それからの五分間
【第33回フリーワンライ】
お題:世界五分前仮説
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
視界がぼんやりと揺れている。水の中から水面を見上げているように。
耳に入ってくる音も遠い。それこそ水中で音の波が拡散して間延びしながら伝わってきているようだった。
――と、急に視覚も聴覚もクリアになった。
「――というわけだ、わかったかね?」
「……はあ」
勢いよく捲し立てた末尾で急に水を向けられ、宮ヶ瀬アキラは生返事ともため息ともつかない声を出した。
目がしょぼしょぼする。もしかしたら上の空で話を聞いてる間に、眠っていたのかも知れない。
どれくらい時間が経ったのだろうか。アキラは先輩にバレないようこっそりと黒板の上の時計に目を走らせた。ちょうど五時だった。優に三十分は経っているのではないだろうか。
アキラは目を細めた。この時間、この三階の教室では真横から入ってくる西日が目に痛い。
「よくわかってないようだな、宮ヶ瀬」
向き直ると、あれだけ長広舌を振るっておいて、徳山マサトはまだ言い足りない様子だった。マサトはスチール椅子にふんぞり返って鼻息荒く、
「よし、じゃあもう一回行くぞ」
「待った、待った、徳山先輩! 聞いてましたっすから! な、お前もなんか言えよ黒部」
アキラは慌てて取り繕い、隣で同じように惚けていた女生徒に話題を振った。二人がかりで説得すれば、あの退屈な弁論をもう一度聞かずに済むかも知れない。
黒部ミサは目立たない女子だった。かと言って不細工というわけでもない。背中まで届く黒髪が見た目を暗くし、無口な態度で印象を薄くしているのだ。決して不快ではない。むしろ、彼女の無口さは聞き入る態度なのだろうとアキラは思っている。その証拠に、誰もが彼女に話しかける。彼女と話したがる。
ミサは黒髪の間からマサトを見つめている。
「すごいと思います」
ミサは言葉ほどには感心していない口調で言った。にも関わらず、マサトは感じ入った様子で頷いた。
「そうか、そうだろう、そうだろうよ、そうだろうとも」
アキラは、それはなんの活用なんですか、と言いかけた口を塞ぐのに苦労した。このまま先輩が満足して終わってくれる分にはありがたい。
「つまり気の持ちようということだ」
(……終わらなかった!)
痛恨の面持ちで肩を落とすアキラ。
マサトはまったく気にもせずに続けた。
「この世界は認識することによって存在する。いや、“認識されることによって”、だな。世界には主体性も主観性もない」
(そのよく滑る口も、目を瞑って認識しなければ消えてくれるんですかね)
ついでに耳も塞いでしまえば、とりあえずアキラを中心とした認識から締め出すことは出来るだろう。だが、それをすると後がうるさい。早く終わることを祈りながら、弁舌で飛ぶ唾を甘んじて受ける。
「在って在るとはよく言ったものだ。いや、違ったか? 考えなければ存在しない。意識しなければ見えない。存在しない、見えないもの、つまりそれは“無”だ」
横目で見ると、ミサがごそごそと手帳を取り出していた。シャーペンの尻をノックしている。
(そこまでするほどの内容か?)
「ふむ、例えば……そうだな。おい宮ヶ瀬、ちょっとあそこまで行け」
マサトが教室の前の扉を指さした。話を中断してまで、何をしようというのか。ミサが不思議そうな顔をしている。
「なんでですか」
「いいから早く行け」
「黒部でも――」
「お前だ。お前がいい。お前が行け」
こうなると梃子でも動かないことをアキラは経験的に知っていた。不承不承言いつけに従って、扉の前に立った。
「よし。じゃあ俺は目を閉じるぞ」
言葉とともに、マサトは両目を閉じたようだった。
(また変なことを……?)
ふと思い浮かんだ思考に、アキラは首をかしげた。“また”? さっきの長話ではこんなことをしなかった。前にも似たようなことがあっただろうか。思い出せない。
「これで今、俺は世界を認識しなくなった。無だ」
(あんたの世界がなくなっても、俺の世界はあるみたいだな)
半眼のまま胸中で呟く。
椅子に腰掛け、目を閉じ、西日で半分だけ赤く、半分が影に溶けたようなマサトの姿は、日本史の教科書で見た半跏思惟像のようにも思えた。俗っぽい哲学を持つ先輩が荘厳に見える。
「この教室内は無だ。――では、その無の外側はどうなっている? 宮ヶ瀬、ドアを開けろ」
アキラが反射的に引き戸に手をかけるのと、音を立てて黒部ミサが立ち上がるのは同時だった。
「ダメ!」
椅子が倒れるガタンという音と、黒部ミサの予想以上の大音声でアキラはびくりと飛び上がり、その勢いで扉は開いた。
がらりと開いた扉の向こうには、勿論廊下があるはずだ。前の扉の正面には火災報知器が壁に埋め込まれている。滑り止めの敷かれた通路は左右に伸びて、右には用具室、左には二階に続く階段があるはずだった。
教室の外には漆黒があった。一センチ先すら見通せない真の闇。
もう日が暮れたのかとズレたことを考えながら振り返ると、陰ってはいるものの窓の外はまだ明るかった。
「な、何が……」
アキラは半ば混乱しながらマサトの言葉を胸中で繰り返した。本当に認識しなければ世界はなくなる?
そのままなんとなく時計を見た。正確に時を刻む時計なら、何があっても信用出来ると思ったのだ。世界の始まりから変わらずに時間は刻まれているはずだ。一定間隔で動く秒針を見れば、少しは落ち着く。
時計は五時五分だった。
――と、急に空気が凍結した。一切の動きをやめ、完全に停止した。分子運動の止まった空気は冷たいのだ。
教室ではミサだけが動いていた。その姿はどこか超然としている。
「急にこんなことしだすなんて、やっぱり哲学者の思考は読めないわ」
ため息を吐きながら、頬にかかる髪を後ろに流した。
「話したがりが気持ち良く演説出来るようにこんな場所までお膳立てしたのに。言っとくけど、オールド・スクールのモデリング大変なんだからね。廊下までは用意してないわ。
あーあ、懐疑主義のレポート書くためにわざわざダウンロードしたのに台なしだわ。いっそ、このままテーマを変えて、五分前仮説で書いてやろうかな」
『それからの五分間』了
いやいや、五分前どころか一分前にお題見て、シンキングタイムもなしにいきなり執筆スタートとか無理だって。
今日ワンライの日なのをころっと忘れて惚けてたら、いきなり開始してくださいとかツイートがあって大慌て。もう捻りとか何もない。
このお話は古いふるーい『世にも奇妙な物語』が元ネタ。トラウマになったね。ドラマ版『クラインの壺』もそうだけど、見た当時はかなり怖かった。今では大好きです。