視聴覚室
その日の英語の授業は、なぜか映画鑑賞会になっていた。教科書だけではなく、実際に英語で交わされる生の会話を体験しようという趣旨らしい。
私が生まれるずっと前の作品で、お金持ちのぼんぼんと貧乏苦学生の彼女が恋に落ち、身分の違いと宗教の問題で周囲からの大反対を受ける。二人は家を出て一緒に暮らし始めたけれど、幸せな時間は長続きしない。やがて彼女が白血病にかかり、彼を遺してこの世を去る、という内容。
バックにずっと流れているこの映画のテーマ曲は、何度か耳にしたことがあった。ということはやはり有名な作品なんだろう。
視聴覚室の一番後ろの席を陣取った私は、眼鏡を外して目頭をぎゅっと押さえた。私の視力は、裸眼では〇.六くらいしか見えていない。だから長時間薄暗がりであまり綺麗とは言えない映像を目を凝らして見つめていると、必要以上に目が疲れてしまう。
スクリーンに視線を戻す気にはなれず、天井を仰ぎ見てからこきこきと首を左右に倒す。同じ姿勢で座っているから、肩が凝った。
周囲を見渡すと、どうやら半数は居眠り中。残り半数も、真剣に見ているのが一体何人いるのか疑わしい感じだ。
いい映画なんだろうけどね。うん。当時すごく人気があったらしいし、未だ残っているんだから、凄いとは思うんだけどね。ただね。内容が、今どきの高校生にはちょっと、じゃないかと思う。
「佐川。ちゃんと見ておけよ。レポート、宿題に出すからな」
不意に告げられた言葉の内容よりも、耳のそばで囁きかけてきた聞き覚えのある声に驚いてそちらを向く。三つ続きでくっついた椅子の真ん中に座っていた私の左隣に、この鑑賞会の主催者とも言える英語の大和先生がいた。
「え。マジ? 宿題なんて、出すの?」
できるだけ小さな声で聞き返すと、薄闇の中にんまりと笑う大和先生の顔が見えた。二十五歳と教師の中では若い方だし黙っていれば男前なんだけれど、時折見せる意地の悪さでかなり損をしているんじゃないだろうか。もっとも、そんなところが好き、なんて女子生徒もいることにはいるんだけど。
「マジ。映画のあらすじと感想、四百字詰めで五枚分な」
今沈没している人たちには、確実にこなせない内容だ。だからと言って寝ている生徒を起こすわけでもないのだから、相変わらず人が悪いというか何というか。
「眼鏡、かけなくて見えるのか?」
「薄ぼんやりとは見えますよ。でも字幕はぜんぜん見えないなあ。目が疲れちゃって」
もう一度目頭を指先でぎゅっと押さえた。こうすると一瞬とはいえ少しだけ疲れがましになる気がする。
「だったら、もっと前に座ればよかっただだろう。せっかく英語ができない奴のための救済措置なんだから」
自慢じゃないけど私は英語が苦手だ。それこそ中一のときから。暗記が苦手で、だから英単語も構文もなかなか覚えることができない。通常の英語もクラス平均には程遠い上に、文法に至っては毎回テストでは赤点ライン上を行ったりきたりという、国際社会には不適合な情けなさなのだ。
なのに国語が得意なことに加え英語以上に数学と物理が苦手なため、高三に上がるときのクラス分けで、文系を希望してしまった。お陰で週に八時間もの英語関連の授業を受ける羽目に。だからこのレポートは、僅かとはいえ貴重な点数稼ぎの機会なのだけれど。
収容人数一五〇人のこの視聴覚室に一クラス分の生徒がいるだけだから、席なんて選び放題なのは確かだった。実際、私の前三列は完全に空席になっている。
そんな中わざわざこの席を取ったのには、実はちゃんと理由があった。大和先生の性格なら、必ず一番後ろ辺りで生徒の様子を観察しているだろうと踏んでいたからだ。そして予想を裏切ることなく、先生は私の隣にいる。
「だって、後ろの席っ、て寝るのにちょうどいいかなーって思ったんですよね」
あらかじめ用意しておいた口実を告げると、先生は呆れたように鼻で笑った。
「浅はかだったな。それにお前、結局寝ていないじゃないか」
「浅はかですよーだ。思ったよりも眠くならなかったんだから、仕方ないじゃないですか」
これは嘘だ。先生が隣にいるのに、眠れるわけがない。
「それで目が疲れて後半を見ていないんだから、結果は同じだろうがな」
先生の言葉に、苦笑いで応えた。
さっきから私と先生は、他の人たちの邪魔にならないよう、できるだけ小さな声で囁くように言葉を交わしている。必然的にお互いの耳のそばに口を近づけて喋るものだから、時折先生の息が耳にかかって心臓に悪いことこの上ない。にもかかわらずこの状況を楽しんでいたりもするのだから、乙女心は複雑だ。
「どっちにしても、先生とお喋りしていたら、映画の内容なんて頭に入ってきませんよ」
「それもそうか。邪魔して悪かったな」
しまったと思ったときには、既に先生の頭は私の耳元から離れ、その視線も前に向けられていた。
思わず落胆の溜息が漏れ、仕方なく眼鏡をかけ直してスクリーンの映像に視線を戻した。
一時間四十三分のノーカット映像が終わり、室内灯が点けられた。
大和先生の口から宿題を告げられると、クラスメイトたちは一斉にブーイングを発した。中にはずっと寝ていた人もいたのだから、無理もない。
先生の「解散」の声にばらばらと教室に戻るために出て行く人波を、体を思い切り伸ばしながら眺めていた。混み合う時に出て行く必要はないから、最後まで座っていよう。そう思いながら、外した眼鏡をゆっくりとケースにしまった。
「佐川、お前が最後だぞ」
「はーい」
先生に名指しで呼ばれて席を立つと、私の前の人の背中がドアの外に消えて行くのが見えた。手を離れたドアが、音もなく閉まる。
「何気にいい映画でしたね」
「何気にってのはなんだよ」
「いや、なんとなく」
「じゃあその何気なさをしっかりレポートに書いてこいよ」
「うわ。薮蛇」
先生とこんな軽口を叩き合うのを楽しみながら、一つしかない出入り口まで歩き、ドアノブに手をかけた。不意に私よりもひと回り大きな手が重ねられ、心臓が跳ね上がる。誰の手なのかは、考えるまでもない。
「先生、手」
不覚にも声が上ずってしまい、心の中で舌打ちをする。こんなんじゃ、動揺していることがばれてしまう。
「佐川は進学希望だったよな?」
「あ、はい?」
「当然受験には英語があるよなあ?」
「あう。あ、あはははは」
先生の言おうとしていることを理解し、思わず笑って誤魔化そうとした。
「今の佐川の成績じゃ、正直きついんじゃないかと思うんだが」
「えー、まあ、そうかもしれませんねえ」
ついつい目が明後日の方向を向いてしまう。そうかもしれないどころか、確実にきつい。
「こら。人と話すときは、相手の目を見ろ」
いきなり顎を掴まれて仰向けさせられた上に至近距離で顔を覗き込まれ、今度こそ心臓が止まったかと思った。全身が心臓になったかのように、頭の中にまで早鐘のような鼓動が響く。
「うわ。お前、顔、真っ赤」
手に持った筆記用具で思わず先生の手を払いのけ、大きく一歩後退る。
「いっ、いきなりそんなことされたら、だれだって恥ずかしいですっ!」
それが好きだと意識している相手ならばなおのこと。
そう。私はなぜかこの大和先生のことを、好きだったりする。もちろん私以外にも先生に好意を寄せている女子生徒はたくさんいる。けれど私はその他大勢になりたいとは思わないから、あからさまに先生に近づくようなことはしないけれど。
そして何よりも、モラルという言葉にこだわってしまう常識人であるがために、教師と生徒との間の恋愛が現実になるなどという妄想を抱くこともできないのだ。
「うーん、新鮮な反応だ」
先生は下敷きで擦れて赤く線が入った腕をさすりながら、なぜか楽しそうに目を細めている。痛かったかな。痛かったよね。
「そこで、本題だ」
いきなりの話題転換に沸騰寸前の私の頭がついていけず、思わず目が点になる。
「志望校の合格ラインに届くまで、俺が英語を教えてやろうか」
「は? って、それって授業以外に、ってことですか?」
「当たり前だ。授業時間だけでどうこうなるような成績じゃないだろうが」
あまりにもその通りなので、何も言い返せないのが悔しい。でもそれってことは当然、放課後個人指導ということになるだろう。もしかしてもしかすると、二人きりなのだろうか。
二人きり、という考えに、またしても勝手に動悸が激しくなってしまう。勝手に妄想して勝手に照れているなんて、これじゃちょっと危ない人みたいだ。
「放課後、LL教室に来い。特別に補習をしてやる」
LL教室は、英語教務室の隣にある英語専用の特別教室だ。ヒアリングなどの教材を使う授業は大抵そこで行われるが、普段は使われていない空き教室状態で、確かに個人指導には向いているかもしれない。
「私だけ、ですか? 他には誰も?」
「そ。俺の個人レッスンだ。ありがたく思えよ」
この俺様な態度さえなければ、感動もののお言葉なんだけれど。それでもそんな態度までかっこよく見えるんだから、我ながら末期症状だと思う。
「うわー。私の青春って、地獄の放課後?」
思わず心にもないことを言ってしまう。青春なんて死語だよ。
けれど先生と二人きりなんて、あまりに美味しいシチュエーション。たとえそれが超苦手な英語のためだとしても。
「極楽の間違いじゃないか?」
「地獄ですよ。って、先生、この手はなんなんですか」
ふと我に返ると、なぜか私の腰に大和先生の腕が回されている。ついでにもう一方の手は、再び私の顎に。
至近距離に近づく整った顔に、私の動揺はピークに達している。
「ん? 愛情表現?」
ぼんっと、頭が爆発しそうな勢いで顔に血が上る。何? 何と言った?
「なんで疑問系なんですか。っだから顔を近づけないでくださいってー!!」
「照れるな。お前が俺に気があるのは先刻承知だぞ」
嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまい、何とか先生の腕から逃れようともがく私に、再び爆弾が落とされた。
「え? えええええー!?」
「授業中、あれだけ熱い眼差しで睨みつけられればなあ。余程の馬鹿じゃない限り、気付くってもんだろう。まあ、俺もスーパー英語音痴のお前のことは、なぜか気に入っているしな」
これでもこっそりひっそり、先生への想いを胸に秘めていたつもりだったのに。当の先生に気付かれていたなんて、そんな間抜けな話があっていいのだろうか。しかも、気、気に入ってるって、先生が私を? ってーか、モラルはどこに行ったんだ、モラルは!
私の頭はパニック寸前。なのに先生は涼しい顔をしてのたまうのだ。
「ってことで、いただきます」
沸騰した脳みそが言葉の意味を理解しないうちに、先生の唇が近づいてくる。どう足掻いてみても力では太刀打ちできるはずもなく、そのままなし崩しに私のファーストキスは先生に奪われ、ることはなかった。
あと数ミリで唇が触れるという時、終業ベルが鳴り響いたのだ。先生の舌打ちが耳に届き、それってどうなのよと心の中で突っ込みを入れる。
そして先生の動きが止まった隙を逃さず、私は渾身の力で先生の腕を振り切った。きっと先生も力を緩めていたんだろう。案外簡単に逃げ出すことができた。
「惜しかったな」
「ぜっ、ぜんっぜん惜しくないですっ!」
息が上がり、肩が大きく揺れる。
「続きは放課後な。忘れずにLL教室に来いよ」
先生の言葉を背に受けながら、私はドアの外に飛び出した。続きって。続きってなんですか。
放課後が楽しみなような怖いような、なんとも複雑な思いで教室に向かう途中。水飲み場の鏡に映った私の頬が緩みまくってしまっていたのは、やっぱり嬉しさからだったのかもしれないのだけれど。