『恋のほのお』後書き
一
ギターが弾けたなら小説を書いてみようとは思わなかった。
しかし哀しいかな、いくら60年代の音楽を世界を問わずに愛聴したところで、遂にFもGもモノに出来なかったのが私という人間なのよ。
平成30年の春から令和3年の正月まで『小説家になろう』と後には『ノベルアップ』で書き続けた『恋のほのお』は、ベンチャーズの『パイプライン』とヤードバーズ『フォー・ユア・ラブ』以外弾けなかった(今はどちらも無理)男が、友人から「書け」と言ってもらったことに端を欲する。きっかけをもらうことってありがたいことだよね。
さて、物語の内容は後回しにして、とりあえあず各章のタイトルの元となった楽曲の紹介から始めましょう。
二
※左から(章(曲)のタイトル/アーティスト名/発表年度/該当する章の回数)となります
1『あなたならどうする』(いしだあゆみ/1970/第1回)
『ブルーライト・ヨコハマ』の次にヒットした、いしだあゆみのキャリアを代表する名曲。シングルジャケットが良い。本当は『ヴィーナス』をタイトルにしたかったが、主人公のどん底感が薄らいでしまうのでコチラに。ていうか、いしだあゆみが好きなの(本当は奥村チヨのが好き)。
2『ユー・メイク・ミー・フィー・ル・ソー・グッド』(ザ・バッキンガムズ/1966/第2回~4回)
シカゴのバンド、ザ・バッキンガムズが放った全米1位の大ヒット曲にして日本でもヒットしたブラス・ロックの先駆けである『カインド・オブ・ア・ドラグ』のB面曲。1964年にイギリスのザ・ゾンビーズが発表した曲のカバー。ゾンビーズのクリス・ホワイトがこの曲を19で作曲したというのが不思議なほどに寛いだメロディー。無垢なバッキンガムズのバージョン、ため息ボイスのコリン・ブランストンによる女たらしスタイルのゾンビーズのバージョン、両方とも良い。
3『レット・イット・ビー』(ザ・ビートルズ/1970/第5回)
説明も野暮な最末期ビートルズの名曲。音楽番組『シンディグ!』(『ハラバルー!』に比べてダンサーがどうもダメなのじゃ)のハウスバンドにもいたビリー・プレストンもキーボードで参加。彼のアフロはまだ巨大ではない。
映画『レット・イット・ビー』は屋上ライブまでがやっぱり苦痛。
4『青い影』(プロコル・ハルム/1967/第6回、7回)
バッハをモチーフにしたバロック・ロック。当時から日本でも評判が良かったけれど、50年後も親しまれているのは邦題の妙にあり。本当は船酔いの歌。メンバーはキンクスのデイヴィス(もちろん弟)と並んでこの年の夏のロンドンで一番モテた。メンバーが店に到着した途端、どこでも従業員が『青い影』を流し、男も女も踊りをやめて歓声をもって出迎えた。いい話よねえ。
5『明日に架ける橋』(サイモンとガーファンクル/1970/第8回~第10回)
グラミー賞までとってしまったサイモンとガーファンクルの代表曲。全米1位。酔っぱらってしまうとたまにガーファンクルがBTTFのドクに見えてしまう私の視力はアレです。
6『花のサンフランシスコ』(スコット・マッケンジー/1967/第11回~14回)
フラワー・ムーヴメントを代表する愛と平和の代名詞的名曲。作曲者であるママス&パパスのリーダー、ジョン・フィリップスのギターが格好いい。発足したばかりのオリコンでも8位を記録しているけど、オリコンチャートがあと半年早くスタートしていたら1位だったかもしれないくらい日本でもヒットし、『夢のカリフォルニア』『カリフォルニアの青い空』と並び日本人が西海岸を想起する三大名曲となった。
7『ミセス・ロビンソン』(サイモンとガーファンクル/1968/第15回、16回)
これまたサイモンとガーファンクル。これまたグラミー賞。『卒業』は苦手な映画だけどこの曲のじりじりしたギターは圧巻。野球を知らない人にとってはジョー・ディマジオは『老人と海』、そして『ミセス・ロビンソン』に出てくる人。日本では『サウンド・オブ・サイレンス』との豪華な両A面で発売されオリコン1位。『サウンド・オブ・サイレンス』は実は日本では2年越しのヒットだった。
当時の日本のバンドにとって『ミセス・ロビンソン』のカバーは鬼門で、殆どが上手く消化できずにラテン風アレンジになってしまう。あれは謎。クラウンレコードの秘宝、ザ・レンジャーズ版の猥歌めいた『ミセス・ロビンソン』をみんな、聞くんだね。
8『すてきなバレリ』(ザ・モンキーズ/1968/第17回、18回)
モンキーズの最後の大ヒット曲にして、作者がすべてのポップスの中で一番好きな曲。なので、葬式ではこれを流す予定だけど自分で聴けないのが惜しい。同時代のアーティストにあまりカバーされていないのも悲しい。アメリカでは3位と最後の大ヒットを記録しミリオンセラー。日本でもオリコン4位、25万枚の大ヒットをしたけどこの年秋の来日公演では演奏されず。悲しい。
9『白い蝶のサンバ』(森山加代子/1970/第19回~21回)
60年安保の頃は坂本九とのコンビで国民的アイドルだった森山加代子が、しばらくの低迷期を経てからリリースしたカムバック・ヒット。破滅願望の歌詞の裏で、格好いいベース・ラインが堪能できる1970年を代表する名曲。
10『ヘルプ・ミー・ロンダ』(ザ・ビーチ・ボーイズ/1965/第22回~24回)
ビーチ・ボーイズ2枚目の全米1位シングル。でも、来日公演までしている割には当時の日本でビーチ・ボーイズは黙殺されたといってもいい。村上春樹や村上春樹ンとこの居候のワタナベが例外なのよ。初期の彼らの「クルマ! サーフィン! 女の子!」という中産階級の子弟の裕福な歌詞世界がまだ、日本の若者には馴染めなかったのかも。あとルックス。マイク・ラブはどう見てもアイドル面じゃないからね。
11『恋よ恋よ恋よ』(ザ・タックスマン/1968/第25回~27回)
京都、東山高校出身のビートルズ・フリークなバンド『ザ・タックスマン』のデビュー曲にして唯一のヒット曲(オリコン58位)。いいタイトルです。ディレクターから「これデビュー曲」とレコーディング当日に指示されて僅か数テイクで完成させられたトンデモエピソードが牧歌的。
ポルトガル生まれでベルギーで活躍した兄弟デュオ、ジェス&ジェイムスのカバー(こちらは64位)だけれども、ハッキリ言って原曲を軽く凌駕しています。凄いぞ、タックスマン。B面でニール・セダカをファズばりばりでカバーしてるのも凄いけど。
12『あの娘のレター』(ザ・ボックス・トップス/1967/第28回~31回)
南部出身のボックス・トップスによる1967年のメガ・ヒット。当時若干16歳だったアレックス・チルトンの黒人ばりのボーカルに世界中がぶっ飛んだ。後にジョー・コッカーがカバーしたけれども、こちらは個人的にはあまり好きではない。ジョー・コッカーって何をやっても過剰にコブシ効かせすぎなんよ。
13『君は何処へ』(ザ・ビートルズ/1965/第32回~36回)
ビートルズのポール・マッカートニー卿によるフォーク・ロックの傑作。この曲が入ったアルバム『ラバーソウル』の衝撃で、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンはサーフボードにワックス塗ることを止め、まだワックス塗り足りない他のメンバーとのすれ違いが始まる。内省的な歌詞が多い『ラバーソウル』の中でも特に内省的。
14『サニー』(ボビー・ヘブ/1966/第37回~39回)
世界中で最もカバーされた曲ランキングの首位を長年にわたって『イエスタデイ』と延々と争い続けているナンバー。ボビー・ヘブは知らなくてもメロディー自体は誰でも知っている。様々なバージョンの『サニー』を集めたトリビュート盤まである。欲しい。
日本では発売当時、『サニーは恋人』という邦題がついたこともありました。余計なことを。再発されたときにはジャケットにサイケな女の子のイラストがついてました。本当に余計なことを。シェールのカバー盤には何故か日産サニーB10の写真がプリントされてたり。ああ、もう!
15『太陽は泣いている』(いしだあゆみ/1968/第40回、41回)
デビューから鳴かず飛ばずだったいしだあゆみがようやく放った初ヒット。出だしのチェンバロでドーンと衝撃がはしる。原由子がカバーしたりピチカート・ファイブがサンプリングしたりする、いわゆる『和モノ』の代表格。翌年の『ブルーライト・ヨコハマ』へ向けての筒美京平といしだあゆみコンビの文体演習。
16『ミスター・マンデイ』(オリジナル・キャスト/1970/第42回~44回)
女性ボーカルを擁したカナダのバンド。アメリカでもこの曲は中ヒットしたけど、日本ではオリコン7位とそれ以上の大ヒット。1970年前後によくあった、ラジオ発の洋楽ヒットの横綱格。
17『はなれぼっち』(ザ・リンド&リンダース/1968/第45回~47回)
遺した楽曲以上に破天荒なエピソードの数々をもつ関西最大のバンドだったリンド&リンダースの数少ないヒット曲『夕陽よいそげ』のB面曲。歌詞は洟垂れ小僧のようなのに、いつしか情緒しかない異様な閉塞感に包まれてしまう危険な曲。グループサウンズの歌詞は基本、「セックスを許されない悶え」なんだけど、『はなれぼっち』の世界にはセックスそのものが存在しない。
ちなみにこのバンドの初代ベーシストの人は現在、南森町で飲食店をやっていて、入ろうとすると『頭が高い』という貼り紙にビビらされます。でも、餃子が美味しい(ブリしゃぶも美味しい)。
19『あなたのすべてを』(佐々木勉/1967/第48回~50回)
作曲家、佐々木勉が自作自演でヒットさせた。深夜放送からヒットしたというけど、曲自体もあたたかみのある割に深夜感しかない。夜中に聴く曲。
20『自由への讃歌』(ザ・ラスカルズ/1968/第51回~53回)
アイドル的な要素もあったR&Bバンド、ラスカルズがロバート・ケネディとキング牧師の暗殺にブチ切れて作ったプロテスト・ソングの傑作。大ヒットはしたが、ラスカルズには以降政治的なバンドとしてのイメージがついてしまい、アーティスト寿命を縮める遠因となった曲。
日本ではコーラスグループ、ザ・ヴァイオレッツが日本語カバーしています。ヒットはしませんでしたが彼女たちは紅白に島倉千代子の『愛のさざなみ』でバックコーラスとして出場。多分、島倉千代子と同じミノルフォンレーベルだったからでしょう。『愛のさざなみ』は和製ソフトロックの傑作だけど、実はLA録音。ハル・ブレインがドラムを叩いている。
21『みんな夢の中』(高田恭子/1969/第54回、55回)
マイク真木が組んでいたラーガ・ロックのバンド、ザ・マイクスの初代ボーカルだった高田恭子がソロとなって出したヒット曲。なんと紅白にまで出た。1969年の楽曲特有の独特の退廃した歌詞が心地よい。
ちなみに、ザ・マイクスはデビュー曲『ランブリン・マン』であのフランク・ザッパの某曲のイントロをイタダクという外見からは想像のできない蛮勇を決行している。何度も来日していた怪人ザッパに気づかれなかった彼らは強運の持ち主。
22『エイント・ガット・ノー・アイ・ガット・ライフ』(ニーナ・シモン/1968/第56回~58回)
黒人女性歌手、ニーナ・シモンによる問答無用に全人類を肯定する力強い曲。実は、リズム隊が凄まじい。歌詞も勿論、凄まじい。もともとはミュージカル『ヘアー』の劇中歌。
23『ハッシャバイ』(ザ・ミスティックス/1959/第59回~61回)
ドゥワップ・コーラス・グループ、ザ・ミスティックスがスマッシュヒットさせた子守唄風バラード。映画『スタンド・バイ・ミー』で使用されたことでも有名。サントラには入っていないけど。1971年に何故か、日本語カバーが出ている。
24『帰り道は遠かった』(チコとビーグルス、ザ・ジェノバ/1968/第62回、63回)
藤本義一が作詞したという意外な事実に今となっては驚かされる。チコとビーグルス、ザ・ジェノバが競作した大阪発のヒット曲。諸事情からザ・ジェノバ盤ではA面曲のなかで唯一、北方領土要素がない。売上はチコとビーグルスが圧勝も、このグループは不幸にもほぼ全ての要素が当時人気絶頂だったピンキーとキラーズに被さってしまい一発屋に。
実は最初はインディーズグループ、サブ&ビートの持ち歌だった。3ピースバンドは当時相当珍しい。
25『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』(ザ・ローリング・ストーンズ/1968/第64回~67回)
前年からの麻薬禍からローリング・ストーンズが大復活を遂げた一曲。唯一立ち直れなかったブライアン・ジョーンズはこの曲を最後にバンドを追放され、翌年『クマのプーさん』の作者の家を買い取った直後、その家のプールで溺死する。あの世の『27クラブ』でも勝手にリーダーとして仕切り出したりして追放されてないか心配。
それにしてもローリング・ストーンズの東京ドームでのライブは良かった。でも、ブライアン・ジョーンズの死の謎を追った映画は……今となったらブライアン役の俳優のナニがモザイク越しでも分かるくらいに巨大だったことしか記憶にない。悲しい。
26『思案橋ブルース』(中井昭・高橋勝とコロラティーノ/1968/第68回、69回)
ムード歌謡の中のいわゆるご当地モノを代表する一曲。ボーカルの故・中井昭(『星降る街角』のオリジナル歌手でもある)が義手を装着のうえで朗々と歌い上げオリコン3位。長崎を舞台にした唄なら『長崎は今日も雨だった』よりもこちら。緩やかかつ優しい諦観に包まれた気怠い大名曲。
27『レット・ザ・サンシャイン・イン』(ザ・フィフス・ディメンション/1969/第70回~75回)
”黒いママス&パパス”として売り出されたフィフス・ディメンションがミュージカル『ヘアー』のナンバーをカバーしたら60年代を代表する名曲となった。ただし、70年代以降を生き抜くことは出来なかった名曲。他の度の曲よりも余りにも時代に密着しすぎていた。同時代人でないので、この曲の真価は多分死ぬまで分からない。
28『ペイン(恋の傷跡)』(グラス・ルーツ/1969/第76回~78回)
『今日を生きよう』の大ヒット以降、日本ではヒット曲を出せていなかったグラス・ルーツの、日本独自のヒット曲(オリコン89位)。元曲はノヴァズ・ナインというローカルバンドがオリジナルで、グラス・ルーツは前年に彼らのアルバムに採用していた。後年、ノーザン・ソウルの古典となる。
29『友を呼ぶ唄』(ザ・スパイダース/1970)
人気が大分衰え、半分は堺正章のバックバンドみたいになっていたスパイダースの解散前年の一曲。だけど、既にその二年前に彼らの主演映画『にっぽん親不孝時代』の劇中挿入曲として、奇妙なミュージカル風のシーンで使用されている。スパイダースの五本の主演映画の中でこれだけが東宝(あとはすべて日活)。これは何故かというと……まあ、小林信彦『映画を夢見て』の中にそこら辺が書いてあります。ドラマーでリーダーの田辺昭知は後にあの田辺エージェンシーを設立するしね。
三
さて、タイトルでもある『恋のほのお』だけど、これはもちろんエジソン・ライトハウスという音楽グループが1970年に大ヒットさせた彼らのデビュー曲の邦題からきています。
彼らは発売されたシングルのジャケットのように一見、アイドルに寄ったポップ・バンドっぽいけど、実はバンドとしての実態はなかった。プロデューサーと作曲家たちが若者の志向を分析して作成した健全な楽曲をスタジオ・ミュージシャンが録音し、さらに面構えのいい連中がいかにもバンドといった態でテレビ・ショーで口パクの演奏をしてシングル盤のジャケット写真に収まるという、スタジオ・プロジェクトがその真相だったりする。
当時、このような実態のない音楽グループが英米のチャートに頻繁に出没してたんだねえ。アーチーズ『シュガー・シュガー』、フライング・マシーン『笑って! ローズマリーちゃん』、それからオハイオ・エクスプレスや1910フルーツガムカンパニー……。若者が無邪気に性衝動を発散させる目的で始まったロックやR&Bも、ベトナム戦争や学生運動の中で複雑化してしまったせいで少々とっつきにくい存在となっていたので、こういった「グループ」の健全な曲はその間隙をついて1968年から71年にかけてしばしば世界的なヒットとなることがあった。もっとも、その殆どは一発屋でしたが。
プロデューサーや作曲家の狙い通り、エジソン・ライトハウスのデビュー曲である『恋のほのお』も大ヒットした。1970年の初め、イギリスで1か月の間ヒット・チャートの1位を独走しアメリカでもチャート5位、その他の西欧圏でもことごとくトップ10まで昇りつめるミリオン・ヒットとなったのだ。
この曲の勢いにのまれたのは日本も例外ではなく、『恋のほのお』はオリコンの洋楽チャートをひと月に渡って独占し、当時の歌謡曲や演歌に分け入ってオリコンの総合チャートで最高14位を記録、この年の春から夏にかけて17.6万枚(当時のオリコンの精度からして実際は30万枚以上は売れたとみていい)を売り上げるヒットを記録している。まあ、ライナー・ノーツを読めば、既に日本でのリリース時には企画モノのグループであることがバレていたようだが……。ボーカルを務めたトニー・バロウズはこういったセッションで有名で、エジソン・ライトハウスを含めて複数のグループのヒット曲で歌唱を担当してたりする。
そんな『恋のほのお』を初めて聴いたのは僕が大学生の頃で、何かの編集CDに入っていたからだった。
とにかく楽天的にして、自分が惚れた女の子の魅力は俺にしか分かるまいという尊大な歌詞、その尊大さを支える緻密に計算された明るくキャッチーな、バンドサウンドにストリングスを被せた甘いメロディー。「そりゃあヒットしただろうなあ」と、納得し、次の日には中古レコード屋でシングル盤を買ってしまっていた。一見の曲では珍しいことをしたと今でも思う。
改めて買ったレコードを聴いた時、ふと想像力がたくましくなった。1970年、数多の学生運動に挫折した若者たちはラジオや喫茶店でかかり始めた『恋のほのお』をどんな気持ちで聴いていたのだろうか、と。明るい歌詞は、政治であろうがそれこそ恋愛であろうが、打ちひしがれてこそ心に染みたのじゃあないか、と。
そんな考えはレコードを裏返してカップリングの曲『エブリー・ロンリー・デイ』を聴いたときにいよいよ強くなった。そこには陽である『恋のほのお』の世界とは真逆の歌詞が静かな陰としてあったんだなあ。
こうして波多野の原型がこちらの想像から飛び出した。が、その時はこの作品のプロトタイプのような5万字ほどの作品を2つ位書いただけで、おしまい。この時点では
・時点を小刻みに移動させ、主人公の転落と再生を同時進行で書く
・主人公の一人称視点にする
・主人公を裏切る親友がいる
・主人公とその周辺を富裕層とすることで、50年前と現在との経済格差を現在からみて違和感が少ないものにする
以上の4点を考えただけ。設定が出来たことに満足した僕はいつのまにやら酒浸りのヘビースモーカーになったりして小説を忘れてしまった。
勿論、ギターも弾けなかった。売ってしまっていたのだ。
が、当人が忘れてしまっていても、「小説を書いてみようとしていた」ことを記憶している友人がいて、平成30年の春のある日のことだけど「いい加減一度書いて、すぐ投稿するように!」と言われ慌てて書いたのが第1回。当初は無我夢中だったけど、「案外、かつて思ったものが書けるかもしれない」と何故か思ってしまった。物語の着地点なんて見えなかったけど、未完は辛いという直感がそうさせたのよね。
吾妻多英、福村さん、中田一誠という当初想定していなかったキャラクターを放り込んだら書くことが楽になった。吾妻多英は、女性視点から主人公を断罪する人物が必要だったし、福村と中田はそれぞれが主人公の分身だったから。
長々と駄文を書きましたが、最後に一言。文章の再開をすすめてくれた友人、小説を取り上げてくださったセシャトさんはじめ『ふしぎのくに』や『おべりすく』の皆さん、初めてレビューを頂戴した佳穂一二三さん。そして2年半もの長い期間にわたってお読みいただいた方、にしきたなつきさん、MUNNINさんをはじめとする皆様に改めて感謝を申し上げます。おかげさまで何とか完結出来ました!