捨てられたお人形
真暗な空間。ただ、本があるだけの場所。使われるための場所。
一向に使ってくれませんね、いい加減誰か来てください。
足先に石畳の感触がした。
ここから私の一生は、始まった。
見覚えのある石の小部屋を見渡して、私は立ち続けていたステージから下りる。ここは決して舞台なんかじゃない。ただの登場台。そして私はこれから動き始めるから、ここは最後の休憩室だ。
名残などない。私は、始めてここを見た。
扉もない石室から、歩幅を縮めることもなく廊下へ。変わらない石廊。右も左も、数歩歩けば、私がどの扉から来たのかもわからない道。
迷わずに進む。初めて見る、扉のある部屋、何もない部屋、素通りして、一四つ目。
目の前が暗くなった。瞼は開いている。周りが暗くなった。ここから光はどんどん、消えてゆく。
ここから先は、私のための場所ではないから。
右の向こうに何かが在る。石でできた箱の中に、とうとう私以外の――、モノが現れた。
それは棚だ。ぎっしりと詰まった、棚。
本が詰まっていることを私は知っているの、それは本棚だと知っている。
暗闇を抜けて、向こうの扉の向こう。真っ暗闇へ。
「――――」
扉に入ると、私から何かの音が出ようとして、やめた。
この場所でその言葉が出たことはもう、ずいぶんと無い。
真っ暗闇。ここは私の為にも、本にも、本棚の為にも、作られていない部屋。
椅子と机。そして、来るときに光る……、はずの、読書灯。
すべて知っていたとしても、私の目前は真っ暗闇のままである。
私が来たとしても、ここは変わらない。
そして来るときに変わるのは、私も一緒だ。
向こうの扉へ。ここから先は、ずっとずっと階段がある。……そして登り切った先に、最後の扉がある。
この先は、知らない。
私は扉を眺めて、今日も開いていないことを知って、再び階段を下る。
扉の先を私は知らない。扉の向こうに何があるかは、知っている。ただ私は、それを、この知り尽くした扉内のように知ってはいない。あの扉の外に世界があるということは知っていても、私は、この暗闇の中のように、何が何処にあるのかを、知らない。
……なにより、私にとっての世界は、扉の中だ。
下りきった階段から、先ほどと同じ暗闇を通り、先の薄暗闇の書棚へ。
それから、あの石室へと向かう扉ではない扉を押し開ける。
ここから先は、無限の書棚が続いている。
私のすること。書棚の中を見回り、蔵書を見分し、この空間に記憶させる。そして私が朽ちて動かなくなれば、次の私が、あの石室へと落ちてくる。
すべきことを終えている部屋をいくつか通り抜けて、その次の部屋。
端にある書棚のふもとに、それはあった。それがどこかにあることは知っていた。……そして唯一、私が、私の世界の中で、何処にあるのかを知らないものが、そこにあった。
「……ええ、そうですね」
それが何かを、私は知っている。
ただ、どこにあるのかを知らなかった、というだけ。
手を伸ばす。見かけは、まるめられて捨てられた大きな布。……それが本質ではないことを私は知っている。覆われているんだと、記録している。
それが何かを、私は知っている。
同じ手をとった。私と同じ手を。私と同じ形の手を握る。
引き上げる。同じ大きさで重さの、わたしを。
「排除する」
不要なモノは。
私の手から、その手に向けて。
体の奥、腰あたりから震えが走って力が流れる。力は身体から手へ、そして、向こうの手に向かって。
「お終いです」
それは一瞬光って、砕けて、消えた。
一書棚の本が鮮やかな装丁を取り戻して――、光の明滅に合わせて再び色を失った。
朽ちたわたしのあった場所には、まだ残っているものがあった。
一冊の本だ。
床に落ちたそれを拾い上げながら、
「あらあら。ゴ本は大切にしなくてはなりませんヨ」
そんな音が私から出てきた。
この本がどこにあったのかは、知っている。この棚の、上から二段目、左から五番目。隙間に押し込むと、ぴったりと嵌る。
私はその書棚から、しまったあの本を取り上げた。
これから始める、私の仕事のために。
来客までのひと時を本の記録に充てる。ただそのため。
読んでいただいてありがとうございました。天候等優れない日々でありますが、皆様お体大切に。