3.母の形見
ミスダールは、堅牢な門で守られており、その周辺には護衛がいつでも立っているので、通行できるのは許可された一部の王侯貴族のみだ。
それなりににぎやかな市場があったり、緑豊かな大きな公園や湖畔があったり、一つの町としての機能も十分にあったが、何よりも厳重な警備のおかげで貴族が供をつけずに歩けるほど安全な場所としてよく知られていた。
今年は降雪が少なく、真冬でも馬車はなんなくミスダールへやってくることができた。ところが、まるでアルエットを閉じ込めるかのように、その後何日も雪が降り続いた。
外へ行く気をなくしたアルエットは別荘の中にこもりきりで、誰とも会話することなくただ日々が過ぎていくのを待っていた。
(これから処刑される罪人のようね)
自分が一体何をしたというのか。
アルエットは白く曇った窓に目を向け、ため息をついた。かろうじて食事の用意や掃除洗濯をしてくれる使用人はいたが、その態度は素っ気ないものだった。おそらくデルフィーヌか王妃から何か話を受けているのだろう。
痛い思いをしなくていいだけ幸せなのかもしれない。独りでいる寂しさを無理やり心の奥に押し込んで、アルエットは自室に閉じこもってぼんやりとした毎日を送っていた。
そんな生活が三か月ほど続き、ようやく雪も解けてなくなったある日、彼女は強い立ち眩みがして倒れてしまった。
「ずいぶんと顔色が悪いですね。日に当たっておられますか?」
往診にきた医者に問われてアルエットは「いいえ」とかすれた声で答えた。ほとんど誰とも会話をしないので、久しぶりに声を出した気がした。
「少し外へ出て体を動かした方がいいですね。ここは犯罪の心配もない安全な町ミスダールです。散歩でもしてみたらいかがです? 町には図書館もございますよ」
そう言って医者は帰っていった。
「図書館……」
そういえば、到着してから町の中を歩いたことはなかった。
(図書館というは、王城にある書庫のようなものかしら)
難しい書物でも時間つぶしにはなるかもしれない。
翌日、アルエットは図書館への道を確認すると一人で町へ出た。人影はなく、風の音しか聞こえない。草木の色もまだ色褪せたままだった。石畳の上はほとんど乾いていたが、生け垣や日陰の部分にはまだ白いものが残っているのが見える。
春先なのに日差しだけは強く、くらくらと眩暈がして血の気が引いた。ほんのわずかな距離を歩いただけで息切れしてしまい、すっかり体が萎えていることに驚く。
(避暑地に来てから具合が悪くなるなんて笑われてしまうわね)
照りつける太陽が辛かった。よくデルフィーヌは明るく太陽のようだと周りからほめそやされていたが、そのたとえは間違っていないとアルエットも思う。
(ただし、苛烈で容赦なく焼き尽くす真夏の太陽、だけれど……)
デルフィーヌの側に居るとアルエットは朝には消えてしまう星のように、たちまち存在が霞んでしまうのだ。
せっかく離れることができたというのに、脳裏には姉のしかめ面ばかりがよぎり、アルエットの額に冷や汗が浮いた。
途中にある広場のベンチに腰掛けたり、街灯に寄りかかったりしてなんとか図書館へ辿り着く。
「王宮の書庫よりも広い……」
本が傷まないように日が射す窓は小さく、頼れるのはランプの明かりだけだったが、本棚に並んだ背表紙のタイトルはきちんと読める。蔵書で埋め尽くされたフロアは広く、階段で二階に上がればそこの壁にもぐるりと本が収納されていた。
しかも、アルエットが想像していたよりも読みやすいものが揃っていた。図書館は日中ならば誰でも自由に閲覧できるらしく、集中して読めるように個室もあった。
また、持ち出して各別荘で読むことも可能なようで、それらの説明書きが入り口にあるだけで司書も誰もいない。朝晩の決まった時間に管理している人間が鍵の番を任されているだけのようだ。
王侯貴族が蔵書を盗むという姑息なことはしないというのが大前提なのだろう。
利用している人間がいないのか、扉の閉まった個室にいるのか、フロアはしんと静まり返っていた。ここで読んでもよかったが、時計を持ってきていなかったので別荘に戻って自室で読むことにした。
歴史書などよりも、大衆向けの軽い読み物が多いようだった。おそらく避暑地に来る幅広い年代の人たちに合わせたのだろう。普段大衆向けの小説など読む機会はない。こういう時に息抜きできるように用意されているのかもしれない。
興味の惹かれたタイトルの本を一冊、本棚から抜いた。本当はもっと読んでみたかったが、何冊も持って帰る体力の自信がない。
(まだ何日もここへいるんだもの。一冊ずつでちょうどいいわ)
帰ろうとして図書館の扉を開けると、強い風が吹いてアルエットは思わず目を閉じた。デイドレスの裾が大きくめくれて、慌てて手で押さえる。
「きゃっ!」
目を開けたアルエットの胸元にはらりと長い髪が垂れてハッと顔を上げる。あわてて後ろ髪に手をやるが、そこにはあるべきものがない。
「リボンが、ない――」
髪を一つに結んでいた空色のリボンが今の風で外れたらしい。振り返ると再び風が吹いて、地面に落ちていたリボンがあっという間に宙にさらわれてしまった。
(お母様の形見なのに……!)
生まれる前に母がつけていたものだと乳母にもらったのだ。他の品はドレスの他はほとんど処分されてしまったと聞いた。
本を抱えたまま萎えた足を叱咤し、リボンを追いかけて図書館のそばの公園に入った。植込みの中は迷路のように入り組んでいて、たちまちリボンの行方を失ってしまう。
ぽっかりとそこだけ空間ができたような場所に出て、アルエットは息を切らしながら芝生に膝をついた。ベンチが一つあるだけで他には何も見当たらない。
翡翠の瞳が潤んで、幾筋もの涙が頬を滑り落ちていった。




