シエラ
わたしの知る世界――
窓から見える限られた風景の世界。
本から文字で得られる知識の世界。
小さな小さな世界。
でも、この世界は広い。
プログレッソ、テネブライ、サブルーム。三つの大陸。
マリーベル、ザルバック、ラスティア。三つの大陸にある三つの大国。
それだけじゃない。世界には、他にも島があり、様々な国があり、沢山の人が生きている。
場所が変われば生活も変わる。そこには色々な世界が広がっている。
……けど、わたしは何も知らない。
だから、知りたい。
世界がどんなに広くて、どんな姿をしているのかを――
わたしは動き始めた。誰にも悟られないように、少しずつ。
昼間はいつも通りの自分で過ごし、夜になると計画の為に学び、準備をする。わたしの計画を知れば、両親は怒り狂うだろう。
怒られてもいい、わたしは知りたいの。…………知りたい?
わたしは世界に何を求めている?
それとも、何かを探しているの?
……分からない。
けど、ここに居ては知ることも探すこともできない。だから、わたしは行くんだ。
そして、とうとう決行の時が来た。わたしは、こっそりと部屋を抜け出し歩き始めた。
白い世界と冷たい空気がわたしを包み込む。
わたしの冒険が始まる――
◇ ◇ ◇
ヒラヒラと雪が舞い落ちる。街は雪で白く染まり、その寒さを際立たせる。
日が沈み太陽の熱を失った街は、雪でさらに白く覆われていく。しかし、赤みがかった石の敷き詰められた道に落ちた雪は、ジワリと溶けて積もることなく水になり消えていた。
夜になり始はじめた街では、外を歩く人の姿はぐっと減り、僅かにいる人達の足取りも心なしか足早になっている。逆に、人が戻ってきた民家には明かりが灯り、街を温かな色で包み始めていた。
そんな街の姿を、蒼く長い髪の少女が澄んだ青空色の瞳で眺めていた。
彼女の名前はシエラ。数ヵ月前に十七歳になったばかりの少女だ。
大量の荷物を詰め込んだ鞄を重そうに担いだシエラは、少し歩いては街の様子を眺めることを繰り返していた。道に迷っているような雰囲気ではない。かといって、何かを探しているという訳でもなさそうだ。『純粋な好奇心』というような感じだ。
シエラはふいに立ち止まると、暗くなり星の瞬きだした空を見上げ深呼吸をした。肺の中が冷たい空気で満たされる。
「とうとう、やっちゃった……」
感慨深かそうに呟くと目を閉じ、空気を目一杯に吸い込むように、もう一度深呼吸をした。
くうぅぅぅ
深呼吸に合わせ、お腹が空腹を訴える。
「……お腹が空いたな。夕食を食べてから出ればよかったわ」
お腹を擦っていると、先程まであった興奮が薄れてくるのが分かる。今までそれほど気にならなかった外の寒さが、急に身体に染み渡ってきたからだ。
足元には、地面に敷かれた《熱》の魔力を持つ魔晶石の力で僅かな暖かさはある。しかし、それは雪を溶かすためだけのもので、全身を暖めるほどの力はない。熱の伝わってこない上半身は、寒さに耐えきれず震えてくる。シエラは思わず、二つに分け高い位置で結われた長い髪をマフラー代わりに首に巻き付けた。しかし、もともと暖かなケープを羽織っていたため、これはあまり効果がなかった。
ここに来て、ようやく自分のおかれている状況を把握しはじめたシエラ。
「もしかして……このままだと大変なことになる?」
事の重大さに気づいたシエラは青ざめ、先程とは違う目的で辺りを詮索しはじめた。
「はやく、はやくっ! 食べる所と泊まれる所を探さなきゃ」
こんな寒空の下、野宿になれば確実に凍死する。そんな焦りでパニックになりかけるが、目的の場所は案外すんなりと見つかった。
シエラが偶然向けた視線の先に、宿屋を標した看板がぶら下がった建物があったのだ。宿屋の看板の下には、料理とグラスの絵が描かれた立て看板と酒樽が置かれている。まさに探している宿屋と食事処だ。目的の場所を一度に見つけることができ、ホッと安堵する。
「よかった。これで何とか野宿は避けられるわね」
まだ泊まれるかどうか分からないのだが、シエラの頭の中にはそんな未来は想像できていないようだった。
シエラが楽観視しているのは、理由があった。目的の場所を見つけ、焦りは一気に消え失せた。そんな落ち着いた気持ちで改めて周囲を見渡してみると、この場から見える範囲だけでも宿屋らしき建物が何軒も目に入ったからだ。
現在の場所から数歩のところにも宿屋はあったが、シエラは一番に目に入った宿屋へとご機嫌な足取りで向かった。
こうもあっさり宿屋を見つけることができたのは、しごく当たり前のこと。ここはプログレッソ大陸の北にある大国マリーベル。そして、今シエラが立っているこの場所は、雪のように白い外観のマリーベル城を中心に街が栄えている王都なのだから。
一年の半分が冬のこの国でも、王都ゆえ人の出入りは多く、宿泊施設や飲食店はかなり充実している。だから、あれほどまでに危機感を覚える必要はなかったのだ。
しかし、シエラはそんなことは少しも知らず、ただ大きな街だという認識だけで歩いていたようだ。そのせいか、背後にそびえる立派なマリーベル城には全く目もくれなかった。
ご機嫌なまま宿屋の扉の前まで来ると、中からは扉が閉まっていても聴こえてくるほど大きな音楽と、野太い男たちの笑い声が漏れ響いてきた。どうやらここは酒場が併設されている宿屋のようだ。
もちろん、シエラは中がどういう状況なのか全く想像できていない。「楽しそうだな」ぐらいにしか考えていないだろう。それか、早く空腹を満たし休みたいという欲求が、妙な想像をすることを拒んでいるのかもしれない。
音楽や男の笑い声を気にすることなく、扉に手をかけた時だ。一歩早く扉が開いた。思わぬタイミングで扉が開いたことで、シエラはバランスを崩してしまった。後ろに倒れそうにはなったが、どうにか一度は体勢を持ち直すことができた。しかし、重い荷物を担いでいたせいで、今度は勢いの反動で前のめりに倒れそうになってしまった。
「きゃっ」
「うおっ⁉」
……いや、倒れることはなかった。シエラの身体は硬い何かに寄り掛かるような状態になり、地べたに倒れ込むことはなかった。
一瞬、それが何か分からなく、その壁を擦ったりしていたが、頭上から聞こえてくる男の声で、それが男性の胸部だと理解できた。
ゆっくりと顔を上げると、そこには若いがあまり身なりの良くない男の姿があった。顔は耳まで赤く染まり、目つきは虚ろ。まだ日が沈んで間もない時間なのだが、男はそうとう飲んでいるらしく、呼吸をするたびにシエラ顔に酒臭い息がかかってきた。
「……あっ、申し訳ありません」
シエラは咄嗟に一歩下がり、深く頭を下げ男に謝罪した。そして、すぐにその場を去ろうとした。
せっかく見つけた宿だったが、シエラはここから早く逃げたかった。男から吹き掛けられる酒臭い息も不快だが、頭の先から爪先まで舐めるように見る男のいやらしい視線がさらに不快だった。それに加え、チラリと見えた店内の客層がこの男と似たような雰囲気だったことも原因の一つになった。
シエラは男と視線を合わさないように、もう一度だけ頭を下げ踵を返した。
「――――っ⁉」
腕に痛みを感じると同時に、建物を出たはずのシエラの身体が再び屋内へと連れ戻される。振り返ると、男が太い手で細いシエラの腕を掴みニヤニヤと笑っていた。その隣にはこの男と似たような風貌の長髪の男が立っており、彼もまた同様にいやらしく笑みを浮かべていた。
「お嬢ちゃん、そんな荷物もってんだから飯か泊まるとこ探してんだろぅ」
「ここは両方揃ってんだぜぇ。なんで帰ろうとするかなぁ」
「そうそう、今から宿探すのは大変だぞ。なんせ、外は寒いからなぁ〜」
男たちは酔いながらも饒舌に捲し立て、シエラに反論の余地を与えない。対応に困っているシエラの姿を見て「がはは」と、下品に笑っている。そして、逃がさないとばかりに、しっかりとシエラの腕を掴み離そうとしない。
「でさ、俺たちと一緒に飲もぉ〜ぜぇ〜」
「そうそう。……で、夜を色々楽しもうじゃねぇか」
二人の男が下心全開で寄ってくる。顔と顔が触れそうなほど近づき、シエラの耳許で舌舐めずりをする。男は掴んでいた腕から手を離し、シエラの細い肩へ回そうとした。
「いやっ! 放してくださいっ!」
遂に耐えきれなくなったシエラは、男を突き飛ばしてしまった。
「――ってぇ」
そこまで強い力で押したつもりはなかった。しかし、酔っていた男にとって、その衝撃は大きかったようだ。足が縺れ、派手な音をたて、その場に尻餅をついてしまった。
一連の様子を見ていた客たちが一斉に笑いだす。馬鹿にするようにかけられる野次と笑う野太い声で、酒場は音楽が聴こえないほどに騒々しくなった。客の笑い声と、小娘にされたことの怒りと恥ずかしさが合わさり、尻餅をついた男は酔いで染まった顔を怒りで紅潮させシエラを睨み付けた。
「……ってめぇ」
男はゆっくり立ち上がり、シエラに歩み寄る。側に立っていた長髪の男は、尻餅男の怒りが尋常でなくヤバいと感じ、落ち着かせようとやんわりと制止する。しかし、尻餅男に長髪男の声は聞こえていなようだ。それほどまでに逆上しているのだ。
先程とは明らかに違う男の雰囲気に、シエラは怯え後ずさる。
「てめぇ。女がいい気になってんじゃねぇよ」
一歩下がれば、一歩近付く。そして、男の手がシエラの首に伸びる。
「――っは」
白く細い首が、太い指によって掴まれる。腕を掴んでいた時とは、比べ物にならないほどの力が込められる。息苦しくなり顔を歪めるが、男は力を弱めることはしない。それどころか、もう片方の手で持ったナイフを、脅すようにシエラの頬に当ててきた。
この様子に男を嘲っていた客たちも静かになり、口々に「ヤバくないか」と言いはじめた。だが、誰一人として止めようと動くものはいなかった。
シエラは苦しみながらも考えた。
実践経験はない。それに、一回り以上も大きな身体の男にどこまで抵抗できるか分からない。分からないけど、やれるとこまでやってやろうと――
シエラは怯えた気持ちを必死に落ち着かせ、握り締めた拳に力を込めた。
「おい。やめろよ」
それは突然だった。シエラの側で男の声が聞こえ、その声と同時に首を掴む力が弱くなった。
シエラはこの隙にと、自分を苦しめていた腕を払いのけた。解放されたことで、空気は一気に肺へと送り込まれ、シエラはむせて咳き込んでしまう。
呼吸を整え落ち着いたところで傍らに目を向けたシエラは、自分のそばに誰かが立っていることに気がついた。
それは剣を背負った青年の後ろ姿だった。