三話 少女と騎士と少年と
「君はそこで休んでなよ」
呆然と見上げるマルディナを安心させるように頭を軽く撫でると、少年は彼女に背を向ける。
その背中を少女は暫し無言で見つめていた。
「ま、待って!」
突然の出来事に思考停止していた脳が徐々に覚醒すると同時に、少年の余りに無謀な発言にマルディナは静止の声と共に手を伸ばす。
しかし、その手が彼を掴むことはない。
「無理するなって」
その言葉を肯定するようにマルディナの身体がふらつき、抑止のために伸ばされた手は自身の肉体を支える棒切れと化す。
大地に手を着く少女の顔には疲労の影が色濃く浮かんでいた。
現在のマルディナは一種の貧血状態にある。最も彼女に不足しているのは血ではなく魔力なのだが。
眩暈に僅かに歪む視界を気力で正すと、マルディナは倦怠感に蝕まれる体を必死に動かそうと試みるが意思に肉体が全く反応しようとせず、膝は笑い続ける。
まるで少女を嘲笑するように。
しかし、一向に止める素振りは見当たらない。
彼女にとって護るべき民に護られるなど、あってはならないことだ。
「てぃ」
「!?」
突如脳天に走る衝撃に、世界が一瞬ブレる。そして、続いて奔る激痛にマルディナは声のない悲鳴を上げた。
「だから、無理するなって言ってんだろ」
気付けば、眼前に例の少年が不機嫌そうな顔で己を見つめていた。
自身に向かって伸ばされた手の形状と、額から絶えず感じる熱と痛みから、少年に指で叩かれたことを知る。
己の強情に苦言を呈されたことは多々あった。だが、此処まで無遠慮に窘められたことは、マルディナの記憶の中になかった。
「いいからそこでじっとしてろって、すぐに終わるから。あぁ、それとちょっとこれ、預かってて」
額を押さえ目尻に涙を浮かべるマルディナに、少年は皮袋を無造作に放り投げる。
放物線を描いたそれを、マルディナは思わず懐に抱え込んでしまう。外見と相応の重量しかない、この魔境にはあるまじき軽さだ。
「別に持ってても問題ないんだけど、面倒事は早めに片付けるに限るからな」
コキコキと頚椎を鳴らしながら、隙だらけとしか思えぬ歩みで戦場を闊歩する。
その無謀以外の何物でもないその仕草に、冷静さを取り戻しつつあるマルディナの胸中に少年に対する警戒心が急速に膨れ上がる。
死の樹海と呼ばれるマ・ヒュージの森にいるとは思えぬその格好。皇国では馴染みの民族衣装はこの地では余りに頼りなく見える。
袖口にゆとりのあるその作りのため、少年の素肌が魔素に満ちた風に度々顕になる。
甲冑や魔装外套など極力地肌が魔素に触れぬように細心の注意を図ったマルディナにとって、あってはならない姿である。
長時間、濃密な魔素に触れていればその分、肉体の変質は早まる。
異常な精神の高揚に反する五感の鈍化、心拍数の増加に発汗の減少。精神の絶頂に肉体の破損。
相反する状態が肥大し、やがて壊れる。
最多、瘴気と呼べるこの魔素に素肌を晒すその恐ろしさを少年はまるで自覚していない。
または、まるで問題にしていないのか。
それを証明するように、皇国で何処にでもいそうな凡庸な少年の背中から未だかつて感じたことのない威圧感が放たれていた。
外見と調和しないその存在感。
その異様さは、確かにこの死の樹海にはこの上なく同気していた。
「それじゃ……やりますか」
まるで軽い遣いを頼まれたかのような気軽さで、少年は足を一歩踏み出す。
次の瞬間、眼前の光景にマルディナの全身は総毛立った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
消えた、そう評するより他はない。
悔しくもディーマにとって、いや隊の誰もが総じてそう認識したことだろう。
いや、そうとしか現状を理解できなかった。
忽然と姿を晦ましたことに、隠蔽魔術でも用いたのかと一瞬脳裏につまらぬ考えが過ぎる。
ならば魔素の燐光がある筈だ。
魔力を帯びた魔素はその指向性に基づいた色を放つ。少年が魔術を発動したならば、必ずその光が生まれる。
それがないということは、姿が見えないのは魔術とは関係のない明確な証。
――では、どうやって……
ディーマのその疑問は魔物達の絶叫と共に判明する。
小鬼が、強欲猿が、次々と姿を消す。
まるでその存在が夢か幻のように忽然と。
何が起こっているのかと呆然としていると神隠しに遭遇した哀れな魔物たちは姿を現す。
どれも皆平等に、無慈悲に。見るも無残な姿に成り果てて。
彼らには頭部というものが一切合財、存在しなかった。
「なっ!?」
驚愕に顔を歪めていると、まるで魔物たちの肉体は思い出したかというように、森に血の雨を降らす。
間欠泉のように噴き出す濃緑の血が空を大地を汚し、死を充満させる彼らの足元には肉体と対になっていた筈の頭が、恐怖に染まった表情でそれを見つめていた。
その瞳は完全に光を失っていた。
地獄としか形容のしようないその光景に、疲弊した隊員の中には耐え切れず吐き出す者も現れるが無理からぬことだろう。
局所的に降り出した雨を浴びていたディーマだが、その天候の中、一陣の旋風が吹き抜けているのを辛うじてその鳶色の瞳で捉える。
その風が通り過ぎる度に、物言わぬ骸が一つ、また一つ出来上がる。
――何なんだ、あの小僧は!
戦慄がディーマを襲う。
自分たちを壊滅の一歩手前まで、いやあのままでは確実に全滅していただろう相手に、此処まで圧倒的に立ち振る舞うその人外の強さに、思わず唾を飲み込む。
何時しか戦場は屠殺場へと成り果てていた。
少年と自身との力の差を感じ取った魔物たちは慌ててその場に背を向け逃げ出すが、既に何もかもが手遅れであった。
「逃がすわけないだろ」
呆れの混じった軽い少年の声が魔物達の悲痛な叫びに掻き消される。
本来ならば、少年は明らかに格下な戦意のない敵をわざわざ追撃などしたりはしない。
ただし、今回は話が異なる。
魔物は存外知能があるように見えて所詮は獣、咽喉元を過ぎれば熱さなどすぐに忘れてしまう。
放っておけば、いずれ再び襲い掛かってくる可能性は決して低くはない。
ランクが高ければ、そのような愚考など決して起こさないのだが小鬼も強欲猿も所詮Dランク未満、高望みなど到底望めない。
更には、ディーマ達は全く気づいていないが、周囲から多数の殺気立った魔物達の気配を少年は一人察知していた。
恐らく疲弊した獲物を掠める算段なのだろう。
その全てを敵に回しても、敗北する可能性など万が一にもないのだが、無駄な労働など進んで行うほど少年はお人好しではない。
魔物たちへの明確な警告を少年は形作る、血の海を広げることで。
既に一方的な殺戮と化した場も、やがて静寂を取り戻す。その時には既に、魔物達の命は全て刈り取られていた。
たった一人の少年の手によって。
誰もが何も言えずにいた。
彼らの目に映っていたのは次々に頭部を宙へと舞わす魔物たちが地に伏し、血を噴き出させていただけ。
少年の姿は最後まで見えず、だからこそその異様な光景に心身が凍り付いて動けないのだ。
「あぁ~腹減った~」
ビクリと、少年の間の抜けた声に誰もが肩を震わせる。
この世に地獄を産み落とした権化は汗一つ掻いておらず、不思議なことに返り血を一滴として浴びてはいなかった。
此処まで隔絶した力を誇示しながら、少年から疲労感が全く感じ取れない。即ち、彼にとって目の前の惨状など大した労ではなかったことを意味している。
余りに規格外、そしてその真意も不明、これで警戒しないわけがない。
何時しか動ける従者たちは顔面を蒼白にしながらもマルディナを己の背後へと回していた。
敬愛する主を護るために。
「仕方ない……あれ食べるか。あ~でも勿体ないし……どうすっかな~」
腕を組んで考え込む少年を、隊員たちは己が手に得物を手に油断なく見つめる。
その視線に気付いたのだろう、少年はきょとんとした面持ちで決死の覚悟を固める人間を見つめる。
「ちょっとそこ退いてくれない? あの子から袋を返して貰いたいんだけど」
少年が指差す人垣の先には彼が目の前の光景を齎す要因となった少女が唖然と少年を見つめていた。
「その前にいくつか質問させてもらっても構わないか?」
マルディナを囲う護衛隊の最前線に立つディーマが自然と少年と対峙する。
「別にいいけど」
威圧感を多分に含んだ声にもさして気にすることなく、少年はあっさり頷く。
ディーマは油断なく少年を見下ろす。
敬愛する主と大して背丈は変わらない。恐らく未だ第二次性徴を迎えていないのだろう、声にも幼さが残る。
年齢は恐らく主人よりも二、三は下だろう。
しかし、外見とは反比例する突出した戦闘能力。どんなに低く見積もってもその実力はB級はある。
A級と言われても信じてしまうかもしれない、それほどまでに目前の少年の底が見えない。
「私の名はディーマ、ディーマ=プロディフスと言う。君の名は?」
「ジーン」
ディーマの名に大した興味がないのか、少年、ジーンはやや投げ遣りに態度で名乗る。
その視線は言外で他に問いはないのかと告げていた。
己の名に何の反応を示さないジーンにディーマは僅かに目を細める。
苗字に対し何の反応も示さない、つまり眼下の少年は貴族である己を畏れていないということだ。
確かに身に宿す戦闘能力は絶大だが、何も力はそれだけではない。
貴族の、特権階級の権力もまた力だ。
平民なら畏怖であれ嫌悪であれ、誰もが何らかの反応を示すものだが、ジーンにはまるでそれがない。
――俺を歯牙にかけていないのか、それとも……
「ジーン、君は今一人か? 他に仲間はいないのか?」
「仲間? そんなのいないよ」
首を左右に振るジーンを見つめながら、その言葉の真偽を確かめるべく視線を後方へと向けると、一人の術者が無言で頷くのが瞳に写る。
どうやらこの近辺ではそのような人影は写っていないようだ。
「おっさん、もういい?」
「おっ!?」
ジーンの思わぬ発言にディーマは思わず呻き声を上げる。僅かに仰け反るディーマの背後から上がる僅かな笑い声に鋭い視線を向ければ、一斉に音が止む。
内心で私はまだ若いと愚痴りながら、鋭利さを増した視線を眼下へと向ける。
「おっさんではない、ディーマだ」
「別にどっちだっていいよ、俺は。それよりまだ何かあるの? いい加減腹減ってきたんだけど」
僅かに苛立っているのが声と表情から簡単に読み取れる。これほどまでに感情を顕にする性格から質問に対する虚偽の確立は低いと判断していい。
ならば、重要な用件はあえて遠回しに問い質すことはない。正面から堂々と問うまでだ。
気を引き締めるため、ディーマが僅かに息を吸い込んだ瞬間、背後より声が上がる。
振り返れば人垣が左右へと割れ、その裂け目に柳眉を逆立てた主人が仁王立ちしていた。
「ディーマ」
「はっ」
少女の鋭利な響きを含んだ呼び声にディーマは即座に直立不動の体勢を取る。
つい先程まで上から目線だった相手のその変わり身の早さに、ジーンは興味深くディーマと少女、マルディナを交互に見つめる。
少年の好奇の視線に晒されながら主人と従者は対話を始める。
「戦いは終わりました。ディーマ、その後貴方が、貴方たちが成すべきことはなんですか?」
「敵対勢力の残存確認、部隊の安全確保、負傷者の回収及び治療です」
スラスラとディーマの口から部隊の行動規範が読み上げられる。
その言葉にマルディナは小さく頷くと、自身より遥かに背丈の高い従者を見つめる。
琥珀色の瞳には義憤の炎が静かに燃えていた。
「そうですね。ではそこに、救援者の尋問は含まれますか?」
蒼銀の魔術師の問いに、黄金の騎士は口を噤む。
「ディーマ、答えなさい」
少女の年不相応の、その威厳に満ちた声に答えるためにディーマは暫しの時を要した。
「……いえ」
そこには諦観が、憂慮が、深愛が、様々な感情が一緒くたに混じり合った、不思議な音があった。
「では、貴方が成すべきことを成しなさい」
「はっ!」
マルディナの命に、ディーマは右肘を直角に曲げ、握り拳を己の左胸へと置く。
皇国の敬礼様式だ。
少女の忠臣であるディーマはすぐさま隊員たちに矢継ぎ早に指示を飛ばす。
急に慌しく動き出す男たちにジーンが目を瞬かせていると、少女がゆっくりと近付いてくる。未だ良いとはお世辞にも言えない顔色で、しかしその瞳には確かな輝きを宿しながら。
「先程は部下がとんだ粗相を致しました。申し訳ありません」
そう言って、マルディナの頭が下げられる。その蒼月を髣髴させる蒼銀の髪が重力に惹かれ、肩口から艶やかに撫で落ちる。
優美さすら感じさせる謝意の姿勢に、ジーンは困り顔で頬を掻く。
「別に気にしてない」
「それでは、赦して下さいますか?」
未だ下げられた少女の顔は未だその美しい髪によってジーンの視界から覆われていた。
「あぁ、だから顔上げてくれない? 何か喋りにくいからさ」
ジーンの声に、ようやく少女は顔を上げる。
顕になるその顔をジーンは改めてジッと見つめる。自分とも、親とも造形が全く異なるその顔を。
視線と視線が交差する。
「あ、あの……こちらをお返しします」
「ん、あんがと」
僅かに頬を朱に染めるマルディナが差し出した皮袋をジーンは気軽に受け取る。
「改めまして御礼を申し上げます。ジーン様、この度は私共を助けて頂き、感謝の言葉は幾らあっても足りません」
再び頭を下げようとするマルディナをジーンは手で制す。
「そんなのいらないよ、腹が膨れるわけじゃないし。俺がやったのは爺さんの教えを守っただけ、大したことなんか何もしちゃいないさ」
「御爺様のですか?」
ジーンのその言葉に一瞬マルディナの顔付きが変わる。
「そう、美女がいたら絶対に助けろって言われてたから」
「そ、そうですか……」
ジーンの瞳には完全に顔が朱に染まったマルディナが写る。その姿に少年は、自身の行動が正しかったことを確信する。
何故彼女がそのような反応を示したのかは、全く理解していないが。
暫し、両者の間に沈黙が漂う。
何処か甘酸っぱい空間を打破したのは少女の忠実なる配下の声だった。
「失礼致します。御話の最中真に申し訳ありませんが御嬢様、至急御同行を願えないでしょうか」
「……今でなければなりませんか」
「はい」
ディーマのその発言に、マルディナは小さく溜息を吐くとジーンの瞳に訴えかける。
「ジーン様、無礼を承知で申し上げます。私に暫し御時間を頂けないでしょうか」
少女の願いは彼女の予想とは裏腹にあっさり叶った。
「そんなに気を使わなくていいって」
「御心遣い感謝します、それでは」
ひらひらと手を振るジーンに深々と頭を下げるとマルディナは騎士を引き連れてその場を後にする。
遠ざかる少女の背を、少年は近場にある手頃な岩に腰掛けながら見送る。
いつの間にか作られた天幕の中へと二人が姿を消すと、ジーンを取り巻く空気が僅かに、だが確かに変わる。
まるで野放しに放置された極めて強暴な猛獣を見つめるような、恐怖と警戒心が混在した視線が幾重もその身に突き刺さる。
更には、それらの視線に巧妙に紛れた感情を排した監視の存在をジーンは即座に察するが、敢えて少女に告げることはしなかった。
生まれてこの方、これほどまでに多岐に亘る感情をぶつけられたことのなかったジーンにとって、現在の状況は大変興味深いものであり、むざむざ逃すわけがない。
気付けばジーンは笑みを浮かべていた。
未だこの樹海を抜けていないというのに、今まで体験したことのなかった出来事が山のように現れた。
代り映えのない景色が、何時しか全く別のものへと変化する。
今でさえ、これだけ魅力的な刺激がジーンの胸を震わす。
では、外の世界は一体どんなものなのだろうか。様々な想像の世界がジーンの脳裏に急速に広がっていく。
あの天幕の向こうで少女は何を話し、何を思っているのか。少年にはまるで想像が出来ずにいた。
それがどうしようもなく、楽しい。
「爺さん……」
胡坐を組み後頭部に手を当てながら、ジーンは天を仰ぐ。
天然の翠の天蓋の遥か先に輝く星を見つめ、死の樹海を凝縮したかのような魔性を帯びた黒髪の少年は嬉しそうに呟く。
「アンタの言葉、偶には役に立つじゃん」
その言葉は瘴気の風に吹かれて、リムステルラの空へと舞い上がる。
馳せる少年の心を乗せて。
戦闘終わって良かっただ~