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20話

 公道に出てから左側にカーブする下り坂を下りて行くとバス停がある。そのバス停から終点の駅まで行けば藤倉市街。

 この時間は部活をやっている人が大半のため、私たちのほかに生徒の姿はなかった。そして、時間も時間なのでバス自体も混んでおらず、ふたり並んで座ることができた。

「先輩はなんの用事なんですか?」

「オーダーしていたものを取りに行く。それだけ」

「何を?」

「行けばわかる」

 どうしてここで教えてくれないのかな。優しいかと思えば意地悪だ。

「あ、先輩。写真撮ってもいいですか?」

「却下。それ、海斗絡みか何かだろ?」

「当たり……。どうしてわかったんですか?」

「海斗の考えそうなことだから」

「……え?」

「翠はわからなくていい」

 と、その話は終わりにされてしまった。


 道が混んでいないと学校から駅まではバスで十五分くらい。

「先に翠の用事を済ませよう」

 言われて駅向こうの楽器店に行くことになった。

「ハープ、昨日弾いてた曲の曲名は?」

「え……?」

「昨日、繰り返し同じようなフレーズ弾いてたけど……」

「……ごめんなさい。私、あまりそのときのこと覚えてなくて……」

 蒼兄と話したのはなんとなく覚えている。でも、何を話したのかは覚えていないし、いつ眠ってしまったのかもわからない。

「……大丈夫なの?」

 何がだろう、と思って先輩を見上げると、

「いや、なんでもない」

 と、問いかけは取り下げられた。

「なんか、司先輩らしくないですね」

「俺らしいって?」

「うーん……俺様?」

 次の瞬間には司先輩に両頬をつままれていた。

「いはいえふ(痛いです)」

 無言で無反応かと思ったらこんな仕打ち……。

「俺、そんなに傲慢なつもりはないけど?」

 そんな言葉なら先輩らしいと思える。

「そういう物言いのほうが先輩らしくて好き」

 つままれた頬をさすりながら言うと、

「だから性質が悪いんだ……」

「え?」

 訊き返してみたけれど、今度は返事をくれなかった。


 楽器店に着くと、買おうと思っていたスペア弦を手に取り楽譜コーナーに視線を向ける。

「少し楽譜を見てもいいですか?」

「かまわない」

 私は作曲者別に並べられている本棚の一角に立ち、ショパンの楽譜に目を走らせる。

 たまにはモーツァルトもいいか、とそちらへ視線を向けたものの、違う棚でピース売りされているラフマニノフの嬰ハ短調プレリュードが目についた。

 何度か聴いたことがある。厳かで激しい、そんな曲。

 今弾くならモーツァルトよりもこっちかもしれない。

 そう思って、その楽譜とスペア弦を購入した。


 六月とあって、まだあたりは暗くならない。

 蒸し暑さと日の長さに、夏の気配を濃く感じる。

「ピアノとハープ、どっちが好きなの?」

「んー……長くやっているのはピアノです。ピアノは三歳から、ハープは小学五年生のときから。どちらも好きですけど、表現しやすいのはピアノかな? 長く弾いてきた分勝手度合いが違うみたいで」

「ピアノはベーゼンドルファーが好き?」

「なんで……って蒼兄しかいないですよね」

「当たり。うちの学校にベーゼンドルファーがあるって知った途端、御園生さんの目か輝きだしたから」

「でも、私、その話は蒼兄から聞いてなかったんです。オリエンテーションでミュージックホールを回ったときに先生の説明で知りました」

「近いうちに弾かせてもらえるよう手配する」

「え!? 本当ですか!?」

「食いつき良好すぎないか?」

「だってっ、ベーゼンドルファーですよっ!?」

 言った直後にはっとする。

「……それ、また貸しになったりしますか?」

「さぁ、どうかな」

 先輩は言いながら笑みを深めた。


「駅に戻ったら休憩しよう」

「はい」

 デパートの一階にあるカフェに、先輩は慣れた足取りで入っていく。私は少し緊張しながらその後についていった。

 カウンターで私はルイボスティをオーダーし、司先輩はコーヒーをオーダー。

 席に着いてコーヒーを口にすると、先輩の表情が緩む。

 普段あまり見ることのない表情を見れると少し嬉しい。

「何を笑ってる?」

 訊かれて、答えようかどうしようか悩んで答えることにした。

「先輩、いつもコーヒーを飲むときに少しだけ表情が優しくなるんです。それを見られると得した気分になれるの」

「――ずいぶんと安上がりだな」

 これは照れ隠しだろうか。

 少しずつだけど、先輩のことがわかってきた気がする。

 先輩はコーヒーを飲み終えると、「ちょっと待ってて」と席を立った。

 先輩はレジカウンターに並んでいる。店員さんがコーヒー豆を手に取ったところから、コーヒー豆をオーダーしていることがうかがえる。

 それを見て、用事とはコーヒー豆を買うことだったのか、と思う。

「あれ? でも、オーダーしてあるものを取りに行くって言ってなかったっけ……?」

 不思議に思って首を傾げると、右肩に軽い衝撃があった。

「ねぇ、ひとり?」

 声の主を振り返ると、知らない男の人が立っていた。

 誰だろう……?

「こんなところでひとりでお茶してるくらいなら遊びに行こうよ」

 ……テーブルには私の飲んでいるカップとコーヒーカップがあるわけだけど、この人の目には入らないのだろうか。

「あの、人を待っているのでごめんなさい」

「いいじゃん。そんなのすっぽかしちゃえば」

「……あの、知り合いではないですよね?」

 どこかで会ったことがあるのだろうか……?

 ないと思うのだけど、何分、自分の記憶に自信が持てない。こと、人の顔の記憶には拍車をかけて。

「今、知り合ったってことでいいじゃん」

 言っている意味がよくわからない。

「翠」

 後ろから先輩に腕を掴まれた。

「あ、先輩……」

 振り返り見上げたら、すごく怖い顔をした先輩がいた。

 切れ味抜群の目が見ていたのは私ではなく、声をかけてきた人に向けられていた。

「彼女に何か用でも?」

「ちっ、男連れかよ……」

 その人は近くの椅子を蹴飛ばし、人ごみへと見えなくなった。

 司先輩はひとつ深く呼吸をすると、

「翠、今の何かわかってる?」

「今の……? 今のが何かって、何がですか?」

「世間知らずにもほどがあるだろっ!?」

「ごめんなさいっ」

 怒鳴られたことに萎縮し、条件反射で謝罪の言葉を口にした。

 でも、本当は何を怒られているのかまったくわかっていなかった。ただ怖くて、怖くてたまらなくて……。

 普段から人に怒鳴られることなどない。また口を開いたら怒られるんじゃないかと不安になる。それでも――。

「ごめん、なさい――でも、理由がわからない……。どうして? どうしてそんなに怒ってるんですか?」

「……大声出して悪かった。今の、ナンパだから。もしくはキャッチ。ついて行くと痛い目みるよ」

「ナンパ……? キャッチ? それは何?」

「――要は、身体目当てに女を漁ってる連中」

 衝撃的な言葉に絶句する。

 そんなの知らなかったし、私、ちゃんと人を待ってるって断ったのに……。

「ごめん……泣かすつもりはなかった。ただ、翠があまりにも無防備すぎるから」

「ごめんなさい……。でも、ちゃんと人を待ってるって伝えたし、ついていこうなんて思ってなかった――」

 涙が次々と溢れだす。

「悪い……立って、少し歩ける? ここで話すような内容でもないから」

 言われて、「こっち」と手を引かれるままに歩きだした。


 涙で前が見えない。でも、手を引かれるままについていくと、誰にぶつかることなく歩くことができた。

「座って」

 言われてベンチに腰掛ける。と、先輩は私の前に立った。

「さっきみたいなの初めて?」

 コクリと頷く。

「今まで一度もなかったわけ?」

 少し驚いた声が降ってきた。

「ないです。だって……ここまで来るときは両親か蒼兄が一緒のときだけだし……」

 先輩は額に手を当て、「なるほど」と呟いた。

「この駅周辺、ああいうの多いから。翠の性格を考えると難しいかもしれないけど、ああいうのは無視するんだ。じゃないと付け込まれる。ひどい場合は力ずくで連れていかれる。――ひとりにして悪かった」

「……人攫い?」

「――ちょっと違うけど、まぁそんなところ。少しえぐい言葉を使うならレイプ。連れていかれたら強姦されてもおかしくない」

「っ……!?」

 止まったはずの涙が再び出てくる。

 だから――だから、先輩はあんなに怖い顔をしたんだ。

「ごめんなさい……。本当にごめんなさい」

「わかればいい……。二日も続けて泣き顔なんて見せるな」

「ごめんなさい……」

「謝らなくていいから。少し落ち着いて……頼むから泣き止んでほしい」

 すごく困った顔でお願いされた。

「手……少しだけ貸してもらえますか?」

「……手?」

 先輩は不思議そうにしつつも右手を差し出してくれる。

 緊張したからなのか、急激に手先が冷えて痛くなっていた。

 差し出してくれたその手を両手で握る。と、

「ひどく冷たいけど……」

「体温、少しだけ分けてください」

 泣き笑いでお願いする。

「……寒気は?」

「いえ……ただ、手首まで冷たくなってしまってちょっと痛くて……」

 先輩は隣のベンチに座り、両の手で私の手首を握ってくれた。

「……悪い、すごい緊張させた」

「いえ……知らない人に声をかけられた時点で緊張はしてましたから……」

「だから、ひとりにして悪かった」

「……先輩、ごめんと悪い禁止です」

 そう言って少し笑うと、先輩がほっとしたような顔を見せた。


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