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六話 交渉

 人間、予測を遙かに超える好事に遭遇した場合、それを即座に受け入れられることが出来る者は極めて稀だ。


 疑い、身構え、自身を裏切らないと確信を得た瞬間、人は初めてその幸運を享受する。


 極めて優秀な魔術師であるマルディナは、明晰なる頭脳を持つが故に、眼前の光景に真っ先に抱いた感情の名は懐疑。


 何故と、有り得ないと、理性が現実を否定する。如何程の幸運と偶然が重なれば、このような現状が作り出せるのか。


 誰かが仕組んだタチの悪い演出か、そのほうが遙かにこの事態を素直に受け入れられた。


「ん、どした?」


 だが、少年の澄んだ瞳が、表情が、少女の疑心を容易に溶かしていく。


 ジーンからは、他者を騙そうとする素振りがまるで見えない。そこに作為的なものは全く感じられず、それは彼の純朴な精神によって生まれたものだからだろう。


 ――《世界樹テフェカキルケの実》――なのだろうか、本当に?


 未だ渦巻く様々な少女の感情を、黄金の果実はただ沈黙を持って応える。


「こ、これは何処で?」


 動揺が手に取るように分かる掠れた声で、マルディナはジーンに尋ねる。その顔は極度の興奮状態に赤く染まり、瞳孔が大きく開かれていた。


「何処って、家に生ってたけど」


 ジーンの脳裏に、家を乗せた大きな樹木の姿が思い起こされる。


 彼の身長より遙かに大きな幹を持ち、天へと至らんとばかりに伸びたその大樹の樹齢は、恐らく数千年単位だろう。正に世界樹テフェカキルケの名に相応しい巨木である。


「家だと!? バカな事を言うな!」


「バカじゃねぇよ」


 到底信じられない回答に思わず感情的に詰問するディーマにジーンは眉を顰める。


 事実を述べただけなのに自身の言葉を即座に否定されたのだ、良い感情を抱くわけがない。間違っても、爺さんに過去散々バカ呼ばわりされたことを思い出し、機嫌を悪くしているわけではない。


「ディーマ!」


 珍しいマルディナの鋭利な眼差しと強い声に、ディーマは我に返ると、僅かに青褪めた顔で慌ててジーンに頭を下げる。


「っ! 失礼致しました。ジーン、先程の言葉は撤回する。失礼なことを言った、すまない」


「……別にいいけどね」


 そう言うと果物をさっさと袋の中に戻し、丁度良い具合に焼けた大熊ビックベアの肉を頬張るジーンはどう見ても機嫌を損ねていた。


 この先の展望からすれば、明らかなマイナス要素を作り出してしまったディーマは顔から血の気が引く。


「そうかそうか、家に生えてあったか。なら何度も口にしているのか?」


 漂っていた重い空気を払拭したのはこの場の最年長であるデヴィックであった。


 ジーンと同じように肉を喰らいながら、陽気に問いかける。


「そんなにないな、精々四、五回ってところ」


「ほぅ……美味かったか?」


「そりゃもう」


 蘇るあの芳醇な香りに少年の口内に涎が多量に分泌される。


「羨ましいな、そんな美味いもんを気軽に食えて」


「んなことねぇって、爺さんが五月蝿くて滅多に食えなかったよ。まぁ、あんまり実も生らないしな」


「そうなのか」


 気軽に言葉を交わす中で、世界樹の実に対する情報を引き出していくデヴィックにマルディナはさり気なく目礼すると、似合わないウィンクを浮かべて見せた。


「あぁ、そう言えば家を出る時に一個食ったな」


「食べたのですか!?」


「あ、あぁ……」


 ポツリと呟いたその言葉にマルディナは思わず体を乗り出す。ジーンは彼女のやけに積極的な動きに僅かに首を傾げる。


 マルディナだけではない、ディーマやデヴィックはもちろん、周囲に点在する者達からすら強い視線をジーンは確かに感じ取っていた。


 だが、その理由わけがさっぱり分からない。


 ――俺、何かしたっけ?


 ジーンは未だ、自身がどれ程貴重な物を所有しているのか、まるで自覚していなかった。


 ――そういや爺さん、あの果物は無闇やたらと人に見せてはいけないとか言っていたような気も……


 遠い昔にそのような忠告を聞いたような気がしたジーンは難しい表情を浮かべる。


 それに逸早く反応したのはマルディナであった。気分を害したと勘違いした少女は慌てて少年から身を引くと頭を下げる。


「し、失礼しました」


「ん、何が?」


「い、いえ……お気になさらず」


 何故謝られたのか全く覚えのないジーンはマルディナの態度は理解の範囲を超えていた。


 先程から何処か可笑しい周囲の様子に首を傾げながらも、彼の食欲は一向に衰えを見せず、その口は絶え間なく動き続ける。


 黙々と肉を食べ続けるジーンを見つめていたマルディナは魔装外套を握り締め、呼吸を整える。


 深々と息を吐くと、その小さな胸に大きな覚悟を固め、愚直にジーンを見つめ問いかけた。


「ジーン様、少し御時間を頂いてもよろしいでしょうか?」


 彼女にとっての闘いが、始まる。




 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




「それで、話って何?」


 ジーンは寝台の上で胡坐をかくと、杖を握り締め、隠しきれない緊張を含んだ少女の心境を表すように、ランプの炎に照らされた顔には深い影が浮かんでいた。


「ジーン様、申し訳ありませんが少々お待ち下さい」


 そう言うや、ふわりと蒼銀の髪が舞い上がり、魔力を籠められ淡く輝く魔素マナの粒子がマルディナの周囲を静かに乱舞する。


 軽く大地を叩くと同時に、魔術陣が走り、一瞬にして効果が発動する。


 何かが一瞬駆け巡るのをジーンはその肌で感じ取り、即座にその効力を知る。


 赤い幕の外側からしっかりと聞き取れていた周囲の会話が突如遮断されたのだ。


 ――結界……でも空間の捻れはそれほど強くない。これは――


「そんなに聴かれたくない話なのか?」


 その言葉にビクリと少女は肩を震わせる。


「分かるの、ですか?」


「まぁ感覚的にだけど、これ防音結界だよな」


「えぇ」


 結界――文字通り外界との結合を遮断するための魔術の総称であり、外敵の侵入を断つ術から、今のようにちょっとした密談を行うための防音結界など、その用途は様々だ。


 結界の種類を即座に言い当てられるのは同職である魔術師ですら難しい。それを容易に見破るその慧眼に、マルディナはある憶測を立てる。


「ジーン様は魔術師なのですか?」


 そうであるならば、あれほどの魔力量を有しているにも納得がいく。


 しかし答えは、否。


「俺は魔術師なんかじゃないよ。その才能はこれっぽっちもないって爺さんに断言された」


 そう言って親指と人差し指で作られた隙間は無いに等しい。


「では御爺様が?」


 魔術師の才覚を理解できるのは同属以外に考えられない。マルディナの思考の流れは当然のものといえる。


「さぁ? まぁとんでもない魔術は平気でバンバンぶっ放してたけど」


 やけに遠い目を浮かべるジーンを不思議に思いながら、マルディナは情報を整理する。


 このような魔境に住み着き、彼の物言いから察するに魔術を多彩に駆使していた。


 ――余程高位の魔術師だったのかしら?


 魔術師は位が高くなればなるほど、人が住まない辺境に住む傾向にある。


 これには当然、理由がある。


 というのも、腕が上がると魔術師は魔術の法則を理解し、自然と術式を自身で組み立てるようになる。


 当然、各術者毎に得意不得意が存在し、自然と練磨されるのは自身が得意とする分野となる。そして、その魔術系統が自ずと出来上がる。これは剣術などでいう流派に相当する。


 普通の高位魔術師は弟子を取り、自身の魔術を世に知らしめ己の名声を広めようとする。しかし、更にその一歩上を行く魔術師になると、逆に魔術を秘匿し俗世との繋がりを絶ってしまう。


 遙かなる高みまで到達した彼らが作り出す魔術は、既に人が持つべき範疇を逸脱するものが多々ある。


 最も新しい事例ならば、やはり竜皇殺しドラゴンスレイヤーだろうか。


 彼が放った大魔術は街を一つ丸ごと消し飛ばしたと言われており、目撃証言も多数報告されている。未だ雑草すら生えぬその荒廃した地は、魔術師の、竜皇殺しの非常識さを改めて認識させられる。


 このように、人に不相応な過大な力を禁術として自ら封じてしまい、その術式が世に出ないよう自身の行方と共に晦ましてしまうことが多々あるのだ。


 お陰で、現在魔術師は人間兵器、歩く火薬庫と恐れられる一方で偏屈で根暗と言われるようになっているのだが。


 その傾向から当て嵌めると、ジーンの祖父という人物は余程の腕の持ち主だと推測された。でなければ、とてもこの魔境で生き抜くことなど出来ないだろう。


 そして、あの果物の価値も間違いなく気付いていただろう。


 マルディナはそっと杖を脇へと置きジーンに対し敵意がない事を示すと、ゆっくりと膝を折り厳かにこうべを垂れる。


「お、おい」


 突然の低姿勢に焦る少年の声など既にマルディナの耳には届いておらず、その極度の緊張に高まり続ける心臓の鼓動が少女の耳に残響する。


「……ジーン様、貴方様にお願いがあります」


「お願い?」


「はい」


 舌の根が乾いているのか何処かたどたどしい、けれど余りある感情が込められた声がジーンに届けられる。


 その声色に、何かを感じ取ったのか彼にしては珍しく真面目な顔つきに変わる。


 ジーンが少なくとも交渉の椅子には座ってくれるようだ。マルディナはその心中で僅かな安堵を吐くがすぐに気を引き締める。


 話はまだ、始まってすらいないのだから。


「先程の果実、世界樹テフェカキルケの実……あれを私に譲って頂きたいのです」


 金色に輝く幻の実。一口食べるだけで、あらゆる病魔を退け、死せる霊魂を肉体に宿らせることすら可能と言い伝わる伝説の万能薬エリクサー


 それを求め、古今東西の権力者達は血眼になって探し、終ぞ手に入れた者はいない。


 その伝説が、確かに存在していた。


「う~ん、あれね~」


 腕を組み、ジーンは眉を顰める。マルディナにとって想定内の反応だ。そう簡単に手に入れられるとは思ってはいない。


 あの果実の価値を知る人間が易々譲る代物では断じてない。むしろ、交渉にすら応じようとはしないだろう。


 ジーン自身はその価値をイマイチ理解していない様子だが、おそらくジーンの祖父が厳命でもしたのだろう、例えば――人に渡してはいけない、などと。


 しかし、活路はある。


 世界樹テフェカキルケの実をただの美味な果実としか認識していないジーンならば、決して交渉に応じない相手ではない。


 むしろ、今までの経緯から考察すれば、従者達を引き連れ危険な奥地に赴くよりも遙かに安全にかつ確実に果実を手に入れられる可能性が高い。


 マルディナは内から湧き上がる感情の昂ぶりにより潤んだ瞳でジーンを見つめる。


 真剣な眼差しに女性特有の弱さが混じったその視線は、健全な男子には余りに強い殺傷力を秘めていた。


 その威力、白魔術に属する精神操作系統魔術《魅惑チャーム》に或いは匹敵する。


「……あぁ~」


 しかし、世の中には常に例外というものが存在する。


 そしてそれは少女にとって皮肉なことに、すぐそこにあった。


 ――いけない!


 マルディナは優れた洞察力から、現状が好ましくない状況へと移行していることを即座に把握する。


 少女はジーンの微かな変化を逃さなかった。


 適度に緊張していた頬の筋の緩みと、僅かに褪せる興味を湛えていた瞳。


 何が原因かは分からないが、彼の心が既に離れつつあることを感じ取ったマルディナは、内心の動揺を完全に押し殺しながら言葉を紡ぐ。


 より一層、瞳に感情を込めて。


「勿論無償でとは申しません。あらゆる望みを叶えてみせます」


「……例えば?」


「望むだけの富を、名声を、権力を」


 人間、大小在れどその内に様々な欲望が渦巻いており、そこに例外は存在しない。もし欲を全く持たない人間が存在するのならばそれは既に、人ではない何かだ。


 交渉とは互いに利を求める場であり、言葉を武器により多くの利を得ようと画策する。


 少女が提示する益は、常識的に考えて破格的なものであり、常人ならばまずその裏を疑うだろう。


 しかし、果実の価値を知るマルディナにとっては、提示条件は破格ではなく極めて公平なものであった。


「ふ~ん」


 ジーンは大した興味が湧かないのか頬を意味もなく掻く。どうやらマルディナのこの上のない好条件ですら、彼の琴線には引っ掛からなかったらしい。


 少女は焦る気持ちを必死に堪えながら、魔術師として日々培ってきた高速思考でジーンの情報を再度整頓し、彼の好みを分析する。


 目まぐるしく脳裏に走る情報の螺旋を紐解き、再構築していく内に一つの候補が浮上する。


 その条件に、乙女の頬が赤みを帯びる。


 余にも破廉恥な、しかし最も興味を惹くであろう条件。


 それを提示しないわけにはいかなかった。マルディナの持ち札はそう多くは残されていないのだから。


「それに、美女も」


「美女?」


 ピクリと、ジーンの耳が反応する。分かり易いまでの食いつきの良さだ。


「なぁ、美女が何なんだって?」 


 目をキラキラと輝かせるジーンを直視できず、羞恥に耐え切れなかったマルディナは思わず顔を背けながら、小さく語る。


「ですから、その……所望するだけの女性を見繕うと申しているのです!」


 顔を真っ赤に染め、最後は殆ど叫び声だったマルディナをジーンは怪訝な表情で見つめる。


「良く分かんねぇけど……お前の国って、女は物みたいに貰えるの?」


 首を傾げる少年に対し、少女は髪を逆立て声を張り上げる。


「皇国では奴隷制はとっくの昔に廃止されています!」


 確かに皇国の歴史上、奴隷制は存在したがそれは遠い過去の話であり、廃れて早数百年は経過している。


 人権を尊重する国家の住人として、ジーンの言葉は到底容認できるものではない。


 特に、彼女の場合は。


 現在も奴隷を認可している大国は野蛮と名高いラーファケ帝国と、西海沿岸に広がるカリメル連邦だ。


「じゃあさっきの言葉はどういう意味だ?」


「……わたくしの口から申し上げろと」


 度重なる精神攻撃にマルディナの目尻には気付けば小さな水滴が浮かび上がっていた。


 顔を朱に染め、僅かに恨みがましく見つめる少女の視線の意味がまるで理解できないジーンは首を傾げるより他ない。


 その反応に、マルディナの脳裏にある仮説が立つ。


「ジーン様、一つお聞きしたいことが」


「何?」


 先の言葉が気になるのか、嬉々としてマルディナの言葉に応える。


 その様子に僅かに安堵しながら、息を整えて呼吸と精神を安定させると、静かに問いかける。


「子供はどうやって出来るかご存知ですか?」


 思春期に入った者ならば誰でも知っているだろう、生命の営み。多感な少年少女たちにとって興味と憧憬の対象となる行為を。


 しかし、忘れてはならない。少年があらゆる意味で規格外ということを。


「そんぐらい勿論知ってるぜ、コウノトリっていう鳥が運んでくるんだろ?」


「……」


「あれ、鱗鳥ワイバーンだったっけ?」


 マルディナは己の仮説が正しいと証明された事に対し、何とも言えぬ虚無感に襲われる。


 そして、理解する。色欲ではジーンが決して釣れないことを。


「まっ、どっちだっていいか」


 結局、きちんと思い出せなかったジーンはあっさり脳内詮索を放棄すると、相対する少女の瞳を真っ直ぐ見つめる。


「ねぇ」


「何でしょうか?」


 この場において初めてとなる自発的なジーンの発言に、マルディナの胸が小さく高鳴る。


 言葉とは元来、自身の意志を他者に明確に伝える術として発展してきたものだ。つまりマルディナに対する何かを伝えたいというジーンの感情の動きが、先の言葉へと繋がっている。


 その言葉の先に何が続くのか、期待しないわけがない。


 ――ジーン様はどのような望みを求めるのでしょうか……いえ、例えどんな無茶な要求だろうと絶対に叶えてみせます。


 希望が、すぐ目の前にあるのだから。


 マルディナの熱の篭った視線を受けたジーンは陽気に答えた、何の感情も抱かない視線と共に。


「俺、特に何も欲しいもんとかないから別にいいや。それより肉食いに戻っても良いよな?」


 マルディナは最初、ジーンが何を言っているのか理解できなかった。


 時間の経過と共に回り始めた思考回路が、少年の言葉を粗食し認識した瞬間、少女の顔から血の気が引いた。


「ま、待って下さい!」


 自分の脇を擦り抜け、天幕から出て行こうとするジーンの腕を慌てて掴む。


「まだ、何か話があるの?」


 僅かに不快感が滲んだ少年の声に、背筋に冷たい汗を感じながらマルディナは必死に呼び止める。


「本当に欲しいものは何もないのですか?」


「うん」


 即座にそう返され、マルディナは絶句する。


 まるで悩む素振りが見受けられず、本心による発言であることが明白であった。だからこそ声が出ない。


 交渉は互いの益が得られて初めて成り立つものであり、一方的な益は交渉ではなく搾取だ。


 ジーンがマルディナの出した条件に益を見出していない以上、更なる条件の提示以外に交渉の余地は残されていない。


 そして、既に少女の手元に持ち札は残されていなかった。


 それはそうだろう、彼女が提示した条件はあらゆる望み。それを超える望みなどある訳がなかった。


「もういい?」


 僅かに荒げたジーンの声に小さく肩を震わせるとマルディナはより一層少年の腕にしがみつき搾り出すように言葉を紡ぐ。


「私のお願いでも駄目、ですか……」


 彼は言っていた。自分が美女だから無償でも助ける、と。


 少女の高貴なる者としての矜持プライドが、何の対価もなく物を恵んでもらうといった乞食紛いの行動を抑制していた。


 しかし、マルディナにはなにふり構っている余裕など既に何処にもなかった。


 藁にも縋る思いでジーンの腕を掴むマルディナに、神託が降る。


「あぁ、だって今の君は美女じゃないし」


「えっ?」


 少女の呼吸が止まる。何を言っているのかワカラナイ。


「他に話があったら、飯食い終わってからにしてくれない? それじゃ」


 呆然とするマルディナなど、まるで路傍に転がる石のように無関心なジーンは彼女の腕を容易く振り解くと、さっさと天幕を後にした。


 残された少女はただはためく天幕を眺める。


 誰もいなくなった天幕の中で一人佇む少女は暫しの時間を要した後、理解した。交渉が決裂したことを。


 絶望に膝が、心が折れる。


 マルディナの目の前は何時しか漆黒に染まっていた。




 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




 ――やはり、こうなったか……


 騎士は小さく溜息を吐く。予想はしていたが一人天幕から姿を現すジーンに、主人が臨んだ交渉が決裂したことを悟る。


 そして、それを僅かとはいえ落胆する自身をディーマは恥じた。


「おぅ、ディーマ。もう食わんのか?」


「俺はアンタほどの胃袋は持ち合わせちゃいない」


「違ぇねぇ」


 マルディナとの対話時とは比較にならないほど雑な言葉だ。貴族としては異端だろうが、庶民との交流が多いディーマは自然に貴族かれらからすれば荒い言葉遣いを時と場合によって巧みに使い分けるに至っていた。


「さて……」


 ゆっくりと立ち上がると甲冑の擦れた音が鳴り響く。聞きなれた音に気にすることなく、ディーマは床に置いていた長年の相棒を手に取る。


 慣れ親しんだ重みが心地良い。やはり、自分はこれしかないと実感できる。


「ディーマ、お前……」


 大熊ビックベアの肉をリスのように頬を含むデヴィックにディーマは苦笑する。


 どうやら、十年来の付き合いとなると頭の中など簡単に分かるらしい。最も、恐らく自身から発せられる気配を敏感に感じ取ったのだろうが。


 それは戦場に立つ者達にとって、最も知る気配であった。


 それを証明するようにデヴィックの他に、近くに暖を囲っていた部下達が何事かと言わん面持ちで己を見つめていた。


「何、軽い食後の運動をちょっとな」


 そう、軽い運動だ。


 軽く体を解すと、本人の意志とは無関係にアチコチの間接が堅い音を鳴らす。


 まるでディーマに、嘘を吐くなと咎めるように。


「そうか……まぁ、程ほどにしろよ。姫様にどやされても俺は知らんぞ」


「肝に銘じておく」


 幼き主人の説教は散々耳にタコが出来るほど聞いている。これ以上聞いたら音が聞き取れなくなるかもしれない。


 それはディーマにとって望むべきものではない。


「ジーン」


「ん、何?」


 ディーマは呼び止められ怪訝な視線を寄越すジーンの更に先に立つ簡易テントを一瞬視線を向ける。


 未だ天幕を飛び出さないところから、恐らく敬愛する主人マルディナは今頃絶望に打ちひしがれているのだろう。


 今はまだ、声を掛けるべきではない。


 それによりも騎士には成すべきことがあった。


 あの心優しき少女では考えも付かないだろう交渉を、ディーマはジーンに提示する。


「君に決闘を申し込む」

可笑しい、何時になったら森を抜けるんだ……

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