一話 とある少年の旅立ち
「じゃあ、往ってくるよ――爺さん」
幼い頃苦労して作った《黒獅子》の皮袋を肩に掛け、ジーンは振り返るが彼の呼び声に応える者は誰もいない。
当たり前だ、自分の他にこの樹海に立つ人間はもう存在しない。そう、存在しないのだ。
見慣れた景色の筈が何故だろう、とても温かなものに見える。目を僅かに細め、ジーンは感慨深く我が家を見つめる。
簡素な造りのログハウスが齢千年を超えるであろう大樹の枝に埋まるように築かれており、梯子や階段は不思議なことに見受けられない。
だが彼にとって別に可笑しなことでなく、家の出入りに苦労したのは僅かな期間でしかない。
最も、その間に死に掛けた回数は両手ではとても足りないのだが。
――そういや爺さん、登れない俺をからかう為だけに大熊をわざわざ釣ってきたことがあったな。あの時は、流石に死ぬかと思ったな。
大木に表皮に薄っすらと刻まれた爪痕に、今更ながら殺意が湧いてくる。
気付けばジーンの脳裏に過ぎるは育ての親との楽しかった日々から過酷な生存競争の日々へと塗り替えられていく。
弱肉強食を地で往くこのマ・ヒュージの森は別名、死の樹海と呼ばれており、人が生活するには余りに過酷な環境である。
何せ、磁場は愚か地脈も乱れており、生い茂る樹木も相俟って方向感覚を著しく狂わせ、一度足を踏み入れたならば二度と出れないと言われている。
また、魔素の濃さは最多、毒とも取れる濃さであり、魔力を持たない者など一日と体が持たないだろう。
更にその高濃度の魔素のため、森に生息する魔物の強さはどれも通常では考えられないほど強大である。
お陰で、その広大で肥沃な大地と、その森でしか採取できない資源を確保しようと派遣された幾多の人間を呑み込み、いつしか死を求める者以外誰も立ち入らない禁断の地となったのは極自然な流れである。
そんな土地で育って早十五年、ジーンは否応なく強くならざるを得なかった。生き残る為に――
「爺さん、やっぱりアンタは――」
思い浮かぶ老翁の悪戯小僧のような、悪魔のような喜悦に染まったその顔の数々に、口元に獰猛な笑みが浮かんでいることにジーンは気付かない。
いつの間に握られていた拳をゆっくりと矢を射るように引き――
「最低の親だったよ、バッキャローーーッ!!」
そして弾ける。
何の強化も施されていない純然な膂力によって放たれた拳は空間をあっさり突き破る。
音速を軽く超えて振るわれた拳は、その風と土を容易く巻き上げ拳圧だけで大樹を轟音と共に激しく揺さ振る。その音に気の弱い魔物達は警戒の声を荒げ、周囲に幾多の音が死の樹海に反響する。
それはジーンの意見に同意しているようにも、お前も同類だと憤っているようにも、そして死んだ老人に対し嘲っているようにも聞こえた。
突如、上空から落下する物体をジーンは目を動かすことなく認識すると、無造作に腕を振るう。するとその手には瑞々しく育った果実が収まっていた。
大樹に成るその実は、実に美味であることを、その樹と共に育ってきたジーンが知らない筈がない。
「これも駄賃に頂くぜ、爺さん。文句はねぇよな?」
中々貴重な果物らしく、爺さんによっぽどめでたい日でないと取ってはいけないと珍しく念を入れて言われ、昔は目を盗んでは食べようと目論んだものだ。
まぁ、一度として盗み食いに成功したことはないのだが。
「おっ、珍しく太っ腹じゃないか」
更にオマケと言わんばかりに落ちてきたもう一つの果実を口紐を緩めた皮袋に器用に入れると、ジーンはもう一度じっくり我が家を見つめると、くるりと背を向き歩き出す。
もう、振り返ることはなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「さ~て、そろそろ村に着く頃か?」
傾く日の角度から移動時間を大雑把に計算しつつ、ジーンの足はまるで精密機械のように流れる動作を維持し続ける。
その足が跳ねる度に、木々が騒めく。ジーンの足裏は未だ地を蹴ってはいなかった。
磁場と地脈が狂ったこの場所で一定の方向に進むために、ジーンたちが考えた対処法は至って単純明快。
即ち、目的地に向かって一直線に向かえばいいのだ。
樹木を避けていてはどんなに一定方向に進んでいるつもりでも、徐々に道が逸れてしまう。しかし、文字通り一直線に進めばそれは回避できる。
確かに難しい話ではない。だが、マ・ヒュージの森に生息する樹木の月齢はどれも数百年は下らない。ともすればその全高も自ずとそれに準ずるものになる。
現在ジーンと立ち位置と大地との相対距離はおよそ二十メトル。余程の身体能力がなければ、そのような芸当など不可能であるのは明白である。
それを涼しい顔で可能にするジーン、その実力の一端が垣間見える。
「KiShaaaAaAA!!」
「おっ?」
足場から突如響き渡る雄叫びにジーンは眉一つ動かすことなく、軽く枝を蹴ってその場を離れると、次の瞬間、乾いた音と共に、人の身を軽々と支えていた枝がブチ折れる。
「強欲猿か」
静かな旅立ちと行きたかったがそうは問屋が卸さないらしい。
強欲猿はこの樹海での脅威度は決して高くはない。
その体格は成人の男性と殆ど変わらない二足歩行型の魔物である。猿の名の通り、魔物にしては知能は発達しており、狩りの際その手にはお手製の得物が握られていることが殆どだ。
人にしては有り得ぬほど長く太い腕と分厚い獣毛、人が嫌悪するだろう欲に塗れた顔以外、人間と大差なく見える強欲猿だが、その身体能力は並みの人間ではまず歯が立たない。
膂力は少なく見積もっても二倍以上であり、その握力は人を容易く握り潰すことだろう。
しかし、樹海ではその程度のレベルなど吐いて捨てるほどおり、ジーンにとって脅威にはなり得ない。
ただし――
「「「sHaAaaAA!!」」」
「やっぱり、こうなるよな」
ジーンは溜息を吐きながらその場を離れると、十体を超える強欲猿が次々に襲い掛かる。
強欲猿が狩りを行う場合、まず単体で行うことがない。
彼らの武器はお手製の得物でなければ、身体能力でもなく、その連携にある。
森林という天然な障害物の陰から繰り出される絶妙といえる全方面から行われる彼らの狩りは、頭数が増えれば増えるほど凶悪度を増し、自身より上位の魔物を狩ることも多々ある。
「強欲猿に襲われるなんて何年ぶりだ?」
普通の人間ならまず絶望するだろう状況下にジーンは感慨深く息を吐く。彼にとって現状など取るに足りないらしい。
「どうやら村まであと少しのようだな」
ジーンはそう確信すると、視界内にある最も太い枝に降り立ち周囲に目を走らせる。
猿サルさる、とあまり目の保養には向かないその光景に僅かに眉を顰めながら、強欲猿を率いる頭領を索敵する。
「――――見つけた」
ニヤリ、と絶対的捕食者特有の笑みを浮かべると、ジーンは足に力を込める。
集団で狩りを行う場合、まずその群れを統率するリーダーが存在するものだ。
末端の敵を一々潰したところで、その場を仕切る指揮官を抑えないことには余計な作業が増えるだけであり、ジーンとしても望む展開ではない。
弱いものイジメなど好きではないのだ。
「よっ」
気軽な声とは裏腹に、枝が轟音を立てて砕け散る。ジーンの跳躍によって生じた力に枝が耐えられなかったのだ。
「さて――まだやるかい?」
言葉は通じぬが、ジーンは気にすることなく語りかける。不思議なことに先程までけたたましいほど吠えていた強欲猿の声が一向に聞こえず、襲い掛かる気配がなく、むしろその真逆に今にも逃げ出しそうな雰囲気である。
しかし、無理からぬことだろう―――彼らの前に広がる光景を目撃すれば。
ジーンに手には大きな塊が握られていた。
その塊には表情が張り付いていた。狩人という絶対的強者が浮かべるその顔が、逆に恐怖を呼び起こす。
軽く肩を竦め、ジーンはそれを無造作に放り投げると、大地に静かに横たわる骸に当たる。
その屍には、頭部が存在しなかった。
まるで捻じ切られたかのように、事実そうなのだろう。不思議な事に血の一滴も零れておらず、非現実的な光景に周囲から音が消える。
その奇妙な物体を前にジーンの心臓は小波一つ立っていない。
当然だろう、何せ目の前の現状を引き起こしたの張本人なのだから。
「俺としてはこれ以上、面倒なことをしたくないんだが」
ジーンが手首に力を籠めると、ゴキリと太く酷く攻撃的な音が樹海に鳴り響く。
「さて――――どうする?」
スッと細まる視線に、強欲猿たちはようやく恐怖という感情を思い出したかのような金切り声を上げて、一目散に逃げていく。
その後姿を、ジーンは何の感情を宿すことなく見送る。
眼前の光景など既に数え切れないほど見てきたのだ、今更何かを感じるわけもなかった。
ふと、足元から伝わる感触に視線を下ろすと、半透明の球体が転がっていることに気付く。
「魔石か、運がいいな」
無駄な労力に見合うかは微妙だが、ないよりあったほうが良いに決まっている。 ジーンは無造作に掴むと袋の中に捻じ込むと、空を仰ぐ。
茜色に染まった空は徐々に夜の色を帯び始めていた。
「野宿は嫌だぞ、俺は」
既に村にかなり近付いていることは先の襲撃から把握していた。
何故、強欲猿との一戦で確信を得たかといえば、酷く簡単な話だ。
ジーンに喧嘩を売る身の程知らずの魔物は樹海の奥深くでは生存しなかったためだ。
彼の存在を知らない魔物は、余程の身の程知らずか、樹海の最外部に生息する魔物以外考えられないのだ。
「ちょっと急ぐか」
皮袋を担ぎ直し、ジーンは筋肉を収縮させ爆発させようとしたその瞬間、優れた五感が数多の情報を捉える。
――この魔素の流れ・・・・・・誰かが魔術を使ってるのか? それにこの声は……人の、悲鳴?
その発生源が強欲猿が逃げ去った方角の同一なのは単なる偶然だろうか。
「行くしか、ないよな」
僅かな時間考え込むが、取るべき行動など最初から決まっているのだ。
ただ、単に面倒くさい、それだけだ。
誰に問いかけるわけもなく、ジーンは僅かに項垂れると億劫な気持ちを胸に仕舞いながら足を走らせる。
現場に辿り着いたジーンは様子を伺うべく、周囲の気配と同調した完璧な隠形を行いながら、眼下の光景を眺める。
そこには想定どおりの展開が広がっていた。
「御嬢様、お逃げ下さい!」
「ディーマ、馬鹿なことを言わないで。退けるわけがないでしょう!?」
「御嬢様こそ分かっている筈です! このままでは全滅するのは時間の問題だということが」
「でも!」
「KIsHaaAaAaa!!」
「きゃぁ!?」
「御嬢様!? 貴様ぁぁぁぁぁっ!!」
鳴り響く悲鳴と怒号、咆哮と絶叫の合唱がジーンの鼓膜を絶えず震わせる。
「どうすっかな」
頭を掻きながら、ジーンは自身の次なる行動を熟考する。
どうやら相変わらず懲りない人間が樹海に入ったようだ。目的はどうせ、この地でしか手に入れることができない素材の採取だろう。
一応、相応の実力はあったようで、負傷した者は多数在れど死者が出ていないのは予想外だ。
地に何体か伏したいるのは小鬼と呼ばれる魔物だ。鬼の名が付くだけあり、背丈は人間の子供と大差ないがその膂力は強欲猿すら凌駕する。
横たわった死体から流れる血に惹かれたのか、はたまた先程の戦闘の腹いせだろうか、小鬼と人間との戦闘に先の強欲猿が乱入したようだ。
小鬼と強欲猿は同じ魔物に分類されるが、彼らが互いを同胞と認識するわけではなく、従って共闘するなど有り得ない。
そのため、眼下の戦闘は人間、小鬼、強欲猿の三つ巴となっており、戦場は混沌の極みとなっていた。
その様子を高みから見物していたジーンは己の行動を決めかねていた。
人間たちは明らかに劣勢であり、ジーンが手を貸さなければ全滅は必然だ。しかし、だからといって救わなければという脅迫概念は彼の中に存在しない。
弱肉強食、弱き者が喰われ、強き者が喰う。その理に生きてきた身からすれば、彼らの行動の果ての結果は当然の帰結である。
なら放っておけばと言われれば、それもまた微妙である。
この死の樹海で長年生きてきたとはいえジーンもまた人の身であり、同胞を見捨てるのは忍びないと思う程度の人の心もまた持ち合わせていた。お陰で、こうして悩んでいるわけなのだが。
「仕方ない――こういうときは爺さんの教えに従うか」
他者を助けるかどうかの基準、それは――
「興が乗るか乗らないか、か。そういや爺さん、美女だったら絶対助けろとか言ってたけど……」
ジーンは戦場で一際力の波動を感じる女に視線を集中する。
彼女が恐らく魔術師だろう。その手に持つ身の丈より長い杖に残る魔素の残滓と、装備の数々から感じる様々な魔力の波動からそう目星をつける。
全身隈なく眺めたジーンだが、首を傾げる。
「美女……なのか?」
この森で生を得て十五年、異性との出会いなど両手の数で容易く足りてしまうジーンに、女性の美の優劣など分かる筈もなかった。
「やっぱ、遠目じゃよく分からないな」
ならば、近場まで行けばいい。そう決断した時には、ジーンは重力に身を委ねていた。
女性の隣、即ち戦場のど真ん中へと突如降り立つジーンに、戦場から一切合財の動作が静止する。
それほどまでに彼は異彩を放っていた。
「あ、貴方何処から……此処は危険よ、早くお逃げなさい!」
逸早くジーンの存在を認識した女性は慌てて退避を命じる。その気遣いにジーンは目の前の異性に対し好感を抱きながら、再度その姿を凝視する。
蒼月を彷彿させる瑠璃の髪が腰まで艶やかに流れ、確固たる意志を宿した琥珀色の瞳がジーンを映し出す。
顔の造形に関する良し悪しなど分かる筈のないジーンは最も視覚に印象的なその二点から、女性を美女かどうか判定することにした。その結果――
「うん、美女だ」
「あ、貴方はこんな時に何を言っているんですか!?」
ジーンの突然の褒め言葉に女性は否応なく頬を赤らめる。その姿にジーンは興が乗りつつある自身を自覚する。
「ん?」
ふと、何かに惹かれるジーンはそれに身を委ねる。それは戦場では決して有り得ない光景であった。
「きゃっ!」
「き、貴様! 御嬢様に何をするか!?」
女の可愛らしい悲鳴と、男の怒気に満ちた声ではジーンは止まらない。
気付けばジーンは女性の首筋に顔を埋めていた。顔を真っ赤にして硬直する女に構わず、少年は本能に命じるままに行動する。
――――良い匂いだ。
今まで嗅いだことのない甘美な香りに、ジーンはいつしか今までにない高揚を感じていた。
「よし」
完全に固まってしまった異性を前に、顔を僅かに外したジーンは女の前で屈託なく笑う。
「君を助けるよ」
それが後の世に、《剣帝》、《赤神の申し子》、そして《竜皇殺しの後継者》と呼ばれる少年の初舞台になることを、この時当人が知る由もなかった。