生意気な後輩がお弁当を持ってきたというラブコメもどき
「安達先輩! 好きです! 付き合ってください!」
「断る」
園芸部の畑に乗り込んできた見知らぬ一年生から不信な申し出を受けたため、一蹴する。
「な、なんてこと……こんな可愛い後輩の告白を一瞬で断るなんて。許されざる冒涜!」
「許すか許さないかは俺の権限だろ」
「あ、それもそうですね。では、いくら出せばあたしと付き合っていただけますか?」
「……お前、プライドはないのか?」
まあ、確かに。控えめに言っても可愛い部類。エビフライのヘアピンは謎ポイントだが。俺が常識人でなければ逆に金を差し出していたかもしれない。
「俺はあんたの名前も知らないんだが」
「え! あー……そうでしたか」
女子は不思議そうな顔をしながら、改める。
「丸口ほのです。”ほの”に漢字はありません」
「聞いたことないな」
「意外です。常識がないんですね」
「そっちに言われたくない」
あまり関わらないようにしようと、俺は水やり作業に戻る。
少しの沈黙の後に、「いい畑ですねー」と、丸口が切り出した。
「キャベツと、玉ねぎと、イチゴと、ニンジン……美味しそうですね。あれ? この葉っぱは、ふきのとうですか!?」
「畑にしゃがむな。水がかかっても知らないからな」
「はあ……これが、先輩の血と汗と涙の結晶なんですね……すりすり」
「おい何をしている」
「先輩の体液で育てられたお野菜を愛でています」
にんじんを引っこ抜いた泥棒がいる。ホースの水を女子に向けた。
「きゃーーーー!! 危ないですよ! 何するんですか!」
「作物を荒らす害獣は追い払わないといけないからな」
「あたしはタヌキやキツネと同類ですか!?」
泥だらけのにんじんを持ったまま、丸口は次なる放水に備えて、反復横跳びでもしそうなポーズをしている。
「そんなに欲しければ持って行け」
「え? いいんですか?」
「一本くらいなら勝手にしろ」
「きゃーーーー!! 先輩のにんじん! 安達先輩のにんじんゲットです! 部屋に飾ります!」
食えよ。と思ったが、俺も人のことを言えないから、つい黙ってしまう。
「タダでもらうのはアレなので、これ、差し上げますね」
そう言って、丸口はポケットから、口を縛った小さなビニール袋を取り出した。
「何だこれ」
「クッキーです。今日調理部の見学に行ったので、作ったんですよ。雑なラッピングで申し訳ないですけど」
今は部活の勧誘週間だ。俺は水やり当番だから、ビラ配りの準備だけ手伝って、ここにいるんだが。
「先輩! 告白の返事、考えておいてくださいね!」
また来ます! と、丸口はてててと走り去って行った。
……俺は告白を保留にしたっけか? と、自分の記憶違いを疑う。
考え込んでいたらつい、植え付けたばかりのキュウリの苗に水を当てすぎてしまった。
**
部室に戻ると、体育座りをしてだるまのようになっている太った男がいた。
「撃沈」と言わんばかりに落ち込んでいる。
「金輪先輩。水やり終わりましたよ」
「ああ、悠か……作物はどうだった?」
悠は俺の名前だ。
「その様子だと、勧誘、ダメだったんですね」
「……まあ、人気がないのは仕方ないさ。兼部OKにしても、園芸なんてお嬢様お坊ちゃんにとっては地味だろう?」
ここ黒同高等学校は、私立の進学校だ。スポーツ強豪校としても有名で、本当なら兼部をする余裕もない、忙しい部活ばかりなのだ。
ついでに金持ちが多いのも事実。現に、金輪先輩も某大手IT企業の社長の息子だ。農業に憧れて農業高校に行こうとしたが、親に反対されてここに入ったのだという。
「まだ一日目ですし、そのうち興味を持っている人が見学に来ますよ」
なんて慰めて、さっきもらったクッキーを取り出す。
「金輪先輩、これ、よければ食べませんか?」
「む……これは?」
事情を説明すると、「女子の手作りクッキー!?」と驚かれた。
「ありがたくもらおう!」
「よければ全部食べてください。俺は無理なので」
「……そ、そうか。貴重なものをもらって悪いな」
金輪先輩は何か言いたげな顔をしていたが、それ以上の追求はしてこなかった。
「この焼き色、バターの香ばしい匂い……すごいな、市販品のような出来栄えだ。味は……おお! サクサクかと思ったが、砕けやすいんだな! 生地がほろりと解けて、濃厚な乳製品とバニラの味がぱあっと広がってくる! 見た目はクッキーだが、食感と味はアイスクリームのようだ! 口の中から消えてしまうのが惜しい……!」
「……」
「はっ! すまん、ついいつもの癖で独り言が。不愉快だったか?」
「いえ。聞いている分には楽しいです。女の子の手作りクッキーの味って、特別なんですね」
「そうだな。料理に込められた物語は、味に強く関わってくるものだ」
金輪先輩は立ち上がり、嬉々と語り出す。
「自分で作った野菜がうまいと言われるのも、野菜が成長する過程や、手塩にかけた記憶を含むからだろう。だが世間は食べ物に感謝する精神が大事と言いながら、食べ物の物語を知ろうとする人は少ない。それがどのように生産されたのか、どこからきたのか、どう調理されたのか……それを理解せず『食べ物を残すな』というのはおかしな話だ。結局は表面的な価値観の押し付けだからな。毒が盛られているかも分からない御前を、無理して食う理由はないだろ?」
食べ物のことになると、変に理屈っぽく、饒舌になる。金輪先輩の癖みたいなものだ。
「先輩って、面白い持論持ってますよね」
「ん? そうか?」
「毒を盛られたことがあるんですか?」
「あくまでも例え話だ。ま、睡眠薬を入れられたことはあるが」
「え」
「いや、金輪家に呼んだ日雇いのシェフが、強盗目的でやったことがあってな」
「意外とシャレにならないじゃないですか」
「だが相手が悪かったな。オレは舌が肥えているからすぐ気がついた……ああ、思い出しただけで腹が立ってくる。何の罪もない食べ物を悪事に利用するなんて、とんでもないやつだ!」
「漫画みたいな話ですね。薬を盛られて見破るとか」
「ふっ。物語の悪役は、成敗するに限る」
少し元気になったようで、金輪先輩は「よし! もう一回ビラ配りに行くか!」とクッキーをもう一枚口に放り込んだ。
……俺は金輪先輩の人柄に憧れて、園芸部に入ったのだ。
この人がいなければ、俺は二度と学校に来なかったかもしれない。
**
「先輩、先輩、安達せーん、ぱい!」
「……またお前か」
翌日。例の変人はまた現れた。今度は昼休みに。ピン留めがなぜか餃子に変わっている。
図書館に行こうとしたんだが、待ち伏せされていたようだ。
「えへ。告白の返事を聞こうと思って」
「断ったはずだ」
「ではもう一度言います! 付き合ってください!」
「もう恋愛はこりごりだ。今は誰も彼女にする気はない」
「う。何気にモテる発言していません?」
「お前、一年生だよな? 俺のこといつ知ったんだ?」
「あ、聞いちゃいます? ふふふ。実は、前世からです! 超☆運命!」
「……異世界転生物は嫌いなんだ」
「ああああーーーー! 待ってください、嘘です! 冗談です! 先輩が中学の総体に出ていた時です!!」
「……もしかして、県中出身か?」
県中学校は俺の母校だ。丸口はこくこくと頷いた。
「……。思い出せないな」
モテていたのは本当だ。中学時代、俺の周りにはよく女子が集まっていた。差し入れとしてお菓子をもらうこともあった。金輪先輩は手作り菓子を「貴重だ」と言っていたが、俺にとっては別段、特別なものではなかった。
取り巻く女の子の数人と付き合ったり別れたりという経験もあるが、”丸口ほの”と言う名前は覚えがない。この容姿なら、当時の俺が気に留めていてもおかしくはないと思うが。
「あたしは覚えてますよ! 柔道で、真剣な顔で、ドーン! ダーン! って、相手をやっつけちゃう先輩のこと。はぁ……もう超カッコよくて……」
「俺はもう、あの時の俺じゃない」
吐き捨てるように言葉を遮った。一番輝いていた時の俺を知っている。それは今の状況を嘲笑うための伏線に感じて、不快感のような痛みが、胸で疼いた。
「だからここに入学してから、びっくりしましたよ。安達先輩、柔道やめちゃったんだって」
「……」
「どうしてやめちゃったんですか?」
「お前には関係ない」
「関係なくないですよ! あたし、先輩に会いたくて超勉強して、この学校入ったんですから!」
黒同高校は進学校だからこそ、勉強面も厳しい。俺はスポーツ推薦で入ったが、偏差値七十以上の高校を狙う受験生が、滑り止めとして受けて入ってくることも多い。
「でも、園芸部もいいですよね。汗水流して畑を耕す先輩……『お疲れ様、どうぞ』って、冷たい麦茶を差し入れしたいです」
「……昨日から思ったが、汗フェチか?」
「あ、確かに。そのケはありますね!」
認めた。
「ところで先輩、お昼はもう食べたんですか?」
「……」
「折角だから、一緒に食べません? あたし、もっと先輩とお話ししたいですし」
「俺は忙しい。食べるならクラスメイトと食べろ。四月中にグループ作らないと、後々辛いぞ」
「ご心配どうもです! でも今日くらいいいじゃないですか」
「帰れ」
「だってあたし学年が違うんですよ? 授業休憩の間に先輩の教室行ける余裕ないですし、少しくらい、」
「帰れと言ってるだろ、聞こえないのかっ!!」
人気のない廊下だが、あたりがしんと静かになった気がした。自分でも驚くほど久しい、大声だった。
「……あ、ご、ごめんなさい……」
丸口はカチンとフリーズして、小さな声で謝罪を零す。
入学して間もない後輩に、衝動的な怒りをぶつけてしまうとは。俺も罰が悪くなる。
「……怒鳴って悪かった。けど、昼は食べないことにしているんだ」
「え? じゃあ、いつ食べて……」
「食べられないんだ。俺を見て、何となく分からないか?」
「……」
脂肪を失い、筋肉は痩せ細り、ほとんど骨と筋だけになった俺は、昔のようなかっこよさはない。
こんな状態の人に告白してくるとか、どうかしている。俺も今の自分が嫌いだ。
「……告白も、気持ちだけは受け取っておく。でも諦めてくれ」
逃げるように図書室に入り、扉を閉めた。
丸口はキュッキュと小さな足音を立てて、遠ざかって行った。
「……。はあ」
感情が不安定になっている。食べたくても食べられない、この空腹感が悪いのか。本を読んで気を紛らわせようと、読みかけの小説に手を伸ばした。
***
過食と嘔吐を繰り返すなんて、女の病気だ。男で起きるはずがない。
そう思い込んでいたが……主治医によると、スポーツ選手ではよくあることらしい。
俺は中学時代、3年生の時に73kg級で全国大会で2位になっていたが。高校に入ってからは、66kg級で戦うことを前提に指導された。
今度こそ、全国トップに立つ。その目標を胸に、躍起になって練習した。厳しい体重制限で常に空腹感を抱えていたが、66kg級で挑まなくてはならないからと耐えていた。2年間、屈強な先輩たちに勝てなかった悔しさと、中学最後の大会も2位で終わった無念さ。それを塗り替えるために、王者の地位を欲した。
……そして、7月。俺は県大会で落ちた。全国に行けなかった。悔しさが引き金になって、過食が始まった。
そして、冬の総体前。追い込みの練習中に倒れ、病院に運ばれた。俺を診察した医者は、「暴飲暴食と嘔吐をしていないか?」と尋ねてきた。
『何で、それを……』
『歯が溶けているよ。しかも異常に痩せている。拒食症の典型的な症状だ』
脱水症状と貧血があり、骨密度も下がっている。これ以上の運動は危険だとも言われた。冬の総体には、出場させてもらえなかった。
過食のことは隠していたのに、「命に関わるから」と裏切った医者。摂食障害になったことを知って俺を見限ったコーチ。異常に気づきながら何も言わなかった家族。俺を見捨てた元カノ。色んな人を恨んだ。
……治らない。治らない。何を食べても吐き戻してしまう。
体が胃に物を入れることを拒否している。こんなものは消化できないと追い出される。
トイレから出て鏡の前に立つと、やつれて何もかもを失った、醜い俺が映る。
……俺はもう、俺じゃない。
**
「で。今度は何だ? また告白か?」
「はい、もちろんです」
次の日の昼。俺は丸口に、『屋上に来てください』とラブレターを出された。
昨日のこともあり無視するのもあれかと、話くらいは聞きに来たが。
「ごめんなさい!」
ばっと頭を下げて謝ったのは、丸口の方だった。
「あたし、先輩の事情を何も知らないで、軽率なことを言いました。あの後、園芸部の部長さんのところに行って全部聞いたんです。安達先輩は、摂食障害の治療のために、柔道やめたんだって」
「……金輪先輩、喋ったのか……」
「それで、今度は真面目に提案します」
丸口は顔を上げて、すっと胸に抱えた小さな箱を俺に差し出した。
「お弁当、作って来たんです。食べてくれませんか?」
「……」
「金輪さんから畑の野菜をもらったので、それも使いました。あたしの想い、受け取ってください!」
別に怒りは湧かない。金輪先輩に会う前の荒れた時に比べたら、俺は治療にも寛容になっていた。だが、昼は水を少し飲むのが限界で、未だに食べられない。
「受け取るわけにはいかない。作ってくれたものを無駄にすることに、」
「わかってます! それは仕方がないです。でも味だけでも知って欲しいんです。あたしの唯一の特技が、料理だから!」
丸口は続ける。
「残していいです。一口でもいいです。匂いを嗅ぐだけでもいいです。今日食べられなければ、1週間後に食べてもいいですから」
「冷凍しろと?」
「ばっちこいです! このお弁当の容器は冷凍対応です! 電子レンジでチンもできますよ! 衛生のために容器を煮沸消毒しています! 完全無欠の完璧なお弁当です!」
「……そうか」
思わずクスリと笑みがこぼれる。丸口の必死すぎる姿は滑稽であり、愛嬌があった。
「わかった」
赤と白の女の子の持ち物らしい入れ物は、大きくない。だが、ずしりとした中身の重さを感じた。
屋上の出入り口の横に座り込み、ぱかりと弁当の蓋を開ける。
「……すごいな」
美味しそうという感情ではなかったが、芸術的な意味で感嘆した。
赤い淵に囲まれた箱庭に、鮮やかな世界がある。橙色、緑色、茶色、白色、黄色……色とりどりのおかずが、それぞれが役割を持って「お弁当」を形作っている。誰一人欠けてはいけない。まるで、役者と小道具がしかるべき位置に立っているかのような、劇場だ。
「むふふ。我ながら最高の配色美。盛り付けも得意なんですよ?」
俺が頭を上げると、丸口は「あっ」と顔を歪めた。
「人がそばにいると食べにくいですか……?」
「いや」
箸を持ち、卵焼きの端を小さくちぎった。口に含んで、軽く舌で転がして飲み込む。
「ど、どうですか!?」
「……」
言葉が浮かばない。また吐くんじゃないかという不安が俺の心を支配して、お世辞のひとつすら言えなかった。
食べ物は腹に詰めるもの。空腹の辛さをしのぐもの。最近では、治療のことを考えながら、無機質に飲み込むものだ。
「先輩。その卵焼き、どんな味がしますか?」
「……甘い?」
「それはつまり?」
「……つまり?」
「あたしの愛の味ですよ。きゃ❤︎」
「…………」
愛に味があるか、何を言っているんだと思ったが。ふと、金輪先輩の言葉を思い出す。
『料理に込められた物語は、味に強く関わってくるものだ』
「……味か……」
もう一度、卵焼きを口に入れる。今度は、歯で噛み潰しながら、舌の上に広げるようにして。
ふわふわした噛みごたえ。砕けた卵の欠片は甘すぎない。そして気がついた。この甘さは砂糖じゃない。遠くにほんのりと、お菓子にありそうな香りがする。
「これ、はちみつか?」
「おお! よくわかりましたね! 実はこれ、はちみつの卵焼きなのです!」
「……なるほど。優しい味だな」
次ににんじんを口にした。煮物のようだ。表面に歯を立てると、断面からじわっと汁が出てきた。カツオか昆布か。出汁ににんじんの甘みが含まれて、滑らかな口当たりになっている。噛めば噛むほど滲み出る和風の味わいを、少しづつ飲み下していく。
「……これはなんだ?」
ご飯の端にちょこんと乗っている茶色の物体。味噌のようにも見えるが。
「それですか? ふき味噌です」
「ふき味噌?」
「ふきのとうって、花が咲いたら苦味が強くて天ぷらとかにできないんですよね。でもそれを刻んで、灰汁をとって砂糖と味噌を混ぜると、春らしいおかずになるんですよ」
ふきのとうは山菜の一種だ。金輪先輩は「株分けを試したい」と言って、育てていたが。
ふき味噌を鼻に近づけてみる……なるほど、シュンギクに似た、ツンと強い春の草の香りがする。少し舐めてみると、爽やかな苦味が口の中に広がった。食べたことがないからと少し警戒していたが、えぐみは全くなく、喉に突っかからない。白飯に合いそうだ。
白米を数粒ずつ口に入れながらふき味噌を舐めていると、「キーンコーンカーンコーン」と、空にチャイムが響いた。昼休みが終わってしまったようだ。ふと一望した弁当箱の中身は、全然減っていない。
「昼飯だけで日が暮れそうだな」
「別にいいじゃないですか、お弁当くらいゆっくり食べても。授業サボって、あたしとランデブーですよ」
「……」
「あたし、実はぼっち飯派なんですよね。急かされたり見られたりするの好きじゃなくて。ご飯くらい、自分のペースで食べたいじゃないですか」
……何となくわかる。食べる姿を見られるのが怖いという気持ち。過食をする時の自分もそうだし、水しか飲まない自分もそうだ。
その点、「残してもいい」「ゆっくり食べていい」と言ってくれた丸口の言葉は、ありがたかった。
自分の意見を確かめるように、コクリと唾液を飲み込む。まだこみ上げてくるものはない。なら食べられるだけ食べようと、お弁当に意識を戻すことにした。
あと口にしていないのは……キャベツと玉ねぎの炒め物。肉が入っている。
体重制限をしていた時の名残で、油の強いものは無意識に避ける癖がついている。確認するように箸で摘まんだ肉に、ふと一つ、違和感を覚えた。
「この肉、脂身がないのか?」
「はい。包丁でとってしまえばいいかなと」
「……手間かかっただろ」
「先輩のためならなんのその!」
肉の端をかじってみる。ニンニクと醤油の調和した味。ぎとぎとしていないから、思ったよりは食べやすい。野菜も味が絡んでいるが、シャッキっとした歯ごたえも残っている。
……畑で作業していたことを振り返る。
金輪先輩に指示され、玉ねぎにとう立ちがないか、キャベツに虫がいないかを確認した。
育てた甘み。「食べ物の物語を知る」というのは、きっとこういうことなのだろう。
……不思議な感覚だった。
ここが学校の屋上だとか、授業をサボった罪悪感とか、隣にいる丸口の正体とか。悩み、考えることが無意味に思えた。時の止まった世界で、拒絶されることも拒絶することもない、平穏な空気に包まれて。そばにあるものだけを感じている。
一つ、また一つと口に運んでいき、味わい。最後に辿り着いたのは、イチゴの色をした寒天だった。「それイチゴを濾しているんです。砂糖使ってないんですよ」という丸口のコメントも助けになって、食す抵抗はほとんどない。ガラスのように透き通った紅色。口に含むと、果物の甘い香りと、じわりと舌に響く酸っぱさになった。
「……ふう」
学校のチャイムが鳴る。5限目の授業が終わった。
「……美味しかったですか?」
「ああ。美味しかった」
「えへ。嬉しいです」
俺はそっと目を瞑る。食事を達成できた喜びを噛み締めたわけじゃない。今の安らかな気持ちに身を委ね、このまま眠りたくなったのだ。
**
翌日。丸口が料理上手だったこと、その弁当が食べられたことを金輪先輩に報告したら、驚いた顔をされた。
「お前、“丸口ほの”と聞いて気がつかなかったのか?」
「え?」
「“料亭ほの”と言ったら、全国チェーンの高級和食料理店だぞ! 日本食の世界大会で今年、十冠を達成したのが丸口哲郎。丸口グループの筆頭だ」
「……丸口は世界一の和食料理人の娘? 超お嬢様?」
“料亭ほの”は、テレビや雑誌で見聞きしたことはある。だが中流家庭に生まれた俺は、高級和食料理店に大して縁がない。親はもしかしたら知っているかもしれないが。
……そういえば、俺が県中にいた時、「ちょーすごい料理人の娘がいるらしい」という噂は聞いたことがあったな。だが俺の周りの人は、どんな子かは知らないと言っていた。
「あっ」
「む? どうした?」
「……思い出したんですけど。俺が中学の時、めちゃくちゃ綺麗なクッキー、差し入れに来た子がいたんです」
差し入れをしてくる人はだいたい決まっていたが、やはり手作りというのは、上手い下手が分かれる。一回だけ俺の前に現れて、「頑張ってください」と呟いた、すごく地味な女子。そのクッキーはあまりにも出来が良すぎて、「これ絶対手作りじゃないよね。市販品を詰め替えてる」と、当時付き合っていた彼女が鼻で笑っていた。
「安達せんぱーーい!」
部室の扉をガラガラと開けて、丸口が入ってくる。今日の髪留めは……うな重?
……例のクッキーを渡してきた時も、確か、目玉焼きみたいな変な髪留めをしていた。
聞いてみたら、言質が取れた。やっぱり、あの時の地味な女子が丸口だったらしい。
「見た目も性格も変わり過ぎじゃないか?」
「え? だって先輩が言ったんですよ? 『もっとおしゃれして明るくしたら可愛いのに』って」
「……」
「『これワンチャンあるのか!?』と思って、あたし本気出すことにしました。高校デビューしてやるって。でもその通りでしたね! 丸口ほのは、磨けばめっちゃ可愛くなれる原石だったんですよ!」
えへんと胸を張る丸口。俺は頭を抱えた。軽い男だった当時の自分を殴りたい。
あのクッキーは、本当に手作りだったんだろう。身近な女の話を鵜呑みにしたモテ期の俺、最低だ。
「そんなことより! 先輩、今日もお弁当、いかがですか?」
ひょいと取り出されたのは、昨日の1/2サイズの弁当箱。これなら、昼休みの間に食べられるだろう。
「ふふふふふ。口にしたら最後。もうあたしからは離れられませんよ?」
「ヤンデレみたいなことを言うな。毒でも盛っているのか」
「もちろん。愛という名の、猛毒です❤︎」
「……よくそんな恥ずかしいことを口にできるな……」
「ああ、青春だな」と、金輪先輩の涙ぐむ声が聞こえた。
「幸せになれよ、悠」
「……あの、金輪先輩、誤解です。俺と丸口は付き合っていません」
「めぼしい女を取っ替え引っ替えしてきたお前が、一途に追いかけて来た女の子に救われる。最高のラブストーリーではないか!」
口ごもる。「めぼしい女を取っ替え引っ替えしてきた」という言葉を否定しきれない。
「安心してください金輪さん! この丸口ほのが、安達先輩を幸せにしてみせます!」
「おう! よろしく頼むぞ、丸口!!」
「何で意気投合してるんですか」
グッドラックのサインを作り腕を交差させる二人は、出会って二日の仲とは思えない。
「ほら、行きましょ? 安・達・先・輩っ!」
「行け、悠。もたもたしていると、昼休みが終わるぞ」
半ば強引に部室から追い出される。
「もし良ければ金輪先輩も、」
「男女の仲を邪魔できるか!! オレは部室で食べる……それが運命だ」
「いや、だから誤解、」
「くぅっ……オレも彼女が欲しい!!」という嘆きを最後に、バタンと扉が閉められた。
「金輪先輩が一人で飯を食べるなんて……」
いつもは誰かと食べに行っている印象だ。傷心しているのは間違いない。何かうまいものを食べれば落ち着くだろうが……。
「今度、金輪さんにも差し入れしないとですね。情報提供料だけじゃ申し訳ないです」
哀れみの込もった丸口の言葉にハッとする。
「情報提供料……? まさか、食べ物で金輪先輩を買収して、俺の摂食障害のことを知ったのか?」
「手強かったですよ。色仕掛けしても畑を人質にしても、口を割りませんでしたから。でもあたしの料理を食べたら、『オレの負けだ』って言って、急に野菜を渡してきて。逆に頭を下げられたんです」
あの弁当の裏に、そんなグルメバトルがあったとは。
妙に二人の仲がいい理由にも、少し納得がいく。
閉じられた扉に視線を戻す。畑を犠牲にしても俺の弱みを喋ろうとしなかった金輪先輩に、「漢だな」と。尊敬の念を送った。
「金輪さんのためにも、あたしの告白にいい返事をしないとですね?」
「それとこれとは別だ。今は誰も彼女にする気はない」
「なっ!?」
……丸口には、かっこよくない俺と付き合って欲しくない。
これはプライドだ。
いつかまた。俺が、俺を好きになれる日がきたら、その時に。