ロックは多様性のかたまりなのだ【前篇】
前回にて、ロックがいかに多様なものであるかを語らせていただいた。だがあれはほんのわずかなごく一部の片鱗にすぎぬ。すべてを語るにはあまりにも時間がなさすぎる。それほどにロックは多様性に満ちており、その規模は広大なのである。
さて昨今では、Twitterなどでしきりに多様性が議論されている。多様性というは読んで字のごとく、「いろいろなものがあっていい」ということであろう。──じつに、よいことである。
しかしながら、現実にはそうではないらしい。字に書かれていない意味があるらしく、多様性を謳いながら特定のものを排除する方向へと向かっている論を、よく耳にするのである。
その際たるものが、『配慮』であろう。多様な属性が存在するのであるから、それらに配慮して傷つけないようにすべく、過激な表現は控えろ、抑えろという、いわゆる規制論である。そうした規制すべき対象であるとされる表現はエロビデオであるとかグロゴア写真であるとか露出の高いイラストであるとかが論ぜられているが──
ロックもまた、例外ではないのである。此度は多様性と規制について述べてゆくとする。
振り返れば、ロックの歴史は規制との戦いであったとも云える。ロックが誕生した'50年代にはすでにはじまっていた。当時のスーパースターであった『エルヴィス=プレスリー』御大が、「歌いながら腰を振って踊るのが卑猥である、猥褻だ!」と、騒ぎになっていたのである。──この抗議は通り、テレビで放映する際はエルヴィス御大の腰から上しか映してはならぬことになり、フロリダなど規制のつよい州にてはそもそも出入り禁止とされるまでに至ったのである。
アメリカは自由の國の印象がつよく、こうしたことについて非常にゆるそうであるが、しかしそれは我々が'80年代以降の産まれであるがための認識である。当時のアメリカというものは今では考えられぬほど保守的であり、まるで本邦の田舎の頭のふるい老人のごとく、頑迷にあった。「男たるもの健康的なスポーツに打ち込むべきであり、ロックなどという不健康な、しかももとは黒人なぞがやっていた音楽にハマるべきではない」というが、当時の大人たちの意見にあった。
さて女性に関してはと云うと──これがまた考えがふるい。「女たるものお淑やかであるべきで、家の中に入っているべきだ、外ではたらくなど下品である。スポーツなぞもってのほか。ロックだと?──この品性下劣でいかがわしい破廉恥なふしだら娘め!」と、昭和本邦も真っ青な考えが一般常識としてまかり通っていた時代なのである。このあたりは、ディオの『ロックンロールチルドレン』のPVを観てみれば、そうしたものの片鱗を感じ取ることができよう。
まあこのような社会であったがため、'60年代に入ると不健康なヒッピーや黒人の地位向上や抑圧から女性を解放するウーマンリブ運動がはじまってゆくのであるが。──これらの社会運動と、ロックが密接に関係してゆき、それ故にロックは反抗の象徴となるのである。
さて'60年代と述べたが、この時代は英國勢の活躍がめざましい時期である。大西洋を渡ったロックがアメリカへ逆上陸を果たした時代だ。英國流の進化を遂げたこの新しいロックは、古きよき時代の匂いを残すアメリカロックを駆逐するまでに至る。──故にこれを、『英國の侵略』と呼ぶ。
この英國勢の中でもっとも有名なものは、なんと云っても『ビートルズ』と云わざるを得ない。それほどに彼らが与えた影響は大きすぎる。──それはロックのみにとどまらず、アメリカを揺るがし動かす社会的な規模となっていったのであるから。
当時、アメリカはベトナムで戦争をやっており、それは長期化していた。これに対する反戦運動というものが起きていたが、先に述べた社会運動はこれと合流、或いは同時進行にて動くこととなった。──そしてロックは合流の道をとった。ビートルズの一員である『ジョン=レノン』がその筆頭と呼べるであろう。彼のつくりだした名曲『イマジン』は、フラワーデモの映像とともに、未だ反戦平和の象徴の地位を築いて揺るがぬ。
しかしながら、ロックは反抗の音楽である。必ずしも、皆が皆この反戦平和運動に右へ倣えと賛同したわけではなかった。
ここでビートルズの祖國たる英國へ話を移す。当時の英國というものは、どん底にあった。──にわかには信じられぬやもしれぬが、これは事実なのである。
どうしても日本に暮らす我々にとって'60年代というものは、敗戦で焼け野が原になったところから立ち直り、復興し、戦争をする前以上に成長を遂げてゆく真っ只中にあったがために、当時の英國の様子を想像するのがむずかしい。なにせ英國は戦争に勝った側なのであるから、アメリカみたいになっている印象がつよいのはしかたがない。
しかし英國も、本邦と同じように戦争で大打撃を被っていたのである。二次大戦勃発時には『陽の沈まぬ帝國』と呼ばれ、世界一の大艦隊を保有していた海上帝國にあったが、戦時中に世界一の座を手放すに至った。──これは開戦時2位であったアメリカが無敵の日本海軍に対抗すべく艦艇をばすばす建造していったも理由にあるが、英國が戦争で損耗したも大きい。大英帝國の象徴であった戦艦フッドはナチスドイツが世界に誇る戦艦ビスマルクによって沈められ、また同じく國民に親しまれた戦艦レパルスは、不沈艦と呼ばれたプリンスオブウェールズとともに日本軍雷撃隊によりマレー半島クヮンタン沖に沈められるに至ったのである。
このような有様であったから、一時期英國は存亡の危機にまで立たされていた。太平洋方面の艦隊は壊滅レヴェルの損害を受けてそちら方面で活動できなくなるに至り、また本國もドイツ空軍により首都ロンドンを空襲されるまでに至ったのであるから。──並の國であれば、この時点で敗戦であった。
そんな中を英國紳士は各員がその義務を尽くし、同盟國の協力のもとに持ちこたえて戦争を勝利のもとに終えるに至ったのであるが──そのような状況にあったがため、終戦時にはボドボド……否、ボロボロにあった。陽の沈まぬ帝國と呼ばれるに至ったその広大なる植民地……いや海外領土は、そのことごとくを維持することが不可能となり、独立というかたちにて手放すに至ったのである。
こうなると、英國経済は停滞してしまう。もともと國そのものが植民地からの上がりで喰っているようなものであったし、世界恐慌を乗り切ったのも海外領土と本國とで経済をまわす政策であったのだから、その海外領土を失っては、経済成長なぞ望むべくもない。──なまじ勝ってしまったのがまた悪い。敗戦から立ちあがろうという枢軸側のような気概も起こらず、「なんで勝ったのにこんなに生活が苦しいんだ」という思いが國民の間には蔓延していた。
加え、英國の構造は極めて安定した体制が築かれており、それ故に急激な成長というものも望めないでいた。'70年代に入っても、これは変わらぬままにあった。──ばかりか、'70年代中期には世界的なオイルショックにてますます停滞してゆくのである。
そのような状況であったから、当時の英國國民、とくに労働者階級の若者たちは、大西洋の向こう側にて行われている反戦平和イベントに参加している同世代の者たちを、冷ややかな──これ以上ないほどに冷めきった眼で見つめていたのである。「あんなものは、余裕がある金持ちの娯楽だ」と。
ずいぶんとひどいことを云う──と、思われた読者諸兄もおられるやもしれぬが、今いち度自分に置き換えて考えれば理解できるであろうやもしれぬ。とくに経済規模がちいさな地方に住んでいる、裕福とは呼べぬ生活を送っている人ならば。──必死ではたらいても暮らしは豊かにならぬというに、Twitter上では都市圏に住んでいる者らが、最近まで名前も知らなかった遠い外國の人たちのために反戦平和デモをやり、さらに己らに向けて寄附など募れば、「は? なに云よんぞくそぼけが、んなことよりわしら地方民のために金よこせやオラコラ」と、口には出さぬまでも頭をよぎった読者諸兄もおられることであろう。──それと同じようなものである。
そんな中で、新たなロックが形成されてゆく。後の'80年代にヘヴィメタルを産み出す始祖となる『ブラックサバス』や『ジューダスプリースト』は、'70年代英國バーミンガムにて結成された。ここは労働者街である。先に述べたどん底経済を、肌で感じまくっていた地域である。サバスのリーダーであったオジー=オズボーンなど、バンド加入前は泥棒で生計を立てていたほどの生活困窮者にあった。
またこのような英國どん底期には、ビートルズやストーンズの成功の影でひっそりと活動しているバンドも数多くいた。そのようなバンドたちの活動の場は広大な野外フェス会場や武道館のような大ホールでは断じてなく、ちいさな飲食店やパブと呼ばれる大衆酒場のステージであった。──故にこれらはパブ・ロックと呼ばれる。
このパブロック、音楽性にての区分ではなく、喩えるなら今で云うヴィジュアルロックのようにひと口にそれも云っても中身の音楽性は多岐に渡る、極めて大きな乱暴な区分にある。ブルーズ、サイケデリック、モッズ……そのような中に、ガレージロックというものがある。
読んで字のごとく、ガレージつまり家の車庫にてつくられたような、手作り感あふれるロックである。──これが、後の英國パンクのもととなったひとつである。新たなロックの萌芽が、この頃かたちづくられていたのである。
パンクの誕生については、すこしばかり遡って説明せねばならぬ。サイケデリックロックなどの影響を受けた一派らが築いたハードロックの隆盛から語らねば流れがよく理解できぬからだ。──'70年代前期が、その隆盛期である。このジャンルのレジェンドと云えるレッドツェッペリンや、前回述べたディープパープルがこの代表格と云えよう。今現在にても絶大な人気を誇るKISS、エアロスミス、そしてQUEENもこれらの一派である。
このうちQUEENが、英國に於けるパンクの隆盛に影響を与えている。もともとは正統派のハードロックをやっていたQUEENにあるが、その途上にて『ロックオペラ』と呼ばれる荘厳な音楽をやるようになった。これはロックに大きな影響を与え、プログレッシヴロックなど新たな進化を及ぼすに至ったのであるが──
先に述べたように、当時の英國はどん底にあった。とくに労働者階級にては。そのような彼らにとって、ロックとは数すくない娯楽のひとつであった。仕事の終わりに寄った酒場で聴くなり、或いは自分らでやってみるなり。
しかしながらロックオペラやプログレッシヴロックは、労働者階級のみならず中産階級や上流階級にまで浸透した。QUEENなぞメンバーは全員大学出にて、博士号まで取っているインテリ層にあり、またプログレッシヴロックの主なファン層は大学生にあった。
故にここで、不満が生じた。「俺たちのロックだぞ」「あいつらは俺たちからロックまで取り上げようというのか」と。──些か乱暴な言葉に聞こえるやもしれぬが、しかしロックが高度化していたのもまた事実。極端な話、コードをみっつ覚えればやすいギター1本あればできる音楽であったハズのロックは、いつしか高度な音楽技術を要するものとなっていたのであるから。
そこで、ガレージロックである。構造そのものは簡単で、車庫があればつくれる音楽。ここからパンクが派生していった。はじめはアメリカから産まれたパンクはやがて──ヴィヴィアン=ウェストウッドやその夫マルコム=マクラーレンらの手によって──英國にても誕生し、そして世界を席巻してゆくこととなる。
英國パンクをひと口で説明すれば、それは『怒り』である。積もりに積もった不満がくすぶり、それは熱を生じ、灼熱の溶岩のごとくに溜まっていった。それが、さながらセントヘレンス山の大噴火のごとき怒りの大爆発となって具現化したのである。
それ故にパンクは──過激であった。代表格たる『セックスピストルズ』などまさしくその体現者にあり、バンド名から演奏からライヴ・パフォーマンスからなにもかもが過激で、暴力的で、頽廃的で、反社会的であった。──まこと、反抗の音楽! 真正面から英國の象徴たる女王陛下へ中指を突き立て、愚弄したのであるから。不敬罪もなんのそのである。
ピストルズそのものはたしかにマルコム=マクラーレンのプロデュースによる、いわゆる『つくられたバンド』にはあったが、しかし尖りまくっていたのは動かしようのない事実である。──すくなくともメンバーのひとりである『シド=ビシャス』に関しては。生放送で放送禁止用語をこれでもかと吐きまくり、ライヴではベースにて客をなぐるという、後のハードコアパンクで見られる光景はすでにこの頃には彼らによってはじまっていたのである。
しかしここまで尖っていたのであるから、当然ながら規制を受けまくった。代表作『ゴッドセイヴザクイーン』は王室を愚弄しまくった曲であったがために放送禁止処置を取られた。これは英國のみならず、本邦を含む諸外國にまで及んでいた。そればかりか人気ランキング発表の際にその欄を空白にて記載され、また、意図的に1位にランクインさせない措置が取られた。故にこの曲は最高ランキングが2位にて止まっている。
ピストルズへの規制はそうした民間企業及びその集合体のみにとどまらず、公的機関からも行われていた。その中でもとくに驚くべきは、國内治安維持機関であるМI-5からマークされていたというものであろう。──当時の資料に『'70年代後期に於ける音楽による破壊活動分子』なる膨大なる記録群があるが、じつにその9割に至るまでがピストルズに関するものであったという。ピストルズの活動期間そのものは極めてみじかいが、その影響力はいかに甚大であったかが窺い知れるというものである。
そう、その影響力は甚大であった。パンクは一大ムーヴメントと化した。その勢いたるや、盤石の牙城を築いていたハードロックを過去の遺物、『オールドウェイブ』とし、牙城を突き崩すはおろか駆逐してしまうまでに至ったのであるから。故に当時のパンクは、『ニューウェイブ』とも呼ばれる。先に述べたパンク仕掛人のひとりであるヴィヴィアン=ウェストウッドが、ニューウェイブファッションを世に出して一躍トップに躍り出たは、まさにこの頃であった。
このムーヴメントが英國を停滞のどん底から這い上がらせる原動力のひとつとなったは事実にあろう。この頃から英國は立ち直りをみせ、'80年代のサッチャー政権に於ける景気回復へとつながってゆくのであるから。──しかしそれには、もうすこしばかりの時を要する。
このすこしばかりの時にパンクは──及びロックは、さらなる進化への道を歩みはじめていた。そのうちのひとつが、前回述べたオイパンクである。極右と勘違いされて火炎瓶を投げ込まれるなどの迫害を受けたことはすでに述べたが──そのようなことが起きた経緯、要因について述べてゆこう。
前回、オイパンクとともにR.A.R.(Rock Against Racism)について述べたが、これは直訳すると、「差別に反対するロック」という意味である。これらの代表格は、なんと云っても『クラッシュ』であろう。もともとはピストルズに憧れて彼らと同じ方向性をめざしたバンドにあったが、たちまちのうちに人気を博してピストルズと並び評されるバンドとなった。
しかしながら、クラッシュがピストルズと決定的に異なるところがあった。それは政治的思想を明確にしたところである。
なるほど、ピストルズはたしかにアナーキーなバンドではあった。しかしながら彼らは云うなれば世の中のすべてに反抗する──つまりは「全方位に喧嘩を売る」バンドであったがため、必ずしも政治的立ち位置は定まっていなかった。右翼、左翼ともに熱心なファンがおり、それと同じくらいアンチがいる。──彼らはそうしたバンドであった。
だがクラッシュは徹底した左翼側にあり、國家権力や人種差別と戦う側に身を置いていた。これは当時の英國は、まだまだ人種差別が残っており、また景気が悪い時代にあったがため、白人至上主義や移民排斥を掲げる極右政党が大手を振って跋扈していた、そういう時代であるということを念頭に置いておかねばなるまい。──なにせ地区によっては警官など公職についている者も支持者で、堂々と差別や迫害を行っていたりしたのであるから。
そうした社会に、クラッシュは反抗したのである。この勇気ある行いに賛同する者らが多数産まれ、R.A.R.ムーヴメントが発生した。これはジャンルの垣根を超え、パンクのみならず他のロック──果てはレゲエやスカといった連中も巻き込んだ巨大なうねりとなった。パンク、及びロックは反権力という印象は、この頃かたちづくられたものである。
とは申せ、このR.A.R.ムーヴメントにも、前回述べたように支持者による決めつけにて行われたオイパンクへの迫害、襲撃といった影の部分があることもわすれてはならない。
そのような中でクラッシュは進化してゆく。R.A.R.ムーヴメントにて共演したレゲエなどを取り入れた、唯一無二のロックを創造していった。──バンドそのものは'80年代に解散し、2度とふたたび結成されることはなかったが、その社会的思想はU2などに引き継がれてゆくこととなる。
くり返しになるが、このR.A.R.に対抗するかたちとなってオイパンクからR.A.C.(Rock Against Communism)が派生してゆき、またさらなる過激さを増したハードコアパンクが大西洋の向こう側にて誕生するのであるが──しかし同時に、新たなるロックが産まれようとしていた。
ひとつは、いち度はオールドウェイブとして駆逐されながらもさらなる進化を遂げ、パワーアップしたハードロック──後に我らこそニューウェイブとパンク勢を駆逐することになるヘヴィメタル勢にある。
そしてもうひとつが──過激さはもちろんのこと、低俗さ、下劣さ、下品さ、いかがわしさといったロックの暗部を煮詰めて凝縮したを具現化させたようなロック。──『ショック・ロック』であった。
ショックロックをひと口に語るはむずかしい。その源流は'60年代の『ドアーズ』にまで遡ることができるからだ。ライヴ中に暴動を煽るなど挑発的な言動を行って乱闘騒ぎを起こして逮捕され、またいけないおくすりをやることを正当化したようにもとれる歌詞、などなど、たいへん不道徳なバンドにあった。
そのドアーズにつよい影響を受けたが『イギー=ポップ』にあった。ちんぼをほり出してしごいたり、或いは全裸フルチンでライヴをしたりと、過激なパフォーマンスを行っていた、『淫力魔人』の異名を誇る伝説の男である。
これらはショックロックを名乗ってはいなかったが、後に遡ってショックロックの一員と区分されることがままある。──すくなくとも広い区分にては。彼らの要素は確実に引き継がれていたからだ。
これらの要素は、後のハードコアパンク勢もやっていることではあるが、こうしたことを前面に押し出し、追求していったものがショックロックである。
このショックロック勢で有名なものが『プラズマティックス』であり、そしてなんと云っても、『メントーズ』の名を避けて通ることはできぬ。ショックロックの代名詞的存在にあり、せまい区分にては彼らのようなロックをショックロックとするほどになっているからだ。
しかしながらこれらの区分もまた、たとえばヴィジュアルロックのような大きな括りである。プラズマティックスはヘヴィメタル要素も持ってはいるがその音楽スタイルはむしろハードコアパンクであり、またメントーズはハードロック/ヘヴィメタルの流れを汲んでいる。このようにショックロックとひと口に云っても、その音楽性は多岐に渡っている。
むしろ歌詞やライヴパフォーマンスの面で、ショックロックは区分される。プラズマティックスのヴォーカルであるウェンディ=O=ウィリアムスは女性なのであるが、当時はおろか今現在にても奇抜であるとされる格好をしていたことで知られている。──たいへん露出度が高く、たとえば乳首にテープを貼っただけの格好であるとか、下半身はパンイチであるとか、極めて性的に刺激的であった。
メントーズに関しても、こうした性的な要素が前面に押し出されている。──と云うよりも過激な性的表現の中にバンドがあるようなものである。ジャケからしてブッ飛んでいる。女性を閉じ込めた檻の上でメンバーがはしゃいでいたり、街中で性奴隷かのごとき女性を従えていたりと、まこと世の良識というものに真っ向から中指を突き立て──否、ちんぼを突き立てたバンドなのである。
メントーズの結成は'70年代中期にて、ここから'80年代中期にかけてが第1期黄金時代にある。時代背景を考えれば、前述のプラズマティックスと同じく世の中に与えた衝撃たるや、今現在の比ではなかろう。事実、彼らは全米の子を持つ親たちを、とくに母親を恐怖の渦の中にたたき込んだ。いわゆるP.T.A.的なものに槍玉に上げられ、抗議活動が巻き起こったほどだ。──無論、そんなものを気にするようなメントーズではなかったのであるが。
気にするばかりか、全面対決の姿勢をみせた。この頃の米國にては悪名高きP.M.R.C.(Parent Music Resause Center)が結成された。このP.M.R.C.は青少年に対し悪影響を与えるとされた音楽の監視、及び規制を行うという組織にあり──云ってしまえば検閲団体である。米國の法がどうなっているかは知らないが、本邦にては完全に憲法違反である。
昨今は「憲法の対象は國家であり民間組織は対象にならない」などと口から糞をたれ流している莫迦の親から産まれた莫迦の子がみられるが、しかしこのP.M.R.C.は、創設者ティッパー=ゴアをはじめとした政治家や官僚といった國の中枢部にいる者らの嫁や姉妹、或いは娘らによってつくられたのであるから、そのような詭弁は通じぬ。彼女らは確実に、夫たちを動かしたのであるから。
このP.M.R.C.が行った規制対象となった──つまりは槍玉に上げられた者らには、プリンスらメジャー連中、ブラックサバスやジューダスプリーストといったメタル始祖たち、W.A.S.P.ら新進気鋭のメタルバンド、果てはシーナイーストンやシンディローパーといったポップス歌手までもに及んだのである。
そしてメントーズにも。この規制に、彼らは真っ向から徹底抗戦の構えをみせた。──なにせP.M.R.C.の開いた公聴会に呼ばれもせぬのに押しかけて、その場にて『ゴールデンシャワー』という、題名だけで内容がおおよそ想像のつくお下品極まる曲を演奏してのけたのであるから、もう最高にロックである。
結果としてはP.M.R.C.の規制は敷かれ、不適切とされた作品には【PARENTAL ADVISORY】と書かれたシールが貼られ、それらはタワーレコードやウォルマートという大手販売店で売ることができなくなってしまった。その対象はショックロックのみならず、デスメタルやヒップホップといった広い範囲に及んでいる。
しかしながら、ロックは規制に反抗し続けている。ハードコアパンクより派生したグラインドコア、その一派にポルノグラインドというものがあるが、それらのバンドの中には煽情的なジャケの胸部や股間を隠すのに敢えて【PARENTAL ADVISORY】のシールを使っていたりするのであるから。
ロックの戦いは続く。今現在にても。