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18話

 コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。

「はい」

 ドアが開くと、「お待たせ」と秋斗さんが顔を覗かせる。

 身体をゆっくり起こすと軽い眩暈に見舞われた。けれど、この程度にはもう慣れた。

 立ち上がるときには真正面に秋斗さんがいて、手を貸してくれる。

「ありがとうございます」

 いつもより少し丁寧に口にした。それに、「どういたしまして」と微笑んでくれることが嬉しい。

 本当に、これだけでいいのに……。結婚や立場に後継者、そんなことは考えたくないのに……。

 私、まだ十七歳なのに……。どうしてそんなことを考えなくちゃいけないのかな。

 そんなふうに思うのは、やっぱり分不相応だから?

 秋斗さんは目の前にいる。手を伸ばせば届く距離にいるのに、どうして――どうしてこんなに遠く感じるのか。

 秋斗さんの彫りの深いきれいな顔を見上げると、すぐに気づかれ「ん?」と尋ねられる。

「いいえ……。ただ、格好いいな、と思っただけです」

「そう?」

「はい」

 図書室を出ると、芝生が西日でオレンジ色に染まっていた。

「きれいだね」

 隣の秋斗さんが口にする。私も一言、「とても」とだけ答えた。

「……翠葉ちゃんと出逢わなければ、こんなに景色を目にしても何を思うこともなかったんだろうな」

「え……?」

「……それくらい、君に出逢って俺が変わったってこと」

 そんな言葉になんと返したらいいのかすらわからない。

 嬉しいのに、それをそのまま伝えられなくて、ひどくもどかしい……。

 今すぐ、このやり場のない想いをどうにかしたい。

 私たちは五分ほどその景色を眺めてから階段を下り始めた。


 秋斗さんはいつもと変わることなく右側からエスコートしてくれる。

 今、ここにあるこの手はあって当たり前のものじゃない。

 ここ最近、ずっとこの手に支えられてきたけれど、それは全然普通のことじゃなくて、ものすごく特別なことだった。

 そう思い直しながら、大きな手のぬくもりを感じていた。

 車だとマンションまでは五分とかからない。

 本当は雅さんに会ったことを伝えなくてはいけないのかもしれない。でも、どうしても言えなかった。

 何を言われたのかまでを話さなくちゃいけなくなるからだろうか。

 司先輩は言う? それとも言わない?

 私はとくに口止めをしてはいない。だから、言われてしまうだろう。

 でも、先輩に話したのはほんの一部だ。細部まで話すことはできなかったし、話す必要もなかっただろう。

 駐車場に着いてシートベルトを外そうとすると、その手を取られた。

「本当にどうしたの?」

「え……?」

「ずっと上の空。何か考えごと?」

「あ、ごめんなさい――」

「謝ってほしいわけじゃないよ。何を悩んでいるのか知りたいだけ」

「……あの、これは自分で考えなくちゃいけないことなので――」

 そう話すと、それ以上は追求しないでくれた。

 エレベーターに乗って思い出したことをひとつ話す。

「明日の放課後、司先輩と市街に行く約束をしたんですけど、大丈夫でしょうか?」

「……司が一緒ならかまわないよ。じゃ、また」

 と、十階の玄関ポーチの前で別れる。

 隣の家なのに、やっぱりものすごく遠くに感じた。

 同じマンションの同じ階にいるのに……。

 近くて遠い。とても遠い――。


「おかえりなさい」

「栞さん、ただいま」

「検査、どうだった?」

「いつもとあまり変わりません」

「でも、元気ないわね?」

 顔色をうかがうように尋ねられる。

「検査のフルコースはいつも疲れちゃうんです。お風呂に入ったら少しすっきりするかも」

「わかったわ。ご飯の前にお風呂に入ってらっしゃい」

 こういうとき、海斗くんみたいに気持ちの切り替えが上手にできたらいいのに、と思う。

 急いで支度をして、逃げ込むようにバスルームに入った。

 夏服になってから、半袖から少し見えるようになったバングル。

 クラスメイトはその理由を知っているからか何も言わない。けれども、廊下で指を指されたりすることが増えた。

 でも、これは外せないし外したくない。

 きっとその内、理由を知らない人たちに好き勝手言われて、いきなり話しかけられて面白半分に訊かれたりするのだろう。

「嫌だな……」

 目に涙が溜まる。

 そのまま制服を脱いでバスルームに入り、頭からザーッとシャワーを浴びた。

 全部がうまくいくわけがない。そんなことくらい知ってた。

 だから、今さらショックを受ける必要はない。私はそんなに弱くない……。

 私には蒼兄がいるし、家族がいる。それで十分。

 だって、私はもともとそれしか知らなかったし、それ以上を持っていなかったのだから。

 何も怖がることはない、もとに戻るだけだ。

 髪の毛を洗って身体を洗って顔を洗って――それでも涙はまだ止まらない。

 人はどうして泣くのだろう。人はどうして欲するのだろう。

 人はどうしてこんなにも貪欲で、ひとつ手に入れると次を求めてしまうのだろう――。


 お風呂から上がると、適当に髪の毛を乾かして客間へ戻った。

 ケースからハープを取り出し、調弦もそこそこで弦に指をかける。

 何か曲を弾くというのではなく、ただ心にあるものをそのまま紡ぐだけ。思うがままに弦をはじいていくだけ。

 こういうとき、アイリッシュハープは少し困る。音が切なく聞こえて心に共鳴しすぎるのだ。

 どのくらいそうしていたのかわからない。

 蒼兄に止められたときにはすでに七時を回っていた。

「翠葉……」

 蒼兄は何も言わずに抱きしめてくれる。私はハープを投げ出し、蒼兄に抱きついた。

「蒼兄……」

 涙が次から次へと零れ落ちる。

「何があった?」

「大丈夫……ちゃんと自分で消化できる」

「……話ならいつでも聞くから」

「……蒼兄は、蒼兄だけはずっと側にいて――」

「いるよ、ずっと側にいる。頼まれなくても側にいる」

 その言葉に安心したのか、意識が遠のいていく気がした。

 この日、私は夕飯を食べることなく翌朝までぐっすりと眠った。朝、基礎体温計が鳴るまで一度も起きることなく。




 夜の薬を飲んでいないことを思い出し、朝起きて早々に薬を飲んだ。

 今日は司先輩と放課後に市街へ出かける。市街へ行くのは家族でデパートへ行って以来だ。

 ……つらいことばかりじゃない。楽しいことだってある。

 そう思って気持ちを前へと押し出すように足を踏み出す。

 洗面所で顔を洗い、髪の毛を整える。制服を着てリビングへ行くと栞さんに「おはよう」と声をかけられた。

「おはようございます」

「よく寝たわね? 少しはすっきりした?」

「はい」

「なら良かったわ。昨夜食べてないんだから、ゆっくりしっかり噛んで食べるのよ?」

 差し出されたのはいつものお雑炊。いつもと変わらない味に、あたたかさにほっとする。

 食べ終わったら歯磨き。鏡に映る私の目はまだ少し充血していた。

 これは目薬を差しても隠せるものじゃないな、と思いながらも気休め程度に目薬を差す。

 インターホンが鳴り栞さんと一緒に玄関へ向かうと、そこには、湊先生と秋斗さん、司先輩と海斗くんが揃っていた。

 かばんを持って出るも、何かしっくりこない。

「……どうして司先輩と海斗くんがいるの? 朝練は?」

「誰のせいだと思ってんだよ」

 海斗くんじジロリ、と見られて不思議に思う。

「……私のせいなの?」

「翠、篭り癖は良くないと思う」

 こちらはいつもと変わることのない無表情の司先輩。

「篭り癖……?」

 なんのことだかさっぱりだ。

 エレベーターに乗ると、

「あんた、昨日のこと覚えてるの?」

 湊先生が呆れたような声を出す。

「昨日、ですか……?」

 尋ねると同時、エレベーターが二階に着いた。

 秋斗さんだけが二階で降り、あとの四人はもう一階分エレベーターで降りる。

「昨日、みんなが夕飯で集ってたとき、翠葉はハープ弾きっぱなしで出てこなかったでしょうが」

 昨日……。

「あ……蒼兄がいました?」

「いた」

「呼んでも何してもだめで、蒼樹さんが抱きしめたら魂こっちに戻ってきた感じ」

 海斗くんの説明に絶句する。

「……そんなでしたか?」

「そんなだったわね。ハープの旋律もやたらめったら暗いものばかりだし……。あれ、きれいだけど周りの空気も暗くなるからやめてくれないかしら」

「わ……公共妨害ごめんなさいっ」

 公共妨害というよりは公共騒音だ。

「っていうか、弾き疲れて意識失うまで弾くな」

 司先輩に言われて、改めて謝罪した。

「海斗と司はあんたの顔を見ないことには落ち着かないからって部活さぼったのよ」

 ますますもって申し訳ない。

「ま、今は割と大丈夫そうだから俺はいいよ」

 海斗くんは許してくれたようだ。

「具合は大丈夫なの?」

 そう尋ねてきたのは司先輩。

「はい、大丈夫です」

 薬を飲むのを三日先に延ばしたのを知っているのは湊先生と司先輩だけだ。

 もしかしたら、栞さんと蒼兄には湊先生から話が通っているかもしれないけれど……。

 できれば、ほかの人には知られたくない。余計な心配をかけるだけなら知られずにいたい。

 学校に着くと、

「じゃ、帰りは昇降口で」

 と、階段で司先輩と別れた。その会話を不思議に思ったのか、

「司とどっか行くの?」

 海斗くんが振り返る。

「うん、市街に付き合ってほしいって言われて。私もちょうど買いたいものがあったから」

「へ~……」

 海斗くんは面白そうに笑った。

「それ、証拠写真写メしてな」

 意図はわからないけれど、朝練休ませてしまったし、昨夜は騒音を聞かせてしまったしで申し訳ない気持ちが勝っている私に断る余地はない。

「善処します。でも、司先輩にNG出されたら無理かも?」

 そんな会話をしながら教室に入った。

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