78話「とぅー れいと」
中央都市図書館は閑散としていた。
この非常事態に業務を停止しているのだろう。人の影は見当たらない。
アトは入り口に辿り着くと、そっと扉に触れた。施錠されておらず、ゆるく開いていく。
ひやりと冷たい空気がアトに触れた。室内から吹いてきた風に身が竦む。
「…………」
扉は少し押すと軋みながら開いていく。
ようやくそこでアトは間違いに気付いた。人が居ないんじゃない。“居なくなった”というのが正しいんじゃないかと。
ほの暗い図書館内は“雫”に満ちていた。アトの目の前にはうす青い【接合点】が大量にばら撒かれているのが視えていた。
アトはそっと触れる。
――――
「やめろ! やめてくれ!!」
ずるずると引きずられる男性。手に持っていた本を投げ捨てて、何とか逃げようともがくが、闇色の巨漢が逃がさない。人型はしていても、人間のフォルムではない。上半身だけが異様に大きい、膨張したような歪な姿。
「助けて!」
ごきりと鈍い音がして、男性の首があらぬ方向へ曲がる。折ったのだ。
虚ろな瞳がこちらを見て、
――――
見間違いようがない。アディリンの姿がそこにあった。
闇色のドレスを纏い、艶然とした笑みを浮かべている。
両手と両足を“犬”に噛み付かれたままの女性が、うめき声を上げている。服装を見るに、おそらく館長クラスだろう。
その彼女に、まるで友人のように話しかける。
「ねえ館長。希少書庫の鍵はどこ?」
「し、知らない!」
「そう? 残念ね」
アディリンは館長の額にするりと指を押し当てた。にんまりと笑みが深まる。
<過去視>だ。
視ているのだ。
覚えていることに鍵はかけられない。
「そう。異空間に収納する魔術庫。鍵は貴女の眼球なのね」
館長の顔が真っ青になる。
アディリンがわざわざ口に出して言う理由は無い。いたぶっているのだ。
アディリンが手を掲げ。
――――
ふっ、とアトは現在に戻ってきた。
まるで血しぶきだ。恐怖、後悔、断末魔。感情の爆発が強い程【接合点】は残りやすい。
アトは唇を引き結んだ。
いつもの癖で直剣を引き抜こうと腰に手をやる。そこに得物は無い。先ほどの戦闘で折れ飛んだので置いてきたことを思い出す。
「行こう。追いつく」
自分を励ますためにアトは声に出して言う。
アトの心の中は荒れていた。恐怖よりも怒りの方が強い。冷静さを失わないようになんとか押し殺しつつ、アトは動きだした。
先ほどいくつか視た<過去視>から、希少書庫の場所は分かっている。ここから隠し通路を通った先の地下階だ。アトは迷うことなく隠し通路を見つける。アトの<過去視>がすごいというよりは、アディリンが通ったことによって開けっ放しになっていたのだ。書棚がまるごと一つ扉のようにして開いている。その奥には地下への階段。
近くの【接合点】を確かめると、アディリンは入ったものの、まだ出てきていない。
かろうじて、間に合ったのかもしれない。
アトが階段に足を掛けた瞬間、唸り声が迫ってくるのを感じた。
正面からものすごい勢いで“犬”が疾走してくる。待ち伏せだ。階段を引き返す余裕すら与えない速度。退けば足は噛み付かれるだろう。
「止まれッ!」
ぎしっと空気が引きつった。“犬”は驚愕の鳴き声を上げる。
“犬”の体は浮いていた。“犬”自身にどうしようもない不自然な挙動。脚をばたばたと動かすが、浮かされた体ではどうしようもない。
アトは力を込めた。筋肉ではない。実体のない器官。<魔術>を使うのも似たようなものなのだろうか。場違いな感想が浮かぶ中、“犬”の体が真っ二つにへし折れる。
アトの<物体操作>だ。
「…………」
べしゃりと床に落ちた“犬”の体は一度バウンドすると、どろりと元の闇に戻った。そのまま焦げ臭い匂いを出しつつ塵へと還っていく。
アトは自分の手を見つめた。今の凶状を生み出した、自分の手を。
これまでアトの<物体操作>は、生きている物には効果がなかった。何か生きているものが降れていれば<物体操作>の効果が消える。
だが、そんなはずはないのだ。
“ギノスッス”に乗っ取られかけた時のことを思い出していた。あの時、対峙したシアンの腕を<物体操作>でへし折った。
そうなのだ。実際はどんなものであろうと、影響を与えることができる。それは、一体どれほど恐ろしいことだろうか。
腕や足を折ることのみならず、離れたところから心臓や内臓を握り潰すことも可能なのだ。
『死ね』と思った瞬間に相手を殺すことすら可能になる。
それが故のストッパーだったのだ。アトの精神がつくりあげた安全装置。
分かってしまえば、意図的に解除することができるはずなのだ。
「ぐっ……」
アトは呻いた。胸の奥がぐぅっと痛んだのだ。
狭い階段の壁に手をつき、深く息を吐いて落ち着く。何か、まずいことをしている自覚はある。“何か”を削っている気がする。
アトはそれでも前に進むことを選んだ。今ここには、アトしかいない。
階段を降りきると、複雑な形をした扉が待っていた。扉の脇の魔術装置に血痕が付いている。<過去視>をするまでもなく、さっきの館長さんが犠牲になったことが分かる。
すでに開いている扉をすり抜けるように通る。扉の先には、小さな書棚が並ぶ小部屋が待っていた。
彼女は居た。
一番奥に据えられた、一番立派な本棚の前。
闇色の巨漢を椅子代わりにして、経年を感じさせる色と質感をした本を手に持って。
「来たのね……。驚いたわ。まさか、“私”をも吞み込む精神の持ち主だなんて」
首だけアトに振り返り、アディリンは言う。
アトは迷った。アディリンはすでに<物体操作>の効果範囲。このまま屠るのがいいか。
それとも、あの“本”を奪う方がいいのか。
逡巡の末、アトは“本”を奪うことにした。
<物体操作>の力で手の中から弾き飛ばし、空中でそのまま細かく分解する。
「あら、もったいない。都市が買えるほどの希少本なのよ?」
アディリンの余裕に、アトは選択を間違えたことを悟った。
「残念。もう、“視た”あとなの」
――――闇が、蠢動する。




