ちょっと前のこと~本郷 朱音 十四歳~1
ガラガラっと音をたてながら引き戸があく。
柱の影から様子を伺うと、思った通り、出てきたのは正太郎だった。
眉間にシワを寄せ、あからさまに「不機嫌です」という顔をしながら階段を駆けおりていった。
その背中を見届けて、さて遊司はどうしたかと教室を覗くと、こちらも思った通り、だらしなく床にのびていた。
可哀想に、鼻と口から血を流し、右頬と顎は真っ赤になっている。自業自得といえばそれまでなんだが。
気絶している遊司の頭を動かさないように気を付けながら、水で濡らしたハンカチで顔を拭く。
「むぅ」
遊司が変な声を出し、うっすらと目を開けた。
「おはよーございまーす」
寝起きドッキリよろしく、小声で喋ってみた。
状況がよくわかっていないのか、遊司は二三度瞬きし、黒目だけを上下左右に動かす。
「気分はどう?」
「……よくはないよな」
遊司は一度大きく息を吸い込み、目を閉じた。が、すぐにクワッと目を見開いて、勢いよく身体を起こした。
咄嗟に飛び退いたので、頭と頭がごっつんこするには至らなかった。
「正太郎はっ!?」
「たぶん帰った」
「俺、あいつに四発も殴られたんだけどっ!」
「知ってる」
ハンカチを遊司の右頬に押し当てる。
「いっ!」
「冷やした方がいい。顎もな。頭は痛くないか?」
「うーん……大丈夫そう」
かなり強く打ち付けたんだけどなぁとぼやく遊司。
「ならいい」
もともと遊司は石頭だから、そんなに心配はしていなかった。
「ところで、おまえ、いつ来たの?」
「正太郎の好きな人は誰だクイズを始めたあたりから」
秘密の話みたいだったから聞かない方がよかったんだろうが、この後どうするか決めてないのに先に帰るのもなんだし、かといって声をかけるのもいけない気がして、今までずっと廊下にたたずんでいた。
「聞いちゃったものは仕方ないよな。で、ひいた?」
「全然」
答えると、遊司は微笑んで「さすが」と小さく呟いた。
「でも、誰にも言うなよ」
「わかってる」
「しかし、何がいけなかったんだろ?」
盛大なため息をつき、がっくりと肩を落とす遊司に、言ってやる。
「全部」
「何でさ。俺、超頑張ったじゃん。おまえも見てたんなら知ってるだろ? 誉められこそすれ、非難される覚えはない」
「それ、本気で言ってるのか?」
想い人が自分かと勘違いして一方的に振ったり、理解あるように見せてどん引きしたり、全然本気じゃないくせに付き合おうって言ったり、勝手に話を進めて半ば強引に接吻したり、あれらのいったい何処が誉められる行動だっていうんだろうか。
「まぁそれはあれだ! その場の雰囲気とか空気とか流れとか。いろいろあるだろ。とにかく俺なりに精一杯頑張ったんだよ」
自分が劣勢だと感じたのか、遊司は早口でまくしたて、「それはともかく」と話題を変える。
「正太郎の想い人って誰だったんだろ」
「自分じゃなくてショックだったのか?」
「そーじゃないけどー……気になるじゃん?」
「別に」
「なーんだよっ、ノリ悪いなー」
そんなの今に始まったことじゃないだろうと思いながら、仕方ないので話に付き合ってやることにした。
「昔からよく知ってる男だろ」
「で、下宿仲間」
「そのうえ同じクラス」
「て言ったらやっぱり俺しかいないよなぁ?」
同意を求める遊司に対して首を横に振って答えたら、
「えー? 俺以外に条件当てはまる奴なんていないだろ?」
と納得いかないというように首を傾げられた。
「正太郎はおまえじゃないと言っていた」
「でも、俺以外に条件にあてはまる奴いないよな?」
冗談なのか、本気なのか。遊司よ、何か忘れちゃいないだろうか。
ずり落ちてきた眼鏡を元の位置に戻し、右手の人差し指を自分の鼻先に向ける。
「鼻がどうかしたのか?」
遊司はその行動の意味が理解できなかったらしい。仕方ないから口で説明する。
「俺」
「何が?」
「俺も同じ下宿仲間で同じクラスで同じ男なんだが」
「あーそーだな」
何だろう、その、気のない返事は。
「というか、たぶん、俺のことだ」
「だから何が?」
「正太郎の想い人」
「それはない」
「即答か」
「だっておまえら超仲悪いじゃん。それこそ初めて会った小4の夏からずーーーっと。つい一昨日だって、正太郎にオタクだのキモいだの言われて喧嘩してたじゃないか」
「喧嘩じゃない。正太郎が一方的に俺のことを罵っていただけだ。俺は一言も反論していないし、手だって出していない」
俺の趣味はマンガを読んだりアニメを見たり、関連するグッズを集めることで、それは確かに一般的には理解されがたい特殊なものなのかもしれない。
正太郎が俺を罵るのは、まさにそれ、俺の趣味に理解がないからだ。
たぶん、他にも理由があるといえばあるだろうが、まあそれはいいとして、俺自身は趣味のことで誰かに迷惑をかけているわけではないのだから、とやかく言われる筋合いはないと思っている。
理解を得られないならそれは仕方がないとも思うし、そもそも俺は正太郎に理解されることを望んではいない。
だから俺はあいつに何を言われても、怒らないし、聞き流すことにしている。
そんな態度が正太郎には「すかしてる」ように見え、不快感が増すようだが、そんなことを言われても、じゃあどういう態度をとればいいのか? と困惑してしまう。
「自分でだってわかってんじゃん。すかした顔した地味で暗くて気持ち悪いオタッキーな引きこもりのおまえを、正太郎が好きになるわけがない」
「おまえ、今、さらっと失礼なことを言ったな」
「気のせい」
胸を張って答える遊司。何を威張っているんだ。
絶対気のせいなんかじゃないが、いいか。本当のことだから。
「朱音の冗談は笑えないんだから、慣れないことするなよ」
「そう思いたいならそれでもかまわない」
遊司はそっぽを向き、むくれた横顔を見せる。
が、すぐにこちらに向き直り、深刻そうな表情で、
「……マジで言ってんの?」
「そのつもりだ」
「うわぁ、マジかぁ」
盛大なため息と嘆きの声を吐き出し、遊司はうなだれた。
「やっぱり、ショックなのか?」
「ショックじゃないけど、なんか附に落ちない」
面白くなさそうな顔をして、
「俺のが、絶っ対、朱音よりいい男なのに、何で俺じゃないんだ。何かムカつく。納得いかない」
遊司が俺よりもいい男なのは認めるが……本人を目の前にして、なんだろうその言い草は。