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ハルカゼ

作者: Mark-V

◆◇◆


恋の話をしよう。


――とは言っても、そんなにたいそうな話じゃない。

自分自身、あの時の気持ちを"恋"と呼ぶのにはちょっと抵抗がある。


まだ子供だった頃の、ほんのりと甘い記憶……つまりはそういうことになるのかも知れない。


それは暖かい初春の出来事だった。

もう何年前になるだろうか? ようするに、それさえもあやふやになるくらいには昔の話ということだ。


その頃の俺は――いや、そうじゃないか。


その頃の"僕"は、とても身体の弱い子供だった。


入院するほど体調を崩すのも珍しくない。

それどころか、一月の内に二度も三度も入退院を繰り返すことさえあった。


そんな生活には慣れていたけれど、だからと言って寂しさや退屈を感じないわけもなく、入院中はいつだって母親と会える面会時間が待ち遠しくて仕方なかった。その気持ちをはっきりと覚えている。


そうだった。あの時も、僕は真っ白な病室のベッドの上で、ただじっと待ち続けていたんだ――


◆◇◆


広い二人部屋にぽつんと一人でいるせいか、それとも面会時間がまだ遠いせいなのか、ベッドを取り囲んだ空気はあまりに寂しく、耳鳴りがするほど静かだった。


だから、人の声が近づいてきて病室のドアが開いた時、少年は飛び上がりそうになるくらい驚いた。


「拓也くん、ごめんねぇ。ちょっとうるさくするよー」


医師と一緒になってストレッチャーを押しながら、若い女の看護士がくだけた口調で言った。何度も入院をしているせいで、彼女とはもうすっかり顔なじみである。


拓也は小さく頷き返すと、ストレッチャーに視線を向けた。どうやら新しい入院患者らしい。


(……同い年くらいの子だといいけど)


病院はいつでもベッドが足りず、パズルゲームのようにくるくると組み合わせが変わる。拓也一人で二人部屋を使っているのは、パズルの結果、たまたま組み合わせにあぶれたからで、そんなことはあまりない。ほんの数時間で病室を移されることさえあるし、今回だってこのまま同室になるとは限らないのだった。


しかし、たとえ短い時間であっても一緒に過ごす相手である。どうしても気になってしまう。


じろじろと見るのはよくないと思って、横目でこっそりストレッチャーの上を確かめる。かけられている毛布が邪魔でよく見えないが、拓也よりも身体は大きい。


「よし、ベッドに移そうか。僕が頭の方を持つから」


「はい」


白衣の大人二人は、窓際の空いたベッドにストレッチャーを横づけすると、毛布をさっと取り去って患者の身体を持ち上げた。


(え……?)


目の前の光景についていけず、頭が真っ白になる。


持ち上げられた身体は、確かに拓也よりも大きかった。なのに線の細さはそう変わらない。

だからと言って痩せ細っているわけでもなく、あちこちにわずかな丸みを帯びている。


薄い黄色のパジャマと肩口まである黒髪が、とても印象的で――

なにより女の子だった。


女の子と"お隣"になるのは初めてだ。しかも、相手はどうやら年上のようである。

一人っ子の拓也には、年上の女の子と関わった経験がほとんどない。


少女はよほど深く眠っているらしく、自分が拓也を驚かせているとも知らず、そっと目を閉じている。


「っしょっと――先生、アレつなぐんですよね?」


「うん、大丈夫だとは思うけど一応そうするつもり」


医師たちは慣れた手際で女の子をベッドに寝かせると、横たわった身体を片側だけ起こさせた。それがちょうど拓也に背中を向ける姿勢だったおかげで、彼女の顔が見えなくなり、拓也はなんとなくほっとする。


けれど、それも束の間のことだった。


「じゃ、このまま押さえといて」


医師がそう言いながら、いきなり女の子のパジャマを脱がせた。

なにもつけていない彼女の背中が拓也の目に飛び込んでくる。


少年が呆けた瞳で見つめる中、あらわになった上半身に薬剤が塗られて、ベッドの脇にある機械のコードが次々と貼りつけられていった。


ああ、あの機械はそういうふうに使うんだ――拓也は、ぼんやりと納得する。使われているところを一度も見たことがなかったので、なんのために置いてある機械なのかと以前から気になっていたのだ。


……他にも色々と、取りとめのない考えが泡のように浮かんでは消えていく。その間もずっと拓也は隣のベッドを眺め続けた。


声をかけられたのは、そんな時である。


「あ……拓也くん、少しだけアッチ向いてくれるー?」


拓也の様子に気づいた看護士が、ほんのちょっと意地悪そうな笑みを浮かべて言った。


「!!」


そこでようやく、自分の見ているものが"女の子のハダカ"だと気づき、あたふたと言われた通りにする。


恥ずかしさで顔が熱くなった。それはいけないことだと、知っていたはずなのに。"ハダカ"を見てしまったこともそうだけれど、その意味に気づけなかった自分が、なにより恥ずかしかった。


後ろから聞こえてくる音が、やけに大きく感じられる。

拓也は首を無理な角度にひねったまま、落ち着かない気持ちで時間が過ぎるのを待った。


それからどれくらい経ったのか――いつの間にか音はほとんど止んでいた。最後に、ばさりと布団をかける気配がする。


「はい、っと。拓也くん、もういいよー」


言われてもすぐには振り向けず、拓也はぎこちなく顔を元の位置に戻していく。そうしながら視線の端で怖々と隣のベッドを確認する。


窓から降りそそぐ春の陽射しの中、彼女は眠っていた。呼吸をしているかどうかさえわからないくらい、ぴくりとも動かず、ただ静かに。


女の子の寝顔を間近で見ることに慣れていないせいか、目を奪われてしまう。


「ねぇ、拓也君にひとつお願いがあるんだけどいいかな?」


看護士に声をかけられて、拓也はようやく少女から視線を外した。

お願い? 不思議そうな顔をする拓也に、看護士は言葉を続ける。


「この子、もう二日も眠ったままでね、みんな心配してるの。だから、この子が起きたら教えてくれる? ほら、そのナースコールで」


ずっと眠ったままの女の子……なんだか童話みたいだ。


そんなことを考えながら拓也が頷くと、看護士はにっこり笑った。その後ろで医師も微笑んでいる。きっと嬉しいことがあったのだろう。


「ありがとう。それじゃ、お願いね」


二人の大人が病室を出ると、拓也のまわりは急にまた静かになった。

……けれど、さっきまで感じていたはずの静寂はもはやない。


かわりに奇妙な居心地の悪さが、拓也の胸をざわつかせていた。

どうしても隣が気になり、とにかくそわそわとしてしまう。


気をそらそうと漫画を読んでも、まるで頭に入ってこない。

携帯式ゲームの電源を入れてもみたけれど、おかしいくらい何度もやられるのですぐ嫌になる。


しばらくそんなことを繰り返して――結局、あきらめた。


気になるなら素直に見てしまえばいいのだ。どうせ相手は眠っているのだから、眺めていたって怒られるわけじゃない。


彼女は相変わらず眠ったままだった。

病院に運び込まれたということは、そういう病気なのだろうか?


身体を持ち上げられてもコードを貼りつけられても目を覚まさないなんて、寝起きのいい拓也には想像もできない。あそこまでされたら普通は起きるだろう――


ああ、そうか。それでも起きないのは、きっと身体がおかしくなっているからだ。そういうことなら病気というのも理解できる。


(本当に、起きるのかな)


だんだんと、そんな気がしてきた。もう二日も眠っているというし、病気であればなおさら……


「ん、ぅ……」


そのかすかな声に、心臓が跳ね上がる。


驚きながら彼女を見ると、瞼がむずがるようにぴくぴくと動いていた。

呼吸のリズムも変わり、はっきりとわかるくらい胸が上下している。


なにが起ころうとしているのかは一目瞭然だった。

状況を理解した途端、全身から汗がどっと噴き出してくる。


たった今そのことを疑ったばかりなのに、なぜこうなるのか。

いや、そんなことよりもどうしよう、どうしたらいい――?


答えが出るよりも先に彼女は目を開けた。眩しそうに目を細めながら、身体は起こさず視線だけで病室をぼんやりと見まわす。


「…………」


あっという間に目が合った……合って、しまった。


寝起きの無防備な瞳に見つめられて、焦りさえどこかへ吹き飛んでいく。

なにも考えられなくなり、拓也は自分でも気づかずに呼吸を止める。


「……きみ、だれ……?」


「!!」


少女の声を聞いた瞬間、まるで解き放たれるかのように看護士の言葉が頭を駆け巡った。


――この子が起きたら教えてくれる?


我に返った拓也は、急いでナースコールに手を伸ばした。

ボタンを押すと、ほどなくスピーカーの向こうから声が聞こえてくる。


『はい、どうしましたー?』


「あ、あのっ……隣のひと、起きたんですけどっ……」


それが、ほんのわずかな二人の日々の、始まりを告げる合図になった。


◆◇◆


「うん、とりあえず問題ないでしょう。眠ってる間にやった検査でも異常は出なかったから」


診察の最後に医師はそう言った。――隣のベッドにいる拓也にも、はっきりと聞こえる声だった。

成長期がどうとか、ホルモンのバランスがどうとか、そんな言葉もちらほらと耳に入ったが、拓也にはさっぱり意味がわからない。


当事者である少女はベッドの上で身体を起こし、静かに医師の話を聞いている。貼りつけられていた機械のコードは診察の途中で外されていて、その点だけを見れば、もうどこにも不自由はなさそうだ。


「まあ、経過観察と再検査でしばらくは入院だね。えぇと、他にはなにかあったっけ……そうそう、運び込まれた時はお母さんも一緒だったんだけど、今ちょうど荷物を取りに帰ってるんだ。面会時間までには戻るつもりだって言ってたよ」


「あ、はい……」


答える少女の声には、まだわずかに戸惑いの気配があった。

そんな彼女に、今度は看護士が声をかける。


「なにかあったら遠慮なく私たちを呼んでくださいね。ナースコールの説明は……しなくても大丈夫かな? ボタンを押すだけだし。――それに、いざとなったらお隣の拓也君もいるし」


顔見知りの看護士が最後につけくわえた言葉は、拓也をぎくりとさせた。

思わず振り向いた少年に、看護士はちらりと面白がるような笑みを見せる。


「拓也くんはね、さっきも隣の人が起きたよって知らせてくれたの。しっかりしてるでしょう?」


「…………」


少女の視線を感じて、拓也は頭から布団をかぶってしまいたくなった。

なぜそうしたくなるのかわからないけれど、とにかくどこかに隠れたい。


「じゃ、僕らはそろそろいくから。……あんまりからかっちゃだめだよ」


「あはは、すいません。つい……」


小声のやり取りを残して病室のドアがぱたんと閉まる。

それを最後に周囲から会話が消え――それっきり、だった。


病室が静かなのも、そのせいで廊下の音がよく聞こえるのも、いつものことで普段と変わらない。

なのに、静けさがこんなにも気になるのはなぜだろう?


拓也はいつの間にか寂しさも退屈もすっかり忘れていた。

しかし、いつもとは違った意味で面会時間をとても待ち遠しく感じる。


その気まずい沈黙を破ったのは、彼女から。


「……ねぇ」


声をかけられた瞬間、驚きすぎて身体がびくっと跳ねてしまった。

幽霊に肩を叩かれたかのような表情で、拓也はそろりそろりと首をまわす。


少女が、拓也のことをじっと見つめていた。拓也ほどではないにせよ、彼女の表情もどこか強張っていたが、そのことに気づける余裕など少年には残されていない。


「あの……ありがとう、お医者さんに知らせてくれて」


拓也は声も出せずに首を振った。

ありがとう――その一言がぐるぐると頭をかきまわす。


「わたし由実っていうの。久野下、由実。中学生」


「……拓也」


そう答えるのが精一杯だった。拒絶と受け取られても言い訳できないほど声が硬くなっている。

けれど、それでも少女はホッとしたように表情を緩めた。


「うん、知ってる。さっき看護婦さんがそうやって呼んでたから」


彼女が"看護婦"と言ったことに、拓也は目を丸くする。

本当は看護士と呼ぶのが正しいと、いつか母親から聞かされたことがある。


目の前にいる少女は普段あまり病気をしないのだろうと、そんなふうに思った。

病院のことに詳しくないようだし――相手が自分と同じ境遇かどうかくらいは、拓也にだって見ればわかるのだ。


彼女をほんのちょっと理解できたような気になり、そのおかげか少しは気持ちが落ち着いた。絡まった頭の中を整理しながら、拓也はやっとのことで答えの続きを口にする。


「風見拓也……小学校の、四年生」


「そっか。拓也くん、四年生なんだ」


「……うん」


たったそれだけで、あっけなく会話が途切れてしまう。

拓也はもちろん、由実もその先のことは考えていなかったらしく、困った瞳をあちこちに彷徨わせている。


結局、さっきよりも面会時間が待ち遠しくなった。


いっそ漫画を読もうか、なんて考えが拓也の頭をかすめる。

たとえ読んだ気がしなくても、この沈黙にただ耐えるよりはずっといい。


しかし、いきなり漫画を読み始めるのは、いくらなんでも不自然だろう。

会話を避けていると大声で叫ぶようなものだ。今より気まずくなるのは目に見えている。


それに、できれば彼女を置き去りにするようなことはしたくなかった。

どう喋ったらいいかわからないだけで、なにも嫌っているわけではないのだ――


(ああ、だったら……)


煮詰まりかけたところで唐突に名案が閃いた。

一人で読むのがだめなら――二人で読めばいいじゃないか。


早速、拓也はベッドの脇にある収納から漫画を取り出すと、その表紙を、ほとんど突きつけるような勢いで由実の視線に割り込ませた。


彼女は意図をつかめずに、きょとんとした顔で拓也と漫画を見比べる。


「えっ、と……?」


「……読む?」


拓也が仕方なくそう尋ねると、由実はもっと驚いた表情になった。


「貸してくれるの?」


確かめるように言いながら由実がベッドから手を伸ばし、そっと漫画の反対側に触れる。

一瞬、指先に彼女を感じた気がして拓也はどきりとする。


「あ、これ知ってる。テレビでもやってるよね」


動揺する少年から漫画を受け取った由実は、ぱらぱらとページをめくりながら楽しそうに言った。

どうやら気に入ってくれたらしい。そのことに安心して拓也は息をつきかけ……


「読んでみたいなって、ちょっと思ってたんだ。――ありがとう」


吐けずに呑み込んだ空気が、喉の奥で小さく音を立てた。


拓也の奇妙な反応に気づくことなく、由実はそのまま漫画を読み始める。

――すると、拓也だけがなにもしないでいるのはおかしいような雰囲気になってしまった。


仕方なく拓也も漫画を開いたけれど……やっぱり隣が気になる。

しかも、彼女が眠っていた時とは違って、気になっていることを隠さないといけない――いけないと思うのだ。


漫画を読んでいるふりで無関心を装いながら由実の横顔をちらちらと見ては、気づかれそうになると急いで目をそらす。

そんなふうに、気持ちを誤魔化すだけの時間がじりじりと過ぎていく。


けれど、空回りを続けるにも限界はあった。


緊張に慣れたのか、あるいは単純に気を張りすぎて疲れたのか。

どちらにしろ、時間が経つにつれて隣を気にすることも少なくなり、拓也はいつの間にか漫画を読むことに没頭していた。


本のページをめくる音だけが、ぱらりぱらりと病室の空気を揺らす。

まるで図書館のような静けさが、時計の音と一緒に流れていく。


――やがて病室のドアが、がちゃりと鳴った時には、拓也も由実も漫画を読み終わる寸前だった。夢中になっていた二人は我に返って、ほとんど同時に顔を上げる。


ドアから中に入ってきたのは拓也の母だった。


拓也は驚きながら時計を確かめる。すると、いつの間にか面会時間が始まっていたのでさらに驚いた。

由実と二人きりで過ごす時間は、ようするに長かったのか短かったのか。もうよくわからない。


拓也の母は病室に入るなり息子に向かって口を開きかけたが、隣のベッドが埋まっていることに気づいて一瞬だけ言葉を止めた。


「あら……こんにちは」


見知らぬ大人からの挨拶に由実は言葉を返せず、控え目な会釈で答える。

拓也の母は同じように会釈をすると、少女からあっさり視線を外した。突然の親しげな会話は相手を困らせるだけだと知っているのだ。


「拓也、調子どう? お母さんがいない間なにかあった? 発作とか」


「ううん、なかった」


「そう、ならよかった。……ねぇ、新しいパジャマ持ってきたから今のうちに着替えちゃおうか。ついでに身体も拭いてあげる」


尋ねるような口調とは裏腹に、母は拓也の答えを待たず、肩にかけていた荷物を置くと、二つならんだベッドの間にある仕切りのカーテンを広げた。


「ちょっとごめんなさい。ここ閉めますね」


「あ……はい、どうぞ」


カーテンを引きながら、母が隣の少女と短い言葉を交わす。

声につられて拓也がそちらを見ると、カーテンに遮られる寸前、由実とわずかだけ目があった。


母はレールの端まできちんと仕切りを閉じてから、着替えを出したりタオルをお湯で濡らしたりと手際よく準備を終えた。

慣れたもので、息子の身体を拭いてやる手つきも看護士顔負けだ。


「新しい子きたんだね。女の子なんだ。……今までそんなことあったっけ?」


隣にいる少女のことが話題に上ったのは、身体を拭き終えた後だった。

新しいパジャマに着替えながら、拓也も母に合わせて小声になる。


「ない。初めてだよ。すごく驚いた」


「だよね、お母さんもびっくりした。挨拶くらいしたの?」


「……少しだけ。クノシタさん、だって」


彼女の名前を口にするのが気恥ずかしくて、苗字だけを教えた。

息子の口調になにかを感じたのか、母が「ふぅん」と微妙な声を漏らす。


その時、また病室のドアが音を響かせた。

まだ検診の時間ではない。食事の時間でもない。――拓也は、誰が入ってきたのかをすぐに理解する。


「あ、お母さん。遅かったね」


「由実……! 遅かったねって、なにを暢気なこと言ってんの……」


拓也の想像通りだった。荷物を取りに帰っていた由実の母が戻ってきたのだ。


「あーもう、よかったぁ。あなた二日も寝てたんだからね? 呼んでも揺さぶっても起きないし……本当に心配した」


「えぇと……そう、なんだ。ごめん」


困ったような由実の声に続いて、大きなため息が聞こえる。


「言ってもわかるわけないか。寝てたんだものね。……それより、もう起きて大丈夫なの?」


「大丈夫だよ。なんともないから」


「それはお医者さんが決めることでしょ。いいから寝てなさい」


「……はーい」


どこか身に覚えのある会話だった。拓也たち親子も、よく同じようなやり取りをする。

拓也にとっては年上でも、由実だって誰かの子供なのだ――そんな当たり前のことに、拓也は今さら気がついた。


「しばらくは気をつけなさいね。とにかく、着替えとか色々持ってきたから、ここに……あら? 由実、その本どうしたの?」


「拓也くんに借りた。――あ、隣のベッドの子だよ。わたしが起きたこと、お医者さんたちに知らせてくれたのも、拓也くんなんだって」


その瞬間、拓也はぎくりと固まった。

一緒に会話を聞いていた母が、驚いた顔をして息子に尋ねる。


「そうなんだ?」


「……うん、起きたら教えてって頼まれたから」


「へぇ、偉いじゃない」


そんなことを話していると、カーテンの向こうに人影が立った。


「――あの、ここ開けても大丈夫ですか?」


「あ、はーい。どうぞー」


母が答えながら立ち上がったのと同時に、外側からカーテンが開かれる。

そこから顔をのぞかせたのは、拓也の母親と同年代の女性――誰なのかは考えるまでもなかった。


「突然ごめんなさい。今日から隣でお世話になります、久野下です。よろしくお願いします」


「風見です。ご丁寧にすいません。こちらこそお願いします」


挨拶を交わして、深々と頭を下げる母親たち。

それは、新しい患者が入ってきた時の儀式みたいなものだ。母がそうするのを、拓也は何度も見ている。


「それで、ウチの由実から聞いたんですけど、拓也くんが、由実のことをお医者さんに知らせてくれたって……」


「みたいですねぇ。今ちょうどその話をしてたんですよ」


それを聞いた由実の母は、拓也に向かって微笑んだ。


「拓也くん、ありがとう。なんだか本まで貸してもらっちゃったみたいで――これからも由実と仲良くしてあげてね」


拓也自身もこういう会話には慣れている。だから、緊張もせず素直にこくりと頷いた。


「あらぁ……まだ小さいのにしっかりしたお子さんで、もうホント羨ましい」


「やだ、全然そんなことないんですよ。一人っ子だし、我がままに育っちゃって」


そうした会話もまた儀式の一つではあるのだが……毎回毎回、我がままだと言われる拓也からすれば、迷惑以外のなにものでもない。

もしかして由実にも聞こえただろうか? 聞こえてないといいのだけれど。


拓也が隣を気にしている間に、母親たちの会話はずいぶんと盛り上がっていた。どうやら気が合ったらしい。

そうなると、子供である拓也たちも無関係ではいられなくなる。


「そうそう。由実ちゃんさえよければなんですけど、このカーテン、開けちゃってもいいですか?」


「ああ、どうぞどうぞ。閉めるとずいぶん暗くなっちゃうみたいですし。それに、一人だと拓也くんも退屈でしょうから」


なぜいきなりそういう話になるのか、拓也にはちっとも理解できなかった。

しかし、理解できようとできまいと、母親がそうと決めたら従うしかないのだ。少なくとも拓也にとってはそう。


「一応、ウチの子にも聞いてみますね……由実、ここ開けても平気?」


「え? ――うん、いいよ。大丈夫」


由実が答えると、母親たちは早速、仕切りのカーテンを開けた。


「こんにちは、隣の風見です。ウチの拓也のこと、よろしくね。よかったら話相手になってあげてくれる?」


「あ、と……はい。あの、よろしくお願いします」


そうやって簡単に挨拶をすませると、母たちはまた世間話に戻っていった。


「それにしても女の子と同室になるなんて驚いちゃいました。由実ちゃん、中学生くらいですか? もっと小さい子ならわかるんですけど」


「ですよねぇ? でも、なんだかベッドが空いてないらしくて……」


母親からすれば、我が子のお披露目も会話の一環である。なにか思惑があって挨拶をしたりさせたりするわけではない。


だから、挨拶を終えた後の子供たちは、大抵、蚊帳の外に取り残されてしまう。

母親たちが世間話をしている間の決して短くはない時間を、場合によっては初めて会った子供同士でやり過ごさなければいけなくなる。


そんな時、子供は子供なりに気まずい思いをするものだが、拓也と由実の場合、そのあたりの気まずさはもう味わった後である。


「……ねぇ、拓也くん」


所在なくぼんやりとしていた拓也に、隣のベッドから由実が小声で話しかけた。今度こそ驚いたりせずに拓也は顔を向ける。


「これ、もう読み終わっちゃった。ありがとう」


そう言って手を伸ばす由実から、拓也は黙って漫画を受け取った。

面白かった? そんな言葉も思いついたけれど口にはできない。


由実とのつながりが切れてしまった気がして、ちょっとだけ寂しくなった。


そんな拓也の気持ちを知ってか知らずか、由実は、漫画を返した後も拓也を見つめたままで、なにか言いたそうにしている。


拓也が不思議そうに首を傾げると、由実は意を決したように口を開いた。


「拓也くん、この漫画たくさん持ってるの?」


「……うん、一番新しいのまで全部ある」


「それじゃ――」


由実は一瞬だけ迷ってから、はにかんだ笑みを浮かべる。


「続き、借りてもいい?」


思わずきょとんとした後に……もちろん拓也は「うん」と答えた。


◆◇◆


ようするに、最初の壁を乗り越えてしまえば後は簡単なことなのだ。


出会った翌日の昼下がり。昼食が終わってから、もう小一時間が過ぎている。

この頃になると、拓也と由実はなんの気負いもなく言葉を交わせるようになっていた。


午後の面会時間まで病室に訪問者はなく、話相手は同室の患者だけなので、そもそも選択肢など限られている。

そういった環境のおかげもあって、二人の距離はあっという間に縮まった。


――だから、隣のベッドで由実がごそごそとなにかを始めた時、拓也は自然とその疑問を口にできた。


「なに、やってるの?」


「うん? ……ちょっと待ってね。すぐにできるから」


悪戯っぽい笑顔にはぐらかされて、少年は仕方なく口を閉じる。


由実は、ベッドに取り付けられたテーブルの上に、なぜかティッシュを広げていた。

しかも、二枚一組になっている本来の形から、わざわざ一枚を丁寧に剥がしている。もっと薄くしたい、ということだろうか。


拓也は首を傾げながら、黙って由実のすることを眺めた。……なにしろ他にやることがない。


つい先ほどまで、拓也たちは昨日と同じように漫画を読んでいた。けれど、今はもう読むのをやめている。

理由は単純で、持っている漫画を残らず読み終わってしまったからだ。


途端にやることがなくなったのは言うまでもない。読んだ漫画の話もそう長くは続かず、お互いに黙ることが多くなり――

やがて由実が唐突にティッシュを広げ始めた、というわけである。


「あとはこうやって、と」


由実は、拓也からもよく見えるようにティッシュを持ち上げると、その角を軽くつまんで、擦るように指先を動かし始めた。

少女の細い指が動くたびに、つまんでいる部分からティッシュが捩れていく。平面だった薄紙はするすると細くなって……最後には一本の紐になった。


「……こより?」


拓也が小さく呟いたのを聞いて、由実は意外そうに目を丸くする。


「すごい、知ってるんだ……うん、紙縒りだよ。学校でちょっと流行ってるの。ドラマでね、主人公がこういうことをするシーンがあって」


そのドラマなら拓也も知っている。母親の横で一緒に観たことがあるのだ。ゲームをやりたい拓也にとっては不本意な時間だったが。


「小学校はどう? 女の子たち、こういうことやってない?」


さらりと尋ねられて、拓也は言葉に詰まる。――学校のことはよくわからない。しばらく、いっていないから。


病院のベッドで過ごせば過ごすほど、少年は取り残されていく。それは避けようのないことだ。

いつからか慣れてしまったその事実を突きつけられて、ずしりと心が重くなる


最近は発作もないし、そろそろまた学校にいけるだろうか? ……そんなことを考えていると、由実は納得したように頷いた。


「そっか、聞いてもわからないよね。拓也くん、男の子だもん」


少年の沈黙を別の意味に受け取って、彼女はまたティッシュを弄り始める。

余計なことを言わずにすんだ拓也は、こっそりと安堵の息を漏らす。


拓也が暗い考えを頭から追い出すまでのわずかな間に、由実は二本目の紙縒りを作り終えた。

しかし、そこまではただの準備だったらしい。


「あとはこの紙縒りを……ほら、こんなふうにするの」


そう言いながら、まずは一本目の紙縒りで輪を作り、その輪の中を通すように、もう一本も輪の形にする。

――まるで手品のように、二本の紙縒りがしっかりとつながった。


出来上がったものを拓也に見せて、由実は少しだけ得意そうな顔をする。


「どうかな? お祭りみたいでちょっと面白いでしょ、こういうの」


七夕の笹飾りを思わせる綺麗な紙細工が、少女の手の中でふわりと揺れている。

もとはただのティッシュだったはずなのに、そうは見えないほどの出来栄えだった。


……確かに、なんだか面白そうである。


長い入院生活のせいで、実のところ拓也は漫画にもゲームにもだいぶあきていた。

ちょうど、なにか他のことがしたいと思っていたのだ。


少年らしく瞳を輝かせた拓也に、由実は確かめるような口調で尋ねる。


「拓也くんもやる?」


小学校の教室で同級生の女の子に同じことを言われたら、拓也は間違いなく首を横に振っていたはずだ。

けれど、今ここにいるのは拓也と由実の二人だけで、誰かの目を気にする必要はない。そうなると答えは簡単だった。


「――うん、やる」


少年が頷くのを待って、由実は「じゃ、一緒にやろうか」と微笑んだ。


「ティッシュは持ってるかな? 箱のやつ」


「あんまり使ってないから、まだあると思うけど……」


年上の少女に教わりながら、拓也も一緒になって紙縒りを作り始める。

まずはティッシュを机の上に広げて、端からゆっくりと二枚に剥がし――


「……あっ」


「ん、切れちゃった? そこはね、こうするといいよ」


最初の頃は、手つきがおぼつかずに何度も失敗した。しかし、慣れてくると嘘のようにはかどり始めて、紙縒りの数はたちまち増えていく。

紙縒りがある程度の数になると飾りにして、それが終わるとまた紙縒りを作って……単純なことの繰り返しを、飽きることなく続ける。


もちろん、ただ黙々と紙縒りを作っていたわけではない。その間にも、拓也と由実は色々なことを話した。

漫画のことやテレビのこと、家のことや学校のこと、他にもたくさん。


「ねぇねぇ、四年生って今はなにを勉強してるの?」


「?? 算数とか、国語とか」


「……あは、そうだよね。確かにそうなんだろうけど」


それは漫画を読むよりもずっと楽しい時間だった。

出来上がった紙縒りの数が増えるたびに、もっともっと楽しくなる。そうやって拓也は新しい遊びに夢中になっていく。


いや、そうではないのだろう。


「あ、すごく綺麗にできてる。拓也くん、わたしより上手かも」


少年が夢中になったのは、きっと……少女がくれる言葉の一つ一つに、だった。


◆◇◆


「拓也くーん、久野下さーん、検温の――わっ、なにこれ?」


病室に入ってきた看護士が、ドアを開けた格好のままで大げさに驚いた。

その様子をベッドの上から見ていた二人は、こっそりと視線を交わし……堪えきれずにくすくすと笑ってしまう。


「うわぁ……」


感心しているのか呆れているのかわからない声で言いながら、看護士が病室を見まわす。

……表情からすると呆れているのかも知れない。


看護士の彼女が呆然と見ているのは、病室のあちこちに飾られた紙細工である。もちろん、すべて拓也と由実が作ったものだ。


二人が紙細工を作り始めてから、もうずいぶんと時間が経っており――その結果、病室は飾りだらけになっていた。

実のところ作った本人たちも、ちょっとやりすぎたかな、とは思っている。


「この飾り、二人で作ったの?」


尋ねられた拓也と由実は、弾ける寸前の表情で頷いた。

すると、看護士の顔にどこか満足そうな苦笑いが浮かぶ。


「二人ともずいぶん仲良くなったね、まだ二日目なのに」


ため息混じりの言葉を聞いて、拓也は今さらながらに気がついた。

考えてみると、たった二日で同室の患者とこんなに仲良くなったのは初めてだ。看護士に言われるまで、そのことに思い至らなかった。


途端に気恥ずかしくなり、胸の奥がぐっとつまる。


隣のベッドでは、由実もやはり居心地が悪そうにしていた。

けれど、拓也とは違って、ただ恥ずかしがっている、という顔ではない。くすぐったいような、それでいて柔らかな、どちらかと言えば看護士が見せた苦笑に似ている。


年上の少女はきっと、拓也がまだ知らないなにかを知っているのだろう。だから違った表情になる。

はっきりとではないけれど、そのくらいなら拓也にも理解できた。


それでも由実が笑っていることに変わりはない。彼女の笑顔に、幼い少年は心を弾ませる。だんだんと嬉しくなってくる。

いつしか恥ずかしさや戸惑いは消えて、拓也も由実たちと一緒に笑った。



――そんなふうに、笑いながら春の一日が過ぎていく。



看護士が検温を終えて戻っていった後も、病室の紙飾りはたくさんの人たちを驚かせた。

医師や母親たちはもちろん、噂を聞いた担当外の看護士までわざわざやってきて、誰もが病室の様子に目を丸くした。


診察にやってきた医師は、「元気だからって無理しちゃダメだよ」と笑いながら言った。


面会にきた母親たちは、「あんまり散らかさないようにね」と言いながら笑った。


病室を訪れた人たちの笑顔の数だけ、拓也と由実も一緒になって笑った。


誰かと一緒に笑うのは本当に久しぶりで、とてもとても楽しくて……

たぶんそのせいだろう。拓也は大切なことをすっかり忘れていた。あるいは当たり前すぎて、だからこそ見落としてしまったのか。


終わりは、"いつか"と呼ぶほどに遠くない――そのことを考えもしなかったのだ。


◆◇◆


彼女の周囲が慌しくなり始めたのは、出会いから数えて五日目のことだった。


「じゃ、いってきます」


そう言いながら車椅子から手を振ってくる由実に、拓也は思わず手を振り返した。

――やってしまってから、照れくさくなって後悔する。


けれど、少年は慌てなかった。こっそりと息を吐いて、どうにか表情を変えずにやり過ごす。

ここ数日、似たようなことばかりを繰り返していたおかげで、誤魔化すのがすっかり上手になっていた。


だが、自分は誤魔化せても大人の目は誤魔化せない。

車椅子に座った由実の背後から、嫌味のない含み笑いが聞こえてくる。


「ふふ、なんだかお姉さんと弟みたい」


いつもの看護士が、車椅子のハンドルを握って立っている。

彼女は、再検査を受けなければならない由実のために、つい先ほど、わざわざ車椅子を持って病室まで迎えにきたのだった。


しかし、由実はいかにも体調が良さそうで、車椅子が必要な状態には見えない。

検査室までの案内をするだけで十分じゃないかと、拓也には思えてしまう。


どうやら由実本人も同じことを思ったらしく、最初は「自分で歩けます」と一生懸命に言い張っていたが……


「いくら元気でも、検査の結果が出るまでは気をつけなきゃ。万が一なにかあったら大変でしょ?」


そんなふうに柔らかく説得されてしまい、結局はこうして車椅子を使うことになった。


そのやり取りがおかしくて拓也が笑うと、由実は拗ねたように頬を膨らませていた。

……不満そうにする彼女がとても子供っぽく見えて拓也はまた笑いそうになったけれど、そのことには気づかれなかったはずである。


「はい、そろそろいきますよー。落ちないように気をつけてくださいね」


「え……あの、落ちたりとか、あるんですか?」


わざと答えない看護士に車椅子を押されて、由実がちょっとだけ引きつった表情のまま病室を出ていく。

そうしてドアが閉まると――少年は一人になった。


数日ぶりの誰もいない病室は、なぜだか以前よりもずっと広いように感じられる。

なにをしたらいいのかわからなかった。ほんの数日で、由実がいなかった頃のことを、もう思い出せなくなっている。


拓也はふと隣のベッドに目をやった。

たたまれた薄手の布団、皺の残ったシーツと枕、飾ったままの紙細工……彼女の痕跡だけが、そこに取り残されている。


心の片隅で、微かな不安が首をもたげた。


はっきりとした根拠などない。しかし、多くの時間を病院で過ごしてきた経験が拓也に教えてくれる。

検査とは病状を調べるためのものだ。その結果、もう治療は必要ないと医師が判断すれば、彼女はここからいなくなるだろう。たぶん跡さえも残さずに。


拓也は、終わりの気配を敏感に感じていた。なのに、そのことがなぜ不安を呼ぶのか、わからずにいる。

幼い少年の内には、肝心なひと欠片がまだない。


けれど、時間はいつだって少年を待たず、足早に季節を追いやっていく。

通り過ぎたと気づいた時にはもう届かなくなっていて、届かなくなるまではきっと気づかない。


だから拓也は、由実が早く帰ってくればいいのにと、ただ素直に思った。

彼女と過ごす時間の続きを、ぼんやりと願うだけだった。


――結局、由実が病室を空けていたのは一時間足らずで、少年の願いはあっさりと叶えられた。

「ただいま」と微笑んだ彼女に「おかえりなさい」と小さく返して、拓也はこの日もまた彼女との会話に夢中になっていった。


しかし、翌日になると検査の回数が増えて、由実は頻繁に病室からいなくなった。


一人残されるたびに、少年の不安は大きくなる。

まるで潮が満ちるかのように、寄せては引いて、引いては寄せながら、少しずつゆっくりと。


それを止める方法は、どこにもなかった。


◆◇◆


由実が病室を空けるようになって二日が経とうとしていた。

オレンジ色の黄昏時を過ぎて、窓の外はもう暗くなり始めている。拓也はガラスに映った自分の顔を眺めながら、少女の帰りを待っていた。


由実は今日も相変わらず忙しく、そろそろ夕食の配膳が始まる時間だというのに、まだ戻ってきていない。

三十分ほど前に、外来患者の診療を終えた担当医師から呼ばれて、面会にきていた母親と一緒に病室を出ていったきりだ。


こんな時間になってまで検査だろうか? 自分のことでもないのに、拓也はうんざりと息を漏らす。


「ん? どうしたの、ため息なんかついて」


備えつけの椅子に座って雑誌を読んでいた拓也の母が、目を丸くしながらひょいと顔を上げた。

まだ大人とは言えない息子のため息を聞けば、親なら誰だって驚くに決まっている。


だが、驚きはほんの一瞬だった。母は隣の空いたベッドをちらりと見やって、それから納得したように目を細める。


「ああ、由実ちゃんがいないと寂しい?」


「……別にそういうのじゃ、ないけど」


本音を明かせば、寂しいという気持ちもなくはないのだ。

けれど、拓也は首を横に振った。それが一番大きな理由ではないと、なんとなく思ったから。


母は「そうなんだ?」とまるで信じていない口調で言って、閉じかけていた雑誌を広げる。

あっさり引き下がってくれたことにほっとして、拓也は思わず息を漏らしかけたが――またからかわれてはたまらないので、やっぱりやめておく。


拓也たち親子の会話が途切れると、ほどなくして由実が戻ってきた。


看護士が片手で器用にドアを開けながら、由実の車椅子を押して病室に入ってくる。

その数歩後ろには、なにも手伝うことがないせいかどことなく居心地悪そうな表情で、少女の母親が付き添っている。


「はーい、到着です。お疲れ様でした」


看護士は由実のベッドの前に車椅子を止めて、明るい声でそう言った。うながされて立ち上がった由実が、しっかりとした足取りでベッドまで歩いていく。……そんな頼もしい様子を見せられて、拓也は改めて車椅子の必要性に首を傾げたくなる。


――違和感に気づいたのは、その時だった。


やけに静かだなと思ったのがきっかけ。そういえば、先ほどからずっと彼女の声を聞いていない。いつもなら、戻ってくるなり「ただいま」と手を振ってきたりするのに。


どうしたんだろう? ……不思議と目が合わないのも、もしかしたらわざとそうしているのだろうか。

一旦考え始めると止まらなくなった。奇妙な焦りを覚えて、じわじわと鼓動まで速くなる。


由実はベッドに腰をかけたまま、窓の外に顔を向けていた。拓也に見えるのは背中だけで、彼女がどんな表情をしているのかはわからなかった。


彼女の変化を感じ取っているのは、どうやら拓也だけらしい。

少なくとも拓也の母はいつも通りだった。無人の車椅子を押して病室から出ていく看護士と短い挨拶を交わし、手もとの雑誌を片付けて由実の母親に話しかける。


「久野下さん、いつも大変ですよねぇ。また検査かなにかですか?」


「あ、今日は違うんですよ。検査の結果が出たからってことで、お話を聞きに」


「そうだったんですか。ああ、ならもしかして……?」


この時、拓也は母親たちの会話をちゃんと聞いていなかった。由実のことが気になり、それどころではなかったのだ。

だから、なんの心構えもないままに、その決定的な一言を耳にすることになってしまった。




「ええ――明日、やっと"退院"ですって」




その瞬間、拓也は息を呑んだ。……同時に、背を向けている由実が少しだけ身を固くしたように見えた。

母親たちは二人の様子にまるで気づかず、取りとめのない会話を始める。


「あらぁ、おめでとうございます。よかったですねぇ。なにごともなくて」


「おかげさまでどうにか。もう最初はどうなることかと思ったんですけど……」


周囲の音がどこかに遠ざかっていく。訪れた静かな世界の中、拓也は時間から切り離されたかのように硬直する。

瞬きを忘れた視線の先で、由実がやけにゆっくりと振り返った。


なにか言わなければ……そう思うのに口が動かない。拓也は息苦しさに戸惑い、どうしても声を取り戻せずにいた。

そんな拓也の様子を、由実もやはり口を開くことなく見つめている。


迷いの色を浮かべた彼女の瞳に――少年はようやく、別れの時がきたことを理解した。

真っ白になった頭の中に、先ほど聞いた母の言葉がぽつりと浮かぶ。


由実ちゃんがいないと寂しい?


その問いに、今なら頷いていたかも知れないと思った。


◆◇◆


「――拓也くん、まだ起きてる?」


夜だけは閉じるようにしている仕切りのカーテンの向こう側から、不意に由実の声が聞こえてきた。


もちろん拓也はまだ眠っていなかった。ついさっき消灯時間になったばかりだし――それに、なぜだか少しも眠ろうという気にならなかったのだ。


とても目が冴えてしまって、常夜灯もつけずにベッドの上でぼんやりとしていた。……こうして彼女が話しかけてくれるのを待っていたような、そんな気がする。


隣のベッドからそっと手が伸びて、カーテンが少しだけ開けられた。


目の頼りになるものは窓のブラインドをすり抜けてくる月明かりだけで、由実の表情はよく見えない。たぶん彼女からも拓也の顔は見えないだろう。

けれど、拓也はそれでいいと思った。――きっと彼女もそうだろう。


互いが望んだ通りに、二人は薄い闇の中で向かい合った。はっきりと顔を見ながらでは話すことができなかった、そんな話をするために。


「お別れ、だね」


聞こえてきた由実の声にはまだ躊躇の気配が残っていて、たった一息の短い言葉さえも途中で消えそうになった。迷いを抱えたまま、それでも自分から口を開いたのは、年上であることの責任を彼女なりに受け止めた結果だった。


それを察していたわけではないが、拓也は月明かりの中にいる由実の影をしっかりと見つめて、彼女の言葉を聞いた。顔が見えないからといって、目をそらすことなど思いつきもしなかった。少年の幼い心でも、逃げてはいけないとわかる。彼女と過ごした、短かいけれど確かな日々が、どうするべきなのかを教えてくれている。


なのに、口から漏れるのは、ため息のような呟きだけ。


「……うん」


本当はもっと言いたいことがあるような気がした。しかし、いくら探しても言葉が出てこない。結局、拓也は頷くことしかできず、そのかわりにぎゅっと手を握った。


少年が口を開けずにいる間にも、由実は続ける。


「色々ありがとう。わたしが起きた時、お医者さんに知らせてくれて……それから、漫画も貸してくれたよね」


由実と初めて会った日のことが、次々と少年の頭に浮かんだ。いきなり女の子と同室になって、拓也はとても戸惑ったのだ。なんだか恥ずかしくて、少しも落ち着かなかった。その気持ちを、まるで昨日の出来事のように覚えている。それが――こうして別れを惜しむほど彼女に近づいたのは、いつからだったか。


「わたし入院なんて初めてだったから、最初はね、一人きりで不安だったし、入院中はきっと退屈なんだろうなって思ってたけど……全然そんなことなかったよ。拓也くんのおかげ」


それは拓也も同じだった。由実がきてからは、寂しさや退屈など感じる暇もなかった。彼女のおかげで毎日がとても楽しかった。


この時、思ったことを素直に口にすれば――彼女のように「ありがとう」と伝えられたなら――もっともっと、色々な話ができたのかも知れない。だが、少年は寂しさを別の言葉にできるほど大人ではなかった。もどかしい沈黙の中、由実の声は暗い病室の空気に散っていく。


どのくらい黙り込んでいたのかはわからない。その間もずっと、拓也は必死に言葉を探すばかりで、前に進めず同じところをぐるぐると回っていた。


やがてカーテンの向こうで身体を動かす気配がする。


「……これも、そろそろ片付けなくちゃね」


まるで区切りをつけるように由実が口を開いた。紙縒りのことを言っているのだと、拓也はすぐに気がつく。

由実のベッドのまわりは面会時間の間にほとんど整理されていたが、紙縒りで作った飾りだけは、まだ片付けられておらず、そのままになっている。


当然、少女の母親は片付けるように言った。明日には退院するのだから、と。

けれど、由実は「もうちょっとだけ」と首を横に振った。そんな娘の反応になにか思うところがあったらしく、母親も無理には片付けさせようとしなかった。


それでも、いつかは片付けなければならない時がくる――由実は、それを今にすると決めたのだ。


「拓也くん……片付けるの、手伝ってくれる?」


決意をうながす声が耳に届いた。なにか返事をしなければと思うのに、拓也の心はまだ答えに追いついていない。返せる言葉なんて、あるわけもない。



「……うん」



拓也が頷いた瞬間、わずかだけ空白が生まれた。

しかし、すぐに隣のベッドから小さな声が返ってくる。聞こえづらかったけれど、それは確かに「ありがとう」と聞こえた。


ぼんやりとしか見えない由実の影が、近くにあった飾りをゆっくりと取り去っていく。

拓也も、飾られている紙細工の一つに手を伸ばす。


やけに冷たい手の中で、つながっていた紙縒りの輪がほどけていった。


◆◇◆


朝から、とても暖かい日だった。拓也にもわかるくらい、季節は本格的な春に近づいている。


今日がちょうど日曜日であることは誰にとっても幸運だった。日曜日や祝日の面会時間は午前十時からで、その時刻はもう過ぎている。拓也の母も、つい先ほどやってきた。おかげで、由実の母親は同室の子供に気兼ねせず、娘を色々と世話することができたし――拓也は一人きりで由実を見送らずにすんだ。


「由実、準備できた? なにか忘れ物はない?」


「んと、たぶん大丈夫」


そんな短い会話の後に、仕切りのカーテンがさっと開けられた。窓からの陽射しを遮るものが急になくなって、拓也は思わず目を細める。

カーテンを開けたのは、大きな荷物を肩にかけた由実の母親だった。その横にはもちろん、少女の姿が……


眩しさに目が慣れて、由実の姿がはっきりと見えた瞬間、拓也は驚いた。


彼女が着ているのは、春らしい淡い色のブラウスに、大きなプリーツが入ったスカート、それに薄手の上着だけだ。驚くような格好ではない。年頃の少女としては地味なくらいだろう。けれど、パジャマから普通の服に着替えた彼女は、ただそれだけで、今までよりもずっと大人びて見える。


そう、まるで知らない少女のようだった。


「私たち、そろそろ失礼しようかと思います。――本当にありがとうございました。風見さんには色々とお世話になっちゃって。拓也くんにも」


「いえ、お世話だなんてそんなことないですよ。由実ちゃんが拓也の相手をしてくれたおかげで、こちらこそ助かりましたし」


母親たちが最後の挨拶を交わしている横で、拓也は遠くなってしまった少女を見つめる。彼女は確かに年上なのだと思い知らされた。二人の間にある距離を、今になって初めてはっきりと実感してしまった。


挨拶を終えた由実の母親がなにも知らず声をかけるまで、拓也はしばらく呆然としていた。

由実の母親は、大人の優しさと鈍感さで、にこりと微笑みながら声をかける。


「拓也くんも頑張ってよくなってね。……由実、拓也くんに挨拶しなくていいの?」


言葉の最後で、由実の母親は娘にそう尋ねた。


別れならもうすんでいる。拓也にはそう思えたし、由実もそうだったらしい。少女はちょっとだけ困った顔をした。


彼女はどうするだろうかと思いながら、拓也は様子を見守った。その視線の前で、由実の右手が胸の位置まで持ち上がる。陽射しの中、彼女は同じくらいの温かさで微笑んだ。




「拓也くん――ばいばい」




そう言って小さく手を振ってくれた彼女に、拓也は手を振り返そうとした。

恥ずかしさは感じない。最後なのだから、ちゃんと挨拶をしようと思った。けれど、自由なはずの手はピクリとも動かず……


だから拓也は黙って頷いた。すると彼女もそうしてくれた。


「――それじゃ、お大事にしてくださいね」


「はい、久野下さんも」


母親たちの、その言葉が最後になる。もうなにも残っていなかった。


すべてを片付け終わった由実たち親子が、会釈をしながら病室を出ていく。由実は、廊下で少しだけ立ち止まって拓也を振り返り――そしてドアはあっけなく閉まった。


ドアが閉まるのを見届けた拓也の母が、ふうと息を吐いて椅子に腰を降ろす。


「いっちゃったね。……今日からまた一人だけど、大丈夫?」


「……うん、平気」


強がりでもなんでもなく、自分は平気だろうと思った。一人で過ごすのには慣れているから、きっと大丈夫――けれど、平気でいられる自分はあまり好きではない。


「それにしても今日は暖かいね。アイスでも買ってこようかな。よいしょっ……拓也も食べるでしょ?」


微笑んでいるような、少しだけ寂しいような表情で言いながら、母親が座ったばかりの椅子から立ち上がった。答えない拓也を気にするそぶりは見せず、そのまま病室のドアに向かう。


そんな母親の背中を見送ってから、拓也は隣のベッドに目をやった。


――そこにはもう誰もない。少女がいたベッドは綺麗に整えられて、あちこちを飾っていた紙縒りもすべてなくなった。あるのは、見慣れた真っ白なシーツだけ。


ぽっかり空いたベッドの、向こう側にある窓から、春の陽射しに包まれた外の景色が見えた。風がどこからか桜の花弁を運んで、薄桃色をひらひらと空に舞わせている。


窓はしっかりと閉じていて、風も花弁も病室には入ってこない。患者が体調を崩さないようにと、ここは季節からも切り離されている。


けれど、まるで春の風が吹き抜けていったかのように、わずかな温もりと寂しさがそっと少年の胸に残った。


◆◇◆


桜並木にひゅうと風が吹いて、春の吹雪が周囲を踊った。


そのおかげで我に返った俺は、ほとんど無意識に、花弁の行方を目で追いかける。

まるで思い出の中にいるみたいだ――風に散っていく桜を眺めながら、そんなふうに思った。我ながら感傷的で少々気恥ずかしいが、まあ、たまにはこういうのも悪くない。


少年だった"僕"が彼女に向けた感情は、空に舞い上がった桜の花弁と同じで、もはや手の届かないところにある。大人になった"俺"にできるのは、過ぎ去った想いを、こうして遠くから想像することだけ。


――あの気持ちはたぶん、年上の女の子に対するただの憧れだったのだろう。

そもそも彼女との時間はあまりに短すぎて、憧憬以外の想いが芽生える余地などなかった。


なにも叶わずに終わり、それでいて傷つきもしなかったのは、憧れだったからこそだ。

少年が抱いたのは、恋と呼ぶには足りない未熟な感情だった。




けれど、憧れは恋のようなものだから……やっぱりこれは恋の話だということになる。




あれからそれなりの年月が経ち、記憶はすっかり色褪せてしまった。

今でも心から離れない、なんて言えたらいいのだが、普段はあの時のことなど忘れている。


それでも今日のようにふとしたはずみで思い出すことがあって――そんな時、なんとなく考えるのだ。


今頃、彼女はどうしているだろうか?


彼女は、あの時の少年を覚えているだろうか?


もし覚えているとしたら……その記憶は、彼女の中でどんな思い出になっているだろうか?


つい、そういう益体もない想像をしてしまう。自分のことを"俺"と呼ぶようになった今でもだ。


季節は幾度も巡って、今年も春がやってきた。まだ少しだけ肌寒い初春の空気は、幼かった頃の残り香をほのかに含んで、どこか懐かしい。


だから俺は、あの日のような暖かい陽射しの中で、心地よい春風に吹かれながら――


こうしてまた彼女のことを思い出している。

ひと言でもかまいませんので、ご感想などありましたらぜひ。

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