影某氏
この世界の「俺」は誰だ?
俺はその男の長く伸びた影すらも踏まないように俺は尾行していた。
帽子にサングラス、それに花粉症かどうかは知らないがマスクを着けたその男は安アパートの階段を鈍く低い音を発てて登り、安っぽい音で軋むドアの向こうに消えた。
俺はそのアパートを通り過ぎてから角を曲がり、そこで立ち止まって事務所に電話を入れる。
「……もしもし、あ、チーフ? 「まんぼう」は水族館に帰りました」
『ご苦労!「かじき」が水族館に行くはずだ。 確認したら帰っていいぞ』
「……らじゃ」
暫くして、アパートの前に車が止まった。
中の二人はヤンキー風の同僚。
今日の仕事は終わった。
「……さて、と」
ゆっくりと歩きだし、アパートの前を通る。
車の二人はそっぽを向きながらこっちに向かって中指を立てた。
(……がぁんばぁれぇよぉぉ)
この時期はまだ夜明けが寒すぎる。
今日は泊まりが無い分マシな方さ。
(酒でも飲むかなぁ……)
どの店にするかなと考え始めた時、後ろでさっき聞いた安っぽい音がした。
(えっ?)
振り向く訳には行かないが、間違いなくあの男。
さっきまで俺が尾行していたあの男が階段を降りてくる。
(……ま、俺の仕事は終わったし)
最初は気楽に考えていた。
が、その男は俺の後を歩いて来る。
そして、その少し後を同僚が歩いている……ハズだ。
(……マズったかなぁ?)
気付かれた記憶はない。
ま、偶然だろうと決め込んで駅へと歩き続けた。
大通りを抜けて駅が近づく。
ちらっと振り向くとあの男の後ろに同僚。
(あんにゃろ!)
同僚は俺に向かって中指を立てていた。
駅の改札口でちょっと考える。
あの男がどっちへ行こうとも俺は都心を抜けて家に帰る。
その方向まで一緒というのは……勘弁して欲しい。
俺はわざと逆方向の電車に乗った。
(あの男は……)
しめしめ、都心方向の電車に乗っている。
動き出した電車から同僚に中指を立てて挨拶する。
(ふん、無視してやがる)
俺は次の駅で降りて都心方向の電車に乗り直した。
馴染みの店で一杯飲んで、ほろ酔い気分で店を出た。
(ま、これが人生だね〜っと)
どれが人生かは知らないが、気分は良い。
誰にでも声をかけたくなる。
「よっ!元気?」
誰ともなしに声をかけて暫く歩いた時……
一瞬で酔いが醒めた。
(あの男? ……だな?)
あの男が今、俺の後ろに居る。
そして、俺の後をついて来る。
知らぬ振りして歩いていたが、あの男が尾行して来る。
(なぜ?)
同僚の足音は……しない。
あの男の少し右足を引きずる足音だけが俺の後ろで響いている。
耳の奥に足音と自分の心臓の鼓動だけが響いている。
(……なぜだ?)
取り敢えず、家へ帰ろう。
ボロアパートだが今この時よりは遥かに安らぐ。
(あと、200m……あと、100m)
そこの角を曲がると俺のアパートの前だ。
部屋へ帰ってドアを閉める。
ただ、それだけ。
今はそれだけが救いだ。
だが……
「……もしもし、すみません?」
男はそれを見透かしていたように角の手前で声をかけてきた。
「……は、はい? 何でしょう?」
目を合せないように振り返える。
「……間違えてたらすみません。あなたは……」
(しまった!)
昼間、尾行してたのがばれていたのか?
しかし……男の声は予想を裏切った。
「あなたは……私ですよね?」
「……え? えぇっ!」
俺が顔を合せるより早く男はナイフを俺の腹に突き刺した。
「ぐっ……ぐぇっ!」
苦痛を声にできずに藻掻く俺に、男は更にナイフをゆっくりとこじって冷たい声で言った。
「すみませんねぇ、取り敢えずこの世界に私は一人で良いものですから……」
見上げた俺の目に映ったその男の顔は……間違いなく俺だった。
「は、……は、はぁっ」
びっしょりと寝汗をかいて布団を跳ね飛ばす。
「……何だよ。……夢かよ」
しかし……何故か生々しい。
そして、妙に腹立だしい。
どこか、違う世界へ紛れ込んでしまったような……不快感。
(今……何時だよ?)
午前5時。
窓の外に白々しい暗黒。
うっすらと、夜が明けていく。
(……ちくしょう)
……ん?
何故だ?
何故、こんなに腹が立つ?
「あいつ」に殺されたせいか? ……無様に!
(ちくしょう!)
憤りのない感情を持て余して、枕を殴り、蹴飛ばす。
少し。
ほんの少しだけ落ち着いた。
(? 何で俺は、「俺」に殺されたんだ?)
考えても判る筈はない。
夢なのだから。
(……変な事、言ってたな「俺」イヤ「あいつ」は……)
「……この世界に「私は一人」で良い?」
ははは、と力無く笑う。
(この世界に「俺は一人」だけだろが!)
「ははははは、……はっ、くだんねぇ!」
総てを笑い飛ばして、長年馴染んだ布団に転がった。
「はっははははは! ……ん?」
左手に何かが触れた。 アーミーナイフ。
(……こいつを触ってたせいか?)
「ふん! あんな夢! ……ん?」
……違う。
このナイフは……違う。
俺のナイフは黒革のグリップ。
これは、……濃紺。
いや、濃い紫。
すうぅっと一ヶ所、緋色が走っている。
(! そんな? えっ?)
慌てて、周りを見渡す。
……違う気がする。
何かが、違う。
壁のひび割れ、天井の染み、煤けた窓ガラス。
「……違う」
見慣れた部屋が何処か違う。
部屋がよそよそしい。
(……此処は?)
……此処は俺の世界か?
不意に電話が鳴った。
「え? あ、はい。チーフ。俺です。え? 窓の外?」
窓の外を窺い、辺りを見渡す。
『……窓から見える通りの角。其処に「標的」がいるハズだ……』
指示された処、その角の塀の影に男がいた。
ハンドスコープを取って素早く顔を確認する。
(……え?)
その男は……「俺」だった。
「あいつは? ……誰だ?」
俺は……誰なんだ?
『誰でも良い。 今度の仕事はそいつの尾行だ。いいな? 良く聞け! ……気付かれるなよ? この前の……』
電話の声は感情の彼方へ消えた。
ココは?
……ココに俺が居る。
ココは、俺の世界だ。
「あいつ」の世界じゃない!
(……何をすれば良いか。解ってるよな?)
俺の心か、電話の声かが俺に言った。
(……何をするか? ……判っているさ)
俺はナイフを持って部屋を出る。
そして、ゆっくりとそいつの後を歩いた。
あの男のように……ゆっくりと……
この作は1995年4月頃にニフティのFSFの創作の部屋にUPしていたものです。
この時、この作で色々と語り合った黒猫氏に感謝致します。