2.家族
「突然あなたの日常を奪ってしまってごめんなさい。戦略的に仕方のないこととはいえ、多くの血が流れたことには私も心を痛めているわ」
ニコールが金色の長い睫毛を伏せた。
「私個人としては、できれば戦争なんてしなくていい世の中になればいいと思っているの。綺麗事だと思われるかもしれないけど」
思いがけず皇妃が頭を下げたので、アルエットは驚く。
「いえ……意固地になった父も悪いのだと思います」
真っ向から立ち向かうと判断したのは父王だ。帝国のもつ何万の軍勢にどうして勝てると思ったのか不思議でたまらないが、彼のプライドが降伏を許さなかったのだろう。
そのために命を落とした何千もの兵士や国民のことを思うと、残された王族としてアルエットにも責任があるような気がしてもどかしいのだ。
それを素直に皇妃に伝えると、彼女は口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「十分に責任は果たしているわ、それだけは安心なさって。エグマリンの民も納得しているでしょう」
フェザンにも心配はないと言われたが、どちらもアルエットを気遣っての発言に思えて胸のつかえはとれないままだった。
「でも……」
「それなら一度エグマリンに戻ってごらんなさい。今度フェザンが王都を視察に行くことになっているの。一緒に連れていってもらいなさい。それでけじめをつけてくればいいわ」
エグマリンに戻る――。
その選択肢はなかった。そんな予定があることも知らなかった。
「フェザンに相談してみます」
「ふふ、本当に仲がいいのね。若い頃の私たちとは全然違うわ」
私たちとは、皇妃と皇帝のことで間違いないだろう。
「攫うように連れてきて妃にすると報告を受けて、最初は心配していたの。逃げたようだと聞かされた時は納得したものだけど、どうやらミレイユの謀だったそうね。本当に我が子ながら勝手な性格に育ってしまって申し訳ないわ」
ニコールは片頬に手を当てて、はあ、と大げさにため息をついた。
「ミレイユは兄たちが大好きで、妃の選定は自分がやると言い出したり、自分の結婚相手も二人に勝てるくらいの腕の持ち主でないとだめだとわがままを言ったり、少し甘やかしすぎたわね」
「自分の意見をはっきりと言えるのはすごいと思います。私にもそれくらいの度量があるといいのですが」
アルエットはティーカップに入った琥珀色の液体に映った自分の顔を見つめる。
「あら、あなたには誰にもない才能があるわ!」
紅茶を口に運んだニコールが目を瞠って、カップをソーサーに戻した。
「フェザンを夢中にさせたことよ。国を護る、背負う、繁栄させる……それだけで頭がいっぱいで妃のことは後回し。それでどうしようかとちょうど頭を悩ませていたところだったの」
頬を染めたアルエットに笑いかけてから、ニコールはスコーンを一口サイズにちぎり、真っ赤なジャムをつけて口に入れた。
「結婚式の予定は春の晩餐会や祭事が落ち着いてからの予定だけど、それ以降に延びてもかまわなくてよ」
「それはどういう……」
ティーカップをそろそろと口に運びながら質問する。
「結婚式より先に孫の顔を見せてくれてもいい、という意味」
邪気のない笑顔に、アルエットは口に含んだ紅茶を危うく吹き出しそうになってしまった。
「あっ、あの……それは――」
「フェザンがあなたを溺愛しているのは知っているわ。王宮侍女の統括は皇妃の仕事でね。いろいろと情報が入ってくるのよ」
すべて筒抜けなのだ。アルエットは林檎のように赤くなった顔を隠すようにうつむいた。
「恥ずかしがることはないわ。実は挙式前に陛下との間に生まれたのがフェザンなの」
ニコールはくすくすと楽しそうに笑う。
「舞踏会で一目惚れされて、当時皇太子だった陛下から熱烈にアピールされてね。ディエルシカ王家からの結婚の申し出となれば断れるはずもなくて、特に好きな人がいたとか陛下が嫌いだったとかでもないのだけど、強引なやり方が気に入らなくてずっと彼を拒絶していたわ」
当時を思い出してか、ニコールの瞳に甘い輝きが宿る。
「それでも婚約者として王宮に上がって寵愛を受けるうちに、一途な気持ちに根負けしたの。フェザンを身ごもったことが決定的だったかしらね。ディエルシカ王家の無二の後継ぎだもの。皇太子妃なんて畏れ多いのにと渋っていたけど、そのままで十分だからって陛下はますます私を大切にしてくれたのよ」
寡黙そうな皇帝の姿からは想像がつかないが、ニコールが嘘をついているようには思えない。それにフェザンの深愛を心に思い浮かべれば、親子なのだと納得のいくところもある。
それでもやはり恥ずかしくて、照れ隠しにスコーンを口に入れた。薔薇と苺のジャムの甘酸っぱく芳醇な香りが口いっぱいに広がった。
「フェザンの瑠璃色の瞳は皇妃殿下譲りだったのですね」
アルエットはニコールの紫がかった青い瞳を見て、宝物でも見つめるように柔らかく微笑する。
「話しやすい所も、凛々しい所も、雰囲気がとても似ています」
ニコールの忌憚ない話を聞いた後だからか、アルエットの緊張もいつの間にか解れていて、気持ちがすとんと落ち着いていた。ミスダールでフェザンに話を聞いてもらった時に似ている。
「まあ。あなたくらいだわ、そんなことを言ってくれるの。みんな陛下に似て豪胆ですとか、勇敢で冷静に戦局を見極めるところが初代クライノート皇帝にそっくりですとか、褒めてくれるのは嬉しいのだけど、生んだのは私よ?」
眉をきりっと吊り上げて主張する顔がまたフェザンに似ていて、アルエットは破顔した。
「アルエットさんも周りの声は気にしないで。きっとあなたに似てかわいらしい子が生まれてくるわ」
なぜかすでに懐妊前提で話が進んでいて、返答に困ってしまう。
「それと、私のことは皇妃殿下ではなく、お義母さんと呼んでもいいのよ。家族を奪っておいて偉そうにって思われるかもしれないけど、あなたはもう私たちの家族なのだから」
「家族……」
そう呼べる人がいたのは何年前の話だっただろうか。
血のつながりがないゆえに虐げられてきた、一方で血のつながりがなくても受け入れてくれる人がいる。
「ありがとうございます……お、お義母さま」
アルエットは翡翠色の瞳に涙をためて微笑んだ。




