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79話「ざ えるだー わん」

 アディリンの足元。そこにあった闇が拡がっていく。

 まるでコップからこぼした水が拡がっていくようだ。だが、その勢いたるや、コップどころかどこかの川があふれているかのよう。

 ごぼごぼと流れ出る闇は、いきなりアディリンの足を捕らえた。彼女は表情一つ変えなかった。直後に噴出した“闇”に、体ごと飲み込まれる。



 絶望が、溢れだした。



 アト自身は見たことがなかったが、それは津波というものに酷似していた。天井を覆うほどの水の壁は、アトを一瞬の内に吞み込み、押し流す。

 全身にぶつかる衝撃は、まるで飛び降りて地面にぶつかったかのように感じた。

 アトの意識が、一瞬で途切れた。



「――――ッ!?」


 アトの体は横倒しになっていた。

 喉の奥、胃の中からせり上がってくる不快感。身を起こすと同時に、体にわだかまっていた何かを吐いた。

 口から出て来るのは闇色の水。ひとしきり吐き出すと、ようやく意識が追い付いて来る。


「何が……?」


 体中が水で濡れたようになっていた。それでいて暑くも寒くもないのが恐ろしい。体は動く。折れたりちぎれたりはしていない。そのことに少し安心した。


 そこでようやく周りを見渡して、アトは絶句した。

 図書館はもはや壊滅状態になっていた。本棚も本も見当たらない。破片、破片。木っ端みじんになった空間が、そこにはあった。よくアトは無事でいたものだと思うほど。

 極めつけは、図書館の建物部分の二階から上が完全に消失していたのだ。一階の壁が残っていることから、何か巨大なものが吹き上がったのだと想像するしかない。

 アディリンの姿は無い。あの噴出に巻き込まれたのか。


 ふと、見上げた目線の先に、“それ”が見えた。


「何なの、あれ……」


 闇の水、だろうか。それが母体となっていることは分かる。普通の水よりも粘土を増し、泥に近い様相を見せている。それが触手のようにうねうねと何本も動いていた。

 大きさは小さな建物よりは大きい。いや、山のように大きくも見える。アトよりは大きい、それは分かる。だが、正確な大きさが“認識”できない。

 ヘドロのスープに目玉と、人間の歯が沈んでいるのが見えた。あれが体だろうか。犬の耳のようなものが背中側に生え、牛の前脚らしきものが頭のてっぺんに生えている。

 形は全体的に丸く曲線を帯びており、鱗があることで直角に見える。四角い五角形と言うべき存在に、アトは頭痛を感じていた。


 言葉が出ない。

 シアンが居れば、“これ”が何なのか理屈をつけてくれるのだろうか。


「―――――――――!!!!!!!!」


 “あれ”が吼えた。


「ぐッ……ううううううううううッ!!?」


 ただの声だ。だけど、まるで身を細かいやすりで削られるような気分を味わう。血も出てなければ、痛みも感じない。


 ただ、魂が削られる。そんな言葉が脳裏に浮かぶほどの衝撃。


 アトはいつのまにか自分が頭を抱えてうずくまっていたことに気が付いた。無意識の防御行動だ。


 なんだあれは。

 あれが、神話級モンスターだと言うのか。


 “それ”が触手を持ち上げた。その数六本。巨体ゆえに、ひどくゆっくりと感じる。

 スローモーションで振り下ろされた触手が地面へと埋まっていくのを、アトは見た。


 爆音と振動。建物が崩れる轟音が体を揺さぶる。粉塵が吹き上がる。瓦礫と共に巻き上がっているのは、人間だろうか。


 地上がピカっと光った。次いで炎の槍や、雷などが飛んでいく。方向からして、魔術士ギルドの方。魔術師たちの砲撃だ。その輝きもさることながら、数も多い。全力で投射される魔術が“あれ”に向かって跳んでいく。

 その全てが命中した。豪炎を振りまき、爆裂と雷光をまき散らす。氷結弾が命中したからか、一気に靄が拡がる。だが、その下から無傷の“それ”が姿を見せた。痛みを感じた様子はない。むしろ、目についた魔術師たちを振り払おうと、触手の一本が動いた。

 アトはぞっとした。

 あそこにはアーネスもヨサ叔父さんも居る。


「だめッ!!」


 全力の<物体操作(キネシス)>。城砦の柱すらひねりつぶす威力を込めて、“あれ”の触手を捻じる。手応えはあった。捻じれ、つぶれたはずだ。だが、意に介さない。効果が発揮されても、効いていないのだ。


 触手が落ちる。

 地響きがアトを揺らした。全身の血の気が引く。ここからではどうなったのか見えない。


「あ……ああああああッ!!」


 アトはそこいらにある物をところかまわず撃ち出した。駄目だ。届かない。


「当……たれえええええええええッ!!!」


 ひどい頭痛を感じながら、アトは<物体操作(キネシス)>の出力を上げる。どこかが切れたのか、アトの鼻から血が流れ落ちる。

 ぐわん、と不自然に“それ”の体が揺れた。効き目があった。届いた。


 闇の汚泥の中に浮かぶ目玉がぐるりと動いた。アトの方を向く。

 咄嗟にアトは壊れかけた壁を遮蔽物として身を隠す。見つかってはいけない気がしたのだ。息がしても見つかる。心臓の音がうるさい。そんな時間がどれくらいか経過した後、空気が緩んだ。視線が外されたのだ。

 ゆっくりと空気を震わせながら、“あの”巨体が動いていくのが分かる。


「冒険者ギルド……魔術師ギルド……みんなは、どうなったの……?」


 アトは詰めていた息を吐き、貪るように空気を吸いながら、弱々しく呟いた。

 一人じゃ勝てない。勝てるわけがない。戦力を、集めないといけない。

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