10
落ち着かない。
客間の中を何度も行ったり来たりしながら、エーヴァはため息をついた。
普段ならば、どんな時でも貴族の令嬢らしい振る舞いを心掛け、一人の時でも、こんなふうに部屋の中をうろうろしたりはしない。
しかも、部屋の中には、ロルフがいる。
それをわかっていて、こういう行動に出てしまうのは、シャロンが出かけているせいだ。
ロルフとレンナルトに肖像画を見せられた後、半ば強引にシャロンは幼なじみの青年に会う約束をさせられてしまった。
今日がその約束の日で、ロルフが付けた護衛とお目付役のオルガも、シャロンと一緒である。
エーヴァも行きたかったのだが、それはロルフやオルガに止められた。
魔女である彼女に何かあったらいけないからと言われ、わかってはいても苛立ってしまう。
そんな彼女を心配したのか、勝手に付いてこられると困ると思ったのか、朝、部下とともにロルフが現れ、普段見ない爽やかな笑顔で挨拶してきたものだから、エーヴァは途方にくれてしまった。
ロルフの言い分としては、『シャロン殿が持っているという母親の絵姿が見たい』というものだったが、それならば、それを確かめた後も、ここにいる必要はない。
「久しぶりですね、あなたのそんな表情を見るのは」
ソファーに腰掛けていたロルフの言葉に、エーヴァは振り返り、困ったように笑う。
そんな顔とはいったいどういう表情なのか。
そもそもロルフの前でしたという、『そんな表情』とやらをどんなものであっただろうか。
「小さな頃、思うように魔法が使えなかった時、そんな顔をしていましたよ」
それは、まだロルフにあって間もない頃の話ではないか。
「あ、あれは。昔のことを言われても、困ります」
子供の頃は、多すぎる力を制御できずに、魔力をうまく扱うことができなかった。
浄化に特化した魔力は、他の魔女では難しい強い瘴気を広範囲で弱めることが出来るのだが、その魔力の加減が出来ない。魔力を使いすぎて倒れたり、意識して少ない魔力を使おうとすれば、反対に浄化できない、などということがよくあったのだ。
思うようにならない自分の力に、いらいらして、師匠である母親に当たったりもした。
それでも周りの人達の努力と優しさで、少しずつ魔力を操れるようになったし、一人前とも認められた。
ロルフだってそうだ。
うまくいかなった時は愚痴を聞いてくれたし、出来た時は一緒に喜んでくれた。王子である彼は、忙しかったはずなのに、それをエーヴァには見せることもなく、時間を作ってくれたし、我が儘も聞いてくれたのだ。
小さな頃は深く考えなかったが、今ならばわかる。
ロルフは自分に対して、いろいろな無理をしてくれていたのだと。
子供だから、将来が期待できる魔女だから、ということが無ければ、きっと許されないことだっただろう。
彼が面倒だと思えば、会うことさえ出来なくなっていたかもしれない。
「魔女殿、俺は、あなたが不安そうな顔をして会いにくるたびに、嬉しかったですよ。頼られているなと。兄弟の中では目立たない存在だった俺は、皆に頼られたり構われたりすることもなかったですからね。もっとも、あなたの態度は、どうみても、『頼りになる優しいお兄さん』に対してのものでしたが」
もしロルフが理想的な『王子様』だったら、確かにエーヴァも一線を引いてしまったかもしれない。他の兄弟は、レンナルトを除いて、一般的に皆が思うような『王子様』な顔をしていた。子供とはいえ、魔女であるエーヴァに相応な態度をとってはいたが、あくまで王族と臣下だ。線引きは常にあり、エーヴァもそれは越えてはいけないものだと、感じていたのである。
その中で、ロルフだけが違っていた。
どこにでもいるような人に見えたし、王族だと言われなければわからない様子と、王宮に行くたびに彼が自然に側にいるせいで、エーヴァは簡単に、その一線を越えてしまうことになる。
それが、周りが意図的に行っていたことなのか、ロルフが望んだことなのかわからないから、いろいろなことが見えてくるようになったエーヴァは、不安になるのだ。
彼は本当のところ、どう思っているのか、と。
利用されるのは構わない。そうだとすれば、エーヴァを騙したままでいてほしい、と思うくらいには、彼のことを好ましく思っているのだ。
いや、違うのだろう。好ましいなどという単純な気持ちではない。
エーヴァ自身が、彼のことを好きなのだと、わかっている。彼の気持ちが義務から来るものだけだと知ってしまったら、悲しい。きっと、簡単にはわりきることもできないだろう。
他の誰かと結婚してしまうようなことになったら、祝福など出来ないだろうことも、ちゃんと理解している。
「ああ、また不安そうな顔になっている。心配ですか、シャロン殿のことが」
もちろんそれもある。一番の心配事はそれだ。
オルガやロルフの部下を信用していないわけではない。だが、いつだって予想外のことは起こりえるのだ。
ただ、心の中には、ロルフと自分の関係に悩む気持ちが、渦巻いているのも確かだ。
こういうときに思うことではないはずなのに。
けれども、彼が今のエーヴァの状態をそう誤解してくれているのは、ありがたい。本心を―――心の中にある醜い感情を知られるのは、怖いのだ。
「俺の部下は優秀ですよ。その辺りは心配しないでください」
「分かっています」
分かっている。
ロルフが身近に置く部下は、優秀なことも、彼がシャロンの安全を優先してくれているだろうことも。それに、オルガも一緒だ。
「大丈夫ですよ。不安ならば、昔のように俺に愚痴を言ってくれればいい」
ロルフが、エーヴァに向かって手を差し伸べる。
こちらにおいで、というふうに、エーヴァを呼んでいるようにも見える仕草に、彼女は観念したように、近づいた。
同じソファーに、少しだけ間を開けて座ったが、エーヴァは視線を下に向けたままだ。
ロルフはああ言ったが、実際にエーヴァは愚痴など言えない。小さな頃なら、感情のままに口にすることが出来たが、大人になってしまえば、いろいろな思いに阻まれて気持ちを伝えることが難しくなってしまった。
ロルフもそうだ。
昔はもっと、素の感情を見せてくれた。
気に入らないことがあると、はっきりとそう言ってくれた。
楽しいことがあれば教えてくれたし、手だってもっと素直に繋ぐこともできた。
どちらが先にそれをしなくなったのかはわからない。気が付けば、二人の間には小さな溝のようなものが出来ていて、一緒にいることは多いのに、何かがかみ合っていないような不安ばかりがつきまとう。
その不安を伝えることが出来ればと思うが、きっとどう口にしていいか迷うだろう。
いっそ婚約者同士や、恋人同士であったなら、違っていたのだろうか。
素直に不安だと口にして、シャロンのことを一緒に心配したのだろうか。
「魔女殿?」
ロルフの声が耳元近くで聞こえ、はじかれたようにエーヴァは顔をあげた。
「聞かせてください。あなたの不安は、シャロン殿のことだけなのですか?」
ロルフの視線は、逸らされることなく、エーヴァを向いている。
「そ、それは……」
答えることが出来ないのは、心の中のわだかまりのせいだろうか。
エーヴァの不安は、ロルフの態度だ。
いつからか、名前を呼ばなくなり、今のような言葉使いを続けることへの不安が、彼女を臆病にさせている。
「……どうしてでしょうね、魔女殿を守ろうとすればするほど、遠くなるような気がするのは」
「ロルフ、様」
エーヴァだって、同じように思っている。
ロルフに近づこうとすればするほど、彼が離れていくような気がするのだ。それでも、側にいたいという気持ちに嘘はないのに。
どうして、うまくいかないのだろう。
「この件が終わったら、あなたに話したいことがあります」
―――だから、どうか、逃げないで待っていて下さい。
囁くように告げられた言葉には、素直に頷けたのは、ロルフの目の中に、昔のような優しさを見たからだろうか。
シャロン達が帰ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
シャロンには、特に変わった様子はなく、一緒にいるオルガも、その二人の後ろにいるロルフの部下である青年も、見た目だけなら普通だ。
ネイトと会って、何か大変な事があったということは無さそうな雰囲気ではある。
「遅くなりました、お姉様。ロルフ様も、わざわざありがとうございます」
深々と頭を下げたシャロンは、緊張はしているようだが、それ以外はいつもと同じだ。
「大丈夫だった? おかしなことは言われたりしなかった?」
立ち上がって駆け寄ったエーヴァを、シャロンが驚いたように見る。
「姉様、相変わらず心配症ね。シャロンがびっくりしているよ」
オルガに指摘されて、エーヴァの頬がほんのりと赤くなる。
「だって、心配でしょう? 何かあってシャロンが傷付くようなことがあったらと思うと」
そう言いながら、いつもシャロンの前では淑女らしく振る舞っていたことをエーヴァは思い出す。シャロンはそんなエーヴァに照れたように微笑み駆けてくれたが、オルガは面白そうに笑っている。
「シャロン、姉様って、こういう人だから。普段の令嬢らしいところは忘れた方がいいよ」
オルガの言葉に、シャロン以外の誰もが反対しないのがエーヴァは悔しい。
そもそも、身内を心配するのはおかしなことではないはずだ。
「とりあえず、話を聞かせて。どんな様子だったのか、聞きたいわ」
いつまでもその話題を引き摺られても嫌なので、エーヴァは話を変えることにする。
今一番聞きたいのは、ネイトと会って、どうだったかという事なのだ。
「ネイトとは、街の中心にある噴水の前で待ち合わせたんですけれど」
ソファーに座り、お茶を飲んで落ち着いたらしいシャロンが、そう口を開く。
ネイトは一人でやってきたらしい。
シャロンが護衛とオルガを連れていたことには驚いたようだが、それについては、『お嬢様になっちまったんだなあ』としみじみと言われたくらいだったと言う。
「私に迷わず声をかけたくらいだし、シャロンが今どういう身分かなんて、わかっているんじゃないかな」
オルガの言葉に、シャロンがうつむく。
再会したとき、エーヴァ達は、自らの家名を名乗ってはいないし、それがわかるような物も持ってはいなかった。今回も、恐らくシャロン自らは、侯爵家の事を話してはいないはずだ。
だが、街の人間の中にはオルガを知っているものもいるし、魔女であるエーヴァの顔を覚えているものも多い。
その中に、素性を教えるものがいてもおかしくないのだ。
「私たちは、少し離れて歩いていたから、細かい会話の内容まではわからないんだ」
完全に二人きりにするわけにはいかないが、ある程度自由に話が出来るようにと、考えた事だと言う。それに、その方が、ネイトも何か重要なことを口にするかもしれないという気持ちもあった。
だから、そのあたりの詳しいことは、帰ってから聞くことにしたとオルガは言う。
「ネイトとは、ほとんどは、懐かしい思い出話や、今大変なことはないか、というような事を話しました」
話をしながら、軽食が取れる店に入り、そこでしばらく時間を潰した。
それから、オルガが王都で有名な名所と呼ばれる場所や、めずらしい場所に案内もしたのだという。その頃には、オルガとも打ち解けてきて、自分の職業のことや、ここに仕事で来たけれど、なかなか大変だという会話もしたらしい。
「一応、商売で扱っている工芸品についての話には、矛盾はなかったよ」
「そのあたりは、こちらでも把握していますよ。国内で商品を取引する場合は許可がいりますからね」
ロルフの補足に、オルガも頷いている。
商売で来たと言った言葉の全てが嘘ではないということだろう。本来の目的かどうかはわからないが。
「でも、あの」
視線を落としたままのシャロンの声は、少し震えている。
不安なことが何かあるのかと思わせるような声なのだ。
「私、ひとつ気になることがあったんです」
それは、まだ二人がオルガと離れて歩いていた時のことだったらしい。
「ネイトは、私の父親が亡くなったことを人づてに聞いて、心配していたのだと言ったんです」
エーヴァは首を傾げる。
そのこと自体は、別におかしなことではない。
「その、それだけだと私も別に不思議には思わなかったのですが。彼が言うには、ネイトの父親が、細工の得意な魔女を、父に紹介したって。私に渡すものを作ってもらうって言っていたけど、もらったのって聞かれたんです」
わざわざ魔女に頼んだということが気になって、昔、一度だけネイトはそれをシャロンの父親に聞いたのだと言う。
「ネイトが言うには、父は、これは秘密の箱で、将来シャロンに渡すつもりだから、ナイショにしておいてくれって言っていたらしいんですけれど」
「箱?」
「………はい、箱です」
エーヴァとオルガは、顔を見合わせた。
今、3人に共通して思いつく、魔女が作った箱は、ひとつしかない。
これは偶然なのだろうか?
エーヴァは、ドリスに預けた奇妙な箱を思い出しながら、戸惑ったようにシャロンを見つめた。