二話 運命の始まり
「ここが死の樹海……」
目の前に広がる広大な密林地帯を前に、マルディナは表情を僅かに強張らせる。
「何て魔素なの……まるで瘴気じゃない」
未だ足を踏み入れていないというのに、鼻腔を否応なく感じさせる濃厚な魔素に思わず手で鼻を覆う。
魔術師である彼女には眼前の樹海から発せられる魔素をより明確に感じ取れてしまうだけに、これから踏み込もうとする未開の地がどれほど異常な地であることが理解できてしまう。
「御嬢様、大丈夫ですか?」
「ディーマ」
振り返ると、一人の男性が静かに控えていた。
黄金の髪を逆立て、スラリと細く整った眉が下を向く。男の鳶色の瞳は少女を心配そうに見つめていた。
「えぇ問題ないわ。むしろ私より自分の体を気遣いなさい。装備の状態は?」
「至って良好です、御嬢様」
ディーマは軽く己の胸元を叩くと、硬質の音が甲冑から発せられる。その中心部には淡い水色の鉱石が僅かに光を発していた。
ディーマの返答に、マルディナは小さく頷く。
ディーマの耐魔体性は一般人の域を出ない。そのため、何の対処も無しにこの樹海に足を踏み入れたら二度と生きては戻れない。
魔素はこの大地に存在する始原元素の総称であり、元来、この元素は人に、生物に悪影響を与えることはない。
というよりも、魔素に適応できなかった種は自然淘汰されてしまったため、生物が魔素に悪影響を受けることがない、という言い方が正確である。
しかし、何事にも適度というものが存在する。
生物は適応した環境を大きく逸脱した魔素濃度を浴び続けると、やがて変質を来たす。
これは、魔素の隣接する物質を変革させる性質によるものであり、近年、魔素は生物の進化を促す起爆要素であるという説が有力となっている。
過度な進化の果てに待ち受けるものは自らの滅びだ。
眼前から漂う魔素ですら、既に人が生息する許容範囲を超えている。ではその最深部は一体どれほどの濃度なのか。
正に、人外魔境。
想像するだけで恐ろしい。けれど、行かなければならない。
立ち止まってはいられないのだ。
「――御嬢様」
その言葉に、マルディナは辺りを一眼する。
自身の無謀な願いを聞き入れてくれた親愛なる従者達。ある者は甲冑を、またある者は魔装外套に身を包み、悠然と佇む。
その瞳に恐怖の色は微塵もなく、あるのは忠義、ただそれだけだ。
謝罪の言葉は彼らの信頼を、忠誠を無碍にする行為だ。
自身が成さねばならぬこと、それは――
「行きましょう――」
ただ、前を指し示すこと、それだけだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
どれだけの距離を歩いただろうか。
薄暗い森の中を黙々と進むマルディナ一行、その各々の顔には隠しきれない疲労の跡が滲み出ていた。
天は生茂る樹木の枝によって覆われ、日の光は枝の隙間から僅かに差すのみであり、この地に足を踏み込む不届き者に刻の概念を徐々に殺していく。
時間の感覚が酷く鈍っているのをマルディナは自覚する。
懐中時計に手を取って見てみれば、時計の長針は未だ三周もしていなかったのだ。
当人の感覚からすれば既に半日は歩いたのではと思えるほどの疲労感が全身に重く圧し掛かる。
――酷い臭い。
マルディナは思わず鼻元を手で覆ってしまう。
一流の魔術師であるが故に、このマ・ヒュージの森が放つ濃厚な魔素を誰よりも鋭敏に感じ取っていた。
「隊長、前方二百メトル先に猟狗の群れを発見」
隊員の一人がディーマに僅かに緊張した声で言及する。
この隊の最高責任者はマルディナだが、司令官はディーマであるため、報告は彼に向けて発せられる。
魔装外套に身を包んだ男の瞳は完全に充血しており、頬には既に涙の筋跡がくっきりと浮かんでいた。
無理もない、この異常な魔素が満ちる中、常に強化魔法で視力を高めているのだ。魔素による眼球へのダメージは相当なものだろう。
自身の我が儘による結果を目の前に、罪悪感が込み上げるが意志の力で無理やり抑え込む。
彼らに報いるのは同情ではない。
「数は?」
「――三十四です」
「御嬢様」
ディーマの確認の声に、マルディナは杖に魔力を込めながら芯の通った声で答える。
「よしなに」
「――――此処で迎撃する。各自、各々の役割を全うせよ」
「「「了解!」」」
ディーマの静かな、しかし鋭い響きに従者達は一糸乱れぬ復唱を唱えると、甲冑を纏った術者は前方へ、魔装外套を羽織った者は後方へと動き出す。
前衛と後衛、完全に役割分担を二極化したパーティー構成。
前衛の隊長はディーマ、そして後衛の隊長はマルディナだ。
「百メイルにて敵、二手に分かれました。三時方向に数、十六。十時方向に十八。後方より異常は未だありません」
「挟撃する気か」
ディーマの言葉に、マルディナは更に杖に魔力を込めながら術式を展開する。
術式――正式名称、魔素指向限定術式。
魔術師が魔術を発動する際に描く方程式であり、魔術を放つ際必ず必要となる。
この術式の形状は詠唱、魔術陣、祈祷などその方法は千差万別であり、術者によって用いる術式は異なる。
「黙って見ている理由はありません。ディーマ、撹乱します」
「分かりました」
マルディナの言葉を受け、ディーマは前衛部隊を一旦手前まで下がらせる。
前方に空間が空いたことを確認すると、少女の蒼銀の髪がふわりと舞い上がる。
マルディナの魔力によって魔素が巻き上がり、その時に生じた力が彼女の艶やかな長髪を宙へと泳がせた。
とん、と杖で大地を叩くと光が縦横無尽に刻まれる。
魔力によって動かされた魔素が地上に描いた幾何学模様。
魔術陣、普通の者が見れば何かの落書きのように見えるそれは、魔術を起動させるための方程式だ。
魔術師と聞かれ、すぐに脳裏に浮かぶ魔術陣。しかし、実際の魔術師と組んだメンバーがその陣を見ることは極めて稀である。
魔力で大地に模様を描くだけで魔術を発動できる極めてお手軽な初級の術式のように思えるが、実情はむしろ真逆。実戦でこれほど扱いづらい術式はないだろう。
そもそも、魔術陣は術者が完全な安全を確保された状況下で行う術式なのだ。
何故ならば、魔術陣の描く線は極めて多数の意味を含み、僅かにずれたり曲がっただけで意味が全く異なってしまい、不発ならまだしも間違って起動させたら、全く別種の魔術を発動してしまうのは当然の話だ。
これは並みの術者でもその差異が分からず、誤った魔術を発動してしまうといった件は後を絶たない。
刹那の選択に生死を別つ実戦において、正しい魔術が発動するのか即座に分からぬ代物を用いようとする剛の者は滅多にいない。
また術式を展開している間、術者は当然その場から動くことが叶わず、誰かが護衛しなければただの足手纏いにしかなりかねない。
もし魔術陣を好んで使う者がいたならば、それは余程卓越した腕を持つか、はたまた余程の馬鹿者か、二つに一つだ。
幸いなことにマルディナの腕は前者であった、それも皇国で五指に入るほどの。
「くっ」
マルディナの口から小さな苦悶の声が瑞々しい唇から僅かに零れる。
魔術陣、少ない魔力で起動できるという利点の他に、もう一つ大きな特性が存在する。
それは、大地の魔素の影響を強く受けるというものだ。
つまり他の術式と比較し大地に濃度の濃い魔素があれば、同じの魔術で撃ち合えば絶対に魔術陣で放たれた魔術が勝つ。
魔術の威力は込められた魔力と魔素の量に正比例する。
本来、メリットである筈のその特性が、今のマルディナにとってはデメリットでしかない。
――魔素が集い過ぎる!
本来必要な筈の量を遙かに超える魔素が杖に絶え間なく流れてくる。
それはまるで激流のようであり、マルディナはその奔流を制御することに集中せざるを得ない。
暖炉の薪に火を焼べるために一山を灰にする火力など必要ないように、程度を超えた物量は最多、害にしかならない。
術式を描き終えたマルディナが杖で虚空を凪ぐと、魔術陣が淡く輝く。
「燃えなさい!」
一閃、杖の先端に生じた火花が術式によってその方向性を限定され、急速にその力を増大させていく。
火花が火となり、火が火炎となり、火炎が劫火となる。
眼前に突如出現した焔の大波が草を、樹を、万物を燃やし尽くす。その道を阻むものは一切存在し得ない。
「「「GyAaaaAaaA!?」」」
魔物の悲鳴が木霊すれど、それすら波に呑まれて消えていく。
圧倒的な殲滅型のその在り方、魔術師が人間兵器と呼ばれる所以である。
最も、この規模の魔法を一工程で顕現させるにはマルディナほどの腕でないと不可能なのだが。
「敵影は?」
徐々に沈静される炎を前に、ディーマは術者に問う。
「――反応、ありません」
返って来るのは不要な言葉を削ぎ落とした最小限の情報。その言葉にディーマは少女へと目を配る。
男の無言の問いにマルディナは再び杖を振るうと、未だ燻っていた炎がまるで幻影のように消え去り、一行の前には何の障害物もない灰の道筋が出来上がっていた。
「長居は無用です、進みましょう」
「「「はっ!」」」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「くっ、お退きなさい!」
軽く大地を叩き、術式を展開し即座に開放。眼下より伸びた土の槍が小鬼たちを磔刑に処す。
「GoAaaAaaA!?」
口から苦悶の声と共に、濃緑の血がマルディナに向かって吐き出され、少女の染み一つない頬を汚す。
酷い異臭を放つがそれに気を配るほどの余裕は既に、彼女には残されていなかった。
あれから更に半日が経過し、薄暗かった樹海は更なる影に包まれていた。既に通常の視力では色の識別が困難なほどで、更に一時経てば篝火を焚かねばならなかっただろう。
そんな中、小鬼の大群に襲われた。
連戦に次ぐ連戦に隊員達は徐々に疲弊していった。それに伴い手傷を一つ、また一つと増やしており、この時無傷な者はマルディナとディーマを除き、数名のみであった。
無理もないだろう、この魔境に生息する魔物は通常では考えられないほどの力を有し、実際知られる種のランクより数段上である。
常に神経を尖らせた状況が何度も発生する上に、進むに連れ魔素の濃さが増していき、歩くだけで体力を消耗していく。どれだけ屈強な者だろうと、これで疲弊しないわけがない。
そんな中、更に運が悪いことにどうやら小鬼の巣穴の近くに踏み込んでしまったらしい。
現れた敵影は少なく見積もっても五十は下さらない。この樹海に入って最大規模の敵を相手に取らなければならなくなってしまった。
今まで魔術師の広範囲攻撃により、敵の大多数にダメージを与え、騎士達より順次殲滅する形を取っていたのだが、その圧倒的物量にモノを言わせ、仲間の屍を超えて小鬼たちが陣内に喰い込んでしまった。
魔術師の魔術は極度の集中を要求され、術式を展開する間その身は無防備だ。もし術式を展開している最中、精神を乱されれば式は容易に乱れ、術は容易く霧散する。圧倒的な威力を誇る魔術だが、その運用方法にはかなりの神経が要求されるのだ。
そんな中、小鬼に踏み込まれ、間近に迫った敵を前に術者が全くの動揺しないわけがない。いくら壁役の前衛がいたところで、数で圧倒的に負けているのだ。騎士ですら一対一で苦戦する相手に多数で迫る敵を前に、魔術師を護りきれるわけもない。
一人、また一人、魔術師が、騎士が地に伏していく。
更に乱戦に持ち込まれたことで、魔術師の広域殲滅が不可能になったばかりか、攻撃手段が激減されてしまう。
広域魔術に敵味方を区別する便利な術などなく、もし仮にそれを行うならば神懸り的な演算処理が要求される。攻撃の手の大半を封じられた魔術師は戦場において、足手纏いでしかない。
――このままでは!
「ディーマ、私のことはいいから彼らを守りなさい!」
「いくら御嬢様の命とはいえ、それは承服しかねます!」
袈裟斬りに振り下ろした剣から滴る濃緑の血を払い、険しい眼光を宿らせたディーマは油断なく周囲を威圧しながら、地面で悶える小鬼の首に足を踏み下ろし、確実に息の根を止める。
既に幾多の返り血を浴び、打撃を受けた鎧は出発前と比較して、それは酷い有様となっていた。
「御嬢様に傷一つ付けてはプロディフス家の名折れ、陛下に顔向けが出来ません」
「しかし!」
そこから先に続いたのは小鬼の雄叫びであった。
マルディナの背後から獰猛な笑みを浮かべながら突進する二体の小鬼に彼女が杖を向けるより先に、一陣の風が吹く。
見事な足捌きで滑るように小鬼とマルディナの間に体を滑らすと、下段より跳ねた剣が首筋を引き裂き、その運動エネルギーをそのままに、体を捻り突きへと転じたディーマの一撃が、もう一体の腹部を貫く。
「これでも、まだ言いますか?」
顔を返り血で染めたディーマは小鬼を蹴って剣を引き抜き、振り返る。
その修羅の瞳に宿る気遣いの色に、マルディナは思わず口を閉ざす。
いかに卓越した魔術の腕を持つとはいえ魔術師は魔術師、決して万能ではないのだ。
そもそも、この行進において最も魔力を消費しているのはマルディナであり、その疲労度もまた同様だ。
本来ならば最も安全な場所にいるべきであり、間違っても前衛と共に敵を迎え撃つものではない。
だが、素直に後方に下がるほど少女は物分りは良くなかった。
「くうっ」
杖に魔力を送るマルディナの額に大粒の汗が浮かぶ。既に、魔力の底が見えており、体外に流れる魔力の移行に伴う虚脱感が全身を襲う。
しかし、それをまるで感じさせない精密な魔術陣が大地に刻まれる。
「往きなさい!」
地面に杖を奔らせると、轟音と共に岩石で作られた太さが少女の胴体ほどある大蛇が大地から顔を出す。蛇はゆるりと緩慢な動きで鎌首を擡げると、得物を定めるや地を這い進む。
大地を削り、小鬼に向かって突進すると、まるで人が蟻を踏み潰すように、その巨体で機械的に押し潰していく。小鬼も負けじと自慢の膂力で迎え撃とうとすれど、両者の圧倒的重量差になすすべ命を散らしていく。
「はぁ……はぁ……」
小鬼を一方的に蹂躙していく大蛇だが、突如その動きが止まる。マルディナの魔術の効力が切れたのだ。
まるで命を吹き込まれたかのように生体的な動きを見せた蛇は、その体を維持できずボロボロと音を立てて崩れ去る。
「御嬢様、無理をし過ぎです! 貴女様が倒れたらどうするのです!」
「ディーマが私の命を聞かなかったからいけないんです」
案の定無茶をするマルディナにディーマは毎度お馴染みの言葉を口にするが、この主人に聞き入れてもらえる様子は皆無だ。
頭痛に顔を顰めるディーマだが、体は常に臨戦態勢を崩さない。
苦言を告げたものの、主の奮迅により敵の数は迎撃可能なレベルまで落ちている。
マルディナの魔術に警戒したのか、常に攻撃を仕掛けてきた小鬼たちの動きに警戒心が強く浮き上がっている。
好機は今しかない。
号令を発しようとディーマだが、思わず横槍に口を閉じる。
「隊長、後方より敵影急速接近中」
索敵要員の一人が緊迫した様子でその瞳に写る姿を注視する。
――小鬼が伏兵だと?
通常では考えられぬ可能性がディーマの脳裏に過ぎる。
決して高くない知能しか持たない小鬼がこうした大規模な攻勢を仕掛けてくることすら有り得ないのに、追撃要員を潜ませるといった高度な知的行動を取ったというのか。
戦慄がディーマの背を伝う。しかし、彼の考えは誤りであった。
「数は――十三、強欲猿です!」
「強欲猿だと!」
「はい、間違いありません。は、速い――接触まで十秒!」
相次ぐ危機に、ディーマの頬に冷たい汗が滴り落ちる。
「KisHAaaAaaA!」
葉の重なる音と共に真上より複数の影が飛来する。研ぎ澄まされた騎士としての習性が、視界で認識するより先に手が、剣が動いていた。
鈍い感触が剣先より伝わる。目を走らせれば、酷く荒い作りの斧が剣を叩き割ろうとする姿が飛び込んでくる。
「この!」
強欲猿の攻撃をいなし、攻撃に転ずるディーマの剣が虚しく空を斬る。
ただ、一度の跳躍で気付けば敵は遙か上空の枝へとぶら下がっていた。人間では不可能な身体能力だが、これがこの魔境では最底辺に属するのだ。
――やっかいな敵が出てきた。護りきれるのか、私は……
隠し切れぬ不安の影が、ディーマの肺腑を凍らせていく。
平面でしか展開しない小鬼にすら手を焼いていたというのに、更に立体的に動く強欲猿を相手取らなければならなくなった。
自然と柄を持つ手に力が篭る。
負けられない。敗れれば、背後に控える何より大切な主人に害が及んでしまう。
そんなこと、ディーマが耐えられるわけがなかった。
「邪魔だぁぁぁぁぁぁぁ!!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「御嬢様、お逃げ下さい!」
ディーマの悲痛な叫びがマ・ヒュージの森に木霊する。全身返り血に染まる中、頬からは流れる赤い跡が人目を強く惹きつける。
「ディーマ、馬鹿なことを言わないで。退けるわけがないでしょう!?」
即座にそう言い返すマルディナだが、彼の心中を容易に察していた。
戦況は極めて不利な状況に陥っていた。
「御嬢様こそ分かっている筈です! このままでは全滅するのは時間の問題だということが」
「でも!」
小鬼の頭数を魔術で大幅に減らしたところに湧いて出た、強欲猿の出現。
ただでさえ劣勢だったマルディナたちに二つの敵対勢力を退かせるだけの戦闘能力は既になかった。
完全な乱戦状況に陥った状況下では効果的な隊列など組むことなど不可能であり、時間の経過と共に人が地に伏していく。
その状況を必死に打破しようと杖を振るうものの、既にマルディナの体力、魔力共に限界がすぐそこまで迫っていた。
「KIsHaaAaAaa!!」
「きゃぁ!?」
ディーマが一体の強欲猿を相手取る隙を突く形で、小鬼がマルディナに向かって突進する。その顔は欲望に塗れた何処までも醜悪なものであった。
小鬼は雄しか存在せず、子孫を残すために他種の雌を洞穴に連れ込み、その個体と繁殖活動を行うことで種の繁栄を行っている。
またその際、二足歩行の種族を攫う傾向にあり、膂力が圧倒的に弱く基本的弱者である人間の女性は格好の生殖道具となる。
彼らの目にはマルディナは大変魅力的な道具に映るのだろう。涎を垂らし、腕を振り上げる姿の何とおぞましいことか。
咄嗟に張った魔術障壁により直撃を回避したマルディナだが、僅かな魔力で形成した障壁ではその衝撃を完全に相殺するには程遠く、その体は容易く弾き飛ばされてしまう。
「御嬢様!? 貴様ぁぁぁぁぁっ!!」
地面に叩きつけられ、呻くマルディナの姿に激昂するディーマだが、そんな彼を嘲笑うように次々と彼に向かって強欲猿が襲い掛かる。
従者の咆哮をまるで遙か彼方で発しているように、何故だがその声がとても小さく聞こえる。それこそ注意して聴かなければ、その声は耳に届かないだろう。
目を開ければ小鬼がこちらに向かって拳を振り上げているのが見える。
――魔術陣を展開する暇はない。それなら……
『燃えよ!』
その言葉と共に、杖から炎が噴き出すと小鬼を呑み込む。絶叫が樹海に響き渡るが、朦朧とした意識の中では、その声はただの雑音として無意識に処理される。
今の魔術で魔力が完全に底を吐いてしまった。次に魔術を放てば意識を失うことは避けられない。
力を完全に失った下半身により大地に縛り付けられたマルディナは必死になって上半身を持ち上げると、震える手で杖を構える。
――ただで死ぬつもりはないわ。
少女は静かに決意する。
マルディナのその決意が、覚悟が、英雄を召喚した。
音が止んだ、少なくとも少女の世界ではそれが真実だ。
朦朧とする意識の中、隣に巨大な力の波動をヒシヒシと感じ取る。まるで神が光臨したかのような、圧倒的な存在感にゆっくりとマルディナは首を回す。
そこには何処にでもいそうな普通の少年が佇んでいた。
この死の樹海を彷彿させるような漆黒の髪が風に吹かれ、ゆらゆらと揺れる。
少年は黒い皮袋を肩に背負い、マルディナの姿をその紅い瞳でジッと見つめている。
皇国で見慣れた民族衣装に身を包んだその姿は何処から見ても非力な、己が護るべき民でしかない。
「あ、貴方何処から……此処は危険よ、早くお逃げなさい!」
気力を振り絞って退避を命じるが、少年はまるで取り合わず、ただジッと自分を見つめる。
何処までも澄み切った瞳に、マルディナは不覚にも見惚れていた。
――何て綺麗な目をしているの、この子は……
戦場ではあってはならない完全な隙を晒すマルディナだが、当人はそれすら意識できずにいた。
「うん、美女だ」
「あ、貴方はこんな時に何を言っているんですか!?」
――何なの、この子は!?
自身の無防備に気付き、気を引き締めなおした直後にその言葉を吐かれ、マルディナの頬は急速に熱を帯びる。
魔術師にあるまじき精神の乱れも相俟って、魔術師して、そして女としての羞恥に血が上がる一方だ。
「ん?」
ふと、少年は何か気になったのか、ゆっくりと顔を近づけてくる。
戦場だろうと、社交界だろうと、他人に此処まで顔を寄せられたことは、マルディナの記憶にはなかった。
「きゃっ!」
「き、貴様! 御嬢様に何をするか!?」
自身の悲鳴が、ディーマの慌てた声がやけに遠くに聞こえる。首筋に埋まった少年の吐息に、マルディナの身体がびくりと小さく震える。
続いて少年に匂いを嗅がれていると聴覚と触覚がその事実を感知した瞬間、少女の意識は完全な機能停止に陥った。
「よし……君を助けるよ」
そう言って屈託なく笑う少年の笑顔が凍結したマルディナの脳裏に静かに、そして深く刻まれる。
これが少女と少年のはじまり。
この出会いが何を齎すのか、それを知る者は未だ誰もいない。
おかしい、今回で戦闘を終わらせるつもりがこんなことに……どうしてこうなった!?