退魔士 藤枝 旭 『記憶』
最初は、視えるのが当たり前だと思っていた。
母親が病弱でしょっちゅう寝込んでいたため、母方の実家に預けられる事の多かった私は、田舎らしい伸び伸びとした空気と、彼らに囲まれて多くの時間を過ごした。私を怖がらせるのも、楽しませるのも彼らだった。
それが普通でないと気づいたのは、保育園に入る少し前のことだ。大人達は、言葉を話すようになった私が『視えないはずのもの』と話しているのを見て、恐れ、泣いた。その記憶は一時自ら封印していたのだが、今ではその時の両親の愕然とした表情をハッキリと思い出す事が出来る。
私はそれが『いけないこと』であると教えられ、また、私自身、両親のあのような顔を見たくはなかったので、次第に彼らと話さないようになっていった。それに、自宅のある都会には母方の実家の辺りにいたような優しいモノ達は少なく、脅されたり怪我をさせられたりする方が多かったのだ。
自然、私は彼らを避けるようになっていった。そのせいなのかどうかは分からないが、成長と共に彼らを視る力も次第に衰えていき、高校に上がる頃には、全く視えなくなっていた。
そして、私自身、その事を全く忘れていた。まるで、自分の記憶に鍵をかけ、封印するかのように。
あの日が来るまでは。
『それ』が一体何なのか、何と表現すべきものか、しずくには分からなかった。だが、逃げなければ殺される、それだけは既定の事実であるかのように分かっていた。
だから、とにかく走る。しずくは必死になって、何処だかも分からない暗い夜道を走っているのだ。
しまいに疲れのあまり身体が動かなくなり、『これだけ走れば逃れられたのでは』という希望を胸に後ろを振り返るが、残念な事に『それ』はピッタリと追ってきている。その度に、しずくは声にならない悲鳴を上げ、破裂しそうな心臓と悲鳴を上げる肺に鞭打って、走り続けるのだ。
(何とか逃げなきゃ…どこか…隠れられる場所…)
どこかに隠れられる場所がないかと、しずくは走りながら必死に辺りを見回す。と、遙か遠くに明かりが見えてくる。しずくがこの春から暮らし始めたマンションの入り口の明かりだ。
(助かった…)
安堵のあまり目に涙を浮かべつつ、しずくはドアを開けて自分の部屋に倒れ込む。そして、ドアの鍵をしっかりと掛け、ドアチェーンも掛けた。
ハア、ハア、ハア…
玄関に寝転がり、乱れた呼吸を整える。身体中汗びっしょりで、薄ピンクのパジャマも肩より少し長いぐらいの髪も、べったりと身体に張り付いてしまっている。
(逃げ切った…?)
しずくは暫くそうしていたが、ドアの外に『それ』のやってくる気配はない。ようやく呼吸の整いつつあったしずくはそっと身体を起こし、ドアの外の気配を窺う。
やはり、ドアの外に『それ』の気配はなかった。
だが、『それ』が近くにいるようなピリピリとした殺気は、相変わらず感じているのだ。
それも、だんだん近くなって来ている。
(どうして…?)
再びジワジワとこみ上げてくる、胸が押しつぶされそうな恐怖に、しずくは身体を硬くして辺りの気配を窺った。
やはり、『それ』は確実に近づいているはずだ。それも、すぐ側にまで…。
カタン
不意に、後ろで微かな物音が聞こえた。しずくは反射的にビクッと飛び上がりそうになる。
(見ちゃダメ、見ちゃダメよ!!)
そう思っているのだが、しずくの頭はしずくの意志に反してゆっくりと後ろを振り向いていく。
ゆっくりと…。
ゆっくりと…。
そして、それが目に入った。
しずくのすぐ後ろの、リビングの暗闇の中にいっぱいに広がる、真っ赤に血走った巨大な目。
その目はしずくを憎しみのこもった様子で見つめていた。
「―――――!!」
声にならない叫び声を上げ、ベットから飛び起きた。
胸がドキドキいっている。窓際の白いベット、それとは反対側、壁際に置いてある白い小型のタンス、その上に乗った雑多な化粧道具や鏡。クローゼットのドアにはまだ新しいダークグレーのスーツを掛けたハンガーが掛かっている。そして、部屋の奥には昨晩やりかけのまま放りだした教科書やノートが載ったままの木目調の机。
まだ薄暗い朝の光の中辺りを見回してみたが、もう見慣れた風景になりつつあった自分の寝室だ。
「また…あの夢か…」
そう呟き、額の汗をぬぐったしずくは自分が夢の中と同じように全身汗でびっしょり濡れているのに気がつく。溜め息をつき、枕元に置いてある目覚まし時計を見ると午前五時を少し回った所だった。
まだ、暫く時間はある。
しずくはもう一度溜め息をつくと、シャワーを浴びようと浴室へ向かった。
星野しずく、二十四歳。この春から私立の高校に就職したばかりのピカピカの先生一年生。つい数日前に学校が始まったばかりなので毎日が新しい事の連続で、一日一日をやっと乗り切っているような気分だった。さらに、実際の授業をすればするほど事前にやっていた教材研究が不十分だったりすることが分かり、その度に見直しを迫られるため、ただでさえ寝不足&バテ気味だというのに、ここのところ毎晩のようにあの夢を見る。夢を見た後は本当に走っていたかのようにぐったりと疲れ、食欲すら失ってしまっていた。幸い、今日を乗り越えれば明日の土曜日は学校が休みのため一息つけるハズなのだが…。
「ふう…」
熱いシャワーを頭から浴びながら、しずくは鏡に映った自分の顔をしげしげと見つめる。両目の下にくっきりとクマができ、顔色も悪い。心なしか頬もこけてきているようだ。
「美人が台無しじゃない。しっかりしなくちゃ」
ともすれば倒れてしまいそうな自分を奮い立たせようと、しずくはそう呟き、鏡に向かって微笑んでみる。だが、鏡に映ったそれはまるで死人の顔のようで、見ていたしずく自身がゾッとしてしまう程だった。
ここ数日で慣れてしまった道のりを通り、学校に通う。しずくの暮らしているマンションは学校からそう離れてはいないため、しずくは雨の日以外は自転車を利用していた。途中、電車の駅を過ぎた辺りからはしずくの勤めている学校の制服を着た生徒の姿もあちこちに見ることができる。
(しっかしスカート短いわねー。あたしにはマネ出来ないわ…)
歩いている女子生徒の姿をちらちらと見つつ、しずくは思う。
しずくの通っている学校は共学校で、男子は黒の学ランという古いスタイルにもかかわらず、女子はダークグレーのダブルのブレザーにスカートという、少々ちぐはぐな制服だった。
「あ、先生オハヨー」
「おはようございます」
何人かの生徒達が自転車で通り過ぎていくしずくに声を掛けたりもする。既に授業を受け持ち始めたクラスの生徒達だ。しずくは挨拶を返しながら多少の充実感を感じていた。まだ、勤務し始めて一週間も経っていない。なのに、ほんの一、二度授業で顔を合わせただけで覚えていてもらえると思うと何だか嬉しくなってしまうのだ。朝方の重苦しい気分も大分軽くなり、しずくは颯爽と(少なくとも本人はそのつもりで)自転車を飛ばした。
「えー、今月の生活指導の…」
眠い。ひたすら眠い。
職員室で行われている朝の職員会議は、寝不足が続いているしずくにとっては拷問に等しかった。ともすればこちらの世界を離れていってしまいそうな自分の意識を、しずくは机の下で太股をつねったりしながら必死にこちら側につなぎ止める。まだどこか学生気分が抜けきらないしずくにとっては、制服の着用の仕方についてなどの議論や生活指導についてなどの議題はごく控えめに言って興味がなく、ぶっちゃければ鬱陶しいくらいですらあった。まぁ、だからといって授業中に眉毛を抜いていたりとかマニキュアを塗っていたりしていいとも思わなかったし、生徒側がもう少しわきまえてくれればここまでうるさく言うこともないのになぁ、と思うのは教師としての立場に馴染みつつあるせいなのかも知れない。
(だんだんああなっていくのかなぁ…)
しずくは、特に女子の制服の着用の仕方について、立ち上がって甲高い声でキーキー言っている、四十過ぎの痩せぎすで、いかにも意地の悪そうな眼鏡を掛け、手入れの行き届いていないがさがさの髪をお団子状にまとめ、『ザマス』と語尾に付けたらとてもよく似合いそうなオバサンの先生をぼんやりと見つめながらふと、そんな姿をした自分を想像してしまう。そのオバサン先生はしずくが学校に初出勤した日、当時まだ茶髪だったしずくの髪を一目見て
「何ですかその髪は!? すぐに染めてきなさい!!」
と怒鳴りつけた先生で、その一件以来、事ある毎にしずくを目の敵にしているような所があった。
学校に茶髪で来たしずく自身が悪いのはもちろん分かっているのだが、甲高い声でキーキーまくし立てられるとつい学生気分に戻って反発してしまうのだ。
(絶対、ああはならないようにしよう)
延々わめき続けるオバサン先生を見ながら、しずくは心でそう誓っていた。
「星野さん、あなた、職員会議の時きちんと聞いていらして?」
気の遠くなりそうな職員会議からようやく解放されてホッとしていたのもつかの間、例のオバサン先生がしずくを呼び止める。どうもあの茶髪の一件以来、しずくはマークされてしまっているようなのだ。
(またイヤミか…もううんざりなのよ、このヒステリー女!)
しずくは心の中でこそそう思うが、表情には出さないよう細心の注意を払ってひきつった笑顔で振り返る。
「も、もちろん」
「ではどんな議題があったか、言ってご覧なさい」
オバサン先生はそう言うと眼鏡を外してハンカチで拭き始めた。
(あたしはこれから授業なんだからそれどころじゃないのよ!!)
内心ではそう思いつつも、しずくは何とかうろ覚えの議題を挙げようとする。
「えーと、女子のスカート丈や制服の着方の乱れの事、交通安全週間での取り組みについて…」
いくつかは挙げられるのだが全部は出てこない。そこで詰まってしまったしずくは黙って俯いてしまう。すると、オバサン先生は拭き終わった眼鏡を掛け、しずくをジロッと睨んだ。
「やっぱり聞いてなかったのね。全く、いつまでも学生気分で…。どっちが生徒なんだか分かりゃしないわ」
「…すみません…」
言い争いをしても無駄なことは分かっているので、しずくは色々言いたいのをぐっと堪えて俯いてそれだけ呟く。
「言われなければ何もできないのかしらね。全くこれだから最近の娘は…」
なおもぶつぶつ呟きながら職員室を出て行く背中に、しずくは心の中で思いっきり舌を出していた。
(ヒステリー女! くたばれ!!)
結局、オバサン先生に捕まっていたため、教える点をまとめたノートの確認もできず、そのまま教室に向かうことになってしまった。それも、これから授業を行うクラスは初めてなのに、だ。初めて授業を行うクラスというのは生徒の側も教師がどんな人物なのかに興味津々で、ある種の異様な緊張感が漂うため、あがってしまい易いのをしずくは経験から学んでいた。だからこそ、少しでも自分を落ち着かせるためにノートの確認をしておきたかったのだ。それを…。
しずくはぶつぶつと恨み言を呟きながら教室へと向かう。そして、日直の号令、その後はおきまりの自己紹介。この辺は既に他のクラスでも体験しているし、教育実習の時にもさんざん経験したのでそれ程詰まることなく流してしまう。これまたおきまりのようにされる『恋人いるんですか』という質問もさらりと『いません』と言ってしまう。しずくはこういう質問には照れたりしないで普通に答えてしまうのがコツだと掴んでいた。ただし、『いない』と答えるのが前提ではあるが。
女子生徒達からは『ウソでしょー』や、『えー?』などという反応が毎度のようにあがるのだが、ウソでも何でもない事実であることが、少し悲しくもある。
(しょうがないでしょ、女子大だったんだから。学校にいたのはせいぜい枯れたおじいちゃん先生ぐらいだったのよ)
『絶対ウソついてるよね』等と盛り上がっている女子生徒達を見ながらしずくは内心呟く。それでも、『まあしょうがないよね』等と納得されるよりは気分がいいのも確かではあるのだが。
そして、話題が一段落する頃合いを見計らって口を開いた。
「はい、ではそろそろ静かにしてください。出席を取ります。まずは男子一番、安藤勇作君…」
この、出席取りもしずくにとっては苦手な作業だった。何の自慢にもならないが、しずくは漢字が苦手なのだ。それに加えて名字や名前に使われている漢字は読みが特殊だったり、ほとんど当て字のようだったりすることもある。一クラス、少なくても一人か二人の名前を読み間違えてしまい、時として大爆笑を引き起こしてしまうことすらある。実際、教育実習生の頃それをやった。あまりの爆笑にしずくもすっかりうろたえてしまい、結局、授業が開始できるようになるまで三十分以上かかったのだ。
こうして名前を読み上げているとその時の苦い経験が蘇ってきて、胃が締め付けられるように感じた。しずくは内心冷や汗をかきながら一人、また一人と名前を呼んでいく。さながら漢字の読みとりの口頭試験をやっているような気分だった。
そして、男子の中程まで来た時…。
『藤枝 旭』という名前が目に入った。
(これはふじえだ…あきらよね、うん。危ない危ない。『あさひ』って読んでたら間違える所だった…)
ざっと見た所、残りの男子の中にも女子の中にもそれほど難しそうな漢字は出ていない。半ばホッとしかけてしずくはその名前を読み上げる。
「藤枝 旭君」
…だが、返事はない。
「藤枝 旭君?」
(欠席? でもそれにしてはホームルームにはいたみたいだけど…)
「先生、それ、『ふじえだあさひ』って読むんです。それから、藤枝君はここにいます」
しずくが出席簿を手に欠席にしようかどうしようか迷っていると、教壇の正面、前から二番目の席の小柄で、大人しそうな女子生徒が遠慮がちに言い、隣の席に突っ伏して寝ている、痩せた、おそらく長身の男子生徒を指さした。そして、その男子生徒があまりにも堂々と寝ている事と、その男子生徒に今まで自分が気付かなかった事に呆気にとられてしまったしずくを見て、『先生が固まってしまったのは自分の責任』とでも思ったのか、その男子生徒の背中を揺すって起こそうとする。
「藤枝君、起きないと…授業始まってるよ」
「…ん」
しずくに答えた、大人しそうな女子生徒が遠慮がちにそう囁きながら背中を揺するが、その男子生徒が起き出す気配はなかなかない。
「ちょっと、藤枝君ってば」
「…んぁ?」
さんざん揺すられて、その男子生徒はようやく眠そうな声を上げながら顔を上げる。それから、いかにも眠そうな目で辺りを見回す。そしてようやく状況を理解したのか、
「…ああ、授業か…」
と呟く。
(いい度胸してるじゃないの)
それらの一部始終を、しずくは半ば感心しながら見つめていた。しずく自身も高校時代に真面目に授業を聞いていた覚えはないが、ここまでぐっすりと眠っていたことはない。さらに、しずくが寝不足をおして頑張っているというのに、こう呑気に寝られていると余計カチンと来てしまう。
「お目覚めかしら? 藤枝 旭君?」
旭がようやく正面を向き、自分と目が合ったので、しずくはたっぷりの皮肉を込めて尋ねる。
「ああ…ども。新しい先生ね」
眠そうにそれだけ言うと、旭はごそごそと机から教科書などを取り出す。それからまた眠そうにあくびをした後は悪びれる様子もなく、ぼんやりとしている。
(一体何様のつもりよ、コイツ…)
そのまま暫く旭を睨み付けていたしずくだったが、効果がないのがハッキリと分かったので諦めて授業を続けることにした。生徒と同じレベルで張り合っても仕方がない。ここは一つ、こちらが大人な所を見せねば、と思ったのだ。
それからやっと、授業が始まった。
「え〜、日本国内での代表的な原人の発見場所は…」
しずくはノートを確認しながら授業を進めていく。だが、時折例の旭の事が気になって時々そちらの方を確認してしまう。旭は相変わらず眠そうで、ともすれば寝ているのではないかと思う程だった。
(…あんニャロ…ぜっったい、顔と名前忘れないかんね)
人の顔と名前を覚えるのが苦手なしずくだったが、たった一時間の授業だけで旭の顔と名前だけは記憶することができたようだった。
死ぬ思いで何とかその日の授業を乗り越えたしずくが自宅に帰り着いたのは、夜七時を回ってからの事だった。もうふらふらで食事をする気力もなかったが、それでもとにかく何でもいいから胃に詰め込むつもりで駅前のファーストフード店でハンバーガーを買っていた。こんな状態で料理をするわけもなかったし、一度部屋に帰ってしまったら二度と外になんか出ないだろうと思ったからだ。
玄関にだらしなく靴を脱ぎ散らかしたしずくは、そのままリビングのローテーブルに倒れ込むようにしてもたれかかる。それから、一つ大きく溜め息をついた。
リビングはキッチン部分と合計すると十畳ほどの広さがあり、テレビやローテーブル、冷蔵庫、食器棚などを置いてもまだそれなりに余裕がある。もちろん、テレビもテーブルも冷蔵庫も一人暮らしにふさわしいそれなりの大きさのものではあるのだが。
ここに入居する際、しずくは結構念入りに家具を選び、レイアウトにも工夫したつもりなのだが、未だに何故だかよそよそしい感じがして馴染めないでいる。そのせいであのような夢を見るのかどうかは分からなかったが、とにかく落ち着かないのは確かだった。
「…どっ…こい…しょっと…」
年寄り臭いかけ声を掛けながらようやくのことで立ち上がり、スーツを脱いで部屋着に着替える。ただ、面倒なのでブラウスはそのまま着替えないことにした。どうせ明日洗濯に出すつもりなのだ。それから、あまり冷めてしまわないうちにハンバーガーを食べる事にする。ただでさえ食欲がないというのに、冷めたハンバーガーではとても食べられそうにないと思ったのだ。しずくはジュースで半ば流し込むようにしてぬるくなったハンバーガーを無理矢理平らげる。最早、おいしいとかまずいと言ったレベルではなく、紙粘土でも詰め込んでいるような気分だった。
どうにかその作業を終えると、テレビをつけながら再びローテーブルにぐったりともたれかかる。テレビではちょうどニュースがやっていて、女性キャスターが何事か喋っている。実際の所、しずくは何を喋っているのかについては全く興味もなかったし、聞いてもいなかった。部屋がシーンとしているのがイヤなだけだったのだ。
「ふう〜」
また溜め息をつき、しずくはごろりと寝転がる。
ピロロロ…ピロロロ…
その時、まるでタイミングを計ったかのように電話が鳴り出す。しずくはごろごろと転がりながら電話台の所まで行き、受話器を取り上げる。
「もしもし…」
ようやくの事でそれだけ答えるしずくだが、ほとんど溜め息のような声だった。
「もー何ダルそうな声出してんのよ、もしかして寝てた?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、大学時代からの友人、片倉由美の元気な声だ。
「あ、由美。どしたの?」
「…何だかホントに疲れてるみたいね。珍しい。さすがのしずくも五月病? まだ少し早いけど」
由美の声が今までの元気いっぱいのものから多少トーンを落としたものに変わる。しずくの事を心配しているのだろう。だが、それもムリもない。大学時代のしずくは元気いっぱい、由美と二人で朝までカラオケに行ったりする、まるでエネルギーの固まりのような人間だったのだ。
「うーん、そういう訳じゃないと思うけど。なんというか、こう、ひどく疲れるのよ」
「ふーん。実は明日みんなで飲もうと思ったんだけど…どうする? しずくなら一発OKだと思ってたから…」
「飲みかぁ…」
しずくの脳裏に学生時代の楽しい飲み会の様子が思い出される。それはほんの少し前の話でしかないのに、まるで数十年前の出来事であったかのような気が、今のしずくにはしていた。
「止めとく?」
「…うーん…」
昔のしずくだったら絶対に迷わなかっただろう。即OK。朝までカラオケ付で。これが社会人になると言う事なのだろうか? 少し、もの悲しい気分がした。
「どしたの、しずく?」
暫く物思いに沈んでしまっていたしずくは、そう尋ねてくる由美の声で現実に引き戻される。
「あ、ご、ゴメン。ちょっと考え事してた。えと、何時に何処?」
結局、しずくは行く事にした。疲れてはいるが何となくこの部屋に一人でいたくなかった。
「大丈夫なの?」
「パーッと飲んで疲れぶっ飛ばすわ。愚痴も言いまくるから覚悟してね」
心配そうな由美の問いかけに、精一杯明るい口調で答える。
「オーケイ。じゃ、時間は午後七時、場所は…」
由美の言う場所と時間をメモして受話器を置くと、しずくは部屋を見渡し、身震いする。
まるで、部屋全体が敵意を持ってしずくを見つめているような気がしたのだ。
真っ暗な中を、しずくは『それ』から逃げている。
また、いつもの夢だ。そう分かってはいるのだが、まるで身体がそう動くようにプログラムされた機械になってしまったかのように、いつもと同じ道を、いつもと同じように逃げていく。そして、いつものように明かりが見えてきて…。
(どうせなら…)
しずくは思い切って明かりの方には行かずにそのまま、真っ暗な道を走り続けようとしてみる。すると、身体は走り続けてはいるものの、方向についてはしずくの意志に従った。どうせ明かりの方に行っても逃げられないのは分かっているので、せめてもの抵抗のつもりだったのだ。
(何だ、こんなコト出来たんだ…)
少し気分が晴れた気がする。ザマアミロ、そう心の中で呟きながら、しずくは走り続ける。どうせ、現実で走っているわけではないのだ。こうなったらとことんまで走り続けよう。
そう、思っていた。
そして、暫く走った時、目の前に突然現れた『それ』を見て、しずくは悲鳴を上げて立ちすくむ。
『それ』は、いつもしずくが部屋に逃げた時に部屋の中で現れる、目玉のお化けだった。
その巨大な目玉は、へたり込むしずくを見て『ニタリ』と笑った。目玉だけなので表情があるとは思えないのだが、確かに、笑っていたのだ。
悲鳴と共に、しずくは目覚めた。
いつものように全身汗びっしょりだ。壁の時計を見ると朝の七時近くになっている。あの電話の後、テレビを見ていたハズだったのだが、どうやらそのままローテーブルに突っ伏したまま寝てしまったらしい。
相変わらず身体はぐったりと疲れていて、しずくはそのままごろりと横になる。そうしていると学校も、飲み会も、何だか何もかもがイヤで、面倒なものに思えてきてしまう。
「これって…五月病…なのかな…」
そう呟いてみる。学校の先生になるというのは高校の頃からの夢だったのだ。だから、念願叶ったはずの自分がまさかなるとは思っていなかった。
(あたし…好きなんじゃなかったのかな、先生の仕事…)
何だか情けないような気分になってしまい、涙がにじんで天井がゆがむ。そんな気分になるのは初めての事だった。
(間違ってたのかなぁ、あたしの人生…)
しずくはそんな事をぼんやりと考え始める。そうすると、生徒への教え方が思うようにいかない事や、オバサン先生に目をつけられたりしている事が次々と頭の中を駆けめぐっていく。そしてその度に気分が沈んでいった。
だが。
ふとある事が頭をよぎり、どんどん深みに沈んでいくしずくの心がピタリと止まる。
例の、授業が始まっているのにグーグー寝ていた旭の事だ。机に突っ伏して寝ている旭の姿が脳裏に浮かぶと、途端にしずくの心にむらむらと怒りの炎が燃え上がったのだ。
(あんニャロー、年下のくせにこっちが新人だからってバカにしくさって…)
こうなってくると他の件についても心が沈むよりは怒りの方へと気持ちが変わっていく。
(大体あのヒステリー女だって、いちいち人の行動に難癖つけて…)
「ジョーダンじゃないわよっ!!」
しずくはそう叫んでバンッとローテーブルを叩くと、怒りにまかせて立ち上がる。
(負けないんだからねっ! あたしはっ!!)
取り敢えず、熱いシャワーを浴びて気合いを入れるつもりだった。
「もーアッタマ来るったら!!」
その夜。しずくは由美と共に都内の居酒屋にいた。学生時代の仲良しグループは他に二人程いるのだが、その二人は結局、都合で来られなかったらしい。由美によると『男ができたんじゃない?』という事だったが。
のっけから叫んで中ジョッキを一気飲みしたのは誰あろう、しずくだ。しずくは『ザル』という程でもなかったが、それなりにお酒も強い。だが、いつもは中ジョッキを一気飲みするような無茶はした事がなかった。
「いきなり飛ばすじゃない、しずく。昨日は何だか病人みたいだったのに」
そう言って早速ビールの追加を頼んだのは由美。こちらは実のところ下戸に限りなく近い。それでも、そのキャラクターのせいなのか、話術のせいなのかは分からないが、飲めるしずくとも気が合っていたし、飲めないのに何が楽しいのかは良く分からないが、よく一緒に飲みにも行った。
「まぁね。もー全く、ヒステリーなオバサンには目付けられるし、生徒にはバカにされるしでもう大変。最悪」
「高校生なんてそういうもんでしょ。それに、学校に一人はいなかった? やたら女子生徒に厳しいオールドミスとか。うちは高校も女子校だったからか、まさにそういうのがいてさ、みんな嫌ってたよ」
由美はそう言ってファジーネーブルをちびりと一口やる。
「ふーん。まぁ、実際女子高生ってホント『若さ』っていう凶器を知らず知らずのうちに振り回してるからね…あたしでももう敵わないなーなんて思っちゃうもの」
しずくは生徒達のスカートの短さを思い出しながら呟いた。
「何よ、いきなり歳取ったような台詞言っちゃって。若い連中に若さで対抗してもしょうがないけど、大人の色香っていう武器があるでしょ? こっちには。それで若い男子生徒をつまみ食いするとか」
悪戯っぽく笑いながら由美が言う。しずくは苦笑いして応じた。
「シャレじゃ済まないって。大体、若すぎるよ。先生連中はオッサンばっかりだし。いいよね〜、由美は。素敵な先輩とかいるでしょ?」
「今はそれどころじゃないわよ。仕事覚えるのに精一杯」
由美は商社に就職している。人当たりの良く、明るい性格の由美はきっと職場でも人気があるのだろう。はにかんだように微笑む由美を見て、しずくはそう思った。
結局、二人は終電ギリギリぐらいまで、飲んで、カラオケに行って、と弾けて過ごした。朝までコースにならなかったのは、少しハイペースに飲み過ぎたしずくが少々グロッキーになったせいだ。由美は気にして送ってくれようとしたのだが、別に歩けないわけでもなかったし、自分の失敗で由美に迷惑を掛けるのも自立していないようでイヤだったので辞退した。そんな事をしたらオバサン先生や旭からバカにされるような気がしたのだ。これはもう、しずくの意地だった。
結局、しずくが駅に着いたのは夜中の一時を回った頃だった。
マンションまでは歩いて十五分程。市街地ではあるしそれなりに街灯もあるのだが、さすがにこの時間になると人通りはほとんどないようだ。少々心細くも感じたのだが、それでも何となく家に帰るのがイヤで酔い覚ましを兼ねて少し寄り道をして行く事にする。寄り道先はお決まりのコンビニ。そのコンビニは木が鬱蒼と茂った結構大きめの公園の側にある。この公園は少し前までは花見客でにぎわっていたようだったが、その時期も過ぎてしまった今は元の静けさを取り戻していた。
コンビニでジュースなどを買い物した後、しずくは公園の周りを回りながら帰る事にした。公園の中を通れば少しショートカットも可能なのだが、あまり早く帰りたくないという思いもあったし、そもそもさすがにこの時間に暗い公園の中に入ろうとは思えなかった。
とはいえ、いざ人通りのない、暗い夜道を歩いていると、寄り道をしようと思った自分を責めたくなってきてしまう。普段、学校帰りにコンビニに寄ったりする際はもっと時間が早いのでぽつりぽつりでも人通りがあったりするのだが、今は全く人通りがなかった。多少人通りが減っている事は想定していてもここまでとは思っていなかったのだ。
(やだなぁ…早く帰らないと…)
しずくは走り出したい衝動を懸命に堪えつつ、先を急ぐ。右手には公園の茂みが、そして左手には古ぼけた石塀が続き、その向こう側には墓石がちらちらと見え隠れしていた。しずくは別に霊とか、お化けというものを信じてはいなかったが、それでもあまり長居をしたいとも思えない場所だった。
(怖くない怖くない…幽霊なんているわけないし)
そう心に言い聞かせつつ、しずくは足早に歩いていく。既に酔いは完全に覚めている。その後には、軽率な判断を後悔する気持ちがあふれかえろうとしていた。
(怖くない怖くない…)
と、その時だった。
不意に公園側の茂みから何かが飛び出してきたのだ。
「ヒッ」
しずくは思わず息を呑んで立ち止まる。と、『それ』の目としずくの目が合った。
『それ』は、まるで骸骨に不気味な色のひからびた皮が張り付いているような顔をした人間風の生き物だった。大きさはちょうど小学校低学年くらいの子供と同じくらいだろうか。『それ』の髪はばさばさの白髪で、さらにほとんど抜け落ち、ピンクと緑が入り交じったような、生理的嫌悪をもよおすような汚らしい色の地肌が見えている。さらに、どう見ても骨とひからびた皮ばかりなのに、『それ』の腹はそこだけ別パーツであるかのようにぷっくりと膨れていた。まるで、地獄絵に出てくる『餓鬼』のようだ。そして、『それ』はすごい勢いで真っ直ぐにしずくの方へ向かって来た。『それ』のミイラのような手に伸びた長い爪が、薄青い月の光を反射してキラリと光る。しずくはそれを凝視したまま、悲鳴も上げられずに身体が硬直したようになってしまい動けなかった。ただ意識だけはハッキリしていて、どんどん近づいてくる『それ』が明らかにしずくをその爪で切り裂こうとしているのが分かった。
(もうダメ…)
『それ』がしずくの視界一杯に広がり、しずくが目を瞑ろうとした刹那、ヒュッという風切り音と共に一瞬何かが薄青くきらめく。そして、目の前に迫っていたそれは一瞬の間をおいて、右と左、真っ二つになって頽れた。
「りゃ? 先生、何でこんな所にいるの?」
突如、緊張感のない声が間近で聞こえ、しずくは意識を真っ二つになったものから正面の闇に向ける。
そこには、黒の学ランの上に白い薄手のコートを羽織った、男子生徒が抜き身の刀―より正確には鎌倉時代の武士が使っていたような、長くて、弓なりに反った太刀―を持って立っていた。そして、しずくはその男子生徒の顔に見覚えがあった。
藤枝旭だ。
しずくはそのまま無言でその場にへたり込む。そうしている間にも、しずくの目の前に転がっていたものは塵のようになり、わずかな風に吹かれて崩れていってしまう。
(分かった、これは夢なんだ。飲み過ぎて訳分かんない夢見てるのよ。やっぱ一気飲みなんかするんじゃなかった…)
しずくは心の中でそう呟いて自分を納得させようとする。心のどこかではこれが現実で起こっていることだと感じてはいるのだが、しずくの理性や常識がそれを受け入れることを拒否しているのだ。
そうしなければ、しずくが今まで信じてきた常識が崩壊してしまうから。
「先生?」
虚ろな目をしたまましずくがへたり込んでいるので心配になったのか、もう一度旭が声を掛けてくる。
「へ?」
何とか自分を納得させようと必死だったしずくは突然現実に引き戻されて素っ頓狂な声を出す。
「…色はかわいらしいけど、結構色気のないパンツ履いてんね。さては、男いないな?」
旭はニヤニヤ笑いながら言った。
「えっ!?」
そう言われて初めて、しずくは自分が膝立状態でへたり込んでいることに気付いた。タイトミニのスカートだったのでもろ正面の旭の位置からだとスカートの中が丸見えになってしまっている。しずくは慌てて広げていた足を閉じ、立ち上がろうとするのだが…立ち上がれない。下半身に力が入らないのだ。手をついて立ち上がろうとしても、膝の辺りが笑ってしまっていてダメだった。
「腰が抜けた?」
どうにか立ち上がろうともがくしずくを見て、旭が呆れたような声を出す。それから抜き身だった太刀をベルトに下げた鞘に戻すと、右手を差し出す。
暫く手を借りようかどうしようかプライドと戦っていたしずくだったが、今の格好のままでも十分みっともないので素直に差し出された手を取った。だが、やはり膝に力が入らないので頽れるように倒れ込んでしまいそうになる。
「おっとと」
頽れるしずくの身体の内側に入り込んで何とか支えた旭はそのまましずくの身体を負ぶさった。
「ち、ちょっと藤枝君、降ろしてよ」
さすがにそこまでされると気恥ずかしい。それに、教師としての立場もある。
「で、またパンツ晒してへたり込むの? そんなに色気のないパンツ見せられてもつまんないし、大体、この辺りにはまださっきのヤツみたいなのがうろついてる可能性があるんだぜ。動けなかったら切り刻まれてなぶり殺しだ。先生が死のうが生きようが知ったこっちゃない…と言いたい所だけど、そうもいかなくてね」
(最っっ低!!)
そんな事をわざわざ言うなんて。恥ずかしさのあまり、しずくの顔は真っ赤になってしまう。ぶん殴ってやりたい衝動に駆られたが、今の状態で喧嘩しても勝ち目があるとも思えなかった。
「…それで思い出した。さっきのは…何? 人間とは思えなかったけど…」
しずくはあの気味の悪いものを思い出すだけでも身震いしてしまう。それに、あの時、旭が助けに入らなかったら…。
「…やっぱり、視えてたんだな」
しずくの問いかけに、旭は振り向きもせずに答る。その声は、心なしか沈んでいるように思えた。
「ところでどっち行ったらいいんだ? 先生、結構重いし酒臭いからな。歩きながら話そうぜ」
だが、すぐに旭は明るい声に戻ってそう続ける。
「失礼ね! ほんのちょっと飲んだだけよ!!」
今度こそ、しずくは旭の頭をはたいていた。
旭は、しずくの指示に従って夜道を黙々と歩いている。その背中で揺られながら、しずくは声を掛けるタイミングを計ってた。
てっきり、歩き出したら先ほどの話の続きをするのかと暫く黙っていたのだが、旭の方からは何も喋り出す気配がなかったのでしずくの方から話しかけることにしたのだ。さっきの変な生き物、旭が物騒な物を持っている事等、疑問だらけだ。
「ね、藤枝君、さっきのヤツ、一体何なの?」
謎が多すぎてどこから聞こうかと迷うしずくだったが、結局、一番疑問に思っている事から聞くことにする。
「ん? ああ、死んでからも何かに執着し続けた亡者のなれの果て、さ。俺は『餓鬼』って呼んでるけどね」
「餓鬼ぃ?」
意図したわけではなかったが、しずくは思いっきり疑わしそうな声を出してしまっていた。
「あ、ご、ゴメン。別に君の言うこと、信じてない訳じゃないんだけど…」
言葉に出してからしまったと思い、しずくは慌ててフォローする。
「別に気にしちゃいないさ。でも先生、アレ見えたんだろ? 一体どう説明つけるつもり? プラズマ? それとも、俺と先生の集団幻覚?」
「それは…」
そう言われるとぐうの音も出ない。そして、黙っているしずくに向かって、旭は決定的な一言を投げつけた。
「先生、今までも色々視えないはずのモノが視えてたんじゃないの?」
そう言われて、しずくの顔色が変わった。と、突然フラッシュバックしてくる遠い過去の記憶。
『おじいちゃん、あそこに怖い人がいるよ』
おかっぱ頭に白いワンピース姿の幼いしずくが、茶畑の脇の何もない道端を指差し、しなびた老人にしがみつく。すると、老人はしずくの頭をいとおしそうに撫でながら言うのだ。
『しずく、自分の心をしっかり持っていれば大丈夫だよ。怖いと思う気持ちが、隙を作るんだ。怖いと思わなければ、怖くないんだよ』
そこで場面が変わり、しずくが幼い頃過ごしていたマンションの一室になった。壁に向かって楽しそうに話しているしずくに、やつれた、青白い顔をしたしずくの母親が躊躇いがちに声を掛けてくる。その側では、同じく青白い顔をしたしずくの父親が、固唾を呑んで見守っていた。
『誰と話しているの? しずく?』
『ここにいるおじちゃん。すっごく楽しいの』
きっと母親達も楽しんでいるのだろうと、にこやかな笑顔で壁の方を指差すしずくが目にしたのは、両親の青ざめた表情だった…。
しずくはその昔、確かに『視える』女の子だった。だが、その力は成長と共に、そして都会が急速に広がり、都市から闇が駆逐されていくのと共に、徐々に失われていき、いつの頃からか自分でもその事を忘れてしまっていた。まるで、その記憶を封じるかのように。
「そんな…。私、そんな事を忘れていた…?」
青ざめた表情でしずくは呟く。
確かに、母方の実家で祖父と遊んだ記憶はある。だが、しずくが覚えていた風景には『視えないはずのモノ』はいなかったし、祖父とのそんな会話も覚えていなかった。
「別に視える事は異常なことでも何でもないぜ。ただ、他人より感覚が鋭いだけだ」
旭が、うろたえるしずくを横目でちらりと見ながら言う。
「そうかもしれないけど…」
しずくの脳裏に、思い出したばかりの青ざめた両親の顔がよぎる。
「今は分別ある大人だろ? だったら、いちいち視えるモノについて話さなきゃいいのさ。黙ってればいい。それについて分かってくれる人にだけ、話すようにすれば」
旭はまるでしずくの心の内が分かっているかのように言い、さらに付け加える。
「それに、視える事を気にしていると、余計見えるようになるぜ。意識がそっちに向かえば向かうほど、感覚が研ぎ澄まされていくからな」
「えーっ!?」
それは困る。しずくは慌てて意識を別の方へ向ける事にした。すると、その様子が分かったのか、旭が悪戯っぽく笑って前方の暗がりを指さし、言う。
「ホラ、あそこの電柱の陰に顔の崩れかけたおっさんの霊が…」
「止めてよね、言わないでよ!!」
目をぎゅっとつぶってしずくはそちらから顔を背ける。
「大丈夫だって。嘘だから何もいないって。それに、そんなすぐにどうこうなるものでもないさ」
旭は笑いながらそう答えた。
「…覚えてなさいよ、日本史の成績はあたしがつけるんですからね」
しずくは精一杯の反撃をする。だが、旭の背中に負ぶわれている状態では、その言葉にも説得力はない。仕方がないので話題を変えることにした。
「コホン。…で、それでどうして君はそんな物騒なモノ持って、こんな夜中にウロウロしているわけ?」
旭の腰にぶら下がっている太刀を見ながら、しずくは尋ねる。せめて、模造刀だといいのだが…。もし真剣だったら、持っているのを警官にでも見つかったら大事になってしまう。
「ん? ああ、親父の命令」
「はぁ!? お父さんの命令?」
あまりにも意外な旭の答えに、しずくは素っ頓狂な声を上げる。だが、旭はまるで意に介した様子もなく続けた。
「そ。ウチ、この辺り一帯の氏神様になっている神社でね。ここの土地を鎮めておくのは代々ウチの務めなんだってさ。で、最近、さっきみたいなヤツがウロウロしたりしてるんで、奴らを退治しつつどこかに開いているはずの黄泉平坂…」
そこまで話した所で、ふとしずくの顔を見た旭はしずくが全く話についてこれなくなっているのに気付き、言い直す。
「つまり、あの世とこの世の接点があって、そこからさっきみたいな餓鬼が出てくるからそれを倒しつつ、接点を探して閉じろって言われたのさ、親父に」
「そんなのって…」
「イカレてる? 俺が? それとも親父が? さもなきゃ二人とも? …そうかも知れない。今時、霊だの何だのなんて言ってるヤツなんて、イカレてるよな」
旭は険しい顔をして吐き捨てるようにそう言い放つ。しずくは初めて旭が声を荒げたのでどう対処していいのか分からなかった。もしかすると、旭は今までにもさんざん、同じような奇異の視線で見られていたのかも知れない。自ら記憶を封じてしまう前の、かつてのしずくがそうであったように。
「そ、そんな事は言ってないわ。確かに、変わってるとは思うけど…」
そう言いかけて止め、しずくは深呼吸して
「ゴメン。ちょっと思った。謝る」
と改めて言って頭を下げる。もちろん、旭に負ぶわれているので頭を下げると言っても真似事ぐらいなのだが。
これには却って旭の方が驚いたようだった。
「…先生も相当変わってるな。そんなこと言うヤツ初めてだよ」
「それって褒めてるの? けなしてるの?」
複雑な気分で、しずくは尋ねる。
「もちろん、褒めてるのさ。同じ、変わったヤツとして、ね」
そう答えた旭はニヤリと笑った。
それから暫く、二人は無言で歩いていた。
しずくの顔のすぐ脇には旭の頭がある。服地ごしでも旭の身体の温もりが伝わってきていて、少し肌寒く感じていたしずくには心地よかった。
(…でも、マズいよねぇ…やっぱり…)
既に夜中の一時を回っている。そんな時間に、学校の教師と生徒がこんな格好で…誰かに見つかったらどう考えても誤解されそうだ。『途中で会ったんだけどその時に腰を抜かしちゃったから負ぶってもらっただけ』等と言い訳しても、誰も信じてくれないだろう。もししずくがそういう言い訳をする相手に出会ったって、『もう少しマシな言い訳を考えたら?』と思うはずだ。
さらに、飲み過ぎたせいなのかさっきから眠くて仕方がない。さすがにこの状況で欠伸をするのは気が引けるので我慢してはいるが、気を抜くと眠ってしまいそうだ。
それにしても、誰かに負ぶってもらうのなんて、何年ぶりだろう。父親に負ぶってもらったのは小学校ぐらいまでだったか…?
(暖かくて気持ちいいし…)
しずくは父親に負ぶってもらった時の事をぼんやりと思い出す。
「…先生? 寝てんのかよ」
いつの間にかうとうとしかけていたしずくは、半ば呆れたような旭の声で現実に引き戻される。
「な、何!? 着いたの!?」
「…寝ぼけてんの? そんな事してるとホテルにテイクアウトしちゃうよ? …でもこの時間だともう一杯だろうから、外でお星様を見ながら、かな?」
旭はそう言って楽しそうに笑う。しずくは身の危険を感じて思わず身体を硬くした。
「テイクアウトって…大体何でそんな事知ってるの!?」
「いや、それは企業秘密。で、道なんだけど、右? 左?」
「あ、ここは左」
(ヤバかった…)
何事かと飛び起きたためまだ心臓がドキドキいっていた。それが旭にも分かってしまうのではないかと思うとさらに恥ずかしく、何とか呼吸を整えようと深呼吸をする。
いずれにせよ、このままでは本当に寝てしまいそうだ。ただでさえ威厳の全くなくなっている状態なのに、これ以上醜態を晒すわけにはいかない。それに、『テイクアウト』などと言っている相手にこのまま身体を預けていていいものだろうか。先ほどからもやもやと心の中にわだかまっていた不安が、急にハッキリとした形を取り始めてきた。出来れば教え子は信頼したいが、どうもそういうタイプでもなさそうだ。
こんな時、女子大上がりは不利だと思う。四年間、身近なところに年頃の男性がいない環境で過ごしていたため、男性との呼吸というか距離感のようなものが分からなくなっていた。
「ね、ねえ、そろそろ歩けるんじゃないかと思うんだけど」
「ん? ああ」
旭は曖昧な返事をして立ち止まり、ゆっくりと腰をかがめてしずくを降ろす。
「あ、ありがと」
そう言いながら、しずくは恐る恐る地面を踏みしめていく。これでもし立てなかったりしたら、また一つ醜態を晒す事になってしまい、また、何かあっても抵抗できないという事を旭に知らせることにもなってしまう。
(お願い…)
心の中で祈りながらゆっくりと、旭の背中から降り立ち、立ち上がる。無事に立ち上がれた時には、しずくは知らず知らずのうちにホッと溜め息をついていた。
「な、何よ」
ふと気が付くと、側で旭がニヤけている。
「別に〜」
へらへらと笑う旭が、少し怖い。改めて旭を見ると、旭は身長百八十センチくらいか、結構長身なようで、しずくは旭の顔を見上げなければならない。さらに意外とがっしりとしているのも、先程負ぶわれている間に分かっていた。身体が動けるようになったとはいえ、抵抗できるかどうかはやはり疑わしかった。
「あ、ありがとね、藤枝君。もう平気だし、時間も遅いから君も帰りなさい」
遅ればせながら、教師としての威厳を取り戻そうと命令口調でしずくは言う。素直に従ってくれと、半ば祈るような気持ちだった。
「…」
だが、旭はしずくの方を真顔で見つめたまま黙っている。いよいよ身の危険を感じて、しずくはひきつった笑顔を浮かべて後ずさ…ろうとする。
だが、それは出来なかった。
「先生!!」
鋭くそう叫びながら旭がしずくをがっしりと捕まえたのだ。
「きゃっ!!」
しずくが悲鳴を上げている間に、旭はしずくを抱きかかえたまま横っ飛びに飛ぶ。その直後、今までしずくのいた辺りにさっき見たのと同じ様な餓鬼が飛び降りてきた。
ヒュッ
餓鬼の鋭く、長い爪が空を切る。一方、横っ飛びに飛んだ後、しずくを庇いつつ地面の上を数回転した旭は、しずくを自分の身体の後ろに隠すようにして立ち上がり、腰に佩いた太刀を抜く。そして、腰を落として低く構えた。
「先生、動けるんだったら離れすぎない程度に離れてくれ。そこだと巻きこんじまうかもしれない」
餓鬼をしっかりと見据えたまま、旭が言う。
カクカクとぎこちなく頷くと、しずくは這うようにして後ろに下がった。
「オーケイ…」
しずくが下がったのが気配で分かったのか、旭はそう呟くとじりじりと餓鬼との間合いを詰めていく。餓鬼も油断なく腰を落として身構え、二人は暫しの間そのまま睨み合っている。
ピンと張りつめた空気が辺りを支配し、旭はじわり、じわりと間合いを詰めていく。かなり長めの旭の太刀に比べ、餓鬼の爪はいくら長いと言っても半分以下の長さしかない。素人のしずくから見ても、あまり間合いを詰めすぎると餓鬼に有利になりこそすれ、旭にとってメリットがあるとは思えない。一体、旭は何を考えているのだろうか?
緊張が破れたのは、じりじり間合いを詰めていた旭がある一線を越えた辺りだった。自分の間合いに入ったと思ったのか、餓鬼が一気に飛びかかったのだ。一方、前に出るために足を開いてしまっていた旭は体勢が前屈みになってしまっている。あの状態では振りかぶってくる餓鬼の一撃をかわしきるのは難しい。よしんば太刀で受けたとしても体勢を完全に崩して次の攻撃はまともに受けてしまうだろう。
「危ない!!」
しずくは思わずそう口に出す。だが、その時、旭はニヤリと笑い、左手を束から放した。そして右手首をくるりと回し、刀身を半円を描くように振り、そのまま相手の突進してくる勢いを利用して右側面に抜けた。自らの突進の勢いと、旭が前屈みになった体勢を戻す勢いとが相乗され、餓鬼の上半身と下半身は見事に分離されていた。上半身はその場で落ち、下半身はそのままよたよたと二、三歩進んだ所で頽れ、塵になっていく。それを確認すると、旭は太刀を静かに鞘に戻した。
「…明らかにこっちを狙って来やがった…この近くに、黄泉平坂が出来てる…?」
闇の中を見通そうとするような鋭い表情で旭はそう呟く。それから、急にしずくの事を思い出したのか、両手で自分自身を抱きしめるようにしてしゃがみ込んでいるしずくの側に駆け寄る。
「先生、大丈夫!?」
「…だ、大丈夫…あたしは」
「大丈夫って言う顔じゃないぜ。真っ青だ」
しずくの手を取って立ち上がるのを手伝いながら旭が言う。ゆっくりと立ち上がったしずくはもう一度自分自身を抱きしめながら答えた。
「…平気。ちょっとびっくりしただけ。それより藤枝君が殺されちゃうかと思って…」
まだ少し身体が震えていた。しずくは両手で腕をさすりながら足踏みして震えが収まるのを待つ。
「…サンキュ」
そう言いながら旭は着ていた薄手のコートを脱ぎ、しずくに羽織らせる。それから、
「歩ける? それとも、また負ぶろうか?」
と尋ねてきた。
しずくは無言で首を振り、小声で付け加える。
「…ありがと」
旭は肩をちょっとすくめてそれに答えると、ゆっくりと歩き出す。しずくも、黙ってそれに続いた。
そこからしずくの部屋までは、もう幾らでもなかった。
マンションが近づいてくると、また憂鬱な気分が広がってくる。また、あの夢を見るのではないだろうか…。そんな恐怖感からくるものだ。もし、旭が女子生徒なら部屋に泊まっていくよう勧めたかもしれない。もっとも、そうだとしたら送っていくのはしずくの方で、送り先は旭の家だっただろうが。
もちろん、旭は男子生徒、さすがに泊めるつもりはないし、泊められるわけもない。それでも、あまり一人にはなりたくない気分ではあった。
(…せめてお茶でもごちそう…)
そう思いつつ、ちらりと旭の方をうかがう。旭はそんなしずくの様子に気づく様子もなく少し険しい顔つきで歩いている。その様子は何となく心強かった。
(何考えてるのよ、ダメに決まってるじゃない!)
しずくは弱気になりかけた自分を叱責し、奮い立たせる。だが、弱気になっているせいなのか、前方に見えてきたマンションの建物を、夜だというのに暗い影が覆っているような感じがして、何となく不気味なものに感じられてしまう。さらに、頭を押さえつけられているような重苦しい感じがしていた。
(しっかりするのよ、しずく!! あんたの隣にいるのは教え子でしょ!? 弱みを見せてどうすんの!!)
心の中でもう一度自分を奮い立たせ、しずくはしっかりと地面を踏みしめて歩いていく。
そして、マンションの入り口に入った。ここには部屋の鍵を使うか住人に部屋から開けてもらわない限り開かない自動ドアがある。しずくはハンドバックの中から鍵を取り出すと、くるりと向き直る。
「藤枝君、送ってくれてありがと。もうあたしは平気だから、藤枝君も帰らないと」
しずくはそう言って羽織っていたコートを旭に返す。ここで別れておかないと、ズルズルと部屋に上げることになってしまいそうで怖かった。自分自身の弱さと、そして旭が。口では色々言ってはいるが、今までの様子からそれなりに信頼しても平気そうではある…様な気もするが、やはり少し怖い。
「…悪ぃ、先生、どうもそういう訳にもいかないみたいだ」
旭は先程からの険しい表情のまま、そう答える。これは、しずくには予想外の答えだった。
「…藤枝君、お願いだから先生を困らせないで」
あまり傷つける様な事は言いたくなかったが、こうなっては仕方がない。
「いや、別に変な意味じゃないんだ。ゴメン。ただ、どうも俺の探しているものがこの中に有りそうなんでね」
しずくが何を考えているのか理解したのか、意外にも旭は少し頬を染めてしどろもどろになって説明する。
「探しているものって…」
「『黄泉平坂』…この世とあの世の接点だよ。ここ、重苦しいと感じてるだろ?」
「ええっ!? まさかそんなものが…」
しずくは素っ頓狂な声を上げる。確かに、いつも薄暗く感じてはいたのだが、そこまでとは…。
「間違いない。この近くにある。確かに先生が警戒するのも分かるけど、今は俺の事、信じて欲しい」
(…どうしよう)
しずくは鍵を手にしたまま、迷っていた。
旭の言うことは信じたい。だが、ホントに大丈夫なのだろうか? 何だか旭が怖いのだ。
しずくは旭をちらりと盗み見る。旭は何も言わず、黙ってしずくの方を見つめていた。
その姿には、今までのヘラヘラした様子はなかった。
「…わかったわ」
深呼吸してそう呟くと、しずくは鍵をコンソールに差し込み、自動ドアを開ける。
「ありがとう」
旭はそう言って先にドアをくぐった。
旭は険しい顔つきのまま、一人でどんどん進んでいく。しずくは黙って後に付いていった。今では、しずくにもその異様な気配がハッキリと感じられ、鳥肌が立つ程だった。
(やだ、こんなだったなんて…)
頭が急にズキズキと痛み出す。同時に気分が悪くなってきて、気を抜くと倒れてしまいそうだ。
「外で待ってる?」
そんなしずくの様子に気付いたのか、旭が振り返って尋ねてくる。
「…平気」
青ざめた顔でしずくは呟く。
「これ着てな」
そう言って旭はしずくにコートを羽織らせる。その途端、吐き気や頭痛が少し和らいだような気がした。
「寒い訳じゃないわ」
そう言いかけたしずくを制すると、旭は続けた。
「このコートの生地はシルクでね、シルクには悪いエネルギーを遮断する効果があるのさ。それに、ウチの神社で御神気を込めてあるから、大分違うぜ」
旭はしずくのキョトンとした顔つきを見て、慌てて続ける。
「ま、難しい事はどうでもいいし、信じなくてもいいからさ、着てなって」
そう言って悪戯っぽく微笑むと、旭は再び険しい顔つきになって進んでいく。
そして、二人はとうとうその場所に辿り着いた。
「この中だ」
とある部屋のドアを前にして、旭が呟く。
「…そうみたいね」
しずくは吐き気を堪えつつ、それだけ呟く。コートを借りていてもひどい吐き気と頭痛がしてくるのだ。そして、今ではハッキリそれと分かる程、濃い障気のようなものがそのドアの向こうから吹き出してきているのが感じられる。
「…よりにもよって誰かの住んでいる部屋の中とはね。迂闊に手の出しようがないぞ。それに、放っておくと住人にも影響が出てきちまう…」
焦りを感じているのか、旭が拳をぎゅっと握りしめる。
「もう出てるわ」
しずくはキッパリと断定した。その様子に希望を見いだしたのか、旭が振り返って尋ねてくる。
「知り合い? ここの住人と」
しずくはゆっくり首を振る。
「じゃあどうして…」
そう言いかける旭を制して、しずくは続けた。
「…ここはあたしの部屋だもの」
「ね、私に、先に入らせて」
ハンドバックから鍵を取り出したしずくは、暫く考えてからそう言って旭を見る。
「…この状況じゃ危険だ。俺一人で入った方がいい。それに、顔色もずいぶん悪い」
「そ、そうなんだけど…その、ほら、ちょっと散らかってて」
室内の様子を思い浮かべつつ、しずくは恥ずかしそうに答える。
「別に俺は先生の私生活を覗きに来た訳じゃないさ。それに、ウチには姉貴がいるから、女性に変な幻想も抱いてないよ」
「あ、あたしが気にするの! 洗濯物とか干したままだから!!」
キョトンとした様子の旭に、しずくは真っ赤になって言った。
「ああ。なら尚更先に入らないと」
旭は楽しそうにそう答える。
「ちょっと藤枝君!!」
やはり入れるんじゃなかったかと後悔しつつ、しずくは顔を真っ赤にして声を張り上げた。
「冗談だって。先生、あんまり色っぽい下着とか持ってなさそうだから見ても楽しくなさそうだもんな。俺の姉貴の方がまだマシそうだ」
ニヤニヤ笑いながら旭が言う。
「し、失礼ね。大体君のお姉さんっていくつよ?」
「高三」
「…」
高校生に若さ以外の部分で負けているとは、いささかプライドを傷つけられたような気分だ。
「あ、ショック受けてる。大体先生、恋愛した事ないだろ?」
そんなしずくを見て、旭が追い打ちをかけた。
「余計なお世話よ。とにかく、あたしが先に入るからね。すぐ済むようにするから待ってて」
そう言って鍵穴に鍵を差し込むしずくの手を、旭が掴む。
「藤枝君…」
「先生、これを」
驚いて、旭の顔を見上げて何か言いかけるしずくを制して、旭が自分の左手にしていた紫色のブレスを外してしずくの手にはめた。
「…これも、お守り?」
しずくはそのブレスをしげしげと見つめながら尋ねる。そのブレスはアメジストの小さな球がいくつも繋げられている物だった。
「まあね。それから…」
悪戯っぽく微笑みながら、旭はしずくをそっと抱きしめる。
「藤枝く―」
驚いて身体を堅くするしずくの耳元で、旭が何事か囁く。暫く後、しずくは観念したように頷いてゆっくりとその力を抜き、黙って旭のするに任せた。
ガチャリ
ドアノブが回る。そして、真っ暗だった部屋に細い明かりが入り込んでくる。開いたドアから入ってくる、廊下の明かりだ。
そしてドアの閉まる音と共に、再び一瞬の暗闇と、パチッという電気のスイッチを入れる音。そして、部屋は光に包まれる。
結局、中に入ってきたのはしずく一人だった。
(えっと…まずは洗濯物をどうにかして…)
カーテンレールに掛けておいた、洗濯物をいっぱいぶら下げた洗濯ハンガーを外すと、洗面所へ持っていく。そして洗面所に渡した突っ張り棚に掛けた。
(ま、これでいっか…後は…)
実際の所、出かけるまでに掃除もしてあったので片づけなければならない程散らかっている物はさほどない。あまり待たせても悪いし、部屋の前で待っているハズなので誰か他の住人と出会わないとも限らない。しずくは洗面台の鏡で少し乱れていた髪を整えようと振り返る。その時、ゾクッという感覚が全身を襲い、鳥肌が立った。目の前では、鏡に映ったしずくがこっちを見つめている。
(ダメ…鏡を見ちゃダメ…)
そう思うのだが、金縛りにでもあったように身体が硬直してしまっていて動かない。そして、鏡の中に映っているしずくがニヤリと笑い、のそりと動き出す。
(助け…て…藤枝…く…)
鏡の中からもう一人のしずくがゆっくりと這い出してくるのを凝視したまま、しずくの意識は次第に薄れていく…。
(…気配が、消えた…?)
外の廊下で待っていた旭は、それまで辺りに満ちていた禍々しい気配が不意に消えた事に気づいた。それから程なくしてドアが開き、しずくが顔を出す。しずくはさっきまでの青ざめた顔ではなく、むしろちょっと嬉しそうな表情をしていた。
「お待たせ、藤枝君」
そう言うとしずくは旭を招き入れる。部屋の中にも、おかしな気配は全くなかった。
「気配が…消えてる…」
辺りを見回しつつ、旭が呟く。すると、しずくがはにかんだような笑顔で振り返る。
「うん、そうみたい。…実はあたし、部屋に入ってから急に腹が立ってきてね…だって自分の部屋に変なものが出来てるなんて腹が立つじゃない? だから、『ここはあたしの部屋なんだから消えろっ!!』って念じたの。そしたら…すっきりしちゃって。あたしって、結構すごい? …なんてね」
そこで一端言葉を切ると、しずくは悪戯っぽく微笑んだ。そして、旭の手を取って座らせようとする。
「ね、せっかくだから藤枝君、座ってよ。こんな物騒な物は外して。今、お茶入れるから」
「あ、ああ…」
戸惑いながらも旭は太刀を外し、自分の座っている所のすぐ脇に置く。
「ちょっと待っててね。実はあたしの母方の実家、茶農家だからお茶の淹れ方に関してはちょっと自身があるんだ」
そう言いながら、しずくはキッチンで楽しそうにお茶を淹れ、茶菓子の入った皿と共に持ってくると、旭から見てローテーブルを挟んで右側の席に座った。
「粗茶ですが、どうぞ」
しずくはそう言って濃い緑色の茶の入った白い磁器の湯飲みを置く。旭は軽く頭を下げてそれを手に取った。
「いただきます」
そのお茶は確かに、濃く、そしてトロリと甘い、おいしいお茶だった。旭は素直に感心する。
「へえ、これは旨い」
「でしょ? 『あさつゆ』って言う種類なの。玉露みたいな感じだけど玉露ほど甘みが強くなくて、あたしのとっておきのお茶なのよ」
「ところで先生、確かに黄泉平坂が閉じているかどうか、一応奥の部屋も確認したいんだけど。中途半端にしとくとまた開いて大変な事になりかねない」
お茶を飲み干してしまうと、旭はそう言って立ち上がる。
「あ、う、うん、いいけど…ちょっと恥ずかしいな。寝室だから」
しずくは頬を桜色に染めて俯きながらも立ち上がる。旭が太刀を手に取ろうとするのをしずくは
「平気だよ、そんなの置いといて」
と言って旭の手を取って奥へと案内する。
「あんまり、じろじろ見ないでね」
ドアの前で旭の方に向き直ったしずくが言う。
「そう言われると尚更見たくなるんだけどね」
「もうっ!」
ニヤニヤ笑う旭をはたき、しずくはドアを開けて旭を通した。
「失礼」
一応、旭はそう言ってから中に入るが、別段、おかしな気配がする所はない。しずくの寝室は越してきてからまだ間もないせいもあるのだろうが、予想以上に片づいていて、女性らしさという面は少々少ないかも知れないが、清潔感があり、いかにもしずくの部屋らしい気がした。
「あんまりジロジロ見ないでって言ってるでしょ」
頬をぷくっと膨らませて、しずくが言う。
「わーってるって。少し意識を集中させて探ってみるんで、ちょっと静かにね」
ウインクしてそう言うと、旭は部屋の真ん中当たりに立って目を瞑り、意識を集中させる。周りでしずくが動いているような微かな衣擦れの音がするが、それ以外はこれといった気配は感じられないようだ。
パチン
電気のスイッチを触る音と共に、突然辺りが暗くなったので旭は驚いて目を開ける。気が付くと、電気が消されてベットサイドの小さなライトだけが灯されていた。
振り返って視線をベットサイドからしずくの方へやった旭は、思わず
「おっ」
という声を出していた。
しずくがいつの間にか上着を脱ぎ捨てて上はブラウスだけという格好になっていて、さらに下のスカートのホックを外そうとしていたのだ。
「なかなか積極的じゃない? 先生?」
ニヤニヤ笑いながらしずくのストリップショーを鑑賞している旭の目の前で、しずくの着ていたタイトスカートがストンと落ちる。ブラウス一枚になったしずくはそのままの格好で旭の方へ近づき、旭の胸にしなだれ掛かった。
「藤枝君…」
よく見るとブラウスのボタンもかなり外されていて、レモン色の下着と思った以上に豊かな胸の谷間が見えている。旭はみぞおちの辺りに柔らかな弾力を感じつつ、しずくの背中に手を回して抱きとめた。
「着やせするんだね、先生? 七十のCくらい?」
「…もう。どうして見ただけで分かるのよ」
恥ずかしそうに頬を染め、しずくが拗ねたような声を出す。
「企業秘密」
旭は笑ってそう答える。しずくはそのまま旭の身体に手を回すと、きゅっと抱きしめた。
「ねぇ藤枝君、あたし…ずっと寂しかったんだ。身近な人には『視える』人がいなかったから、いつも変人、嘘つき呼ばわりされてた。だから、『視えないようにしよう』って思って、記憶と力を封じていたの…」
そこで、しずくは伏せていた顔を上げ、旭の顔を潤んだ瞳で見つめる。
「…でも、初めて分かりあえる人に出会えた…」
呟くようにそう言うと、しずくはそのまま、頭を旭の胸に預けて目を瞑る。旭は、そんなしずくを黙って見つめていた。
「…暖かい…」
暫く経って、しずくはそう呟きながら旭の腰の辺りに手を回す。それから、少し身体を離して続けた。
「…あたしの方から、抱いてって言わなきゃ…ダメ?」
「いや…そんな事はないけど…」
そう答えて、旭は口ごもる。
「けど…?」
その思わせぶりな口調に、しずくは旭の顔を見上げる。旭は、ニヤリと笑って続けた。
「いつまで、騙してるつもりなんだろうってね」
「!?」
その言葉を聞いた途端、しずくは弾かれたように旭から離れる。その眼には獣じみた光が宿り、髪が逆立ち、口は獣のように耳まで裂けて全身からは禍々しい気配が滲み出ていた。
「…気付いていたとはね」
しずく―もとい、かつてしずくだったもの―は油断無く旭の方を睨み付けながらじりじりと机の側まで後退する。
「分からない訳ないだろ。あの先生がそんな色っぽい目つきするかよ」
旭は鼻でせせら笑った。
「ふん。最近のガキは淡泊だね。女よりママのオッパイの方が恋しいのかい?」
しずくは(面倒なのでここではしずくと書いておく)はだけた胸を見せびらかすようにしながら、見下したように言った。
「ババアと寝る趣味がないだけさ。そこまで不自由してないんでね」
そう言いながら旭が肩をすくめると、しずくはキッと旭を睨んでからやおら机の方に向き直り、机の上の筆立てからカッターを取る。そして、刃を全開まで出して自らの首筋に当てた。
「動くんじゃないよ! 下手なコトすればこの女の首をカッ切るからね!!」
だが、旭は動じる様子もなく涼しい顔をしている。
「それはお前の身体じゃない。お前の居るべき場所はここじゃない。せめて、大人しく出て行けよ。しつこい女は嫌われるぜ?」
飄々とした旭の態度に多少動揺したようだが、切り札は自分が握っている、という自信からか、しずくは再びニヤリと笑った。
「負け惜しみはそれくらいにね、坊や? この身体はもう私のもの。私は念願の若い身体で甦るのさ」
「若いのが好みなら、どうせなら0歳からやり直したら? その妄執さえ無くせば転生出来ると思うぜ」
相変わらず飄々とした態度で、旭が答えた。
「そうは行くか!! 転生したらまっさらからやり直しだ。あたしはね、あの人にもう一度愛されたいのさ」
「だから、0からやり直せよ。どうせその『あの人』だってとうの昔に死んでるだろうに」
「黙れ!! ガキに何が分かる!?」
「はいはい、俺はたかだか十七年くらいしか生きてないですからね、何百年冥界に残ってたんだか知らないけど、そりゃ分かんないよ。お説ごもっともだ」
旭はそう言って大げさに肩をすくめて見せる。
「ガキが減らず口を…さあそこをどきな」
ギリッと歯ぎしりをして、怒りのこもった目で旭を睨みつつ、しずくが声を絞り出す。懸命に怒りを押し殺しているようだった。
「その格好でお外を練り歩くの? どうせならスッポンポンになってみない?」
全く取り合わない様子で、旭が答えた。
「ママのオッパイが恋しいんじゃなかったのかい?」
フン、と、しずくは鼻でせせら笑った。
「いーや。アンタが出ていってくれた後なら喜んで堪能させていただきますとも。あの先生、慣れてなさそうだからいきなり自分が裸だった事に気付いた時の反応が楽しみ」
楽しげにニヤニヤ笑いながら旭は想像をたくましくしている。きっと、本来のしずくが聞いたらはり倒していただろう。
「さあどきな、何度も言わすんじゃないよ」
先程から全く真剣に取り合わない旭の態度に嫌気がさしたのか、しずくはドスのきいた声で告げる。
「イヤだね。そっちこそ、出ていく気ない?」
キッパリと、旭は答えた。その口元には笑みさえ浮かべている。
「何度も言わせんじゃないって言ってるだろ!? そこをどけったらどくんだよ!!」
激昂したしずくがそう言うのを聞くと、旭は一つ溜め息をつく。
「やれやれ、お楽しみが減ったか」
そしてそう呟くと、やおら
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陳! 列! 在! 前!」
と唱えつつ、右手の人差し指と中指をそろえて伸ばした手刀で縦、横、縦、横と空中を升目を書くように切っていき、最後に裂帛の気合いを込めて
「縛!!」
と叫び、手刀で斜めに切る。と、しずくの周りに碁盤の目のような光が現れ、しずくを絡め取った。
「くっ…」
光にからみつかれ、身動きの取れなくなったしずくはそれでも侮蔑と焦りの入り交じった表情で旭を睨み付ける。
「もう一度聞く。考え直す気ない? これやるの、俺も面倒だし、お楽しみは減っちゃうしでいい事ないんだよね、お互い」
旭はそう尋ねながらズボンのポケットから取り出した銀色のオイルライターに火を付ける。
「…それでこの身体を焼くつもりか? やれるものならやってみろ。小娘が火傷するだけだ」
ニヤリと笑って切り札を出すしずく。だが、その切り札は旭にあっさりとかわされてしまった。
「そうかもね」
「なっ!? 小娘がどうなってもいいのか!?」
さすがにこうなるとしずくは焦りを隠しきれないようだ。
「そんなもので良ければ土産にくれてやるよ」
楽しそうにそれだけ言うと、旭は何事か唱え始める。
「ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ…」
言葉が紡ぎ出される度に、小さなライターの火が風もないのに揺れ動く。
「不動明王火界咒…それでこの娘もろとも焼き尽くすつもりか? …し、正気か?」
動けない身体を何とか動かそうともがくしずくだが、ほとんど動かせない。恐怖に見開かれた眼で揺れ動く火をじっと凝視するばかりだ。
「…ウンタラタア・カンマン!!」
最後に気合いを込めて言葉を結ぶと、一気に炎が燃えあがった。
「正気さ。アンタが甦るよりはいい」
楽しそうな表情で、旭はゆっくりと炎を近づけていく。
「く、狂ってる…」
かすれた声でそう呟き、じっと近づいてくる炎を凝視するしずく。身体はぴくりとも動かないが、懸命に動こうともがいているのが、流れる汗で分かった。
「く…」
最後の瞬間、しずくは目を瞑っていた。しずくの腕に触れた炎はあっという間に燃え広がっていく。
まるで、紙を燃やすように。
「しまった!! そういう事か…おのれ、地獄で待ってるぞ…」
「そりゃ結構、二度と会わないって事か」
しずくの身体はあっという間に燃え尽きていく。そして、小さな真っ白い灰になったのを、旭が手で受け止める。
それは、人型をした紙切れの燃えかすだった。しずくが一人で中に入ろうとした際、旭は中にいるモノがしずくの身体を乗っ取ろうとするだろうと予想して、しずくの代わりにしずくの『気』を移した形代―人型をした紙―を入らせ、罠に掛けたのだ。
旭は形代が完全に燃え尽きているのを確認すると、玄関のドアを開ける。
そこには、不安げな表情のしずくが立っていた。
「…終わったの?」
旭のしてやったりといった悪戯っぽい笑顔を見て、しずくが尋ねてくる。
「ああ、大体はね。後はここをお祓いして、『黄泉平坂』を元通り閉じればいいだけだ」
「ふうん…」
旭の説明を半ば聞き流しつつ、しずくは急いでリビングに上がる。そして、今朝洗濯物を干しておいた場所にそれがないのを知ると、慌てて寝室に向かう。
「ちょっと洗面所借りるよ」
旭はその背中に向かってそう声を掛けた。
「どうぞご自由に」
しずくは振り向きもせずにそう答えて寝室に入った。下着などが干してある洗濯ハンガーなので見られたくなかったのだ。
だが、寝室にも洗濯ハンガーはなかった。
(…あとは…何処に?)
一瞬途方に暮れるしずくだったが、すぐにもう一つの可能性に気付きあわてて洗面所へと向かう。そして、全てが手遅れだった事を知った。洗面所では、洗濯ハンガーにぶら下がった下着をしげしげと眺めている旭がいたのだ。
「やっぱ色気ないね、先生もっとこう…りゃ? どしたの?」
恥ずかしさのあまり真っ赤になってその場にへたり込んでしまったしずくを見て、旭がキョトンとした顔で尋ねた。
それから、黄泉平坂を閉じるためのお祓いが始まった。
リビングのローテーブルを即席の祭壇にして、お酒や米、塩、水を供えた。そして、洗面所で口をゆすいだ旭がその前に座り、祝詞を奏上する。しずくはその後ろに座っていた。
「高天原に神留り坐す神漏岐神漏美之命以ちて(たかまのはらにかむづまりますかむろぎかむろみのみこともちて)…」
(…門前の小僧何とやらというか、蛙の子は蛙というか…)
しずくは旭が手にしている祝詞の書かれた冊子をちらりと覗いてみたが、漢字ばかりで全然読めなかった。
「コホン」
祝詞を奏上し終わった旭が、しずくがもそもそ動いているのが気になったのか咳払いをした。しずくは慌てて居住まいを正す。
(…やれやれ、もう二時過ぎてる…)
しずくは時計を見上げた。これからこれを片づけて、等とやっていると二時半ぐらいまでは掛かるだろうか…。いい加減、眠い。
しかし、旭は二礼二拍手一礼をした後、冊子の別のページを開いて今度は別の祝詞を奏上し始める。
(まだあんの!?)
内心そう思うしずくだが、旭はどんどん祝詞を読み進めている。しずくは心の中で溜め息をついていた。
祝詞は延々と続いた。
結局、お祓いが終わったのはそれから一時間以上後、三時を過ぎてからだった。その頃にはしずくの意識はほとんど夢の国に行ってしまっていて、旭が揺り起こしてくれなければそのまま朝まで寝ていた事だろう。それから片づけをやって、供えていた塩を少量、部屋とマンションの敷地に撒いて、と、全てが完了した頃には東の空が白み始めていた。
「じゃ先生、お疲れ」
「…お疲れ…」
教師としてのプライドからマンションの近くまで出てきて旭を見送るしずくだが、既にその声は半分眠ったような声だ。目もほとんど開いておらず、意識も半ば夢の国に行ってしまっていた。
「…大丈夫かよ、ったく、部屋で寝てりゃいいのに…」
そんなしずくの様子を見て、旭がしずくの腕を取り、ふらつく身体を支える。
「らいじょうぶらって…」
しずくは手をひらひらさせて答えた。多分、半ば無意識でやっているのだろう。
「しっかりしろよ。道で寝るなよ?」
旭が耳元でそう言ってしずくを送り出す。と、何かに驚いたのか、旭の動きが止まった。
「…なんら? ろうしたの…?」
しずくはほとんど閉じた目で旭と同じ方を見る。そして、思わず感嘆の声を上げていた。
「わぁ…大きな木…」
しずくの目には、マンションの建物に重なるようにして、大きな木が立っているのが見える。その木の根元には小さな祠もあった。そして、その木の遙か向こうから、金色の太陽が昇っている。
「…多分、あのマンションのある土地は、昔はあの木が立っていて、黄泉平坂を塞いでいたんだ。でも、マンションが建つ事になって木を切って、祠もどかしたんだな。お祓いも何もしないで」
「…それが、今回の原因…?」
昇ってくる金色の太陽が綺麗だったので、しずくの眠気も半分くらい消し飛んでいた。心が洗われるようだ。
昔の人は毎日これを見ていたのだろうか? だとしたら、『御来光』として崇めたのも頷けるような気がする。少し肌寒いが、清々しい朝の空気と相まって、神々しくさえあった。
「多分ね。塞ぐものがなくなって不安定になっていた所で、先生みたいに力のある人が越してきたから、一気に開いたんだよ」
「…どうして何もしなかったのかしら。祠もあるのに…」
太陽と、木を見つめたまま、しずくが呟く。
「金がかかるからじゃない? 小さな、何の祠だかも分からないような祠だもんな。信心深い人でもなきゃ、そうするさ」
その声が少し寂しそうだったので、しずくは旭の方を見た。旭は顔を逸らすと、
「じゃ、先生、道端で寝たりしないで、さっさと帰れよ」
と言って歩き始める。
「失礼ね、そんな事しないわよ」
そう答えるしずくの背中に、振り返って旭が声を掛けた。
「そうそう、先生って太股の付け根にほくろがあるんだね。俺、セクシーでそういうの結構好きだぜ」
「な!? 何でアンタそんな事知ってるのよ!?」
下着は見られてしまったが、いくら何でもスカートを履いた状態ではそんな所までは見えないはずだ。
一体、どうして?
真っ赤な顔で絶句してしまうしずくを見て、旭は楽しそうに笑った。
しずくは、夢を見ていた。
遠い昔、まだ小さなしずくが母方の実家の近くの野原で色々なモノ達と一緒に遊んでいる夢だ。カッパみたいなのや、鳥の顔で山伏姿をした烏天狗の小さいのもいる。ほかにも蛙のような格好をしたもの、顔の真ん中に大きな目が一つしか付いていないものなどもいる。
(…そうだった…昔は、みんなと一緒に遊んだんだ…)
楽しかった思い出。どうしてそれを、今まで封印してきてしまったのだろう。こんなに、楽しい思い出だったのに。
「仕方ないさ。今の俺たちの社会ではこいつらは存在しない事になってる。だから、ある意味、適応なのかも知れない」
いつの間にか、子供の姿の旭が側に立っていた。
「適応?」
小さな子供の姿でも、旭は小難しい事を言う。しずくはオウム返しに聞き返した。
「こいつらを視える人間が減っていくのも、先生が自分の都合の悪い記憶を封じたのも、自分たちの創り出した社会に適応するための、最適化なんじゃないかって事さ。良いか悪いかは別として、ね」
「最適化…」
そう呟くしずくの脳裏に、かつての両親の青ざめた顔が浮かぶ。
確かに、そうなのかも知れない。
だが、しずくはもうこの風景を忘れようとは思わなかった。むしろ、出来るだけ長く記憶にとどめておきたいと、そう願っていた。
ピピピ…
「う…ん…」
この部屋に越してきて初めて、しずくは目覚ましに起こされた。時計を見ると朝の七時。起きる時間だ。
「もう朝かぁ」
欠伸混じりで呟きながら、しずくはベットの上で大きく伸びをする。今日からまた学校だ。日曜日だった昨日は、ほとんど一日寝ていたので、疲れてはいなかったが何だか損をしたような気分だった。一日悪夢にうなされることなく寝られるなんて、今までは考えられないような贅沢な話だが。
(…藤枝君も寝たのかなぁ)
しずくは日曜の明け方の長々としたお祓いを思い出す。あの後、旭は相当疲れたようだった。旭は人知れずいつもあんな事をしているのだろうか。だとしたら、初めての授業の時に爆睡していたのも何となく同情出来そうな気がする。しずくは、自分の授業の時には旭が寝ていても少し大目に見てやろう、と思っていた。
スーピー…スーピー
「えー、三ヶ日原人の発見は…」
黒板にカツカツと板書していくしずく。だがその耳には先程から、規則正しい寝息が聞こえていた。それも、教室の前の方から。
旭の寝息だ。旭はこの前と同じように机に突っ伏したまま、爆睡している。
スーピー…スーピー
(…ダメよしずく、少しくらい大目に見るって決めたんじゃない…)
額に青筋を浮かべながらもしずくは板書を続けていく。
スーピー…スーピー…
(…いいから気にしない…)
スーピー…スーピー
パキッという音と共に、手にしていたチョークが折れる。
(…)
スーピー…スーピー
「でぇい、黙ってられるかっ!! 起きろ、藤枝っ!!!」
振り返って教壇をバンッと叩いたしずくは、手にしていたチョークを旭の頭目がけて投げつけていた。
ご覧頂き有難う御座います。作者の山本です。
えーと、何となく続き物っぽいタイトルですが、(現在の所)別に続き物ではありません。
書くつもりだったけど書いてないという噂もありますが(汗)。