紅葉
サークルの雑誌に載せようと思った候補の中のボツにしたものです。季節的には合いませんが自分にしてはオーソドックスな話になったと思います。
蛇の足跡のようにうねった道だった。
レンガが敷き詰められた道の上を、僕は両親と共に歩いている。近くで噴水の水が上がる音が聞こえる。木々は深い赤に染まっていた。僕の背よりも随分と高い場所に枝葉がある。その葉の先端が三つに分かれていることに気づいて、僕は首を傾げる。
「あの葉っぱ、ふつうの葉っぱとはちがうの?」
「ええ。あれはカエデというのよ。こうして秋になると、赤く色づくの」
母が少し微笑みながらそう言った。僕はふぅんと分かっているんだか分かっていないんだか自分でも判別できない声を出した。多分、分かっていなかったのだろう。
「もう少し歩けばベンチがある。そこでお昼にしよう」
僕から見れば巨人のように背の高い父が提案する。僕はお昼と聞いて嬉しくなった。両親が歩みを進める。その後ろについていこうとした時、ふと木の陰にいる人影に気づいて目を向けた。木の裏から僕を覗き込んでいる。僕が見ているのに気づいたのか、慌てて顔を引っ込めた。僕は木へと歩み寄った。
大きな木だった。天に雄々しく伸びてゆく枝の雄大さや、その枝の先端にある目の覚めるような赤い葉が鮮烈に網膜に焼きついた。僕が木の裏にいる誰かへと探る視線を寄越す。木の裏にいる誰かはしばらく出てこなかったが、僕が行ったと思ったのかまた顔を出した。今度はばっちりと目が合う。見ると、僕と同じくらいの女の子だった。女の子はカッと顔を赤くして、木の裏にまた隠れてしまう。僕は近づきながら呼びかけた。
「ねぇ、どうしたの? そんなところで」
女の子は答えない。僕は木の幹に手をついた。表面はもっとざらざらしているかと思ったが、考えていたよりも綺麗だった。僕は木の裏にいる女の子を覗き見る。
女の子は見たことのないような赤い髪をしていた。それが背中の真ん中辺りまである。僕はそんな子はお話の中でしか見たことがなくて、少し驚きながら、「すごいね」と言った。女の子は「え?」と顔を上げる。
「髪の毛、長くてすごいねって」
女の子は赤面して、また顔を伏せてしまった。僕はどうしてだか気になって、女の子の隣に座り込んだ。不思議だった。学校では女の子の隣に座るなんてあり得なかった。僕は男の子の友達とばかり遊んで、女の子には無関心だった。
髪の毛の話題以外に何かを提供できるほど、口が達者ではない僕は何も言わずに木々を仰ぐ。空を埋め尽くさんばかりの赤い葉が、視界に覆い被さってくる。その赤が青い空と混ざり合って、どこか昔の写真に近い色合いへと世界を変化させているようだった。
過去のような、今のような色に包まれた世界の中で女の子が不意に言葉を発した。
「この枝の葉、なんていう名前か知ってる?」
僕は頷いた。
「うん。カエデっていうんだって。お母さんが言ってた」
「そう。でもね、この葉っぱがどうして赤くなるように進化したのかは、まだ正確には分かっていないの。色んな説があるけど」
「そうなんだ」
「でも、人はこの葉っぱの赤くなる季節に色んな感情を乗せてきたわ。悲しみとか、切なさとか」
女の子の言っていることは僕にはよく分からなかった。クラスの女の子の言っていることもよく分かっていないのだから当然かもしれないけど。僕がそれでも頷きながら女の子を見つめると、彼女も僕を見て、そして少し微笑んだ。
「紅葉は悲しいのよ。悲しくなくても悲しいの。きっと紅葉の赤のせいだろうけど」
「赤のせい?」
「紅葉が青じゃないのは、きっとそんなに難しい話じゃなくて、多分夏の青のままではいられないからだと思う。夏から私たちは変わらなくちゃいけなくて、人の変わらなくちゃ、思い出を捨てなくちゃって思いが、紅葉の赤に悲しみを見せているのよ」
僕にはやはりよく分からなかった。普通、悲しい色といえば青ではないかと思ったが、確かに夏の青い葉には悲しみは感じない。逆に清々しさを感じる。だが、紅葉の赤が悲しいということは、僕にはいまひとつ理解できなかった。
彼女の眼に映る少し大人びた色も、同世代の女の子にはなくて少し僕は困った。ただ一言、
「何だか、いやだね。捨てるのは」
「そうね」と女の子は応じて、でも、と続ける。
「悲しいだけの季節がずっと続くわけじゃない。これから冬になって、悲しさなんて身を凍らせる風の中に消えちゃって、春になって暖かな風が不安と喜びを運んできて、そしてまた夏が来てみんなが思い出をつくる。そうやって思い出は循環するの。また悲しい季節が来るけど、それは次の思い出をつくるための季節。だから、私は秋が好きよ」
「どうして? 捨てなければいけないのに」
「だって、また新しく季節が巡れば思い出はかえってくるもの。きっと何倍にもなって。それが楽しみだから、秋は悲しいだけじゃないって思える」
女の子は木を仰ぎ見た。すると、風が吹き抜けひらりひらりと紅葉が舞った。女の子は上手にそれを空中でつかまえて、僕に差し出した。
「あげる。きっと、この季節が巡ってもまた会えるようにって。きっと、その時は何倍も楽しいよ」
僕はそれを受け取った。葉脈が透けて見える。カエデの葉は、女の子の手のように小さくて柔らかかった。
その時、母が僕の名を呼んだ。
「行かなくちゃ」
僕が立ち上がる。女の子は木の下で座ったまま、動かなかった。
「君も、いっしょにお昼食べようよ」
僕がそう言うと、女の子は首を横に振った。
「私はいいよ。それより、また会いに来てね。そのカエデの葉っぱがあれば、私は君を見つけるから。約束」
女の子は小指を出す。僕はその細い指に自分の小指を絡ませて、何度か振った。
「ゆびきりげんまん、っと」
二人同時に指を離す。顔を見合わせて微笑んでから、僕は両親の待つベンチへと駆け出した。風が強く吹き抜けて地面に落ちた紅葉の絨毯を揺らした。僕は少し不安になって、振り返った。そこにさっきの女の子はいなかった。帰ったのか、と思って僕は両親と昼食を取り、そのまま少し遊んでからその場所をあとにした。帰り際にも木を見たが、どこにも女の子の姿はなかった。
あれからもあの場所――公園には何度か足を運んだが、赤い髪の少女には会えなかった。僕は小学校を卒業して中学校になる頃には彼女のことを忘れていた。ただ、時折同級生の女の子と話していると、ふと大人びた顔を見た瞬間に彼女のことが脳裏を過ぎることはあった。それだけ彼女はどこか僕にとっては一番近い大人で、そして同時に少女でもあったのだろう。
そんな僕も大人になったある日、自分の部屋を整理していると昔読んでいた本の中に何かが挟まっていることに気づいて、それを手に取った。それはあの日、少女がくれた紅葉だった。僕は小学校の時に葉っぱを理科の授業で栞にする時に、その紅葉を栞にしたことを思い出した。その栞を持って、僕は公園に行った。
人もまばらな公園は夏が過ぎ去り、噴水の周りは閑散としていた。ぐねぐねと曲がりくねった道の両脇に赤く染まった葉をつけた木々が空を狭めている。その中に、一際大きい木を見つけて僕は立ち止まった。
その木の裏で、ぼうと空を見上げている少女を僕は見つけた。その眼がどこを見ているのか、僕にはなんとなく分かった気がした。きっと紅葉の赤と空の青とが溶け合う境界を見つめているのだろう。その過去とも今ともつかぬ景色の中に探しているのだ。何を、かは分からない。それはこれから知ればいい。
僕は紅葉の栞を持ったまま、少女へと声をかけた。少女が立ち上がり、僕へと振り返る。きっと、その笑顔はセピア色じゃない。秋は悲しみだけじゃなくて、かえってくる喜びを待つための季節。僕はかえってきた。彼女の笑顔を見つめるために。また新しい思い出をつくって、栞を挟んで僕はその思い出を次の季節が巡るまで大切に持っているだろう。
そう、きっと、紅葉の色は思い出の色に似ているから。