石川先生が、窓際の明るいところに机を移してくれたり、いろいろ工夫してくれたからだよ。僕、見えにくいとすぐイライラしちゃうんだけど……でもね、石川先生が一緒に考えてくれて、すごく嬉しかったんだ」

 その一言に、私は思わず胸が熱くなった。彼がこの一年間に乗り越えてきたもの……それは、想像をはるかに超える壁だった。黒板の文字が見えなくて普通の小学校から盲学校へ転校してきた仲宗根くん。慣れない環境のなか、点字を必死に覚え、ようやく落ち着いたと思ったころに、今度は弱視教育という新たな環境に挑まなければならなかった。

 それでも彼は、何度も立ち止まりながら、自分のペースで前へと進んでいた。その姿を、私は何度も見守ってきた。

「ありがとう、仲宗根くん」

 そう言いながら、私は彼の手にそっと触れた。そのぬくもりを感じながら、心の中では、大きな拍手を何度も何度も送っていた。


 私は教室全体をそっと見渡した。そこにはこの一年を共に歩んできた証のような温もりがあった。

 弱視の子たちは、見えにくさを受け入れながらも、自分の目で確かめようとする努力を怠らなかった。全盲の子たちは、手で感じ、耳で聞き、心で学ぶことの喜びを知っていった。誰ひとり同じではないこの教室で、全員がそれぞれの方法で成長してきた。困難を前に立ち止まりそうになりながらも、支え合い、信じ合い、一歩ずつ前へ進んできた日々。

 私は静かに息を整えると、教室のみんなに向けて、心を込めて言葉を紡いだ。

「みんな、本当にありがとう。この一年間、みんなと一緒に過ごせたことは、先生の人生の中で何よりも大切な宝物です。みんなが笑ったこと、悩んだこと、頑張ったこと、そのすべてをそばで見ていられたことが、先生にとって本当に幸せでした。これからも、自分を信じて、自分らしく、まっすぐ進んでいってください」

 しんと静まり返った教室に、ひとつの小さな拍手が響いた。ゆかりさんが、目に涙を浮かべながら「石川先生、とても楽しかったです」とつぶやき、小さく手を叩いていた。その拍手が、次第に教室全体へと広がっていく。静かな音の重なりが、やがて大きな感謝の響きとなって教室を包み込んだ。

 拍手の音に混じって、どこからかすすり泣く声が聞こえはじめたころ……内間くんが、そっと席を立った。

 胸に何かを大切そうに抱えたまま、ゆっくりと私のもとへ歩み寄ってくる。そして、その小さな腕をすっと伸ばし、差し出してくれたのは、のりで丁寧に綴じられた十枚ほどの紙束だった。

表紙には、青いクレヨンで大きく「石川先生ありがとう」と力強く書かれていた。

 そっとページをめくると、そこにはクラス全員からの「ありがとう」のメッセージが、点字でびっしりと綴られている。

 一枚一枚の用紙の下には、それぞれの生徒たちが鉛筆で書いた、自分の名前が丁寧に漢字で添えられていた。

「石川先生がいてくれたから、僕たちはたくさんのことを学べました。僕は、ひらがなもカタカナも、自分の名前も、漢字で書けるようになったよ。それが、すごくうれしくて。この表紙の字も、僕が書いたんだ」

 彼の声は少し震えていた。でも、その一言一言には、心からの想いが込められていた。

 その言葉に、まわりの生徒たちもそっと頷き、目に涙を浮かべながら、静かに、あたたかな笑顔を交わしていた。

 私の胸には、言葉にならない感情が押し寄せてきた。彼らと過ごしたこの教室が、どれほどかけがえのない時間であったかを、今さらのように噛み締める。

 私は目頭の熱さをこらえながら、ゆっくりと背を向けた。振り返ってしまえば、あふれてしまいそうだったから。教室のドアをくぐる直前、私は静かに深呼吸をした。

 ありがとう。この教室で出会えたすべての瞬間に。そして、これからの生徒たちの未来に。

 胸に新たな希望を灯しながら、私は教室を後にした。

 春の光の中へと歩き出すその背中に、あたたかな拍手が、いつまでも、いつまでも響いていた。


『高橋先生の情熱をいつまでも忘れないように胸に秘めて』

『高橋先生が夢見た、視覚障害を持つ生徒たちが希望を持って生きられる未来』

 私も先生のように、生徒たちの未来を照らす光になりたい。来年、再来年、生徒たち一人一人の可能性を信じ、彼らが自分らしく生きられるよう、力を尽くして寄り添っていく。そして、生徒たちと共に、喜びや悲しみを分かち合いながら、未来へと歩んでいこう。


戦前の沖縄で、視覚障害者の教育に生涯を捧げた高橋福治。自らも全盲でありながら、沖縄の地に光を灯した蒙教育の父。

「あっちこっち訪ね歩いてね。盲人に教育をと訴えてね。根気よく、あの手この手で行きましてね、お百度を踏んでですよ」





あとがき

 本作には、沖縄に実在する盲学校や福祉施設、また、高橋福治氏をはじめとする実在の人物や出来事を一部取り上げています。

 特に高橋氏に関する描写は、当時の記録や証言をもとに、できる限り史実に即して描きました。

 一方で、物語に登場するその他の人物や会話は、筆者の創作および脚色によるものです。

 本作は、史実を忠実に再現することを目的としたものではなく、フィクションとして構成された小説であることをご理解いただければ幸いです。

 実在の人物や団体に対しては、深い敬意をもって描かせていただきました。



<主な参考文献>

1.赤座憲久・山城見信『デイゴの花かげ――盲目の先達・高橋福治』

(こみね創作児童文学)

2.『沖縄県立沖縄盲学校・創立60周年記念誌』

3.行田稔彦『摩文仁の丘に立ち:「生かされた」人びとの告白』

(わたしの沖縄戦4、新日本出版社、2014年)

4.平和祈念公園ガイドブック(沖縄県平和祈念資料館発行)

5.アンネ・フランク『アンネの日記』【DBD版】

6.Wikipedia「沖縄県立盲聾唖学校」

  https://ja.wikipedia.org/wiki/沖縄県立盲聾唖学校




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