第四章
中学三年の十二月。放課後になり、さて今日も塾に行くかと荷物をまとめていると、竹内が話しかけてきた。陸上部以外で仲良くしてるクラスメートだ。
「明智、今日ゲームしようぜ」
「ゲーム?」
「おう、田中と瀬川と帰ったらやるんだ」
最近ハマっててよく会話に出てくる対戦ゲームのことか。聞いてて面白そうだとは思うけどルールとか何も知らない。
「悪い、今日塾だから」
「さすがだなー、たまにはサボりたいとか思わねーの?つか思うだろ?」
「いやいや…」
「えー、一回も?一回ぐらいあるだろ?」
何故か決めつけられる。否定するのも面倒だし真面目って言われるのも癪なのでそのまま乗っかる。
「そりゃあ、あるけど」
「だよな!?まあ今の時期はしゃあないよな。また今度やろうぜ」
「おう」
竹内は比較的すんなり席を離れた。ぱっと右の方を見て軽く人を探す。目当ての人物はもう帰ってそうだった。少し残念に思いながら教室を出る。
明智陽平は頭がいい。
同じ学年の誰もがそう思ってるらしかった。学年順位が張り出されるわけでもないのに、いつの間にかテスト結果が知れ渡ってる状況。まあそんなことは別にどうでもよくて、俺はただ目標のために勉強してるだけだ。塾に行くから勉強するんじゃない、勉強するために塾に行く。友達と遊ぶのももちろん楽しくて好きだけど、勉強を疎かにする理由にはならない。
そう、だから俺は間違ってない。
言い聞かせるように考えながら塾へ急いだ。
終業式。学校は午前中で終わり、塾は夕方から始まる。昨日、塾の時間までどこで勉強しようか悩み、二個下の妹が家で遊ぶと言うので学校に決めた俺は、教室を出ていく人たちを眺めていた。「じゃあねーまた来年」「よいお年をー」などと挨拶してる女子をボーッと見る。教室を出て行き、見えなくなってから鞄に手を伸ばした。
「明智、今日ゲームしようぜ」
竹内が話しかけてきた。田中と瀬川もいる。前にも言ってたやつか。決まり文句を口にする。
「悪い、今日塾だから」
「また塾かよー。え、今から?」
「いや、夕方からだけどそれま...」
「じゃあいいじゃん、夕方まで遊ぼうぜ」
俺の言葉を遮って竹内が言った。人の話は最後まで聞けよ、と若干イラっとしながら、
「それまで勉強するから」
と告げた。ちょっとキツイ言い方になってしまったが、構わず鞄から勉強道具を出して早く帰れオーラを出す。
「なんだよ、付き合い悪いな」
「そうそう、塾で勉強するならいいじゃん別に」
田中と瀬川が言った。続いて竹内も口を開いた。
「ガリ勉で面白くないやつだな」
さらに「行こうぜ」と他二人に言って、三人は帰って行った。何とでも言えばいい。強がり、がむしゃらに勉強を始めた。
ちょっと骨のある問題を解いてペンを置いた。見回すと、廊下には人がいるけど教室には誰もいなかった。席を立ち、扉を閉める。再び席に座って、大きくため息を吐いた。
ガリ勉で面白くない、か。勉強するってだけで何でそこまで言われないといけないんだろう。思い出すだけでイライラしてきた。ダメだ。忘れろ。集中だ集中。
ペンを持ち上げ、問題に取り掛かろうとした瞬間。
ガラガラと扉の開く音がした。反射的に顔を向ける。
え、日向...?
俯き加減で日向葵が立っていた。上げた顔が、ほっとした表情から驚きに変わる。目が合う。胸が高鳴る。ペンを握る手を軽く上げて「...よう」と挨拶してみた。
「あ、傘、忘れちゃって」
日向はそう言うと、教室に一歩入って後ろ手でドアを閉めた。一番手前の列を曲がっていくのを見届けてから机の上に視線を戻す。
よりによって、こんな時に日向が来るなんて。最悪だ。こういうのは、もっとなんか...あるだろ?神様よ?
別に信仰してるわけでもないのに、こういう時だけ引っ張り出して八つ当たりする。とは言え状況を変えることはできないので、日向が教室を出るまで無心で勉強することにする。
「何、してるの?」
驚くことに日向が話しかけてきた。ほんと神様...!と八つ当たりしてから「勉強」と端的に答える。
放課後、二人きりの教室。本当はもっといい雰囲気になるシチュエーションのはずなのに。本当はそうなりたいのに。
「そっか…さすがだね」
「別に。ガリ勉で面白くないだろ」
自嘲。そして自己嫌悪。たまたま傘を取りにきた日向にそんなこと言ったって困らせるだけだろ。せっかく話しかけてくれたのに、さっきから素っ気ないし。もう終わりだ。悪い何でもないって言ってそれからーー
「そんなことない!」
日向の大きな声に驚いて振り向く。俯いたまま「そんなこと、思ってない!私は!」と言った。驚きすぎて頭が真っ白になる。しばしの沈黙。日向が口を開く。
「ガリ勉ってつまり、勉強に一所懸命な人ってことだよね?何かに一所懸命になれるってすごいことだと思う」
そう言って、出口に向かいながら「だから勉強頑張ってね。ごめんね邪魔しちゃって」と捲したてるように言った。勢いよくドアを開閉し、走り去る音が遠ざかっていく。
その音が聞こえなくなるまで、俺は呆然としていた。それからゆっくり日向の言葉を噛み締める。
そんなこと思ってない、ガリ勉は勉強に一所懸命ってこと、か。
一見短所に聞こえる言葉も、見方を変えれば長所になる。日向の言葉は俺に衝撃を与えた。そうか、そういう考え方もあるのか。勉強に一所懸命。何かに一所懸命になれるのはすごいこと。
いつまでも続くと思ってた大雨が通り雨に変わった。心が晴れやかになる。急に腹が減ってきた。そういえばまだ何も食べていない。家から持ってきた栄養食品を鞄から取り出してかじった。
勉強頑張ってね、か。
頬が緩むのを自覚しながら「よしっ」と気合いを入れ直してペンを持ち上げた。