2.焼きつく太陽
「デルフィーヌお姉様……」
扉が乱暴に開かれ、つかつかと早足で近づいてきた女性の平手が、座り込んでいたアルエットの頬に飛んできた。避ける間もなく打たれた頬を掌で押さえて、姉を見上げる。
「なぜ叩かれたのか、わかるかしら?」
「いいえ……」
頬の内側を切ったのか、かすかに血の味がした。
「とぼけるなんていい度胸ね。私のジェルマン様を横取りしようとして! あなたなんか相手にもされないのがわからないの? 図々しいのよ!」
ピシッと鋭い音がして、アルエットはデルフィーヌの手元を見て身を震わせた。ここへ来る前に自分の部屋から鞭を取ってきたのだろう。
「声をかけてきたのはジェルマン様の方で……」
ぼそぼそと震える声で反論すると、デルフィーヌは扉に向かって鞭を振るった。バシンと鋭い音がしてアルエットは口をつぐんだ。
「脱ぎなさい」
澱の溜まったような昏い声が降ってくる。いやだ、やめてと今まで何度懇願しただろうか。それが叶わないことがわかっているから、アルエットは恐怖でおぼつかない指先でドレスの留め具を外していく。侍女がいないので、着替えも一人でできるように簡素な作りになっている。
ドレスを脱いで背中が露わになるとデルフィーヌが背後に立った。その途端に火に焼かれたような鋭い痛みが背中に走り、アルエットは短い悲鳴をあげた。
躊躇いなく打ちつけられる理不尽な攻撃に、床に手をつき、唇から血が滲むほど噛みしめて耐えるしかなかった。
「あなた、目障りなのよ。さっさと消えてちょうだい!」
さんざん鞭を振るった後、デルフィーヌは吐き捨てるように言って部屋を出ていった。
「……うっ」
今まで打たれたものの中で一番の痛みだった。部屋の空気が冷え切っているというのもあるのだろう。うずくまったまま起き上がることができない。
背中がじんじんと痺れるように痛み、アルエットは涙でぼやける視界の中、自分の背中に手を伸ばしていた。
腫れ上がった皮膚の上にぬるりと滑る感触がある。
のろのろと起き上がるとアルエットは翡翠色の瞳を濡らしながら、傷の手当てを行なった。誰も助けてくれる人間がここにはいないからだ。声を挙げることはとうの昔に諦めた。挙げたところでどこにも届かない。
(明日洗わないと……)
血のついたドレスを見つめながら、アルエットはあかぎれのできた指を開いて眉を寄せた。氷の張った桶でこれを洗うところを想像して気分が沈む。
しかし新しいドレスも用意してもらえないので、できるだけ大切に着ていかなくてはならない。
着替えを済ませて冷たいベッドに入ったアルエットは、痛みと寒さでろくに眠れないまま、翌日、父王に呼び出された。
「アルエット。お前にはしばらく一人でミスダールに行ってもらう」
「避暑地にですか? こんな時期に……?」
エグマリン国や領土争いをしている周辺国でも、一部の地域だけは各国の共有財産として協定を結んでいるものがある。その一つが避暑地ミスダールだった。
はるか昔から王侯貴族の保養地としても厳重に管理されていた。温泉も湧いているのどかな田舎町らしいが、アルエットには連れていってもらった記憶はない。
本来ならば真夏の暑さをしのぐための休息の地だ。こんな時期外れにそこを訪問するのは、何か事情を抱えて世間から姿をくらましたい人間しかいない。
「デルフィーヌが泣いて訴えてきたのだ。妹が婚約者を誘惑しようとしている、とな」
「それは誤解で……」
「事実だろうが、嘘だろうが、大衆紙に面白おかしく書かれでもしてみろ。我が王家の顔に泥を塗るつもりか!」
きつく叱責され、アルエットは俯いた。
「わかったら、早く支度をしろ。デルフィーヌが公爵家に無事に入るまで戻るでないぞ」
デルフィーヌの結婚は半年後のはずだ。それまで慣れない土地で供もつけずに一人で過ごせということなのか。
――私がいていい場所はどこにもないの?
頭を下げ、のろのろと王の間を出たアルエットの瞳から、ぽろりと涙の粒が零れた。