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誰にも言えない派遣の話 ~私たちは天使じゃない~

作者: 中沢彰吾

 横浜ベイエリア。海に面して建ち威容を誇る超高層ビル。かつてはその高さで日本一を競ったこともあったが、その後、大阪、東京のビルにあっさり抜かれた。

 三月末の日曜日の昼下がり。五五階建てのビル最上階にあるフレンチ・レストラン。大きな窓からは横浜港から水平線まで見渡せるはずなのに、手前の岸壁のはるか向こうを横切る横浜ベイブリッジが立ちはだかる。

 横浜は合理的に作られた人工都市だ。ベイブリッジは、首都高速道路を通過する車が最も早く東京に着けるように、あの海の上にまっしぐらに君臨する。眺望も何もあったものではない。

 横浜よりはるか以前に国際的に知られた伝統的な港町・神戸の阪神高速道路は陸上に曲がりくねって建設された。海の眺望は開けているが、車は速度を上げにくく、移動効率は良くない。

 今の世の中はすべからく合理性を求めるから、その経済力に置いて横浜は神戸を圧倒した。昔ながらのロマンを求め続けた神戸の名は、人々から忘れ去られんとする。

 この横浜のレストランの絢爛豪華なインテリアは、関東の富裕な若者たちの結婚式場として人気がある。

 もっとも、二〇一一年の大震災では、振幅の大きな揺れを記録し。食器の割れる音と人々の絶叫で修羅場と化した。

 ただ、固定されていない食器は盛大に割れたものの、大きな窓ガラスは割れなかったことで、人的被害をひとりも出すことなく称賛された。 

 本来、誇るべきことのはずだが、居合わせた客が撮影したレストラン内の映像を、テレビ局が放送するのをひどく嫌がったという。

 東京キー局はすべて、この客から提供された映像をお蔵入りにした。

 公開されたほうが、来たるべき首都直下型巨大地震の参考になっただろうが、ホテルとレストラン側にとっては、そんな目に見えない社会貢献よりも、客が抱く負のイメージのほうが由々しき問題だった。

 テレビ報道は、ここ数年、やりにくくなるばかりだ。放送を拒否する関係者、目撃者が増えている。

 ニュースに登場するのは首なし人間ばかり。そんな不気味な映像にならないように、

何度でも頭を下げるのがテレビマンの最大の任務だったが、今はそんな気概のあるテレビマンはいなくなった。

 会社の規模としてはキー局の一〇分の一もない北関東のローカル・テレビ局も、また例外ではなかった。ちょっとした街角の風景でも、写り込んでしまった歩行者からクレームがついた。

 そのアナウンサー職を辞してほぼ一か月。自分は偽名を名乗り、この横浜のレストランにいる。いやしくも局アナは嘘をついてはいけない。ニュース・キャスターだった自分はなおさらだ。

 なぜ、こうなってしまったのか? 思い返してもよくわからないが、偶然が重なると、人は予想もしなかった、とんでもない状況に巻き込まれることもあるらしい。

 真っ白なテーブルに、やはり真っ白な椅子がまぶしい。外は晴れ、春先の穏やかな陽光にほっとするところだが、先ほどから尋常ならざる恐怖に襲われている。

 地震が恐いのではない。

 テーブルの反対側には、露骨なしかめっ面をした、自分とほぼ同年代=六〇歳がらみの夫婦がいて、下のロビーで顔を合わせたとき以来、ずっとにらみつけている。

 夫は四国のほうで弁護士事務所を経営しているという。ガタイが大きい上に腹部が前と横に広がっていて、背広の前ボタンがはちきれそうだ。顔の面積もパーツの一つ一つもでかい。

 見るからに安定感と迫力があり、争いごとを和解に持ち込む始末は得意そうだが、自分のこととなると、妥協という選択肢は好まないタイプだろう。

 他人ににらまれると、つい萎縮してしまいがちな自分にしてみれば、一番苦手なタイプだ。

 しかし、今さら逃げるわけにはいかない。これから欺瞞に満ちた長いやり取りが続くと思うと気が滅入る。

 妻のほうは夫とは対照的に小柄で小顔。クリーム色を基調とした柄の和服がよく似合い、色白でしわがほとんど目立たず異様に若く見える。

 日々の生活がいかに余裕があるかをうかがわせるが、不思議と嫌みな感じがしないのは、控え目な性格がにじみ出ているからか。

 表情に落ち着いた華やかさと優しさを醸し出していて、額の広さが知的レベルの高さをうかがわせる。弁護士の妻に求められる資質は、容貌だけではないらしい。

 ただし、こちらの顔を見つめる際、口元に笑みはない。夫に同調してか、伏し目がちながら視線は確かにこちらを向いている。時々、刺すように。恐い恐い。

 どうしてこんな危ない「日雇い仕事」に、自分は手を出してしまったんだろうと、我が事ながら不思議でならない。

 退職直前の先月までは、弱小ローカル局とはいえ、れっきとした地上波テレビ局の看板ニュース番組のキャスターを務めていたのだ。

 今、従事しているのは、普通に言えば代理行為、悪く言えばなりすましだ。いかがわしさはぬぐえない。

 心がぐらついている。いざ現場に身を置いてみて、初めてわかった強いプレッシャーに困惑する。

 局のアナウンサーとして演技の訓練も受けた自分なら、難なくできると思っていたが、生身の人間の敵意とまともに向き合えば、即たじたじとなり、平常心を保つことすらままならない。

 だいたい、他人様の家族の人間関係を上手に修正するなんて、第三者が簡単にできるわけがない。私は神でも仏でもないのだ。

 後悔はつのるばかりだが、席を立つことはできない。善良なクライアント様を、今よりもさらに不幸にしてしまう。

 隣の席には、「ヘルプ・チーム」という、名称だけ聞くと災害などで活躍する立派なボランティア団体のようだが、実体は怪しげで秘密主義の「人材派遣会社」の裏ビジネスのメンバーである、五〇代と思しき竹内さんがいる。

 彼女についてそれ以上のことは何も知らない。クライアント様から依頼を受けた内容を日雇いの派遣労働者に伝え、必要ならば自分も「共演」するのが彼女の役割だが、

お互いのプライバシーに深入りし、へたに親密になったりすれば、仕事の現場での空気感から、演技がばれる恐れがある。

 ばれればどんな大惨事になるか考えるだに恐ろしい。もちろん、惨事に見舞われるのはクライアント様で、雇われ労働者の側は後味の悪さが残るだけなのだが……。

 日雇い労働者がネットで業務を予約し、身元を明らかにせずに就労するのは労働者派遣法違反だが、これは大手の派遣会社でも堂々とやっていることだから、気にする必要はない。

 ただし、代理行為はやりようによっては違法と判断されかねない危険な裏仕事だから、身元を明かさないに越したことはない。

 一方、裏の仕事には裏ならではの利点もあり、労働者に守秘義務を遵守させるため、日当は予定通り必ず支払われる。

 表の派遣労働では、派遣先が賃金を踏み倒して知らん顔することもあるそうだから、日当の支払いが確実なのはありがたい。

 さて、巨躯の弁護士先生が、我々、架空の夫婦に対する憤懣を隠そうともしないのは、ほぼ半年前、彼と同じ弁護士である長男から「結婚を決めた」という報告を突然受けたことがきっかけだった。

 父親は、長年、地元で培ってきた信用を大事にするため、息子の結婚についても家の重要問題であり、本人と相手の女性だけで決めるべきではないと考えていた。

 まず、社会のどこに出しても恥ずかしくない女性でなければならない。家柄も含めて。

「何はさておいても、まずは親同士で顔合わせをしなければいかんな。どんな生まれでどんな育ちの女性かわからんようでは、話を進めるわけにはいかない。すぐにご両親と会わせなさい」

 日本国憲法を守る立場の弁護士にしては、ずい分、差別的な台詞である。まだ、そんな古い考え方をしている人がいるのかと驚かされたが、むしろ、いわゆる「いいおうち」の家族であれば、この父親のような価値観が多数派というべきだろう。

 万事が適当で、古くからのしきたりには無頓着で、世間体などあまり考えない、あるいは、そんなことにこだわるのは違うよね、などと上から目線で語る、ふらちなテレビマンと違って、法曹業界の人々が、親族全員がきちんとしていなければ、世間に対して示しがつかないと考えるのは当然だ。

 ところが、息子は父親に、女性の両親との会合について、伝えることができなかった。

 それどころか、実家はどこなのか、親の職業は何なのか、そもそも両親が存命なのかといった、必要最低限の情報すら伝えようとしなかった。

 息子は、理由を説明するでもなく、父の願いを半年間も黙殺してきた。

 これでは父親ならずとも、何かがおかしいと焦りをつのらせるのは当然だ。毎日のようにメールを送ってきて、ついに上京すると言い出した。

 実は女性の本当の父親は、今日の食事会の十年以上前に亡くなっていたのである。

 「本当の」と頭に付けたのは、母親はかなり前から若い男と同棲しているらしいと聞いたからだ。

 その男は、ある日突然、母子が住むアパートに転がり込んで来たのだが、そうした無神経な動きをする男は、ろくでもない奴と相場は決まっている。

 ところが母親は若い彼氏の言うなりで、中年世代に差し掛かろうとする女性にはありがちな現象だが、本能的に男を求めていたらしい。

 一方、ろくでもない男はどこまでもろくでもないから、娘にまで性的ちょっかいを出してきたため、彼女はアパートを飛び出した。

 高校三年生だったというから、学歴は中卒ということになる。この点も、彼氏の父親は眉を顰めるだろうと容易に想像できる。

 最初は友人の家を転々として、二四歳になった現在は、横浜のケーキ・カフエ店をひとりで切り盛りしているという。

 母親とはもう何年も連絡を取っていない。一度、元のアパートに行ってみたが、既に別の人が住んでいた。もはや、どこでどうしているかもわからない。

 息子が父への報告を躊躇ったのはそんな事情があったからで、傍から見れば理解できなくもないが、両親に報告すれば、直ちに父親は結婚を思いとどまらせようとするだろう。

 息子は息子で信念を抱いて将来を誓った女性と別れるなど考えられないから、親子関係がぎくしゃくするのは必定。

 そのため、父親から何度催促されても、どう対応すべきか答を出せないでいた。

 疑念と怒りに満ちた父の気持ちを、何とかして収めねばと息子が頼ったのが、「ヘルプ・チーム」であり、最も困難な役柄を押しつけられたのが自分だ。

「子供同士が一緒になろうと決めて、私共からお会いしたいと再三、お伝えしたはずだ。それなのに会おうとはせず、連絡もいっさいしてこなかった。こちらは礼をつくしているのに失礼じゃないか。どういうことですかな」

 クライアント様の父親がていねいな言葉選びながら、法廷での発声のように厳粛に質問した。

 今まで両親と会わなかった理由を説明し、何とか彼を納得させねばならない。 

 もし、この場を上手にとりつくろうことができなければ……修羅場だ。

 


アナウンサーの落魄


 ほぼ四〇年に渡って、北関東テレビのアナウンサー室の正社員として勤務してきた。

 ちなみに、この会社の社員は、自社を「ホッカン」という愛称で呼んでいる。

 北関東テレビ局創業者として、地元代議士や旧郵政省にはたらきかけて開局を実現させた初代会長は、地元で運送会社や食品工場を経営する実業家だった。

 自分が作ったくせに、テレビのことはわからないからと、現場に顔を見せることはほとんどなかったそうだが、ひところ流行った企業のブランディングの影響を受け、地元の人々により親しんでもらえるようにと「ホッカン」を会社の正式な愛称にした。

 「語感がいいねぇ」などと、本人はたいそうお気に入りだったそうだが、その後に台頭した持ち帰り弁当のチェーン店に間違われるという弊害が生じた。

 昼近くになると局の代表電話に、「のり弁三つね」などという電話が、ひっきりなしにかかってくるようになった。

 注文してくるほうは腹が減って気が立っているせいか、交換台の女性に、

「まぎらわしい名前を付けんじゃねえ」

 などと罵声を浴びせることもあるという。

 あまりに弁当の注文が多いので、いっそのこと食品子会社を作って「ホッカン弁当」を売り出したらどうかと、真顔で提案する社員まで現れた。

 ホッカンと名乗ったのは弁当チェーンよりこちらが先だが、弁当販売チェーンの業態としての商標登録は向こうが先だろうから、こちらが訴えられるリスクがあるなどというムダな議論が弁護士をまじえて行われ、結局、立ち消えになった。

 そんな風に、テレビマンなのに、時々自分たちが何者かを忘れる傾向があるのは、制作する番組が少ないからかもしれない。

 ホッカンの局舎は、茨城県のつくば市の郊外にある。

 創立は一九八〇年。日本のテレビ業界の中では最も歴史の浅い局のひとつで、社員数は六〇人。

 東京から全国に番組を送る民放キー局で、最大の売り上げを誇る局でも、社員数は一〇〇〇人余りだから、放送エリアの狭いホッカンとしては多すぎるのだが、地元密着の地方局としては、数少ないスポンサー筋から「コネ採用」を頼まれると、ことわれない弱みがあるので、致し方ないところではある。

 一般にテレビ局の局舎は、立派な高層ビルが想像されるが、ホッカンは土地の広さに余裕があるため、地面にはいつくばるように建てられた二階建て。

 屋上に立ち並ぶパラボラなどのアンテナがなければ、地方の閉校した小学校と紹介されても違和感はないだろう。

 この一見、あってもなくてもいいような局でも、その創立には地元の高いモチベーションがあった。

「本もののオラが町のテレビが欲しいだっペよ。天気予報はもっと詳しく、稲の作付け面積も、野菜の出荷見通しも、皆の役に立つようにやってくれんと……」」

「東京のビルばっか見せられて、銀座のフレンチも新橋の居酒屋も、わしらには関係ねえべ」

「原宿だの新宿だので、ヤクとか変なことばっかりやってる東京の子供ばかりテレビで見せて、わしらの子に悪い影響が出たらどうするつもりだっぺや」

 原宿や新宿にたむろする子供たちは、高崎線や東北線で東京に集まる子供たちのほうが多いとも言われているから、多少の誤解もあろうが、とにかく、東京キー局発のドラマに出て来る景色は青山や代官山ばかりで、北関東の茨城大学や宇都宮大学がテレビドラマに登場することはまずない。

 グルメ番組も、銀座や赤坂、渋谷界隈の、こじゃれてはいるが日本人の口に合うかどうかよくわからない海外料理が多い。

 それでも、ホッカンの放送エリア内の若者たちは東京のテレビに幻惑され、実家の田畑を継がず離農する。

 東京キー局への不信感……地方を置き去りにして、仲間内で遊びほうけているとしか見えない彼らへの反感が、ホッカンの放送エリア内の人々を奮い立たせている。

 エリアは市場が小さいから、CM料などの実入りは多くないが、制作費から社員の給料まで、すべての経費が最小限に抑えられているため赤字にはならない。

 直接の競争相手は永遠に現れないだろうから、ある意味、殿様商売。

 とはいえ、番組の自社制作は困難で、夜のワイド・ニュースが最も長尺だ。

 他の時間帯は、ブローカーが持ち込む通販番組や、五〇年も前に制作された、古典と呼んだほうがふさわしいドラマやアニメを安価でかき集めて埋めている。

 それだからといって、社員が卑屈になることはない。会社が小さいだけに、社員同士は誰でも顔を知っている。

 ガツガツして出世したところで、待遇はほとんど変わらないから、他の社員を蹴落としてやろうなどと考える野心家はひとりもいない。

 一方、ワイド・ニュースで地元に顔が知られたホッカンのアナウンサーはいっぱしの有名人だから、そこそこ恵まれていた。

 番組のゲストには東京のタレントは、ついぞ呼ばなかった(呼べなかった)。

 地元の情報を良く知る商店主や農家の青年などにしゃべってもらったほうが、情報が身近なだけに地元の視聴者は喜んでくれる。

 地元の祭りや交通安全などのイベントに呼ばれるのはしょっちゅうで、帰りには、軽自動車の後席が一杯になるほどの農産物=メロン、ぶどう、かぼちゃ、トマト、きゅうり、サツマイモなどをプレゼントされた。

 誠実さと善意とお愛想。そして、相手に話を合わせるための臨機応変の嘘。

 こうした素養を合わせ持ってさえいれば、ローカルテレビ局のキャスター人生はすこぶる楽ちんで楽しい。

 しかし、そのささやかな幸せを絶たれるときが終に来てしまった。

 定年退職である。


 二月一四日。日本の愛情深い若者たちと、東京のテレビが浮かれ騒ぐバレンタインデーが、私の六〇歳の誕生日だ。よって、その前日が退職日となる。

 夜のワイド・ニュースは、既に年明けから後輩の女性アナウンサーに交代している。

 この日はデスクまわりの片づけだ。いつものように車で局舎に向かった。

 ホッカンは街外れのなだらかな丘の上にあり、駅からは徒歩二〇分。誰も振り向かない二束三文の土地だから駐車場は広大だ。

 おかげでこの四〇年近く、ずっと車通勤だった。しかも、渋滞など滅多にないので、街中の二LDKのマンションから局まで一〇分ほどで着いてしまう。

 北関東の厳しい気候……夏の猛暑、冬の空っ風とも無縁だった。気候の変化はニュースのコメントとしてしゃべるだけで、その辛さに苦しむことはなかった。

 その点だけ取り上げれば、まるでビバリーヒルズに住むセレブみたいだったなとしみじみ思う。

 満員電車に揺られて他人とぶつかってにらみあいながら、必死に吊革につかまり、運が悪ければ痴漢に間違えられてしまう都会の通勤と比べたら天国であった。

 会社に着いてもアナウンサーは屋内勤務がほとんどで、一日中、空調の効いたオフイスで、コーヒーを飲みながら快適に過ごしていた。

 もちろん、若い頃は外に出て生中継することもあったが、後輩アナが何人か入社し、出たがりの記者やディレクターが増えるにつれ、三〇歳を過ぎた頃からは、ほぼ社内に缶詰となった。

 制作や報道フロアの契約社員やアルバイトは若い女性ばかりで、かぐわしい彼女たちの発散する、香水のような人工的な匂いではない、甘くさわやかな体臭が漂い、いつも幸せな気分になれた。

 満足だ、本当に満足だった、改めて感慨にふけった。

 午後一時、ホッカンの玄関。

 まだ年号が昭和と言われていた時代に建設されて以来、四〇年以上たっている古い建物だ。

 玄関棟を中心に左右に羽根を伸ばしたデザインは、冬場に近くの農業用ため池を訪れる渡り鳥をイメージしたと言われるが、外壁がコンクリートの灰色そのままで、今では刑務所か廃墟のように見える。

 本来、外壁に貼られていたカラフルなタイルは雨風にさらされて一部が落下。まだら模様でみっともないと、残っていたタイルもすべてはがされてしまったという。

 発想が逆のような気もするが、修理してきれいなタイル張りに戻したところで、北関東の寒暖差が大きい過酷な気候では、いずれまたはがれてしまうだろうから、ムダなことはやめようという結論になったらしい。

 アナウンサー室は二階の西の端にある報道局の隣だ。アナウンサーは一番多いときでも八人だったから、部屋は狭い。

 初めてこの部屋を訪れた人の中には、まるで昔の団地のリビングみたいと、失礼なことを言う奴もいた。

 確かに小型の冷蔵庫とテレビが身を寄せ合うように置かれ、その前に、小さめのソファ、同じく小さめの机がごちゃごちゃと並ぶ光景は、昭和の公団住宅仕様と言われても仕方がない。

 デスクの上の花束。後輩たちが用意してくれた。感謝に耐えないが、心なしか地味なカスミソウばかり目立つ。ひとり暮らしの雑然とした部屋に置くのももったいないので、冷蔵庫の上の花瓶に差した。

 長年使ったデスクのパソコンなどの機材を、段ボール箱に詰める。紙のニュース原稿や資料、スクラップブックなどは既に処分してあった。

 撤収作業はゆっくりやっても三時に終了。この間、誰も来なかった。

 ローカル局のアナウンサーは、天気予報に定時ニュース、CMや提供枠読みなど、細々した業務があって意外に忙しい。

 ひとりさびしく部屋を出ようとしたら、後輩の女性三人と鉢合わせした。三人共、まだ二〇代で、アナウンサーとしては一番、使われやすい世代だ。

「あれっ、高瀬さん、まだいたんですか」

「まだって、何? すぐ消えますよ。でも、こういうときは、他に言うべきセリフがあるでしょう」

 三人は、「ご苦労様でした」「いつまでもお元気で」などと、退職する上司を送り出すにふさわしい、愛ある言葉を満面の笑顔でかけてくれた。

 こういうときの身のこなし、表情はさすがに局アナだ。上手だが白々しい。

「で、先輩は、この後、どうされるんですか」

「家に帰るけど」

「つまらないボケやめて下さい。再就職はどうされるんですか? やっぱり東京に出て、フリーアナウンサーですか。」

「いや、私なんか無理だよ。全国の元局アナが、ヌーの大移動みたいに東京に集まって来るんだから、ホッカン出身では書類審査ではねられるのがおちでしょう」

「看板ニュースのメイン張ってたキャスターでもですか。何だかわびしいですね」

 若い女性と会話していると、その恐いもの知らずが恐くなる。

 東京に移ってプロダクションに所属したところで、米つきバッタのように事務所のスタッフやクライアント様、制作スタッフのADにまで頭を下げ続け、それでも仕事はもらえず、精神をやられてしまう先輩たちが大勢いた。

 キー局の元アナウンサーでさえ、特に知名度が高くなければ、プロダクションに相手にされず、自殺に追い込まれる人が少なくない。一説には、キー局アナの一〇人にひとりが自殺、もしくは失踪しているという。

「高瀬さん、ひとり暮らしだから家の中は殺風景でしょう。少しでも気持ちを明るくして下さいね。お酒飲んでばかりじゃダメですよ」

 がっくり来て気持ちがなえた。我が家は殺風景どころではない。

 四〇年近く、ほとんど掃除も手入れもしていないから、部屋の中はゴミ屋敷を通り越してお化け屋敷のようになり、建物の外観も大規模修繕などしていないため、廃墟と間違われて、その種の愛好家のサイトで紹介されたこともある。

「再就職では、マスコミの人間は潰しが効かないし、中でもアナウンサーは色眼鏡で見られがちですからね。気が重いですよ」

「私たちも、この先、どうしようっかて、さっき話してたんです。AIのせいで、提供枠読みなんかのお仕事はどんどん減ってるし、今後、ニュースは記者に読ませるかもしれないって報道局長は言ってるし……」

 三人のうち、一番若い娘が話を継いだ。

「でも、今はまだ二〇代ですから、アナウンサーに限らず選択肢はたくさんありますよね。航空業界とか、これからもっと伸びると思いますし……無理してアナウンサーにこだわる必要はないと思うんですよ。でも、先輩だけは、アナウンサーの長い経歴を生かして頑張って下さいね。私たちが誇りを持てるように」

 ロボットだのAIだのと、それ自体が主体性を持った電子機器が驚異的な発展を見せ、人間の職業も根本から変わってしまうのだろう。

 そんな時代に、しゃべること以外にアピール・ポイントがないアナウンサーは辛い。

 AIを発展させると人類は滅ぶと、昭和の昔から警告しているSF映画のジェームズ・キャメロン監督の言葉に共鳴する人は、ほとんどいなくなった。

 還暦を迎えた元アナウンサーのおっさんなど、最先端の技術やソフトを操る若者たちに、骨董品扱いされるのが関の山だ。

 まだしもの救いは、令和に入るまでキャスターを続けられたことだ。

 後輩たちが、待遇と職場環境の悪化に見舞われる日々はもう始まっている。彼らは自分で新しい道を模索するしかない。

 もし、自分の入社が二〇年遅かったら、仕事が徐々に減って行く憂鬱な状態を経て、希望しない他部署への異動という残酷な未来が待っていただろう。

 局を出るとき、人事部からもらっていた再雇用願いの書類を、燃えるごみのダストボックスに投げ入れた。

 形だけの書類だ。人事部が、アナウンサーに再雇用を認める可能性はゼロに等しいことはわかっている。

 どこに行こうと、脳無し、ポンコツと、陰口を叩かれるであろう人生の再出発。

 何とか、自分を必要とするところで、新たな生きがいを見出したいものだが……。

 翌二月一五日。朝五時起きして宇都宮線に乗り、都内にあるハローワークに向かった。

 サラリーマン時代は、ずっと生まれ育った北関東で過ごしてきたのに、今更、東京で再就職しようとするのは、ホッカンのエリア内で暮らす人々の目を気にしたからだ。

 ほとんどの住民が自分の顔を知っている。地元で再就職すれば、勤務先がどんな職場であろうと、悪い噂がネットに書き込まれそうで気が進まなかった。

 不祥事を起こして免職になったキー局のアナウンサーの場合は、居酒屋の店員になった途端に、週刊誌のグラビアで作務衣姿をさらされていた。

 アナウンサーの仕事は、毎日のローテーションが決まっていて、読む原稿は異なっても同じことをしていればいいので、あらゆる仕事の中で最も楽な部類に入ると思うが、目立つ存在なだけに、辞めた後が結構めんどくさいのだ。

 閑散とした北関東と違って、どの街もアフリカのアリ塚のように人が多い東京なら自分に気づく人などまずいないだろう。

 山手線のターミナル駅の一つの地下ホームで電車を降りた。特に理由があってそこを選んだわけではない。上野から何駅目かをランダムに数字を並べた中から選んだ。

 どこのハローワークに相談したらいいか、どこの駅周辺が求人が多いかなど調べもしなかった。

 我ながら、この行き当たりばったりには呆れるが、どうせ高望みできない立場であることはわかっているから、事前に調べたところで意味がない。

 駅のホームは思いの外、深かった。かなり長いエスカレーターを三度乗り継いで、ようやく地上に出たかと思ったら、まだ地下一階のコンコースだった。

 天井が高いから圧迫感はないが、ここまで深く掘った目的は何だったのか。

 巷では「令和の東京大改造」などと威勢のいい言葉が飛び交っている。建物や施設の硬質度を増し、広場や樹木などが織りなす柔軟性を減らす土地改造。

 この駅の構内は、コンコースからさらに迷路のように通路が枝分かれし、おしゃれな案内板には聞いたこともないカタカナの施設名が並ぶばかりで、お上りさんにはぜんぜん役に立たない。

 自分が東西南北、どちらの方角を向いているかさえわからないのだ。

 これほどの緻密な構築作業を自分と同じ「人間」がやったとはとても信じられない。この国の土木建設会社には、宇宙人でもいるのではなかろうか。

 しかし、こんなコンクリートジャングルをどこまで複雑にするつもりなのか? ここまで細かく「徹底改造」しないと、東京は都市として機能しないのだろうか。

 大地震に襲われるのはほぼ確実と言われているのだから、むしろ、もっともっとシンプルにすべきだろうに、東京の抱える矛盾の根っこの深さを思った。

 地上だか地下だかわからないような通路を歩いていて、足元が大きく揺れ始めたら、一刻も早く外に出たいのが人情だから、人々が一斉に走り出し、あちこちでぶつかり転倒し、パニックを惹起するだろう。

 壁に囲まれた通路を歩きながら、想像するだけで恐ろしくなった。「徹底改造」の対象は山手線の内側だけらしいから、都心で働くのは避けよう。

 太陽の光がまぶしく降り注ぐ外に出るまで、優に一〇分はかかった。

 すると、交差点の向こうには、狭い路地がくねくねと伸び、密集して立つ雑居ビル街が広がっている。

 入口に立つ薬屋は半世紀以上前の趣そのままだ。ここらあたりの飲み屋街には、夜になると、昼の間たらふく人間を飲み込んでいたビル群から、大挙して人がやってくるのだろう。

 正にカオスだ。同じ密集した都市でも、整然としたヨーロッパと、なぜこうも違うのか。これが未来都市のお手本なのか。

 首長竜の群れのように林立するクレーンを見上げながらため息をついた。

 午前八時半。駅から一〇分程の合同庁舎。古色蒼然としか言いようがないクリ―ム色の八階建てのビルの五階。

 エレベーターの操作盤まわりが薄黒く汚れている。ボタンにはなすりつけられた手垢の集積と思しい茶色の汚れ。

 公的施設で掃除をしないわけがないから、年期が入り過ぎて、もうどんな洗剤を使っても汚れが落ちないのだろう。

 灰色の壁に囲まれ、かなりせせこましいフロアにハローワークの入口があった。

 中をのぞくと、手前には求人票を貼りつけた白板や、同じく求人票の束が取り出せる段ボールの箱が並んでいた。白板には新着と書かれている。

 その向こうに職員が集うスペースがあり、こちらからも様子がよく見える。

 カウンターは個人面談用の対面机になっていて、労働者が座る椅子は今時珍しい木製だ。

 ハローワークが使う備品に金をかけるのは、来庁した市民に危険が及ぶ恐れがある場合だけだと聞いたことがある。

 予算に余裕があるのなら、労働者の賃金を上げろ、劣悪な待遇を何とかしろ、といった批判が噴出しかねない。

 考えてみれば、ハローワークとは意味不明だ。

 かつての職業安定所のほうがわかりやすい。失業した労働者の生活を安定させるのが目的だから、ハローワークとは悲惨な実態を糊塗するためのキャッチフレーズか。

 この国には生活に不安や不満を抱える人がどんどん増えているという。気が立っている失業者たちが。ハロ~などと言うものか。

 それにしても、部屋に入った途端に陰気なムードが感じられるのはいただけない。現状はまんま黒沢映画に出て来る、戦後間もない頃の役所のようだ。

 掲示板に貼られた求人票を見る。縦横一〇センチほどの紙だが、掲示板をはみ出さんばかりの数がある。

 一番の希望はデスクワークの事務員だ。

 何せ、四〇年もの間、屋外で長時間、風雪やきつい陽光にさらされた経験がない。

 日焼けなどしたことがないから、顔も手足も青白くて入院患者のようだ。恥ずかしいが、体がなまってしまっているのは事実だ。

 最新のソフトをマスターしなければならない経理などは無理だが、総務部や厚生部のお手伝いくらいならできるだろう。

 アナウンサーとして大勢の見知らぬ人々と接してきた経験を生かすなら、人事部で基本的な話し方の新人教育に携わるという道もありそうだ。

 しかし……求人票を一枚一枚チェックしても、清掃、警備、販売、清掃、警備、販売と、判で押したように同じ職種が並んでいる。

 たまに、本社管理部門スタッフなどと格調の高そうな求人があると、備考欄で、いくつもの経験が要求されていて、さらに年齢制限がある。

 上限はとても若い。三〇歳までだ。オフイスワークの求人では、六〇歳のおっさんなどまるで相手にされていない。

 ハローワークでは希望する再就職は望めないのか……と失望し、帰りかけたが、せっかく東京まで出て来たのだから、相談するだけしてみようと思い立った。

 予約機から予約番号を取る。席は空いていて、すぐに着席することができた。

 木製の椅子は小さ目で硬くて座りにくい。席と席の間は、コロナ禍は過ぎてもアクリル板で仕切られていて、とにかく狭い。仕切りがあっても、隣の人の相談内容が丸聞こえだった。

 東京のハローワークにホッカン時代の顔見知りが来ているはずもないが、他人様に話を聞かれてしまうのは何となく落ち着かない。

 相談を受ける担当者は、六〇歳前だろうが、頬のしわやこめかみの染みなどで、一見して少し老けた感じの男性だった。

 縦長の顔に目は細く、髪はかなり薄くなっているのにきっちり七三分け。いかにも役人らしい風貌だ。

 この後、街中ですれ違っても気がつかないかもと思えるほど、目立たず実直そうだ。

 東京が一年で一番寒い時期なのに、ビルの暖房があまり良く効いていないせいか、背広の下に灰色のカーディガンを着こんでいるのも老けて見える一因かもしれない。

「相談員の渡辺です。朝早くからご苦労様ですね」

「おはようございます。よろしくお願い致します」

「ではまず履歴書と退職証明、希望職種リストを見せて下さい。それから詳しいことをおうかがいします」

 履歴書を茶封筒から出して渡した。ずっとホッカンのアナウンサーだったから、職歴はわずか一行。特技は国語を正確にしゃべれること。趣味はこれと言ってないので、DIYや将棋、釣りなどあたりさわりのないことを書いた。

 履歴書のチェックには一〇秒くらいしかかからなかった。

「アナウンサーをしてらしたんですか?」

「はい。書いてあります通り、北関東のローカル局ですが……」

 担当者がちょっと首をかしげたように見えた。わざわざ東京まで来た理由を問われるかと思ったら案の定だった。

「なぜわざわざ、こちらまで来られたのですか」

「退職後は東京に住みたいと、長年希望を持っておりましたので……」

「ああ、そうですか。定年後に東京から地方へ移る人は多いですが、珍しいですね」

 本当の理由は、恥ずかしくて言えなかった。

 有名なテレビ局の有名なアナウンサーならともかく、小さなエリアのローカル局のアナウンサーが、再就職後の顔を見られるのが嫌で東京に来ましたなどと言ったら、「あなたレベルの人が……気にし過ぎですよ」などと笑われるのがおちだろう。

「パソコンの技量はどうです? エクセルやパワーポイントはどれくれい使いこなせますか」

「ワードとパワ―ポイントの基本操作くらいはできますが……エクセルの複雑なグラフのデーター入力となると、いささか不得手ですのでこれから大急ぎで勉強します」

「なるほど。それはぜひやって下さい。ご希望は事務職の正社員ということで間違いないですか。会社の業種は?」

「業種は何でもいいです。何でもいいって言っちゃうと語弊があるかもしれませんが、年も年ですから、もし面接に呼んでいただけるような会社があれば、その業種についていちから勉強します」

「なるほど。また、勉強ですか」

「ええ、まあ……テレビ業界以外の業種となると、これまで深く関わったことがないものですから」

 相談員は、目をそらすと、上方、あさっての方向に顔を向けた。

 俄然、焦った。芳しい反応ではない。困っているのか、それとも相談を受けるのを嫌がっているのか、どっちだ? 両方か?

 彼はこちらに向き直ると、一度、ため息をついてから、最前よりも大きな声でしゃべり始めた。 

「率直に申し上げます。今は事務職・正社員の年齢制限が非常にきつくなってましてね。三〇代前半の方でも年齢を理由にことわられるのがほとんどです。ご存知でしょうか? 今では一般企業も役所も学校も、若者以外はどんどん非正規採用が増えているんです」

「あっ……新聞記事などで見たことがありますが……」

「転職される方はほとんど、まずは事務職希望とおっしゃいます。そのため、非正規待遇でさえ、たいへん競争が厳しいのが実状です。代わりはいくらでも来ますから、賃金はその都道府県の最低賃金です。それと、あなたは総務や厚生などの事務をお考えかと思いますが、そうした特別な資格が要らない部署で新しい人を採用する場合、企業側の希望としては、第一に若い女性。次に若い男性。そしてある程度以上の年齢でも、その仕事の経験がある女性ですね」

「え? いや、あの……私なんかはシニアと言われてしまうんでしょうが、シニア男性の採用はどうなんでしょうか」

「ダメですね。電話で男性の年齢をお伝えすると、ほぼすべての企業、団体が難色を示します。面接どころか、履歴書もいらないと言われます。いったん冷静にお考えいただきたいのですが、ずっと事務職をされていたと言い張っても、それは企業側には通用しないんです。今の状況がどうなのかを、お考えいただきたいのです。ちょっと前でしたら、本社で保養所の予約表を作成する担当者が必要でした。今は各自でパソコンで日付や人数を入力したら、それが保養所に直接送られます。もう人はいらないんです。人を必要としているのは、人間しかできない仕事です。それが重要なポイントで、肉体労働や屋外の仕事を嫌がる人は、もう必要とされていないとお考え下さい」

「それは………ちょっとショックですね」

「どうしても事務職を希望なさるんでしたら、役所や学校の契約職員が一番可能性が高いでしょうね。ほら、月に二回、自治体が発行する行政の情報紙で、募集がかかることがしょっちゅうありますよね。学校の事務を手伝ったり、選挙管理委員会で選挙の準備を手伝ったり、消費生活センターの相談員だったり、よく目を通せばたくさんあります。実は私も民間企業を定年で辞めた後、たまたま、区立図書館で情報誌を見てこの職を得ましたので」

「本当ですか。相談員様も、契約職員なんですか?」

「契約は一年ごとで、必ず更新されるとは限りません。その時期になると、新規の希望者が大勢来ますからね。私もこの四月には、そちら側に座っているかもしれません」

「そんな御冗談を……笑えませんよ。そしたら、私も契約職員を目指したほうがいいでしょうか」

「役所のですか?」

「はい」

「ただ、行政職は民間と違って面接だけではありません。筆記試験があります。これは法学部を卒業した新卒の若者に課す試験のレベルとほぼ同じです」

 (げげっ……)突然、真っ逆さまに絶望の淵に落とされた。

 大学時代の専門は西洋史で、卒業論文は「戦間期、欧州各国の軍備動向」だった。今となっては、米ひと粒ほどの価値もない。

 これから法律や行政学の勉強をしないといけないとは、ずい分厳しい。基礎知識も乏しいから、何年かかるかわからない。

 そんな難しい試験に合格した相手に、気軽に「ならば私も」などと言ってしまったことがひどく恥ずかしい。相手も顔には出さないが、軽蔑したかもしれない。ここはとりつくろっておかねば。

「すみません。内容をよく知らないのに、自分でもできそうなんて生意気言ってしまって……私は行政職は無理のようですから、やはり民間企業でとなると、警備や清掃になってしまうんでしようか」

「いや、一番、需要が高いのは倉庫業務ですね。あちこちに巨大な物流センターができてますでしょ。各社共、ロボットが仕分けしてるとさかんにPRしていますが、なに、あれは単なるデモンストレーションで、今のところはまだ人海戦術が主流です。ロボットに、何百万点もの形の違う細かい物の仕分けなんて、いずれはできるようになるんでしょうが、まだ一〇年は無理だと言われてます。どこの倉庫に行っても歓迎されると思いますよ」

 なるほど、それなら倉庫業務も悪くないかもと思った。

 未来に夢があるのがいい。きれいな制御室でロボットをコントロールするようになれば、3K職場なんて誰も言わなくなるだろう。

 ただ、今、あまり重い物を持たされたら、自分のような柔な体で大丈夫だろうか。

「ああ、重量物の仕分けこそ、ロボットがやってくれてるんですよ。それに、アシスト・スーツなんてのも、今は普通になりましたからね。荷物の運搬で腰や背中を痛めるといった心配はいりません。企業側は労災を申請されるのを嫌がりますから」

「わかりました。では、一度、お試しということでお願いできませんでしょうか」

「このハローワークの近くで、毎日募集しているところがあります。履歴書や身分証明も不要ですから、一度行ってみられたらいかがですか。最大手の外資系会社で、賃金や休憩などの条件は業界のスタンダードと言っていいでしょう」

 履歴書も身分証明書も不要? 世の中にそんな求人があるのだろうか。

 昭和のまだ子供だった頃、テレビで見た、山谷などに集まる年配の労働者たちが、手配師に追い立てられる光景が思い出されてしまった。

 しかし、ヤクザが関与していると言われた手配師は、だいぶ前に法律で禁止になったはずだから、さすがに昔のような虐待めいたことはないだろう。

 思い描いた理想の第二の人生には程遠いが、とにかく自分が使ってもらえる労働現場がどんなものか、経験してみるのが目的だからと、自分に言い聞かせた。

 とにかく、早く仕事につくことだ。

 仕事をえり好みした結果、いつまでも就労できず引きこもりになり、結局、首吊り自殺してしまったホッカンのOBがいると聞いたこともあるから、引きこもりだけは避けたい。

 どんな職種であろうとお勤めして、様々な人々との出会いがあれば、ひょんなきっかけで新しい世界への道が開けるかもしれない。

 昔から、大した根拠がなくても不思議と楽観的になれる性格だった。

 ひょんなきっかけで新しい世界へ……長期のスパンで、いずれ何かあればいいやと考えていたが、実はその「ひょんなこと」にすぐに出くわすことになる。

 摩訶不思議で冒険的な、衝撃の世界への入口が、倉庫の隅にころがっていたのだ。



 ハローワークから紹介された仕事の集合時間と場所が、企業の担当者からメールで送られて来た。本日は夜勤の業務のみだという。

 何と未経験者に初日から夜勤の指示とは。それだけ、人手がひっ迫しているということだろうか。

 午後にはいったん家に帰ろうと思っていたが、都内をブラブラした後で、そのまま仕事に就くことに決めた。

 セーターにダウンコートという普段着だが、服装の縛りも特にないという。

 午後八時、渋谷駅から徒歩五分の超高層マンションの玄関前に集合となっていた。

 それにしても……と訝った。渋谷界隈に物流センターなどあるのだろうか。

 普通は地価が安くて広大な土地を確保しやすく、トラック輸送に便利な高速道路に近い郊外に建てるものだろう。

 それに、超高層マンションはこれから勤務する通販会社と、どんな関係があるのか。

 集合場所としてはわかりやすい。遠くからでも見えるから、道に迷わなくて済む。

 しかし、大企業の労働者の集合場所としてはせこいし、違和感をぬぐえない。

 定時の十分前に着いた。玄関前に座る場所などないから、そのあたりをウロウロしているしかない。

 どう見ても空き巣狙いか強盗の下見のようだ。マンションの住民に、あなた誰? と見とがめられたらどうしようと思うと、落ち着かない。

 それから、ひとり、ふたりと若者たちが集まって来た。時間ぎりぎりだ。

 皆、くだけた服装で、髪を鮮やかな紫色に染めていたり、鼻ピアスに首には黒いタトゥー。

 そんな自由な顔の飾りつけが、今時の若者には好まれるのだろうが、世代間ギャップのせいか、不潔な感じを受けてしまう。

 だいたいどう見ても、これから仕事に行こうというより、繁華街に繰り出そうという格好ではないか。

 予定時間の八時を過ぎた。駐車場には一〇人ほどが集まった。

 しかし、何も起こらない。労働者が時間を忠実に守っているのに、雇う側が守らないのはどうしてだろう。

 生放送に限らず録画番組の制作や、会議ですら時間厳守が当たり前だったテレビ局の感覚からすれば、このルーズさには腹が立つ。大丈夫なのか。

 予定を一五分ほど過ぎて、白いマイクロバスがマンション前の道路に止まった。窓ガラスが薄汚れ、下まわりには泥がこびりついている。

 洗車をしていない。よく工事現場などで無造作に扱われている傷だらけのマイクロバスを想起させる。型も古いし、昔の釜ヶ崎からタイムスリップしてきたようだ。

 乗っているのは運転手だけだったが、バスの停車に合せてどこからともなくボードを持った黒服の若者が現れた。

「じゃあ、名前を呼ばれた人から乗って下さい。座席は自由です」

 この三〇歳前後と思しきビジネススーツ姿の男は、いきなり指示を発し、あいさつもせず、バスが遅れたことを詫びるでもなかった。

 一緒に待っていた若者たちは、淡々として粛々とバスに乗りこんで行く。座席は小さくて背もたれは薄くて硬い。米国のスクールバスのようだ。

 これで窓に金網を張って車体を濃い灰色に塗り替えれば、ほぼほぼ警察の囚人護送車だ。

 それでも男女のカップルなどは、乗り込んですぐに並んで自撮りし、笑顔を見せている。

 その屈託のない様子がうらやましい。

 労働者をこんなぞんざいに扱うなんてと、怒りを表す若者はひとりもいない。

 もうこの状況に慣れてしまったのか、待遇にこだわりがないのか、全員がただただスマホの画面に集中している

 バスが走り出した。北へ向かったと思ったら、すぐに東名高速道路の下り線に乗った。どうやら現場は渋谷駅の近くではない。いったいどこに連れていかれるのか。

 バスはグワングワンと古いエンジンの音を盛大に響かせながら、相当なスピードで西へ向かっている。この騒音の物凄さは、マフラーなどの下回りもいかれているに違いない。

 段差を踏むたびにドッタン、ドッタンと床下から突き上げるような揺れがひどく、上下動がいつまでも安定しないため、気持ちが悪くなってきた。

 山谷や釜ヶ崎の手配師に連れていかれた労働者たちも、こんな風にボロ車に乗せられて、どこだかわからない作業現場に向かったのだろうか。

 あらゆる意味で労働基準法や労働者派遣法を無視している。だとしたら、この先の倉庫では何が待っているのか。思い切り過酷な労働ではないのか。いやしくも公的機関たるハローワークが、なぜこんな違法行為を黙認しているのだろう。役所は大企業の手先なのか。これでは、うかつに頼ることはできない。

 厚木インターで左へ曲がった。このあたりなら広い土地もあるから、倉庫はこのへんにあるに違いない。高速の出口に向かうのかと思ったら、小田原厚木道路に入り、さらに西に向かった。

 バスが高速を降りたのは、結局、道路終点の小田原市の郊外だった。

 時刻はすでに午後九時半を回り、バスはいつの間にか広大なアスフアルトが敷き詰められた駐車場に入り、その片隅にバックで止まった。

 二時間近い小旅行の後で、体が固まってしまっている。眠気もたまっている感じだ。移動中に何とか眠ろうとしたが、エンジンのグワングワンがうるさくて、うつらうつらしてもすぐに目が覚めてしまう。こんな体調でこれから一晩中、仕事をするのだ。

 運転手からは何の指示もなかったが、若者たちは無表情で降りていく。誰も言葉を発しないのが不気味である。

 駐車場はあちこちの照明塔が煌々とついていて、明るすぎるほど明るく、死角になるような暗がりはまったくない。

 案内表示はまず英語で表記され、その下に申し訳程度に日本語が書かれている。

 名簿を持った男がを拡声器を持ってしゃべり始めた。

「皆さん、もう何回も来て手順はよく知ってると思いますが、制服に着替えて、着替え室の壁の表に書かれた自分の名前と、端末番号を確認して下さい。集合は一〇時までに第二倉庫の通用口です。遅番と交代になりますから、時間厳守で。一分でも遅れたら、三〇分賃金カットの対象になりますのでよろしく」

 若者たちが我先にと走り始めた。まだ二〇分ほどあるのにどうしてそんなにあわてるのかと不思議だったが、ついて行ってよくわかった。

 洗いざらしの制服が用意されているロッカー・ルームは、倉庫群とは離れた管理棟と呼ばれるビルの五階にあるが、夜になるとそれ以外の部屋は閉鎖され、出入りは通用口に限られ、エレベーターは電源を切っているので使えない。

 通用口から外の非常階段を使ってロッカールームに上がる作業服を取りに行く。 この上り下りがきついが、若者たちについて行かないと、第二倉庫と言われても、倉庫の外見はどれも同じだから場所がわからなくなってしまう。息を切らしながら、必死について行った。

 それぞれの倉庫は整然と並ぶ一方、第一倉庫は第一倉庫の担当者以外、入ってはいけないことになっているから、他の倉庫内を真っすぐ突っ切って近道することができない。大周りに迂回するしかなく、直行した場合の三倍は走ることになる

 経験者の若者たちが異様に興奮して急いだのは、構内の移動にたくさんの制約があり時間がかかるとわかっていたからだ。しかも、そのために一分でも遅れたら、自分の責任とされて時給の半分をカットされてしまう。

 この会社と労働者たちの関係は何か変だ。会社は自己の都合ばかり労働者に押しつけ、利便性の改善にまったく注意を払わない。正社員は全員馬鹿なのか。

 まるで、第二次世界大戦中、装備の改良や地図の調達ををめんどくさがり、大勢の兵士に死ぬまで突撃を繰り返させた、どこかの国の軍隊みたいだ。

 

一回目の小休止は午前〇時からの一〇分。それまでの二時間はとても長く感じられて何度、時計を見たか知れない。

 時計の進み方が遅く感じられ、壊れているんじゃないかと思うくらい、歩き続けるのがきつくて足が重くなり、同じ作業の繰り返しは死ぬほど退屈だ。

 それからほぼ三時間たった午前三時に、三〇分の大休止。

 休憩所はない。いや、それらしき名称の部屋はあるが、出入り口に立ち入り禁止の札が立っており、鎖と南京錠でがんじがらめに施錠されていた。

 作業員は年代ごとに思い思いに分かれて、コンクリートの床に座っている。五〇代、六〇代と思しき人々の輪の中に入れてもらった。

 直接座ったら体を冷やしてしまうから、誰もが座布団や新聞紙などの敷物を用意している。隣の見知らぬおばさんが、発泡スチロールの断熱シートを貸してくれた。

 会社側が用意したのは家庭用の二倍以上もありそうな大きなやかんが三つだけ。熱いお茶が入っている。

 ただし、茶殻にお湯を入れただけなのか、風味はなく渋いだけでやかんの金属臭が気になる。だが、とにかくこの環境では温かいだけでありがたい。

 茶碗をフーフーしながら冷めるのを待っていると、顔の横に張り付くような視線を感じた。このとき、たまたまシートを貸してくれたおばさん、それがこの後、日本社会のデイープな裏側を教えてくれることになる、竹内さんだった。

 見掛けは普通だ。少々太目だが、自分と同じくらいの年齢のはずだが、めりはりのある体つきで若く見える。

 まるで少女のような丸い大きな目をしている。横を見ると自然に目が合った。何か言いたそうだ。

「どうかしました?」

 フフフッと彼女は意味ありげな笑みを浮かべた。

 その直後に彼女が発した一言で、私の眠気と疲れは吹っ飛んだ。

 彼女とは初対面で、一言、言葉を交わしただけなのに、面と向かってこう言われたのだ。

「ねえねえ、私の旦那になってくれない?」


 大いに面食らった。竹内さんの意図がわからない。いったい何を考えているのか。もしかすると結婚詐欺か……いや、彼女は私が独身であることを知らない。

 いずれにしろ、このおばさん、人の良さそうなふりをして、何かよからぬことを考えているに違いない。

「いったい何でつか。藪から棒に」

「何、訛ってんの。お願いしてるのよ。私の旦那になってって」

「ご自分が何言ってるか、わかってます?」

「同じこと何度も言わせる気?。ものわかりが悪い人ね。あなた、いつからここで仕事やってるの?」

「今日が初めてです」

「あらそう。じゃあ、今まで会うはずないわね。こんなとこ辞めなさい。私ももう辞めるわ」

「ちょ、ちょっと待って下さい。自分のことは自分で決めますから。ちゃんと再就職しようと決めたんです。ここに決めたわけでもないですが……」

「中高年を入れてくれる職場は、どこもこんなものよ。へたに高望みしてると、履歴書お化けになっちゃうわよ」

「何でつか。その履歴書お化けって」

「履歴書を出しても出してもことわられてると、そのうち体中に履歴書を貼って街を徘徊するようになるの。大企業が多い品川あたりによく出るらしいわ」

「こ、恐いですね」

「神経症の一種らしいけど、あなたのような甘い考えの人はそうなっちゃうのよ。ここに来る前、娑婆ではどんな会社にいたの?」

「いやあ、地元以外ではほとんど知られていない小さな会社でしたから、恥ずかしいのでやめておきます。反感を買うことも多い商売でしてね」

「ああそう。やっぱり裏稼業ね。訳ありな人だと思ったわ」

 竹内さんは、意味ありげにうなづいた。よほど、まともな職場に似合わない人間と思われたらしい。あるいは反社会的人物と見られたか。

「決して訳ありじゃないんですよ。ただ、偉そうにしやがってとか、誤解されがちな商売でしてね……そうでつか。どこの職場もこんなにきついんですか」

「私らくらいの年齢の労働者の常識よ。あなた、ほんとに世間知らずなのね」

「世間知らずですって! この私がですか。そんなこと一度も言われたことないです。心外です」

「心外? そんな小説みたいな言葉遣いする人、今時いないわ。会話が苦手なの?」

「か……会話が苦手? この私がでつか。考え違いもはなはだしい。私のことをちゃんとよく見て下さい。何を言ってるんでつか、ほんとに……」

「そういうところが変わってるのよねえ。子犬みたいにキャンキャン怒らないで。ずっと訛ってるしねぇ。大丈夫かしら。やっぱり無理かな」

「舌の位置の関係で、緊張して口内が乾くと、うまく息が抜けずにさ行がた行になってしまうことがあるんです。水を一口飲めばすぐに改善します」

「理屈っぽい! あなた、女性にもてたことないでしょ。でもそんな人のほうが、今回は適任なのよね。見た目、インテリの真面目そうな男の人を探してたの。あなたの雰囲気はぴったりなのよね。ただ、あまりしゃべらないほうが無難かな」

「ちょっと、何言ってるかわかりません」

「どうして? せっかくほめてあげたのに」

「ぜんぜんほめてないですから。それに、竹内さんとは今日会ったばかりなのに、旦那になってほしいとか言った後で、女性にもてないとか決めつけて、いったいどっちなんですか。矛盾してますよ」

「また屁理屈……あっ、いけない休憩終わっちゃうじゃない。今日はこの後、予定無いわよね。大事な話があるから」

「いや、でも私は送迎バスで東京に帰りますから」

「送迎バス? 何言ってんの? あなた、知らないの。ここは仕事終わりは全員がここで解散なのよ。東京の人は自腹で東京に帰るの」

「そんなぁ、嘘でしょう。小田原から東京まで電車で戻ったら一五〇〇円以上かかります。大旅行じゃないですか」

「だから、ここはそういう職場なの。小田原だけじゃ人が集まらないから、渋谷で集合と言って人を集めるのよ。十人が十人、渋谷で仕事できると思っちゃうでしょ。そのままバスに乗せちゃえば、小田原への道中で逃げられないじゃない。仕事が終ったら用済みだから、帰りはご自由にどうぞってこと。要はみんな騙されてんのよ。うちは横浜だから、まだ東京よりはマシだけどね。もういい加減、馬鹿々々しくなったし、もっといい仕事があるから、そっちに専念しようと思ってるの。小田原駅の近くのカフェで打ち合わせしましょ」

「お茶、ですか………」

「何よ……私と一緒だと嫌なの?」

「だって、今さっき会ったばかりですよ」

「あなたね、私がシートを貸して上げたから座って休めたんじゃない。恩を仇で返すつもり?」

「いえいえ、助かりました。感謝してます」

「じゃあ、北口のカフェ・ワーグナーで待ち合わせしましょ。絶対にばっくれないでよ」

「わかりました。つき合いますよ。どっちみち小田原駅に行かなきゃいけないんだし、ここは朝飯なんて出ませんよね」

「出るわけないでしょ。朝ごはんどころか、終業時間過ぎてもぐずぐずしてたら、竹刀振り回してぶっ叩かれるのよ。腕を骨折した人もいるから気をつけて。私、今のうちにお化粧直さないといけないから。そのシートはあなたが持っててね」

 そう言うと、竹内さんは立ってトイレに行ってしまった。

 ふと、周囲を見渡すと、他の労働者の皆が、珍しいものでも見るように しげしげと見ていた。

 初対面の高齢の男女が、大声でずっとべらべらしゃべっていたんだから驚くのも無理はない。大阪あたりなら、ごく普通の光景なのだが……。

 こんな展開はまったく予想外だった。人生はたとえ一分先であっても何が起こるかわからない。

 このシャキシャキした謎の女性、竹内さんのペースにまんまと乗せられて、数奇な運命に邁進することとなる。

 


 午前七時の終業を告げる電子音が鳴り始めた途端、皆が一斉に動きを止め、手に取った商品をすぐに元の箱に戻した。

 一秒でも余計に働いてやるものかという姿勢に、驚きを禁じ得なかった。

 昭和の時代の労働者であれば、せめて、手元にある分くらいはピッキングを完了させてから勤務を終えるだろう。

 もっとも竹内さんが言っていたように、交代の時間を過ぎたら本当に竹刀で叩かれるのであれば、我先にと出口に殺到し、伝票の端末を専用の箱に放り込んで走って出ていくのもむべなるかな。

 夜中はお茶を飲んだだけで何も食べずに働いていたのでいつもより空腹感が強い。

小田原駅まで何分かかるかわからないが、倉庫の周囲には民家がほとんどない。

 田畑も見えず所々に雑草が茂った荒れ地のようなところだから、駅まではかなり距離があると覚悟しなければいけないだろう。

 既に他の労働者たちは、はるか前方を早足で去って行く。遠目に見えるその必死の早足は、荒涼とした周囲の風景と相まって、どこかの紛争地の難民の群れのようだ。

 駐車場には、三台のマイクロバスが待機している。

 あのバスに乗せてもらえれば、温かいキャビンの座席に座って深い眠りにつけるだろう。それは次回への意欲につながるだろうに、寒風にさらされる早朝の道路を歩かされたら、印象に残るのは恨めしさだけではないか。

 敷地のフエンスの内側に、学校の自転車置き場のような細長い簡易な屋根があり、自転車やバイクに乗った人々が続々とやってくる。

 どうやら日中勤務の人たちは皆、近在で集められたらしい。

 小田原市はそれなりに大きな街だが、徹夜で働ける労働者数には限界があるだろうし、地元の人々を、昨夜のように手荒に扱えば、倉庫そのものへの反対運動が起こるかもしれない。議員や役所に抗議運動などされたら全国ニュースになってしまう。

 だからこそ、問題を起こしそうもない東京組は、いっさい遠慮することなく冷遇したのだろう。

 倉庫内での、あの扱い方は、人権蹂躙にも等しい。

 それくらいのことは、昨晩から働いていた若者たちも皆、わかっていただろうが、誰一人抗議する様子はなかった。

 選挙や行政に関わろうとしない日本の若者たちは、巨大資本の権力に対し、従順でおとなしい。おとなしすぎるのだ。だから、さらにつけこまれて、どんどん待遇が悪くなっていく悪循環。

 第二次大戦後、日本の自由民主主義が確立し、主張すべきことは主張できるようになったのに、戦時中、軍需工場に駆り出された若者たちと意識が変わっていない。

 歩き始めて間もなく小田原のシンボル、小田原城と城を囲むように作られた古い遊園地が見えて来た。

 かつての戦国時代、北条氏の小田原城が難攻不落だと言われた意味がよくわかる。周囲に平地が少なく、道路は坂道ばかりだ。

 一晩働いただけでこんなにも疲れるものなのか。ショックだ。

 毎日、大勢の中高年が、これが当たり前だと覚悟して働いているとしたら、「希望する職で再就職したい」なんて寝言に過ぎないとわかった。

 自分の好みや待遇の良し悪しなど考えている余裕はない。その先に待っているのは……単なる無職老人だ。

 それにしても、何か、アナウンサーとしての自分の能力を活用できる仕事はないものだろうか。



 全面ガラス張りのきれいに磨かれた窓を通して、朝の陽光が斜めに差し込み、真冬とはいえ強い光がまぶしい。

 カフェ・ワーグナーは黒と白を基調にした重厚なインテリアで、木製の床に落ち着いたクリームと茶のツートンカラーのソファで上品さを演出している。

 ソファに座り、夜中に立ちっぱなしの疲労で棒のようになった足をもみほぐしながら、美味しいコーヒーを飲む。竹内さんの倉庫勤務の後の日課だそうだ。

「竹内さん、休憩時間に何か変なことおっしゃってましたよね」

「えっ、何? 変なことなんか言ってないわよ」

「私の旦那になってくれないとか何とか……」 

「ああ、それね。そっちの旦那じゃないわよ。当り前でしょ」 

「そっちの旦那ってどっちの旦那ですか」

(もう、わけわからん。何が言いたいんだ、この人は)

「独身の方なら、私もまだ結婚をあきらめたわけではないですが……」

「やだ、この人。欲求不満なの? もういい年なのに、おさかんね」

「おさかんじゃないです。普通の男です。ちゃんと説明してくれないと、何をしてほしいのかわかりませんよ」

「してほしいなんて……そんな言い方やめて! いやらしい。私、そんなことぜんぜん言ってないから。こっちの旦那って言ったでしょ」

「だから、具体的に……」

「仕事上の旦那ってこと」

「最初から、そうはっきり言ってくれたら……、って、仕事上の旦那って何ですか? そんなの聞いたことないですよ」 

 誇り高き局アナだった自分が、どうしてこんな見ず知らずのおばさんと、回りくどい会話をしなければいけないのか。

「一緒にお仕事をするのよ。あのね、派遣会社に『ヘルプ・チーム』っていう相談窓口があってね。何らかの事情でお困りのクライアント様をお助けするの。倉庫と違って知的なお仕事よ。使うのはここ、ここだけ」

 竹内さんは、ニコッと笑いながら頭を指差した。

「ああ、それで竹内さんの旦那さんにね、はいはい……って、ちょっと、やっぱり何言ってんのかわかりませんよ」

「ものわかりが悪いわね。代役務めるのよ。役者さんやるってこと」

「なりすましってことですか? それでお金をもらうって、そんなことやっていいんですか。詐欺師でしょ。オレオレ詐欺みたいな犯罪じゃないんですか」

 竹内さんが素早く反応して身を乗り出したと思ったら、電光石火の平手で頭を叩かれた。

「いきなり何するんですか」

「真面目な人助けなんだから詐欺じゃないわ。今度そんなこと言ったら怒るわよ」

「いや、もう怒ってるし……」

「世の中にはね、生きていくのに自分だけでは解決できない問題を抱えた人が大勢いるの。たとえば結婚の場合ね。家柄とか、学歴とか、つまらないことで親や親戚に反対されたって話、聞いたことあるでしょ。それで困っている人たちをお助けするの」

 遠くを見るような目で、竹内さんは声のトーンを落として語った。その真剣な表情は、まるでかつて竹内さん自身が、何かひどく困らされた経験があるのではと感じさせるものだった。

 だが、現実問題として、他人様の人生に介入することが許されるのか?

「いいのかな、そんな重たいこと引き受けちゃって。他人の人生を左右しかねないでしょう。失敗してばれたら、相手を不幸にしてしまいますよ」

「いいんでしょ。クライアント様はね、すべて覚悟の上なのよ。何もしなければ問題はこじれるだけ。だったらいい方向に進む可能性があるほうに賭けてみる。それで失敗したとしても、何もしなかった場合と変わらないでしょ。私たちは困っている人たちをお救いする天使なのよ」

「天使! お互い様ですけど、こんなに年食った天使っているのかな……」

「余計なこと言わないの。そう言えば、あなた、どうして結婚してないの? 奥手だったの? それとも性格がよほどひねくれてるとか」

「うるさいですよ。こう見えても若い頃は見合い話がたくさんありました。ひとりの方とは結婚の約束をしたのですが、彼女の父親に、給料が安すぎるからダメだと反対されて……」

「そうなの。あなたも苦労したんだ。ずっと鉄砲玉だったの?」

「そういう組織じゃないって、前に言ったでしょ。竹内さんはどうなんですか?」

「私は一度は結婚したの。でも、その直後に身内が大きな事件起こしちゃって……夫の親族が『一族にそんな汚い血筋を入れるわけにいかない』って騒いでね。夫が親戚中からいじめられて村八分みたいになっちゃって、可哀想だから別れてあげたの」

「それはひどい。今時、汚い血筋なんてそんな馬鹿げた台詞を、よく恥ずかしげもなく言えるものです。どんな事件かはあえてお聞きしませんが、いったいどういう感覚をしているんだ。その親族には馬鹿しかいないのか」

「一応、私の元夫もそのうちのひとりなんだけど」

「あっ……すみません」

「そういう人たちって、実はこの国にはまだまだいるのよ。普段は表に出て来ないだけ。民主主義とか差別をなくそうなんて、そんなのしょせん建前、口先だけだから。いざ自分や身内が関わってくると、本音をむき出しにして、弱い物を攻撃するのよ。だから『ヘルプ・チーム』でお救いするんじゃない。あなたも今日から天使よ」

 そう言われても……やせてる自分はともかく、竹内さんは重すぎて背中の羽根くらいでは飛べないのではなかろうか

「まあ、お仕事自体は興味を惹かれますね。そういう趣旨なら、私も全面的に賛成です」

 予想もしていなかった派遣の裏メニュ―「ヘルプ・チーム」への誘い。

 しかし、実際にやってのけられるものだろうか? どんな人に化けるにせよ、見た目の違和感はもちろん、動作の癖や話し方などでばれてしまうのではないか?

 しかし、竹内さんは自信たっぷりだ。

「私はもう三〇組はお救いしてきたのよ」

 と、顎を一〇度上げてのドヤ顔。

 クライアント様からの依頼を「ヘルプ・チーム」に登録した労働者が受ける手続きは、通常の派遣労働と同じだという。

 登録は、派遣会社の担当部署にネットでアクセスできるので、改めて全身写真や顔のアップ、演劇や声優歴、趣味などの他に、声質がはっきりわかる音声データを添えた履歴書を送ると登録される。

 職歴欄に「元アナウンサー」と書こうとしたが、思いとどまった。

 「公正中立」「決して嘘をつかない」といった、アナウンサーの表向きの立場とは相いれない「仕事」だから、万が一公になったら、古巣の局に泥を塗るのかと非難されるのは確実だ。前職は学習塾の国語の教師とした。

 普通の派遣労働では、労働者の年齢や容姿で登録をことわられるケースが多いが、「ヘルプ・チーム」では、希望したほぼ全員が登録されるという。

 クライアント様の要望が多種多様で、ある案件に、誰が、どんなキャラの人が適合するのか、依頼が来てからでないとわからないからだ。

 ドラマは決してイケメンや美女だけでは成立しない。様々なキャラクターが登場してこそ、リアリティが生まれる。現実も同様だ。

 「ヘルプ・チーム」のクライアント様は庶民が多く、「ヘルプ・チーム」要員は、その集団の中に溶け込めなければいけない。

 そうすると、たとえば周囲から注目されがちな、お高く止まった美人は危険であり、おとなしく楚々とした女性だったり、明るく愛嬌のある、どこにでもいそうな女性のほうが適している。

 覇気が無くしょぼくれて、今にも死にそうに見える老人でさえ、新たな生命保険を熱心に勧めて来る知人を撃退する場合などに、重宝されているという。

 こうして竹内さんの説明を聞いていると、ほとんどドラマのキャスティングと変わらないことに気付く。ただし、あちらは作り物で、こちらはあくまでリアルだ。

 「ヘルプ・チーム」もクライアント様も、ウインウインの価値あるビジネスだと、竹内さんは言う。だから誇りを持ちなさいと。

 誇りを持てるかどうかはともかく、倉庫で冷遇されこき使われて、中高年は大資本にいいように利用されるしかないとわかった今、他人様に喜ばれる仕事のほうがずっといい。

 派遣会社のホームページの片隅にある、「ヘルプ・チーム応募」という小さなアイコンをクリックして登録を開始した。

 すると、竹内さんが顔を寄せて来た。

 高校生のカップルが同じスマホを見ている構図で、おばさんにしてはいい匂いがするなと、ホンワカ気分に浸っていたら竹内さんににらまれた。

「遅いっ! グズグズしてないで、さっさと入力しなさい」

 ほとんど昭和のやり手の女手配師である。

 普通の仕事に応募する履歴書と違って、プライバシーを明かしてはいけない「ヘルプ・チーム」の場合、履歴書にすべて正直に入力するわけにはいかないから、どうしても遅くなってしまう。

 竹内さんはすぐに自分のパソコンに表示されていたひとつの案件に、ペアで名前を記入した。

「ちょっとちょっと、今、何をしたんですか?」

「ああ、あなたに他の仕事がつかないうちに、スケジュール押さえたの」

「そんなに依頼があるんですか」

「毎日何件も来るわよ、全国から。だから言ったじゃない。世の中には、自分の力だけではどうにもならず苦しんでいる人がいっぱいいるって。今度の件を手短に説明するね。クライアント様は若い男性で、その婚約者の女性がね、事情があって親同士の顔合わせができないんだって。だから、私たちが女性の親として、クライアント様のご両親との食事会に出るの。横浜の高級ホテルの最上階ですって。楽しみね」

 竹内さんは主婦の井戸端会議の噂話のように軽く流してしゃべっているが、新郎の両親に竹内さんと私を「新婦の両親」と紹介してしまったら、後々冠婚葬祭を始め、両家のつきあいに顔を出さなければいけないのではないか。

「そのへんは、お二人の間では解決済みなんですって。結婚式はふたりだけでハワイに出かけて、披露宴はやらない。実家同士のつきあいがぜんぜんなくても、最近では珍しいことじゃないわね」

「ちょっと………楽観的過ぎませんか?」

「余計な心配しても仕方ないでしょ。クライアント様はやるしかないと思い詰めて、ご依頼を下さったんだから。私たちは成功するように全力を尽くすまでよ」

「あの……その女性の顔が、私と似てなかったらどうするんですか」

「あなたって細かいわねえ。もっと男らしく堂々としてなさいな。顔つきの違いなんて、案外、ばれないものなのよ。万が一、ばれそうになったら、娘さんが韓国で美容整形したことにすればいいわ」

「無茶苦茶ですよ」

「いくら疑われてもいいの。決定的な証拠があって完全にばれるのでなければね。もしあなたが結婚するとして、お相手のご両親が実は『ヘルプ・チーム』で、少し違和感があったとしましょう。そこであなたは追及する? 『本もののご両親ですか?』なんて、絶対にきかないでしょ。そういうことよ」

「まあ確かに………」


「子供同士が一緒になろうと決めたというのに、私共に会おうとはせず、連絡すらしてこなかった。いったいどういうことでしょうか」

 クライアント様の父親は、いかにも堅苦しそうな、家でもだらけず、常にシャンとしていそうなタイプ。ラフなトレーナー姿など想像できない。

 頭も体も横に大きめで、顔は優しげだが正面に座られると圧を感じ直視しにくい。もし、裁判官だったら威厳たっぷりだろう。軽めの人種しかいないテレビ局には絶対に存在しない、いささか苦手なタイプだ。

 奥さんは対照的にバランスがとれば細身で女優の池内淳子に似た、伏し目がちでつつましやかなたたずまいには、一目で好感が湧いた。

 親父さんににらまれて萎縮しそうになりながら、声に幾分か困惑したトーンをにじませ、かねて用意していた答を返した。

「ご連絡しなかったのは申し訳ありません。最近まで海外におりましたもので……ただ、申し上げにくいのですが、私はこの結婚にはあまり気が進まんのです」

「な……何ですと?」

 父親は、口を半開きにして目を大きく見開いている。

 これまでの経緯を振り返れば、当然、私が平身低頭して詫びるものと、彼は信じて疑わなかっただろう。

 女性にとって、これほどの良縁はめったにあるものではないという自負もあるだろうし。

 だが、案外、落ち着いている。軽々に感情を表に出さないのはさすがだ。

「反対とおっしゃるのは、どうしてですかな」

「いや、反対はしてません。婚姻は本人たちの自由じゃないですか。ただ、あなたと縁戚関係になるのは気が進まないと……」

「いや、ちょっと待ちなさい。何を言いたいのかさっぱりわからない。私共の何が不満ですか」

「不満なのではありません。相性が悪いんです」

「失敬だな、君は。君こそ、どこの馬の骨かわからんじゃないか」

 あらら……やっぱり怒ってしまった。「馬の骨」は確か、放送禁止用語じゃなかったかな。いずれにせよ、法律家でも口にしたらまずい言葉だろうに。

 右端に座る若いふたりは、心配してか顔色が白くなって、私のほうをすがるような目で見ている。

 横にいる竹内さんは、目を細めてしきりに愛想笑いしながら、腰を浮かし気味にして、私の耳元でささやいた。

「何考えてんのよ。ぶちかますのは程々にしなさい」

 表情はニコニコしてるのに、ドスの効いた声。しかも腹話術のように唇をほとんど動かしていない。こんな芸当もできるのか。このヒトはどこまで器用なんだろう。

 しかし、彼女の言う通りだ。これ以上、相手方を怒らせると破局しかねない。

「お父さん、いいですか。私はジャーナリストです。以前は新聞社にいて司法記者クラブ詰めでした。今はフリーとして様々なメディアに寄稿しています。ライフワークの人権問題は四〇年以上取材しています」

「ジャーナリスト……四〇年ですか? じゃあ過去の大きな裁判はたいていご存知ですな。活動は主にどちらで?」

「東京です。人権派の弁護士さんにはたいへんお世話になっています」

 体制側で権威を重んじる人々の多くは、職務上の経験からジャーナリストは苦手だろうし、実際、嫌っている人も多い。

 特に組織に属さない左翼系のフリー記者となったら、正体もわからずどう接していいか困るだろう。

「そうですか。人権派というお立場でね……」

「法曹関係の皆さんは取材対象ですから、原則、一定の距離を保ってきました。今までがそうでしたし、これからもそうです」

「だから気が進まないと?」

「いやまあ……身内となりますと、お互いに気を使わねばならない場面もあるでしょうし」

「しかし、それと息子たちの結婚と関わりがありますか?」

「親族になったという事実は独り歩きします。私としてもメディア業界での評価が揺らぐのは避けたいですし……フリーの書き手はメディア業界には、真夏のスズメバチみたいにウジャウジャいて、お互いの刺しあいがすさまじいですから」

「人をスズメバチに例えるのは感心しませんな。あなたがおっしゃるような競争の激しさもあるんでしょうが、自分の都合を子供に押しつけるのは……」

「娘は私の立場をわかっていると思います」

「いや、そういう考えは改めたほうがいい。若い人たちの生き方を、親が邪魔してはいけません」

(だったら、最初から息子さんにそう言ってあげなさいよ……)と思いつつ、相手がまんまと誘導尋問に乗ってくれたことを喜んだ。

 一瞬、間が空いたのをとらえて、竹内さんが口をはさんできた。

「すみませんねぇ。この人、未だに東大出だけが自慢の、しがないモノ書きです

のよ。お父様も息子さんもご立派な方々なので、虚勢を張ってるだけなんですよ」

「こ、こら、何を言い出すんだ。私は虚勢なんか張ってないよ。立場上、仕事に影響があるかもしれないと……」

「はいはい、スズメバチに刺されるかもしれないって? もうそれはさっき言ったじゃないの」

 ぱっと雰囲気が変わった。若いふたりのほっとした吐息が聞こえてきそうだ。

 果たして父親は、怒りを収めてくれただろうか。

「そうですか。あなたも東大ですか。私共一族の男子は皆東大なんですよ」

「ほお、凄いですね。お父さんは何年卒ですか」

「私は七八年ですが」

 学歴なんてものは、価値も使い道もあるものではないし、大阪では、東大卒は

「東大の落ちこぼれが何しに関西に来よったんや」

 と集団でいじめられるなど、いいことは何もないのだが、今回は有効なはずだ。

「じゃあ本郷で顔を合わせていたかもしれませんね。私は文Ⅲですが、留年して八〇年卒です」

「文Ⅲでも優秀な人は法学部にいましたが……」

「私はご覧の通りのアホでして、ハハハ……」

 その後、父親の出身地は高知ということから、四国のグルメ自慢など他愛のない話になった。

 高知は高知市と四万十川だけが有名だが、実は横に細長いため、東西で景観も食べ物も趣がぜんぜん異なる。

 よほどのへそ曲がりでない限り、自分の故郷のことを良く知る相手と会話するのは気分がいいだろう。

 だいたい、東大出身者には、相手に東大卒の肩書があれば、どんな残念な人でも信用してしまう安易な同族意識がある。

 父親はどんどんピッチを上げ、生ビール二杯の後は、ハイボールをたて続けにあけていた。最初の印象とは様変わりで、クタッと体まで柔らかくなってしまったようだ。

「お父さん、七福神みたいになっていますよ」

 彼はとてもうれしそうにしみじみとした笑顔を見せた。今日まで、よほど気をもんでいたに違いない。

 今後、両親と息子夫婦が気分よく接することができれば何よりだ、これでいいのかもしれないと、自分に言い聞かせた。

 再びこの両親が、嫁さんの親に会いたいと若夫婦に言ってきても、偏屈なフリージャーナリストのイメージを印象付けておいたから、海外のどこかにいて連絡がつかないと聞かされても、さほど不思議には思わないだろう。 

 中南米やアフリカなどの怪しい地域に潜入して長期取材を敢行し、音信不通にまでなってしまったジャーナリストは、過去に何人も報告されている。 

 竹内さんはよくまとめてくれた。学歴など彼女に伝えてなかったから、彼女自身の思いつきというか、はったりで口走ったのだろうが、結果オーライだ。

 私があれ以上こじつけの作り話を続けたら、ボロが出るのではないかと先回りして、口をはさんだのだろうか。

 普通のおばさんならそこまで気がまわらない。いったい彼女は何者なのか? 考えてもわからないが、ここぞというときのサポートで、頼りになる人であることはわかった。

 もし、今後再び、親の役を演じることがあるとしても、彼女となら安心だろう。


 会食はこれで無事終了と安心しきっていたら、酔っ払っていたはずの父親が、おもむろに前のめりになり、改まった姿勢で声のトーンを低くして話しかけた。

 彼の奥さんの池内淳子以外、その場にいた全員が一瞬で凍りついた。

「早速なんですが、結納などの予定はどう致しましょうか」

(げげっ、急にそんなこと言われても……)

 痛い不意打ちだ。

 普通の親なら、世間並みの儀礼を行おうとするのが当然だ。前もって対処を考えて置くべきだったが、言訳の筋を考えるのに頭が一杯で、その先へは考えが及んでいなかった。

 遠くに離れていてめったに会えないのだから、この機会に段取りを決めておこうと、先方さんはそんな腹づもりで来たのかもしれない。

「いや、申し訳ありません。そういった具体的な準備は、まだぜんぜん考えていなくて……何せ娘から結婚話を聞いたのがつい最近だったもので……」

(ダメだ……上手な返しができない)

 地団太を踏む思いだった。アナウンサーとして一番の弱点だったアドリブの弱さをもろに露呈してしまっている。

 すると、しどろもどろの言い訳をとりつくろうように、またも竹内さんが口をはさんできた。

「お父さん、でもほら、ふたりが自分たちでやりたいって言ってたじゃないの。お式もね」

 新郎も、さすがに黙っていられなくなったか、話を合わせてきた。

「すべてふたりで決めてますからご心配なく。今は僕も彼女も忙しいので、式も披露宴も開く余裕はありません。ふたり共、煩わしいしきたりには、あまりこだわっていないんです。とりあえず籍は入れて、友人知人や、取引先へのお披露目などはいずれ考えます」

 お互いに忙しい、あるいは経費などの問題で、婚姻届けは一応出しておいて、結婚式と披露宴はその何年か後、お互いに満足のいく形で行うというカップルは少なくない。そういう場合は、えてして子連れ結婚式になるが、それはそれで微笑ましい。

「ただねえ、お仕事関係もお身内の皆様も、ご立派な方ばかりでしょうし……」

 あえて父親の側に立った。

 竹内さんは、すぐに意図を察してくれた。

「お父さん、いいじゃないの。若いおふたりにまかせておけば」

「私たちはそれでいいけど、大先生はそんなわけには……ねえ先生」

 父親はまだ困惑しているようだ。弁護士の先生が息子の結婚式を当面、開かないとなれば、いらぬ憶測を招きかねない。自らの立場と信用を心配するのは当然だ。

 だが、今度は奥さんが合わせてくれた。

「急がなくて結構ですよ。私どもは遠くにおりますので、頻繁に会うわけには参りませんから。ふたりでよく話し合って、決めてちょうだいね」

 手の震えが止められない。左手で右手をぎゅっと抑えた。

 危なかった……三人で協力しなければ、うまく切り抜けられたかどうか……。

 それにしても、竹内さんのアドリブ力の半分でも自分が身につけていたら、東京でフリーアナウンサーになる決断もできただろうにと思うと、いささか悔しくてならない。

 

 初仕事は、何とか無事に終わった。

 クライアント様の両親は上機嫌で羽田に向かい、若いふたりは本当にうれしそうに、「ありがとうございました」と頭を下げてくれた。

「一度だけ、ちょっと肝を冷やしましたが、うまくいって良かったです。新郎さんのご協力のおかげですよ」

 竹内さんが何やら不満そうだ。

「私には感謝してないの? あなた、ドジばかり踏んでるから、二度も助けて上げたじゃない。私がいかったら、ぜったい立往生してたんだからね」

 自分から感謝しろだなんて、どんだけあつかましい人なのか。

「はいはい、竹内さんのおかげです。これからお礼を言おうと思ってたんですよ。ところで、立ち入ったことをお聞きするようですが、当面、おふたりはどうされるおつもりですか?」

「さっき言ったようにふたりだけでささやかな式をあげて、籍を入れます。今後はもう誰にも干渉されないように、僕が彼女をしっかり守ります」

 そう言い切る青年の姿は中々りりしくて、ちょっと意地悪を言ってみたくなった。

「それにしても弁護士が、親をだますってどうなのかな」

「それは違います。弁護士は必ずしも正義の味方じゃありません。心を鬼にして犯罪者の弁護もしますし、多額の成功報酬を狙って裁判官をだまそうとする弁護士もいます。親をだます弁護士がひとり位いてもいいでしょう」

「おいおい……新婦さん、あなただけは騙されないように、気をつけて下さい」

 四人で大笑いした。新婦の、心から安堵した笑顔が印象的だ。

 しかし、年月が過ぎれば、いずれは親族間で何かことがあったとき、「新婦の親はどうした?」という声も上がるだろう。そのたびに一々言い訳しなければならない。

 それに、まだ若い男女のことだ、これからのふたりの関係がどうなるか、一生安泰とは限らない。 

 精悍な容姿の弁護士はそう多くはないから、見め麗しいインテリ女性たちの中には、彼に接近を試みる人が出て来ないとも限らない。

 人の心はうつろいやすい。そのとき、彼は本当にずっと彼女を守ってやれるのか? ふたりの絆が生涯続くことを、陰ながら祈るのみだ。

 いただいた報酬は、やたらと神経を使った割には「ヘルプ・チーム」上限の一万円。

 クライアント様は派遣会社に二人分の日当と諸経費で五万円は払っているだろうが、人生を思い通りに一歩先に進ませた費用としては、格安と言うべきだろう。

 


 日本には、「嘘をついてはいけない。人をだましてはいけない」という、古典的とも言える、言い古された教えがある。

 一方で、「嘘も方便」という成句も、昔から立派に市民権を得て、社会に通用している。

 「ヘルプ・チーム」の起用は、クライアント様にとって、人間関係のトラブルや摩擦を回避して次のステージに早く進むためのバイパスになる。 

 竹内さんが言うには、この世に切羽詰まって「ヘルプ・チーム」に頼る人は、若い人が圧倒的に多いらしい。確かに、考えてみれば若者が人生の方向性を、自分なりに決めるのは、そうそう簡単ではない。

 法の力を存分に行使しうる弁護士であっても、恋愛を貫きつつ、親子関係を平和裏に維持するための苦労は一般人と変わらない。

 古くからの偏見に染まりきった親に、日本国憲法の原則を説いてもナンセンスだ。

 京都には平安時代からの貴族の一族があいり、その結束が固い三〇〇人以上の親族は、自分たちだけが選ばれし日本人だと未だに信じているそうだ。

 自由主義の権化のようなアメリカにさえ「ワスプ」が隠然たる力を持ち、「アジア人」との結婚などけがらわしいと公言してはばからない。

 古くからの慣習や迷信に囚われた生きづらさは依然として根強く、伝統的な価値観を踏みつぶしでもしないと、若者が思うように人生設計できない事態に直面することは、残念ながら少なくないだろう。

 そんなときは、市井の庶民からエリートと言われるような人々まで、代役に頼らざるを得ない。しかも、これは最後の手段で、世間体を考えれば絶対に失敗できない決断だ。

 よくよく考えてみれば、何と危ない橋かと、ぞわっと寒気を感じた。もちろん、クライアント様にとってである。

 他方、公共機関であるハローワークですら年齢で差別され、吹きっ晒しの過酷な現場でしか働かせてもらえない高齢労働者が、「ヘルプ・チーム」にメンバー登録すれば、若者たちから引く手あまたという皮肉な現実がある。

 他人様をあざむく、なりすましと言えば、昨今、ネットを駆使して激増している悪質な詐欺犯に間違えられそうだが、目的はあくまで人助けだ、。

 それは、頭の片隅にこびりついた、うしろめたさをひっぺがす、強力な免罪符になりうる。

 そう、我々は背中に羽根こそ生えていないが、他人様に幸福をもたらす天使だ。

 こうして、自分なりにとっちらかった頭の中を整理できると、のっぴきならない事情を抱えた数多の若者たちのために、顔の知られた北関東以外の日本各地に派遣され、「大活躍」することとなる。


「子供同士が一緒になろうと決めたというのに、私共に会おうとはせず、連絡すらしてこなかった。いったいどういうことでしょうか」

 クライアント様の父親は、いかにも堅苦しそうな、家でもだらけず、常にシャンとしていそうなタイプ。ラフなトレーナー姿など想像できない。

 頭も体も横に大きめで、顔は優しげだが正面に座られると圧を感じ直視しにくい。もし、裁判官だったら威厳たっぷりだろう。軽めの人種しかいないテレビ局には絶対に存在しない、いささか苦手なタイプだ。

 奥さんは対照的にバランスがとれば細身で女優の池内淳子に似た、伏し目がちでつつましやかなたたずまいには、一目で好感が湧いた。

 親父さんににらまれて萎縮しそうになりながら、声に幾分か困惑したトーンをにじませ、かねて用意していた答を返した。

「ご連絡しなかったのは申し訳ありません。最近まで海外におりましたもので……ただ、申し上げにくいのですが、私はこの結婚にはあまり気が進まんのです」

「な……何ですと?」

 父親は、口を半開きにして目を大きく見開いている。

 これまでの経緯を振り返れば、当然、私が平身低頭して詫びるものと、彼は信じて疑わなかっただろう。

 女性にとって、これほどの良縁はめったにあるものではないという自負もあるだろうし。

 だが、案外、落ち着いている。軽々に感情を表に出さないのはさすがだ。

「反対とおっしゃるのは、どうしてですかな」

「いや、反対はしてません。婚姻は本人たちの自由じゃないですか。ただ、あなたと縁戚関係になるのは気が進まないと……」

「いや、ちょっと待ちなさい。何を言いたいのかさっぱりわからない。私共の何が不満ですか」

「不満なのではありません。相性が悪いんです」

「失敬だな、君は。君こそ、どこの馬の骨かわからんじゃないか」

 あらら……やっぱり怒ってしまった。「馬の骨」は確か、放送禁止用語じゃなかったかな。いずれにせよ、法律家でも口にしたらまずい言葉だろうに。

 右端に座る若いふたりは、心配してか顔色が白くなって、私のほうをすがるような目で見ている。

 横にいる竹内さんは、目を細めてしきりに愛想笑いしながら、腰を浮かし気味にして、私の耳元でささやいた。

「何考えてんのよ。ぶちかますのは程々にしなさい」

 表情はニコニコしてるのに、ドスの効いた声。しかも腹話術のように唇をほとんど動かしていない。こんな芸当もできるのか。このヒトはどこまで器用なんだろう。

 しかし、彼女の言う通りだ。これ以上、相手方を怒らせると破局しかねない。

「お父さん、いいですか。私はジャーナリストです。以前は新聞社にいて司法記者クラブ詰めでした。今はフリーとして様々なメディアに寄稿しています。ライフワークの人権問題は四〇年以上取材しています」

「ジャーナリスト……四〇年ですか? じゃあ過去の大きな裁判はたいていご存知ですな。活動は主にどちらで?」

「東京です。人権派の弁護士さんにはたいへんお世話になっています」

 体制側で権威を重んじる人々の多くは、職務上の経験からジャーナリストは苦手だろうし、実際、嫌っている人も多い。

 特に組織に属さない左翼系のフリー記者となったら、正体もわからずどう接していいか困るだろう。

「そうですか。人権派というお立場でね……」

「法曹関係の皆さんは取材対象ですから、原則、一定の距離を保ってきました。今までがそうでしたし、これからもそうです」

「だから気が進まないと?」

「いやまあ……身内となりますと、お互いに気を使わねばならない場面もあるでしょうし」

「しかし、それと息子たちの結婚と関わりがありますか?」

「親族になったという事実は独り歩きします。私としてもメディア業界での評価が揺らぐのは避けたいですし……フリーの書き手はメディア業界には、真夏のスズメバチみたいにウジャウジャいて、お互いの刺しあいがすさまじいですから」

「人をスズメバチに例えるのは感心しませんな。あなたがおっしゃるような競争の激しさもあるんでしょうが、自分の都合を子供に押しつけるのは……」

「娘は私の立場をわかっていると思います」

「いや、そういう考えは改めたほうがいい。若い人たちの生き方を、親が邪魔してはいけません」

(だったら、最初から息子さんにそう言ってあげなさいよ……)と思いつつ、相手がまんまと誘導尋問に乗ってくれたことを喜んだ。

 一瞬、間が空いたのをとらえて、竹内さんが口をはさんできた。

「すみませんねぇ。この人、未だに東大出だけが自慢の、しがないモノ書きです

のよ。お父様も息子さんもご立派な方々なので、虚勢を張ってるだけなんですよ」

「こ、こら、何を言い出すんだ。私は虚勢なんか張ってないよ。立場上、仕事に影響があるかもしれないと……」

「はいはい、スズメバチに刺されるかもしれないって? もうそれはさっき言ったじゃないの」

 ぱっと雰囲気が変わった。若いふたりのほっとした吐息が聞こえてきそうだ。

 果たして父親は、怒りを収めてくれただろうか。

「そうですか。あなたも東大ですか。私共一族の男子は皆東大なんですよ」

「ほお、凄いですね。お父さんは何年卒ですか」

「私は七八年ですが」

 学歴なんてものは、価値も使い道もあるものではないし、大阪では、東大卒は

「東大の落ちこぼれが何しに関西に来よったんや」

 と集団でいじめられるなど、いいことは何もないのだが、今回は有効なはずだ。

「じゃあ本郷で顔を合わせていたかもしれませんね。私は文Ⅲですが、留年して八〇年卒です」

「文Ⅲでも優秀な人は法学部にいましたが……」

「私はご覧の通りのアホでして、ハハハ……」

 その後、父親の出身地は高知ということから、四国のグルメ自慢など他愛のない話になった。

 高知は高知市と四万十川だけが有名だが、実は横に細長いため、東西で景観も食べ物も趣がぜんぜん異なる。

 よほどのへそ曲がりでない限り、自分の故郷のことを良く知る相手と会話するのは気分がいいだろう。

 だいたい、東大出身者には、相手に東大卒の肩書があれば、どんな残念な人でも信用してしまう安易な同族意識がある。

 父親はどんどんピッチを上げ、生ビール二杯の後は、ハイボールをたて続けにあけていた。最初の印象とは様変わりで、クタッと体まで柔らかくなってしまったようだ。

「お父さん、七福神みたいになっていますよ」

 彼はとてもうれしそうにしみじみとした笑顔を見せた。今日まで、よほど気をもんでいたに違いない。

 今後、両親と息子夫婦が気分よく接することができれば何よりだ、これでいいのかもしれないと、自分に言い聞かせた。

 再びこの両親が、嫁さんの親に会いたいと若夫婦に言ってきても、偏屈なフリージャーナリストのイメージを印象付けておいたから、海外のどこかにいて連絡がつかないと聞かされても、さほど不思議には思わないだろう。 

 中南米やアフリカなどの怪しい地域に潜入して長期取材を敢行し、音信不通にまでなってしまったジャーナリストは、過去に何人も報告されている。 

 竹内さんはよくまとめてくれた。学歴など彼女に伝えてなかったから、彼女自身の思いつきというか、はったりで口走ったのだろうが、結果オーライだ。

 私があれ以上こじつけの作り話を続けたら、ボロが出るのではないかと先回りして、口をはさんだのだろうか。

 普通のおばさんならそこまで気がまわらない。いったい彼女は何者なのか? 考えてもわからないが、ここぞというときのサポートで、頼りになる人であることはわかった。

 もし、今後再び、親の役を演じることがあるとしても、彼女となら安心だろう。


 会食はこれで無事終了と安心しきっていたら、酔っ払っていたはずの父親が、おもむろに前のめりになり、改まった姿勢で声のトーンを低くして話しかけた。

 彼の奥さんの池内淳子以外、その場にいた全員が一瞬で凍りついた。

「早速なんですが、結納などの予定はどう致しましょうか」

(げげっ、急にそんなこと言われても……)

 痛い不意打ちだ。

 普通の親なら、世間並みの儀礼を行おうとするのが当然だ。前もって対処を考えて置くべきだったが、言訳の筋を考えるのに頭が一杯で、その先へは考えが及んでいなかった。

 遠くに離れていてめったに会えないのだから、この機会に段取りを決めておこうと、先方さんはそんな腹づもりで来たのかもしれない。

「いや、申し訳ありません。そういった具体的な準備は、まだぜんぜん考えていなくて……何せ娘から結婚話を聞いたのがつい最近だったもので……」

(ダメだ……上手な返しができない)

 地団太を踏む思いだった。アナウンサーとして一番の弱点だったアドリブの弱さをもろに露呈してしまっている。

 すると、しどろもどろの言い訳をとりつくろうように、またも竹内さんが口をはさんできた。

「お父さん、でもほら、ふたりが自分たちでやりたいって言ってたじゃないの。お式もね」

 新郎も、さすがに黙っていられなくなったか、話を合わせてきた。

「すべてふたりで決めてますからご心配なく。今は僕も彼女も忙しいので、式も披露宴も開く余裕はありません。ふたり共、煩わしいしきたりには、あまりこだわっていないんです。とりあえず籍は入れて、友人知人や、取引先へのお披露目などはいずれ考えます」

 お互いに忙しい、あるいは経費などの問題で、婚姻届けは一応出しておいて、結婚式と披露宴はその何年か後、お互いに満足のいく形で行うというカップルは少なくない。そういう場合は、えてして子連れ結婚式になるが、それはそれで微笑ましい。

「ただねえ、お仕事関係もお身内の皆様も、ご立派な方ばかりでしょうし……」

 あえて父親の側に立った。

 竹内さんは、すぐに意図を察してくれた。

「お父さん、いいじゃないの。若いおふたりにまかせておけば」

「私たちはそれでいいけど、大先生はそんなわけには……ねえ先生」

 父親はまだ困惑しているようだ。弁護士の先生が息子の結婚式を当面、開かないとなれば、いらぬ憶測を招きかねない。自らの立場と信用を心配するのは当然だ。

 だが、今度は奥さんが合わせてくれた。

「急がなくて結構ですよ。私どもは遠くにおりますので、頻繁に会うわけには参りませんから。ふたりでよく話し合って、決めてちょうだいね」

 手の震えが止められない。左手で右手をぎゅっと抑えた。

 危なかった……三人で協力しなければ、うまく切り抜けられたかどうか……。

 それにしても、竹内さんのアドリブ力の半分でも自分が身につけていたら、東京でフリーアナウンサーになる決断もできただろうにと思うと、いささか悔しくてならない。

 

 初仕事は、何とか無事に終わった。

 クライアント様の両親は上機嫌で羽田に向かい、若いふたりは本当にうれしそうに、「ありがとうございました」と頭を下げてくれた。

「一度だけ、ちょっと肝を冷やしましたが、うまくいって良かったです。新郎さんのご協力のおかげですよ」

 竹内さんが何やら不満そうだ。

「私には感謝してないの? あなた、ドジばかり踏んでるから、二度も助けて上げたじゃない。私がいかったら、ぜったい立往生してたんだからね」

 自分から感謝しろだなんて、どんだけあつかましい人なのか。

「はいはい、竹内さんのおかげです。これからお礼を言おうと思ってたんですよ。ところで、立ち入ったことをお聞きするようですが、当面、おふたりはどうされるおつもりですか?」

「さっき言ったようにふたりだけでささやかな式をあげて、籍を入れます。今後はもう誰にも干渉されないように、僕が彼女をしっかり守ります」

 そう言い切る青年の姿は中々りりしくて、ちょっと意地悪を言ってみたくなった。

「それにしても弁護士が、親をだますってどうなのかな」

「それは違います。弁護士は必ずしも正義の味方じゃありません。心を鬼にして犯罪者の弁護もしますし、多額の成功報酬を狙って裁判官をだまそうとする弁護士もいます。親をだます弁護士がひとり位いてもいいでしょう」

「おいおい……新婦さん、あなただけは騙されないように、気をつけて下さい」

 四人で大笑いした。新婦の、心から安堵した笑顔が印象的だ。

 しかし、年月が過ぎれば、いずれは親族間で何かことがあったとき、「新婦の親はどうした?」という声も上がるだろう。そのたびに一々言い訳しなければならない。

 それに、まだ若い男女のことだ、これからのふたりの関係がどうなるか、一生安泰とは限らない。 

 精悍な容姿の弁護士はそう多くはないから、見め麗しいインテリ女性たちの中には、彼に接近を試みる人が出て来ないとも限らない。

 人の心はうつろいやすい。そのとき、彼は本当にずっと彼女を守ってやれるのか? ふたりの絆が生涯続くことを、陰ながら祈るのみだ。

 いただいた報酬は、やたらと神経を使った割には「ヘルプ・チーム」上限の一万円。

 クライアント様は派遣会社に二人分の日当と諸経費で五万円は払っているだろうが、人生を思い通りに一歩先に進ませた費用としては、格安と言うべきだろう。

 


 日本には、「嘘をついてはいけない。人をだましてはいけない」という、古典的とも言える、言い古された教えがある。

 一方で、「嘘も方便」という成句も、昔から立派に市民権を得て、社会に通用している。

 「ヘルプ・チーム」の起用は、クライアント様にとって、人間関係のトラブルや摩擦を回避して次のステージに早く進むためのバイパスになる。 

 竹内さんが言うには、この世に切羽詰まって「ヘルプ・チーム」に頼る人は、若い人が圧倒的に多いらしい。確かに、考えてみれば若者が人生の方向性を、自分なりに決めるのは、そうそう簡単ではない。

 法の力を存分に行使しうる弁護士であっても、恋愛を貫きつつ、親子関係を平和裏に維持するための苦労は一般人と変わらない。

 古くからの偏見に染まりきった親に、日本国憲法の原則を説いてもナンセンスだ。

 京都には平安時代からの貴族の一族があいり、その結束が固い三〇〇人以上の親族は、自分たちだけが選ばれし日本人だと未だに信じているそうだ。

 自由主義の権化のようなアメリカにさえ「ワスプ」が隠然たる力を持ち、「アジア人」との結婚などけがらわしいと公言してはばからない。

 古くからの慣習や迷信に囚われた生きづらさは依然として根強く、伝統的な価値観を踏みつぶしでもしないと、若者が思うように人生設計できない事態に直面することは、残念ながら少なくないだろう。

 そんなときは、市井の庶民からエリートと言われるような人々まで、代役に頼らざるを得ない。しかも、これは最後の手段で、世間体を考えれば絶対に失敗できない決断だ。

 よくよく考えてみれば、何と危ない橋かと、ぞわっと寒気を感じた。もちろん、クライアント様にとってである。

 他方、公共機関であるハローワークですら年齢で差別され、吹きっ晒しの過酷な現場でしか働かせてもらえない高齢労働者が、「ヘルプ・チーム」にメンバー登録すれば、若者たちから引く手あまたという皮肉な現実がある。

 他人様をあざむく、なりすましと言えば、昨今、ネットを駆使して激増している悪質な詐欺犯に間違えられそうだが、目的はあくまで人助けだ、。

 それは、頭の片隅にこびりついた、うしろめたさをひっぺがす、強力な免罪符になりうる。

 そう、我々は背中に羽根こそ生えていないが、他人様に幸福をもたらす天使だ。

 こうして、自分なりにとっちらかった頭の中を整理できると、のっぴきならない事情を抱えた数多の若者たちのために、顔の知られた北関東以外の日本各地に派遣され、「大活躍」することとなる。


哀愁のレジスタンス 


 竹内さんに見込まれた通り、「ヘルプ・チーム」の案件では、どんな状況でも首尾は上々だった。

 日当は安いが、日本各地に出張できるのが楽しい。

 毎日、単純な日雇い労働で欲求不満を溜めるより、他人様のお役に立てているという実感は、まことにやりがいがあり、気持ちを充実させてくれる。

 ただ、竹内さんからの無茶振りが次第に過激になっていて、かなり際どいケースもあり、先々への不安がないでもなかった。

 今回の電話での依頼も竹内さん経由だった。普通の人では一〇人が一〇人尻込みしてしまうような複雑怪奇な任務は、必ずこっちに振ってくる。

 それもクライアント様が悩みに悩んだ末に、Xデイの二、三日前に依頼してくるものだから、こちらに電話で指示が来るのも直前となる。

「今度もね、父親役よ。あなたなら簡単にできるでしょ」

「あのう、今まで簡単に済ませられたことなんて一度もありません。だいいち期日が明後日に迫っているというのに、よくそんな気軽に言えますね」

「だって、ほんとに簡単な案件なんだもん」

「だったら、私より先に引き受ける人がいくらでもいたでしょう」

「そうかもしれないけど、あなたが適任なのよ。以前に農家のおじさんと話が合ってたじゃない。また、琵琶やイチゴの話でもしてくれたらいいわ」

「そういうことですか。どんな案件ですか?」

「クライアント様はね、三二歳のIT技術系のサラリーマンなのね、会社でいじめられてリストラされそうなんだって。でも彼は拒否するつもりなのよ。それで会社側は、父親と話したいから、三日後に親子で出社するように指示したそうよ」

「琵琶もイチゴも関係ないじゃないですか! そんな案件のどこが簡単なんですか! だいたい、リストラするのに父親を呼びつけるなんて、とんでもない会社だ。 私はそういう変な会社と、関わりたくはありません」

「そんなこと言ってるから、あなたは世間知らずだって言うのよ。社員の親を会社に呼ぶのは、今はどこの会社でもやってることよ。この会社自体はね、全国的にはほとんど名前を知られていないけど、地元を代表する電子機器の部品の会社なんだって。ソニーやパナソニックに部品を卸してたこともあって、従業員は五〇〇〇人もいるっていうから大企業よね。じゃ、頑張ってね」

「ちょ、ちょっと待って下さい。私は電子機器なんて何もわかりませんよ」

「クライアント様のお父様が東北で農業をやっておられる方なの。だからあなたは農家の話してりゃいいのよ」

「そんな展開になりますかねぇ。こういうのを我田引水って言うんじゃなかったですか」

「うるさいわねえ。今、私は女子大生の自殺を止めなきゃいけない案件で、たいへんなんだからね」

「何でそんな、人の命に関わるだいそれたことを引き受けるんですか。資格も何も持ってないんでしょ」

「私、今だけ臨床心理士なの」

「あのね、いいですか、竹内さん。臨床心理士になるには大学と大学院で六年間、勉強しないといけないんですよ」

「あらそうなの? ばっかみたい。そんな頭でっかちの秀才より、私のほうが、ずっと適任なのにね」

「国家資格ですからね。名乗っちゃダメです。今度こそつかまりますよ」

「余計な事言わないの。彼女のご両親がすべてを知った上で、私を信頼してくれてるのに、誰が警察に通報するっていうのよ。自分の案件くらい、自分で責任を持って最後まで始末するわ。私を誰だと思ってんの」

「竹内さん……傍から見れば、自信過剰の危ない人ですよ」

「もう、いちいちめんどくさいわねえ。あなたが結婚できないのはそういうところ。もっと柔軟にならなくちゃ。世の中、原理原則だけで動いているわけじゃないのよ」」

「ああ、そうですか。はい、はい、わかりましたよ」

「じゃあ、手抜きされたら困るからもう少し説明しといてあげる。一回しか言わないからよく聞きなさい」

 クライアント様の松本俊彦君は、AIが一般的になる以前からロボットなどを設計できる新進気鋭のIT技術者だった。

 放っておかれると一日中PCの前から離れず、プログラミングなどの納期は必ず守る、上司から頼られる存在だった。

 人事考課表は、項目ごとに○△×の三段階で表記されるが、ほとんど○(マル)で埋めつくされ、人事部が注目し将来を期待される存在だった。

 すべて過去形なのは、彼は今や「毎日が日曜日」の引きこもり生活を送っているからだ。

 本人の意志に関わらず周期的に襲ってくる吐き気や空咳、それらを紛らすために一日中、酒をちびちびなめる典型的なアル中生活。

 飲むのは四リットルのペットボトル入り焼酎だという。

 俊彦君には会社の健保組合から傷病手当が毎月支給されているが、金額は正常に勤務していたころの給与の半額程度だから、生活は楽ではない。

 酒は現実の問題解決には役に立たないが、酩酊することによって、適応障害の代表的症状である吐き気の沈静化には一時的に効果があるという。

 だが、その後は、安くて濃い酒を注ぎ込まれた胃や腸、さらにおそらくは最も悪影響を受ける肝臓も、声なきブーイングを始める。

 せっかく心因性の吐き気が収まっても、内臓が荒れるという物理的要因による吐き気で再度苦しむ。

 適応障害で酒に走ってしまう人は、精神と肉体が順繰りに相互に痛めつけあう地獄のスパイラルに陥ってしまうという。

 そこから抜け出すのは相当難しいようで、以前、六本木にあるテレビ局の若手のアナウンサーは苦しさに耐えかね、トリアゾラム系睡眠薬を一二〇錠飲んで自殺を図った。ただし、一週間眠っただけで助かったったそうだが……。

 俊彦くんが適応障害と診断されると、会社はすぐに自己都合退職をほのめかした。「期間未定の休職は認めない」という就業規則があるそうだ。 

 しかし、俊彦君は思うところあって会社に診断書を提出し、傷病休暇を申請した。会社に反攻する道を選んだのである。

 「反抗」ではなく「反攻」なのは、自分は他の誰よりも精力的に仕事をして成果も出してきたのに、経営幹部たちの思いつき人事に振り回されて仕事ができなくなり、それらすべてを自己責任とされたことが許せないからだった。

 そんな俊彦君に、人事部は二週間ごとに面談のために出社するよう申し渡し、責めたてたという。

「仕事への意欲がないから、うじうじと引きこもってしまう。そっちのほうが楽だからな。君を見る目は厳しい。誰も同情なんかしないよ」

「意欲はあります。でも適応障害で……」

「おいおい、君がうちの会社に適応できなかったんだろ。サラリーマンは皆それぞれ、組織になじむ努力をしている。なのに君は、さぼる言い訳ばかり探している」

 どんな企業でもそうだが、人事部長や総務部長の最も重要な仕事は、社内でトラブルがあったとき、会社と管理職に非は無いという構図を明確にすることだ。

「うちに適応できないとわかったんだから、他に行ったらどうだね」

 過去にリストラされた社員たちの多くは、このあたりで白旗を掲げ依願退職となったらしい。やくざ言葉で言えば、部長の「型にはめられた」。

 だが俊彦君は退職を拒否した。

「僕は設計やプログラミングの仕事が好きです」

「今日び、コンピューターが自動的に設計してる。昔のように技師が机を並べてという時代じゃない。新聞にそう書いてあるだろ」

「新聞はとっていません」

「テレビでもネットでも同じだよ! 俺を馬鹿にしてんのか。適応障害? そんなものは誰でもなる。おまえが怠け者なだけだよ」

 六回目の面談で、保護者同伴を指示された。

 まるで小学校でいたずらをした子供のような扱いだが、れっきとした業務命令だという。

 労働法や人権法令に疎い親を攻撃し、居たたまれなくなった親が子供を早期退職させるように仕向けるのだろう。悪魔の所業と言うべきか。

 俊彦君の父親は七〇歳を過ぎて、東北の山村で暮らしている。

 農業だけでは食って行けず、公共工事の土方仕事で七〇〇〇円程度の日当をもらって生活費の足しにする、典型的な地方の小規模農家。

 いきなり、大手企業のホワイトカラーの幹部たちに責められたら、わけがわからないまま、

「おめえ、皆さんにこんなにご迷惑かけてんなら、もうやめれ」

 などと言いだしかねない。

 親は呼びたくない。ならば会社との争いに執着せず、転職を模索したほうがいいのではないかと、俊彦君の考えは少し変わった。

 しかし、タブレットで転職情報を検索してみたら、「ITエンジニア」はさすがに求人が何千件もあるものの、多くが短期派遣や期限付き契約労働だった。

 給与は見事に横並びの低賃金。一応、まだ籍のある北信の基本給の半分に過ぎな。

 やはり、安易な転職いはやめようと思いかけたとき、求人リストをスクロールする手が止まった。文字だけの地味な広告の宣伝文句が気になった。

「ヘルプ・チーム  代役派遣登録労働者募集―商談、披露宴、パーティ、葬儀、講演会、演奏会、各種交渉事。秘密厳守。㈱○○○・ヘルプ・チーム事業部」

 葬儀や披露宴に代役を派遣する……では父親の代わりも派遣してくれるのか?

 


 俊彦君が所属する北信機械の本社は、群馬県・前橋市郊外の工業団地の一角にある。

あたりには高いビルがぜんぜんなく、上州の山並みが眼前に迫ってくるような立地だ。

 とはいえ北信機械は立派な東証プライム上場企業。過去に一度も赤字になったことがない堅実経営だという。

 就職情報誌などでは「社員を大事にする会社」とされ、新入社員の三年間定着率は、東京の大企業では三分の一だが、北信では九割以上と発表されている。

 だが、後に聞いた俊彦君の話では、実際は東京や名古屋などの産業集積地にUターンする新人が後を絶たないそうだ。

 巷に流布されている「評価」などというものは、誰が何を目的に広めているかを確認した上でないと、あてにならない。

 コンピューターに精通する俊彦君は、希望通り設計部門に配属された。

 プログラムを早期に完成させる手腕が高く評価され、直属の上司がそれを自分の手柄として上層部に報告していることは知っていたが、彼は出世にはまったく興味がなかったのでこだわらなかった。

 そんな俊彦君の「無関心」は「おくゆかしさ」と誤認され評価は上がった。

 俊彦君は○(マル)ばかり並ぶ自分の評価を、人事部の同期から聞かされても別にうれしいとも思わなかった。

 むしろ変にほめられて、負担が増えるのは嫌だなぁと思っていたという。不幸にしてその予感は的中してしまう。

 職能より社内キャリアが優先される日本企業では、人事評価が高い社員には、当人の適性も希望も無視し、全社的な視点で様々な課題を与える「幹部候補生教育」を施す(悪い)癖がある。

 俊彦君もある時期から、エリート候補として社内のいくつかの部門を経験させられることになった。

 彼にとっては、はなはだ迷惑だった。

 何よりも、兵馬俑のようにひとりひとりの顔とタイプが異なる他の社員との協調が、大きな負担になった。

 要領が良く世渡りのうまい人物なら難なく対応できただろう。

 しかし、俊彦君はひとりでコツコツとモノを仕上げるのが得意なタイプだ。

 彼はより一層無口になっていき、それが後ろ向きととられ、周囲との関係はぎくしゃくするばかりだったという。

 あっさりと「幹部候補生外れ」の烙印が押された。育成プログラムから外され、誰の目にもドロップ・アウトとわかる時期に元の設計部門に戻された。

 環境が変わっても、人間は電源をオン、オフするように、やる気を制御することはできない。ストレスが極限までたまっていた。

 初対面の部長は最初から、低評価の俊彦君を嫌った。

 会社というのは不思議なもので、賞罰の罰はずっと記憶されるが、賞のほうは忘れられがちだ。部長は連日、彼の言動をことごとく否定したという。

「そうじゃなくてね」「ぜんぜん違うだろう」「前にも言ったよな」「こんなことも覚えられないのか」

 彼の体は正直に反応した。部長の前に立つと呼吸が荒くなり、立っていると足が震え、最終的には声が出せなくなった。

 物理的に顔の筋肉が引きつって動かせず、唇が小刻みに震えるばかりだったという。

 彼を診察した心療内科医は秒速で適応障害と断定した。

(勝手に人事で翻弄し、あげくに落ちこぼれ扱い……その上、親にも恥をかかせるのか……) 


 前橋駅前のビジネスホテルのロビーで午前八時に待ち合わせた。

 さえない風采の老人にみえるように前もって準備していた。

 白髪が大半の頭髪は頭皮にぺたっと張り付いたホワイト・バーコード。白いYシャツは何年前に買ったのか記憶がなく、黒のパンツは折り目はとうに消えて膝が出て裾は薄汚れている。

 上越新幹線のガード下のホームレスの皆さんと同じような印象になった。

 俊彦君は私を見るなり、顔にありありと失望の色を浮かべた。

 こんな風采の上がらない薄汚れた老人では、会社側にあなどられるだけではないかと落胆したという。

「あのう、代役を依頼するのは初めてなんですが、うまくやれるものですか?」

「もちろんですよ。ただ、私は議論はふっかけませんけどね。ひとりで正論を張ったところで、組織とは戦えませんから」

「いや、ちょっと、あの……それじゃ約束が違いますよ。上司を論破できる人をリクエストしたんです」

「労基法に詳しいお百姓さんってことですか? 無茶言わんといて下さい」 

「じゃあ……これを使って下さい。幹部とのやり取りを録音してあるんです。暴言や悪口ばっかりです。これを使って、会社側の日常的なパワハラを立証できませんか」

 ネズミを捕った猫のように顔を上気させ誇らしげたった。

 だが、これはこれでリスクがある。

「それはやばいですよ。録音したことはばれてませんか?」

「ええ。私のスマホは録音開始操作がいらないんで」

「えっ? ああそう……よくわかんないけど、そんな機能があるんですね。ただね、パワハラの録音があっても、労基とかマスメディアが動いてくれなければ、何の効果もありません。あなたはまだ生きてるじゃないですか」

「生きてちゃいけませんか?」

「この国で労働事件の被害者に行政やメディアが確実に味方してくれるのは、被害者が亡くなった場合です。しかし、あなたはまだ生きてる」

「僕に死ねと言うんですか!」

「そう飛躍しないで。私は現実を語っただけです。企業内の異分子はその企業だけでなく、社会全体から白い目で見られます。日本とはそんな国です」

「あなたはただの日雇い労働者ですよね。何がわかるっていうんですか」

「日本は、企業の人権蹂躙を批判した厚労省の課長が失踪するような恐い国ですよ」

「そんな裏事情を、どうして日雇いのあなたが知ってるんですか」

「日雇い、日雇いってうるさいですね。普通に5チャンネルに書いてあります」



「労働者の立場はとても弱くて、適応障害の社員の首切りなんて、他の会社ならもっと酷薄です。あなたの会社は傷病手当を許容してるんだから、まだマシなほうです」

 俊彦君は背筋を伸ばして大きく息を吐き、天を仰いだ。

 やはり私のことを負け犬と判断し、ガッカリしているようだ。

「あなたはもっともらしく解説するだけで、僕の上司に対しては何もしてくれないんですか。僕から小金を取っただけですか」

「いやいや、そりゃ言い過ぎでしょ。北信は堂々たる大企業じゃないですか。悪い人ばっかりじゃない、いろんな方がおられるでしょう。一応役作りをしてきました」

「役作り?」

「疲れて見えるでしょ。服は捨てようと思ってゴミ袋にまとめていたものの中から選びました。少し臭うかもしれませんが」

「ええ……車に乗ってすぐわかりました」

「当面、松本さんが解雇されないようにします」

「そんなこと……ユニオンでもない、あなたひとりでできるんですか?」

「日本には『ナキオトシ』という伝統芸があります。遠方で暮らす父親が、身なりを気にする余裕もなく息子のために前橋までやってきて頭を下げる。親父さん自身には何ら非はありません。そんな父親の面前で、普通の人が冷酷になれるでしょうか。従業員が数千人いる会社で、今すぐひとりのクビを切ったところで、大きなメリットになるわけじゃない。切らなかったところで、大きなダメージを受けるわけでもない。ならば、後味の悪い首切りは先送りして、次の奴にやらせようと考えるのが、管理職の一般的な考え方です。

 もうひとつ、幹部は松本さんに圧をかければすぐに退職すると高をくくったんでしょう。でも松本さんが適応障害の診断を受けた今となっては、会社は保護する責任が生じてしまいました。今の立場は、松本さんのほうが強いんです。だから、あわてて親を呼べなんて言い出した。ジタバタさせておけばいいんです」

 俊彦君はもう口をはさもうとせず黙って聞いている。

「ただし、ばれたら最後、会社に対する不誠実な対応が問題視されるでしょう。大丈夫ですか?」

「はい……まあ、一応……」

「自信がないなら、今回はやめますか? 今ならまだ引き返せますよ。私を連れて会社の門をくぐったら、最後までやりきるしかありません」

「いえ、やります」

「そうですか。今回一度だけなら何とかなるでしょう。私は失敗しません」

 北信機械という会社の本社棟玄関は、まるで区役所の出張所のような、簡素なガラス張りだった。あそこが玄関だと俊彦君が教えてくれなければ、前を通り過ぎていたかもしれない。

 中に入ると、高さ一メートルほどの観葉植物と小さな受付デスクが並び、ソラマメのような薄い緑色の事務服姿の中年女性がひとりぽつんと座っている。

 大企業の本社というにはいかにも地味だが、群馬県の質実剛健を尊ぶ気質のせいだろうか。

 受付嬢(というより、受付のおばさん)は俊彦君と私の姿を交互に見つつ、当惑を隠さなかった。

 無理もない。普段着のトレーナーを着た若者と、ホームレス風の老人のペアなのだ。

 それでも来訪者の予定表にはちゃんと載っていたらしく、彼女は立ち上がって、そっけない態度ながら案内してくれた。

「応接室へどうぞ」

 我々の見かけや動作に違和感があると、この難しい設定は一瞬で崩壊する。たとえ受付嬢……元へ、受付のおばさんでも気は抜けない。

 応接室は窓がとても広く、都会のビルのような遮光ガラスではないので、春の陽光がさんさんと降り注ぎ、肌がすぐに熱くなった。

 落ち着いた木目が際立ち、一目でそれとわかる世界三大銘木のひとつマホガニー材で作られた長方形の巨大なテーブルのまわりに、やはりマホガニーの太めの手すりが両側についた大きな椅子が片側に六脚ずつ計一二脚。

 こんなところに地方の歴史ある企業の伝統が息づいているようだ。

 我々が上座に座ってはまずいので、俊彦君がドア側の端っこの席で、私はその右隣に腰を落ち着けた。

「最近の体調はどうなんだ?」

 六五歳の父親とその息子という設定だから、親が丁寧語を使ってはおかしい。誰かに聞かれたら不審に思われてしまう。

 もっとも、以前のクライアント様の中には、「ヘルプ・チーム」が自分の両親という設定なのに丁寧語を連発し、婚約者の親御さんを混乱させたお嬢さんもいた。

 そうなったら、もうこちらは完全にお手上げで、どうしようもない。

「休職したときにもらった薬が、最近はあまり効かないんですよね。お医者さんは、強い薬は駄目と言うばかりで……」

「言葉遣いに気をつけて。私は君の父親だよ」

「あっ、すみません」

「だから……息子が親に『すみません』とは言いません」

 個人相手ならともかく、いざ組織に乗り込んでみるとやはり不安はぬぐえない。クライアント様をお助けするのだ、救いの天使なのだと、自分に言い聞かせる。

「で、今、薬は何を飲んでるの?」

「デパスとかマイスリーとかレンドルミンとか」

「抗不安薬と睡眠導入剤の定番か。効き目はどう?」

「あまり効きません。吐き気がひどくて……朝、起きてすぐに、おえっ、おえっとこみあげてきて、トイレに駆け込んで腹の底からウオーって声は出るんだけど胃液すら上がってこない」

 まともな心療内科医は薬の投与には慎重だ。ハルシオンのように速攻で効く薬はなかなか処方してくれない。

 一般に心因性の症状はストレスの強度に比例する。まっさらの新人にそこまでの体調不良を起こさせるのは、管理する側に問題があると相場は決まっている。

 そんな幹部たち相手に、純和風の泣き落としが効果がなかったら……いや、効かないはずはない。相手がひとりだけならともかく、複数の幹部ならお互いに牽制しあって、結局何も決められないのがこの国の企業社会だ。

 こんなこと、六〇余年の人生で、やったことは一度もないのだから、実のところ効果は予測しづらい。

 世界中探しても、同じことをやった人がいるのかどうか……やはりいないだろう。



 急にバーンとドアが大きな音を立てて開けられ、その音と風圧に驚き、思わず振り返って出入り口を注視した。

 厚手のドア板を壁に押しつけている、技術センターの制服姿の四〇がらみの男は背が高く、とんがった頭がウルトラマンと戦う怪獣の「レッドキング」にそっくりで、「レッドキング」同様、攻撃的な気質をうかがわせた。

 目線は刺すように私に向けられている。あいさつはしない。露骨に憎々し気な表情を見ると、この男が直属の上司に違いない。

 だいぶ憤懣がたまっているのか、いきなりこれでは先が思いやられる。

 すると、男は急に腰を曲げて深々と頭を下げた。

 そのすぐ前を、三人の年配の幹部らしい男たちと、場違いな笑みを浮かべる小学校の先生みたいなおばさんが通過した。

 私ははじかれたように立ち上がって頭を下げたが、横の俊彦君はと見ると、まだ無表情で座ったままで、ワンテンポ遅れた。

 対決の場であっても、いや、そんな会合であればこそ、あいさつはきちんとしなければならない。年下の青年の反応の鈍さを、快く思う上司はいない。

 ある程度、年のいった男性の中には、若者のどうでもいい所作の至らなさにいちいち引っかかって過剰反応する爺さんもいる。たとえ若者に悪気がなくてもだ。

「どうぞお座り下さい」

 向かって一番右側、つまり部屋の一番奥に座った、背広姿でロマンスグレーの髪をきちんと七三で分けた角ばった顔の男性が落ち着いた口調で言った。

 紺のストライプの背広は仕立てが良く、色柄の割にはぜんぜんヤクザっぽく見えない。色合いが上品で生地が柔らかそうで、体形にぴちっと合っていて、一目でオーダーメイドの高級品とわかる。

「技術本部を統括しております本部長の萩原です。本日は遠方よりお出ましいただきましてありがとうございました」

 学者然としたいかにも思慮深そうな風貌。隙のない装いと相まって、やや気おくれした。私より年下に見えるが、天地の開きのある立場の違い……恥ずかしくないと言えば嘘になる。

 他のふたりの男性も続いて自己紹介した。

「人事部長の伊佐です」

「総務部長の斎藤です」

「私はメンタルヘルスを担当しています野村です。看護師です」

 彼女の左側の席、つまり最もドアに近い席に、一番最初に唐突に部屋に入ってきたレッドキングが移動して座った。

「松本君からお聞き及びとは思いますが、開発部長の奥田です」

 やはりこいつが問題の上司だったか。

 久しぶりに会った部下とその父親が頭を下げているというのに、幹部たちのほうばかり気にしている。感じ悪い。

 俊彦君の休職は彼自身の問題もあろうが、ヒラメのように上ばかり向いて、下にはきつく当たる直属上司のキャラが、大いに関係していそうなことはわかった。

 応接室への乱暴な入り方からして、パワハラ体質がうかがえる。

 ひとりの平社員の面談に本部長まで出て来るとは、この上司にとって想定外だろう。    いまいましさがつのって、椅子でも蹴り飛ばしたい心境ではないか。

 一番左側に座った女性は相変わらず笑みを絶やさない。

「松本君、体調はどう?」

 うつむいていた俊彦君はおずおずと遠慮がちに彼女の方を向いた。

「良くありません」

「お薬はちゃんと飲んでる?」

「ええ、でも効かなくて……」

「あら、お医者さんに相談してみた?」

「今日、帰ってから行くつもりです」

「そう、病院でお話しするときにはね……」

 メンタルおばさんの声にかぶせるように、人事部長の伊佐が部屋中に響き渡るように大きくせきばらいした。

 自分より下の人間を大音声でビックリさせて、主導権を握る恫喝手法は多くの企業で行われ、そうして大声を出せる輩が出世する。

 ただ、それは日本独特の傾向だから、米国の企業を訪問した日本人が、ロビーで大声出してあいさつしたら、銃を持った警備員に囲まれてしまったという。

 人事部長は面積広めの顔に髪はオールバック。厚めの唇をとがらせて大きめの鼻は、常に人の前に出ようとする鼻っ柱の強さがうかがわれる。

「お父様でいらっしゃいますね。今日はどちらから?」

「あっ……これが街中に借りているアパートから参りました。向こうからでは日帰りできませんので、昨日のうちに新幹線で上京しまして……」

「はいはい。そんな説明は結構です。ところで、私どもが先日来、彼に提案していることはお聞き及びでございますか」

「はあ……一応聞いておりますが」

「彼の健康の回復が第一でございますのでね。ずっとひとりでこもりっきりでは治るものも治りません。私共もたいへん心配しております。この際、いったんご実家に戻るなり、あるいは東京にでも移って今の環境を変えたほうが彼のためだと思うんですよ」

「さあ、そうおっしゃられましても……息子はこんな有様でして……どうしてこんなことになってしまったんでしょうか」

 とつとつとした調子で語りながら、上目づかいで少し恨めしげに幹部らの顔を見まわした。

 人事部長は口調は冷静だが、思い通りの流れにならないことに早くもイラついたか、椅子の手すりを神経質そうに指でたたいている。

「お父様から見て、最近の彼の様子はどうなんですか」

「離れて暮らしておりますし……適応障害というのは、まあ私のような田舎者にはわけがわかりません。今朝も起きてすぐに吐き気がすると言っても、黄色い水が口の端からたれるだけで……体のどこも悪くないというのに微熱が下がりません。それと空ぜきが一〇回以上も続きまして……」

「はい、はい、はい……はい! そのくらいで結構です」

 せっかちに制止された。もっと感情的になってもらったほうがいい。激怒はよほどの原因がない限り、人の値打ちを下げる。

「十分に事情をお聞きしたいところですが、我々の時間も限られておりましてね」

 本部長をはじめ幹部たちの前だ。早く私に白旗を上げさせなければ沽券にかかわると思ったか。



 場が静かになった。私を圧迫するような発言は来ない。

 せっかく間が空いたので、何か言ってみよう。

「本人が頑張ってくれて大学を出て、こんな立派な会社に入れていただいて……何分、田舎者で気がききませんのでご迷惑をかけておることは承知しております。ただ本人はこの会社が好きなようでして……何とかやり直すチャンスをお与えいただけませんでしょうか。そのためならこの敷地の草むしりでも何でもやります。何でしたら今からでも……」

 腰を半分、浮かした。本気だったが、すぐに制止された。

「お父さん、よくわかりましたから、もうそれくらいで」

 熱演をさえぎったのは、本部長の萩原だった。

(あれっ……?) 

 最初に現れたときの颯爽とした風貌とはやや趣が違う。どちらかと言えば、小学生を見る老練な教師のようだ。

 もしかしたら、わずかでも彼の心に刺さるものがあったのか。

 しかし、意外な方向から大きな声が聞こえてきた。

「ちょっと私から申し上げたいのですが、いいですか、お父さん、それだからこそ……」

 頭のてっぺんから天井を突き抜けるような甲高い、きつい口調でしゃべり始めたのは総務部長の斎藤。

 空気を読む気は、微塵もないらしい。

 逆三角形をマイルドにした色白の顔の輪郭と、銀縁の眼鏡が妙にマッチしたいかにもの秀才顔かと思えば、狼のように歯が目立ち、雑な髭は品が良くない。

 総務は企業の戦う汚れ役だから、こんな会合でいちいち立ち止まって親の話を聞くのはまどろっこしいだろう。

「いいですか、わが社の就業規則では、通常の病気やけが以外の、自称、精神的な病い、あるいは家族介護などの個人的な問題で一か月以上勤務不能に至り、なおかつ期間が未定な場合、会社からはいったん退いていただくことになっています。その目的はですね、まずはご本人の状況の改善に務めていただくと、そこなんですよ」

「お医者様は適応障害は、勤務先の環境次第で治るとおっしゃってるようですが……」

「そんな簡単なものではないでしょう。野村さん、実際のところはどうなんですか」

 水を向けられた看護師は、入室直後の笑みを浮かべてはいなかった。幹部らの圧迫面接のような態度を見れば、ニコニコしていられるわけがない。

「うつ病よりは軽いとされてますが、安定した状態に戻るには、何らかのきっかけや気分転換が必要だろうとは言われています」

「きっかけとは?」

「よく言われるのは、山登りなどの旅行や、短歌などのサークルの仲間に入って自分を見つめなおすとか……スポーツで体を動かすのもいいそうです」

 こんな堂々めぐりしていては、無駄に時間ばかり過ぎてしまう。ゴールが見えない。

 私が疲れるのを待っているのか? だとしたら、さすが百戦錬磨の部長たちだ。

 どんな会社でも総務部長や人事部長に出世できるのは、強気で社員や社外からの反発は力で抑え込める一方、ゴロニャンと人たらしで役員にかわいがられる二刀流と決まっている。

「あのう総務部長様。会社をいったん退くとはどういうことでしょう」

「一応ですね、あくまで一応ですよ、自己都合退職という形をとってもらって、健康が回復した後のことは、回復後にご相談しましょうということです」

 この仕打ちは問題だ。

 就業規則に退職の要件は書いてあると言っていたが、辞めた社員が回復後に復帰できるというようなことは、十中八九書かれてないだろう。

 最近では中途退職者の復帰希望を受け入れる企業も確かに存在する。

 だが、それも当該社員が在職中、何もトラブルがなかった場合だ。心の病で傷病休職した人間も受け入れるなど、本当だったら奇跡だ。

 突っ込もうと思えばいくらでも突っ込める話ばかりで、つくづく呆れてしまう。

「実家に帰ってもこちら様のような大きな会社は近くにございませんし、東京みたいな騒々しい土地に、これをひとりで置いたらどうなるか……どうしてもすぐに辞めなければいけないんでしょうか。国の法律もそうなっておるのでしょうか」

「ですからね、国なんか関係ないんですよ。病気やけがで休職する場合、通常は全治するのに期間をあらかじめ予想できますね。未定はダメなんです、未定は。毎年の計画を立てて、株主に説明せねばなりません。どこの会社でも、いつまでも働かずに傷病手当金だけもらおうなんて社員を、甘やかしはしません」

 何が常識なのか。なぜ国は関係ないのか。ぜんぜん甘やかしてないじゃないか。いったい誰がこの青年を壊したのか。

 会社が精神的なダメージを負った社員を、ゴミ集積所に放り投げるように捨てるとは、いったいいつの時代の発想か。 

「回復後にご相談」など空手形に過ぎないだろう。

 ただ、会社が退職を強要すればれっきとした違法行為だから、退職させた後で、もし弁護士が介入してくれば裁判では必ず負ける。

 だから、総務部長としては、親を説得する形で何としても「自己都合」に持っていきたいわけだ。これなら後腐れがない。



「息子は最初の数年は本当に楽しそうで、いい会社に入れて良かったなぁと親子共々喜んでいました。それがいつの間にかこんなことになってしまって……息子が何か悪いことをしたのでしょうか。もしそうなら、親の責任ですから、私からよく言って聞かせますが……」

 総務部長は口を半開きにしたまま、ちらりと本部長の顔色をうかがった。

 人事部長の伊佐も、もう口をつぐんだままだ。

 下を向いて腕時計を見ると、話し合いが始まってすでに二〇分が過ぎていた。

 幹部らにとって年度末で忙しいこの時期、二〇分とは、とても貴重な時間のはず。早く終わらせて、本来の業務につかねばと焦っているに違いないのだ。

「好きな会社から『見捨てないよ』とおっしゃっていただければ、息子の気持ちも楽になると思います。私の責任で、近いうちに必ず健全な状態に治しますから、何とかお情けをいただけませんでしょうか。本当に頼りない親ですが、会社に見放された後、ショックを受けた息子を支えていけるかどうか自信がないのです」

 こういう情けないセリフは、我ながら意外なほど、後から後から頭に浮かんでくる。

 話し終えると額をテーブルにこするばかりに頭を下げた。チュン、チュンという外のすずめの鳴き声が耳に響く。

 誰もが微動だにしない静寂。

 再び上目づかいにみると、本部長は苦笑を浮かべていた。

 私の言い分を聞いて、(困ったな)と思っているだろうし、部下たちの露骨な退職強要にも戸惑いがあるはずだ。

 再び頭をテーブルの上にこすりつけた。ここが正念場だ。

「お父さん、どうぞ顔をお上げ下さい」

 ていねいな本部長の声。彼は俊彦君に話しかけた。

「ひとつ確認したいのだが、君自身に、『今の状態を自力で改善して仕事に復帰しよう』という意欲はあるんだろうか。それが一番大事なことだと思うが」

  俊彦君が身を乗り出した。流れが変わるかもしれない。

「症状が治まれば、すぐにでも出社したいです。その準備はしています」

「わかった。そういうことなら、この件は、今の段階では保留でいいんじゃないか。人事部長、当分の間、ケアを続けて下さい。それでよろしいな」

「いや、それでは各部のコンセンサスが得られませんし、いちいち例外を認めていたら、人事方針がぐらついてしまいます」

「社内の調整は、まさに君と総務部長とでやるべきことじゃないか。人事方針って何だい? うちは計画リストラでもやってるの?」

「いや、そういうことではございません」

「奥田君はずっと黙っているが、何か一言ないですか」

 俊彦君の直属の上司である奥田部長は幹部らの末席に座り、最初より幾分小さくかしこまっている。

「はっ、本部長、こんなお忙しい時期に、人事部長にも総務部長にもご迷惑とお手数をおかけしてしまい、たいへん恐縮しております。申し訳ありません」

「我々じゃないよ。松本君はまだ君の部下じゃないか。何か言うことがないの?」

「はっ、私としても彼の回復を第一に考えまして……」

「だから、我々じゃないよ、松本君にかける言葉がないのかと言ってるの」

「はい、そうでございますね。部員一同、君の回復を心から願っている。もちろん私もです。一日も早く戻ってきてほしい」



 私はうつむいたまま、しばし目をつぶった。これでようやく終わる。何とかしのげたようだ。

 あとわずかの辛抱だ。ここを辞して前橋駅に着いたら、駅前に大きな看板を出していたうまそうな上州蕎麦屋に立ち寄ろう。

 群馬産の美味い蕎麦と、旅先で仕事を終えた充実感とをさかなに冷えたビール……日雇い労働者にしては、なかなかのぜいたくではないか。

 今日の日当も一万円。実働半日足らずの報酬としては悪くはない。

 ただ、一週間前からシミュレーションを重ねてきたから、それも加味すれば、時給二〇〇円にも届かないが……。

 幹部たちがいっせいに立ち上がった。壁際に並んで、本部長が「どうぞ」と左腕をドアのほうに向けて、我々に退出を促した。

 私が「皆さんからどうぞ」と言おうとしたら、俊彦君がちゃっかり出て行ってしまった。本部長以下、皆が、一瞬、眉をひそめたように見えた。

「ああ……すみません。ほんとに世間知らずでして……」

 言い訳しても仕方がない。三〇歳を過ぎているのに、世間知らずのままというのも通用しない。だいたい、彼の良さは別のところにあるのだろうから。

 幸いにして、本部長はしょうがないなと言うようにあきらめ顔だ。子供を見るような包容力。

 この人は優秀で自分にたっぷり自信があって、その分、他人への思いやりもあり、バランス感覚のある人なのだろう。

 悔しいが、大企業の地位の高い人物の中には、ごくごく稀にだが、自分では足下にも及ばないと感じる人がいる。

 もっとも自分はそんな偉い人をも、あざむいてしまった。

 技術系のトップで最終的な決断を下す立場だから、もしこのカラクリがばれたら、責任を問われるのだろうか。

 ただ、他の上司たちを見れば、この暴挙とも言える仕事を引き受けたことを後悔してはいない。

 パワハラに傷ついた孤独な若者を助ける! と大見えを切るのはいささか躊躇するし、倫理的にどうかと問われたら苦しいのも事実だが、ここまで整えることができれば成功だろう。

 俊彦君には、今日のこの会合を踏み台にして、明日から前向きに生きてくれることを期待しよう。

 玄関先で幹部四人と看護師が並び、頭を下げて見送ってくれた。大企業で自社の一介の平社員に、こんなていねいな対応は普通はない。

 ひたすら恐縮した。腰を折って深々と頭を下げながら、自分の目論見通りにことが達成されたことで、逆に恐さがこみあげてきた。

 うまく行き過ぎてないか? どこかに落とし穴があるんじゃないか? という漠とした不安。

 受付の中年女性は私たちが来たときと同じように、ものうげな顔で座ったまま、立ち上がろうともしない。

 応接室で何が行われていたのか、まるで興味がないとでも言いたげに、スマホをいじっている。

 働き方がルーズであろうと、会社に自分の安心できる居場所があり、その存在や生き方が周囲に肯定されている彼女のような社員は幸せだ。

 社外の人間からは、「いなくてもいい人」にしか見えないが、自ら積極的に動かなくとも、定年まで立場は安泰なのだろう。

 これも先進国では極めて珍しい、日本企業だけの特色ではないか。

 職能で客観的に評価される欧米企業では、余り意欲的ではない社員が居座り続けることは許されない。

 しかし、日本では、そんな社員が職場のトップのお気に入りだったりする。

 一方、一度ドロップアウトした正社員のサラリーマンは、職能が優秀だとしても、再び同レベル以上の待遇の正社員になるのは難しい。

 まるでやる気のなさそうな受付女性と、ある分野では努力家で確固たる実績もあったという俊彦君との、この扱いの違いは何なのだろう。

 サラリーマンの処遇は、出自も含め様々な人間関係がからんで複雑怪奇な結果を生むことは、経験上よくわかっている。

 職能採用ではないため、感情がからんだ曖昧模糊とした優劣の線引きが、いつの間にか固定されてしまうのが日本企業に共通する特徴だ。

 その企業独特の風土や、それぞれ異なる上司の価値観を把握しないで、ただ職能に走っているだけでは自己実現に至るのは難しい。

 北信は、俊彦君がまた腕を振るえる受け皿を作るだろうか。

 残念ながら、本部長以外の顔ぶれを見れば、依然として彼の前途は危ういと思わざるを得ない。

 そう、彼はまだ救われていなかったのだ。



(北信機械タスク2)  

 北信を訪ねてから約二週間後。竹内さんから緊急の依頼が入った。

 前回、松本俊彦君の父親役を務め、自己都合退職を阻止したが、また会社側から「父親同行で」呼び出されたので今回も頼みたいとのこと。

 しかも、それが明後日の朝だという。また随分、急な話ではないか。

「お父さんは東北から上京する設定なんですよ。前回も、日程が決まっているのに指示は直前だったでしょ。すぐにまた呼ばれる意味がわからないし、不自然ですよ」

「細かいことはわからないけど、クライアント様のたってのご要望なんですって」

「細かいことをきいて下さいよ。そうでないと恐いですよ」

「前回、うまく仕切ってくれたので、ぜひまたお願いしたいということらしいわ。人助けだし、もう他の人には頼めないから、やってあげなさいよ」

 前回は他人様の同情心に訴えかけた。普通に真心のある人間であれば効果が期待できると思い、やってみたらうまくいった。

 しかし、同じ相手に、また同じ働きかけをするのは気が引ける。そんなプログラミングされたロボットのような振る舞いは不審に思われ、ばれる可能性もないではない。

「二回目は無理ですよ。危険過ぎます。前回、大きな会社の幹部たちを譲歩させた私が、どの面下げて、またあの人たちと会えるんですか? ばれて怒られますよ。怒られるだけじゃ済まないですよ」

「同じ状況じゃありません。松本さんの病状がだいぶ改善されたみたいで、今回は、職場復帰の準備として、体調を報告して再配置などの指示を受けるみたいです」

「あなたは前回、彼には『あのおじさんなら、会社の幹部たちも言いまかせてくれるわよ』とか、適当な発言をしてたそうですね。私がどれだけ危ない橋を渡ったか、あなたにはわかってないんだ」

 リスクの可能性が排除できない。もう崖っぷちに立つような任務はご免だ。

「今回は本当に同席してもらえればいいんだって。報告はクライアント様がご自分でなさいますし、対応するのは人事部の社員だそうよ。幹部がいつもいつも顔を並べるほど暇だったらおかしいわよね」

「まあ、本当にそうであれば、彼にとっては良い転機になるということですか」

「そうなのよ。やっとわかってくれた? クライアント様ご自身がそうおっしゃっておられるんだから、心配いらないわ。ほんの一〇分程度。人事部から渡される承諾書にハンコかサインをしてくれればいいからって」 

 職場復帰が決まっているのなら、会社側は俊彦君と父親を敵視してはいないということだろうか。ならば、過剰に警戒する必要はないかもしれない。 

 


 翌々日の朝、俊彦君と車で北信機械に乗りつけた。

 彼は幾分さばさばした雰囲気で、前回、酒に溺れていたときのような、顔色が土気色で目がうつろで危なっかしい様子ではなくなっていた。

 適応障害を幾分かは克服できたようだ。

 であれば、私の仕事が、ひとりの人間の再出発に効用をもたらしたことになる。

 やり方の是非はともかくとして……。

 前回と同じ受付のおばさんが、玄関のガラス扉越しに見えた。

 扉を開けると、あにはからんや、おばさんがこちらを見ている、というより、にらんでいるといったほうがいい。

 目に力があり、表情を引きつらせているのが離れていてもわかるほどだ。

 前回、まったく我々に関心なさげに猫背で携帯をいじっていたときとは異なり、背筋がピンと伸びている。受付嬢というより守衛のようだ。

 我々を迎えた彼女の態度がこれほど違うということは……何らかの意図を隠しているのではなかろうか。

 漠然とした不安が湧くが、姿を見られてしまった以上、ここで引き返したら俊彦君に迷惑がかかる、と言うか、今までの努力がすべて無になってしまう。

 我々が名前を名乗る前に、彼女は素早く携帯電話でどこかに報告している。

 顔を覚えていたにしても、やることが一々早過ぎる。一応、来訪者の名前を確認してから報告するのが受付の心得だろう。

 俊彦君が前に立つと、彼女は電話を置いた。

「松本です。人事部に呼ばれてきました。九時で約束してます」

 おばさんはすぐには返答せず、もったいつけるようにスケジュール表に目を落とした。

 それから、俊彦君の顔をしげしげと見上げている。

 悪意か? 俊彦君の表情ををなめるように読み取ろうとしているように見える。

 この蛇のような注意深さが、彼女本来の姿なのか。前回は、どうせ引導を渡される社員だと、軽く考えていたのか。

「ふたり共、応接室で待機して」

 つっけんどんで高飛車な言い方。親子なのに、ふたり、とは何だ。

 俊彦君もこの怪しい空気には違和感があったようで、首をかしげながら彼女にきいた。

「あのう、応接室ではなく、人事部で手続きするようにとのことでした」

 おばさんは、とてもイラついたような顔で携帯を左右に振った。

「そんなこと、私、聞いてません。とにかく応接室へと、今しがたの電話でそう言われたから」

 前回、幹部たちがそろって我々を見送ってくれた様子を、このおばさんは目撃したはずだ。

 なのにこの冷淡でそっけない態度は……いったいこの先に何が待っているのか。

 やはり今、危機は目の前にある。

 会社側が俊彦君に連絡した二日後に、我々を一緒に呼び出したのは、一日も早く出社させたかったからではないか。急いだ理由は何だ?

 会社側に代理がばれて、俊彦君を早急に処分することになったとすれば説明はつく。いや、残念だがそうとしか考えられない。

 怖くなってきた。組織相手に謝罪は通用しないだろう。しかも、前回の哀れみを請う謝罪は、ばれてみれば悪質極まりないやり口だ。憎さ百倍。

 恥ずかしい。とてつもなく恥ずかしい。

 私の勤務先を追及されれば、ホッカンの名前を出さざるを得ない。ホッカンに連絡が行けば、元ニュースキャスターの犯罪として、騒ぎになるのは確実だ。

 さらに北信は位置から考えてホッカンの営業エリアに入っている可能性がある。営業先をテレビ局の元社員が騙して愚弄したとなれば、ホッカンにとっても謝って済むことではない。

 白い壁の向こう、役員室や管理部門の部屋へと続く廊下に、まだ人の気配はない。

 あたりは静まり返っている。前回と同じように、聞こえるのは芝生をはねまわる雀の声ばかりだ。

 着席したまま、俊彦君と顔を見合わせる。彼の左手が小刻みにに震えているのに気づいた。

「職場復帰……するんだよね?」

「いや、まだ正式に決まったとは聞いてません。今朝の段取りは予定と違います。おかしいです」

「でも、円満に解決すると思っていいんだよね」

「以前に電話で人事部と話したときはそう思えたんですが、今はどうなんでしょうか。最近になって、方針が変わったのかもしれません」

「おいおい、話が違うよ。人事部との連絡はいつしたの?」

「一週間ほど前です。ところがその後、一昨日に緊急連絡がありました」

「その一週間に何か動きがあったんだろうか」

「僕は当面、メインテナンス部とか部品センターといった、定年後再雇用の社員がいっぱいいるルーティンワークの部署に配属される予定でした。一週間前は確かにそうだったんです」

 廊下を数人が早足で歩く革靴の硬い足音が、急速に近づいてきた。

 俊彦君が言っていた人事部員がやって来たのかと思う間もなく、いきなり無言で入ってきたのは五人もの警備員だった。

 事情が飲み込めない。どういう状況なのか尋ねようと立ち上がったら、先頭の男が、「そのまま」と言うように、両手で下に抑えつけるような仕草をした。

 彼らの制服はおろしたてのようにはっきりしたブルーで、シャツも真っ白だ。いかにも大企業専属のスタッフらしく、長身で整った髪型から、きれいに磨かれた革靴の先まで格好はパーフェクト。

 五人に上から睥睨されると、威圧感に思わず身がすくんだ。

 足を開き気味にして両手を後ろ手に組んで微動だにしない姿は、戦争映画に出て来る将軍の従兵のようだ。

 何人いようと警備員を恐がる必要はないと思うが、居たたまれなさはどうしようもない。じっとして下を向くのは卑屈だ。せめて前を向いてにらみ返そう。

 彼らは我々が動揺するように、わざとこんな演出をしているのに違いない。

 ただ、ひとつ嫌なことに思い当たった。ここは北信機械の敷地内にある建物で、

自分は本来、ここにいる理由がない無関係な人間だ。不法侵入にあたるのではないか?

 社員の俊彦君に先導されて入って来たと言っても、彼自身が会社側を騙したとわかれば、やはり私は不法行為を犯したことになりはしないか。

 ビクビクしながら思案しているうちに、彼らの後ろに、また誰かが入ってくるのが見えた。

 警備員たちの後ろをすり抜けていく頭が見え隠れする。

 小柄な男だ。見た目はとても若い。我々を一瞥しながら、もったいつけるようにゆっくりと、私の正面の椅子に座った。

 丸い大きめの眼鏡に肌が見るからに青白く、あどけないとさえ言える童顔。それでも年齢は二〇代後半くらいだろうか。 

 前回の会合に出席した幹部はどうして来ないのか。こんな三文役者を並べて芝居がかった状況を作る意図は何なのか? 

 小柄な男は髪の毛を真っすぐ二八に分け、かっちりとした紺の縦じまのスーツ、その襟もとには金の大きめのバッヂが輝いている。

 この会社の社章ではない。目を細めてよく見ると、「天秤ばかり」と「ひまわり」の花が型どられている……弁護士バッヂだ。

 ここまでお膳立てしたということは……冷水をぶっかけられたように、心臓が止まるような想像が脳裡に広がった。

 俊彦君に解雇を告げるなら、内容証明を送れば済む。 

 わざわざ弁護士が登場した目的は俊彦君ではない、私だ……。

 彼は椅子にふんぞりかえり、二ヤニヤしながら沈黙を続けた。弁護士なら、すぐに用件を言うだろうに、いったい何のつもりか。

 前回、すこぶるにこやかだったメンタルおばさんも入ってきたが……今日はぜんぜん笑っていない。

 それどころか、恐々歩いているように動きがスローモーだ。

 椅子には座らず、警備員らと並んで下を向いたまま。心なしか前回と比べて少しやつれているようだ。

 この人にも、災いが及んでしまったのだろうか。

 思えば前回、俊彦君の直属上司の目つきが険悪なことに、多少恐れを感じてはいた。

 自分の出世が邪魔されるとなれば、ありえないようなわずかな可能性だとしても、俊彦君の足をすくうネタを必死に探すのは当然だ。

 本部長以下並んであいさつしてくれたとき、彼は歯ぎしりしていたのだろう。

 父親が本ものかどうか調べようと思えば、造作の無いことではあった。

「ヘルプ・チーム」の活動は、ひとりのクライアント様とは一回こっきりの関係とされていた。

 初対面と違って二度目以降は、クライアント様の相手がこちらの身元をリサーチする時間もある。

 やはり二度目は来るべきではなかった。

 自分から網の中に飛び込んでしまった。もはやまな板の上の鯉だ。



 「ヘルプ・チーム」は、個々人の人間関係にコミットするのが本来の趣旨だ。

 だが、私がお調子者だったのが悪いのか、どんな案件でも派遣すれば人助けと単純に考えた竹内さんが悪いのか、いずれにせよ、大会社のガチガチの組織にズカズカと足を踏み入れてしまった。

 それがいかに大それたことか、今になって理解できた。

 私の生殺与奪の権は、この、実生活でご縁があろうはずのなかった企業の人々が握っている。 

 弁護士は小首をかしげたり、斜に構えたりしながらずっと私から視線を外すことなく観察を続けた後、ようやく口を開いた。

「あんたさ。自分が何をやらかしたか、わかってんの?」

 高く鋭い声のトーン、静寂の空気を裂くような凛とした響きだ。

 伸ばした右手の人差し指は、私に真っすぐ向けられている。やはりターゲットは俊彦君ではなかった。

(まあいいさ……ひとり暮らしだし、守りたいものなんて何もない。今から気おくれしてなるものか)

「あなた、誰なんですか。あいさつもなしにいきなり人を指さすのは失礼ですよ。それに年下の人に、あんたと呼ばれる筋合いはありません」

 いったん開き直れば抑制回路は切れる。アドレナリンが放出されたか、何だか気分が良くなってきた。

 弱い立場の人を助けたんだ。何が悪いのか。こんなところで白旗を上げて恭順の意を示せば、今まで「ヘルプ・チーム」でやってきたことすべてが間違っていたと認めることになる。

 相手は弁護士バッヂを見せつけながら、小馬鹿にしたように言った。

「私は最高裁判所から資格を付与された弁護士です。わかりますか? あなたはいったいどんな馬の骨ですか」

「馬鹿にした言い方だな。ここにいる松本俊彦君の父親代わりですが、何か問題でも?」

 前に並んだままの警備員たちの、刺すようなとげとげしい視線をいちいち受け止めながら、ことさらに悠然と構えて場を見回した。

 服装こそ立派だが、彼らもまた日雇い派遣レベルの労働者だろう。いわばお仲間だ。

「まず、あんたは、そこにいる当社社員の父親のふりをしてこの会社にやって来て、通常業務を妨害した。いいですか、これは偽計業務妨害罪という犯罪にあたる可能性があります。父親が来るというから、幹部の皆さんも時間を割いて対応したわけですからね。もうひとつ、あなたが弊社社員に無関係な人間だとわかっていれば、会社には入れません。つまり、不法侵入です」

 弁護士は交互に私と俊彦君を指さした。指で人をさすのが好きなタイプは、支配欲の強い性格と聞いたことがある。

 弁護士だからといって、そう簡単に威圧されてたまるものか。

 しかし、折しも遠くからサイレンの音が聞こえてきた。縁起でもない。

 ピーポー、ピーポ―という独特の響きが、近づいてくるのか遠ざかっているのか……音程は次第に高くなっている。

「一応、事情説明を求めます。警察に被害届を出す前にね」

「ちょっと待って下さい。あなたが法律の専門家ならちょうどいい。ぜひお聞きしたい。どうして社員の親を強制的に呼び出すのですか? 彼の父親は東北にいて、時間的にも経済的にもいちいち関東まで出て来る余裕なんかありません。しかも、独立した社会人である子供のリストラのために、わざわざ親を呼び出すことは、嫌がらせ以外にどんな意味があるのですか? まったく理解できません。そんな権利が会社にあると、あなたもお考えですか?」

「それが社内規定に明文化された経緯は私は知りません。昔のことですからね。ただ、その件と、あなたのやったこととはまったく無関係です。あなたは自分がやらかしたことをごまかしたいから、そんな主張をするんでしょうが、就業規則と業務妨害とは無関係です」

「いや、そうではないでしょう。私は彼のそうした事情を伝え聞き、自分でできる範囲で助けてあげようと思いました。この会社の雇用をめぐっては、人権上の問題があると思います。それに就業規則は労働組合との合意を経て決められたものでしょうか? よもや、会社側が勝手に決めた就業規則が無効であることを、弁護士先生が知らないはずはありますまい。この会社こそ、労働基準法やその他諸々の労働関係法違反に問われるべきだ」

 弁護士の表情から薄笑いが消えていた。どこの馬の骨ともわからない男から、生意気にも反撃されるとは思っていなかっただろう。

 法律家は、医師と並んでプライドが高い。彼らは絶対に謝らない。

 素人との議論でミスをするわけにはいかないから、少しは慎重になったかなと期待したが……そうでもなかった。

「よくしゃべりますねえ。でも、支離滅裂なんだよな。私は刑法の話をしてるんだが……労基へ訴え出たらいかがですか。こういうすれ違いの議論は、無駄ですな。百歩譲ってそちらの社員にくむべき事情があったとしても、あなたが『なりすまし』という犯罪を犯してもいいことにはなりません」

「えっ……これって、なりすましなんですか? でも、なりすましが法律違反に問われるのは、誰かに損害を与えた場合だけですよ」

「何言ってる! 幹部の時間を奪って幹部と会社に大損害を与えただろうが。いい年して、何やってんだよ。子供の遊びじゃないんだぞ!」

 血流が急に荒くなった。首筋に拍動の衝撃を感じる。血圧は確実に高くなっているようだ。

 もうお手上げだ。ため息をつくと、今度は大量の冷や汗が吹き出てきた。

 わきの下がじっとり濡れている。両の手の平もぐっしょりだ。自律神経がおかしくなってきたのかもしれない。

 小さな県域局とはいえ、常に公共性が問われるテレビ局社員の肩書は軽くない。既に退職しているからといって、警察のお目こぼしは期待できそうもない。

 微罪として最終的には不起訴になるかもしれないが、弁護士が持ち込んだ事件は、警察も検察もいい加減には扱わない。

 今回に限らず「ヘルプ・チーム」の任務は、常に、超えてはならない常識の壁への挑戦だった。

 だが、社会の一般的な正義に対して、ヘルプ・チームにはチームの正義があると主張しても、それを受け入れてくれる寛容さはこの社会にはない。

 プロの弁護士相手に、ちょっと労働知識があるくらいのレベルで対抗しても、所詮は蟷螂の斧だったか。

 「ヘルプ・チーム」の仕事をしながら、いつもどうにかなるだろうと高をくくっていたが、どれも断崖の端すれすれだったのかもしれない。

 今さら自分に腹を立ててみても、ごまめの歯ぎしり。

 最悪の事態だ。



「この方をいじめるのは……もうやめてくれませんか」

 弁護士の勢いを決然と押しとどめるように声が響いた。俊彦君だ。今まで一度も聞いたことのない声量だ。

 君には無理だ。私が反論を試みても、弁護士をさらに怒らせただけだった。

 君は一応、立場の強い正社員だ。しかも、適応障害という精神の病を患っていることは、医師が診断書で証明している。

 金目当ての派遣会社と演技経験のある元アナウンサーに、そそのかされて魔がさしたと反省文を提出すれば、少なくとも罪にはならないはずだ。

 だが、俊彦君は、強気のしゃべりをやめない。彼はこれほどの事態の急展開に狼狽していないのだろうか。

 彼はスマホを二台、バッグから取り出した。何がしたいのか、私はすぐにはわからなかった。

 スマホから流れてきた音声は、男たちのだみ声ばかり。上司や人事部長らの暴言だった。

 以前、「やばいことをしたね」と彼に告げて、幹部の逆鱗に触れかねないから、そんなものは出さないほうがいいと指示した、暴言の録音だった。

 彼は今、自分の判断でそれを武器にしようとしている。ある意味、捨て身の行動だ。

「このS社のスマホは、常時録音機能がついています。開始するとき、スイッチ操作は必要ありません。常に録音が継続していて、残したい音声があれば後で保存できます」

 弁護士は、もう私には目もくれなかった。

 録音は一分……三分……五分を過ぎても続いた。よくもまあ、弾切れにもならず次から次と悪口が出てくるものだ。

 弁護士の顔から横柄な色が消えていった。

「録音記録は別のレコーダーにたくさん移してあります。それも聞きますか?」

「いや、もういい。ちょっと君だけ、それを持って私と一緒に来てくれないか」

 弁護士に促されて俊彦君は応接室を出て行った。

 後できいたら、幹部らは別室で待機し、応接室でのやり取りをモニタリングしていたそうだ。

 俊彦君は、その場で幹部らにこう迫ったという。

「私が自分の父親を連れて来ることができず、他人に頼んだことが公表されれば、マスコミで面白おかしく報道されるでしょう。ネットニュースでも騒ぎになると思います。その際は、この録音記録をもって、私が傷病休暇を取らざるを得なくなった事情を公表します」

 あの強気な幹部たちが、この交渉でどんなリアクションを示したのか知らない。

 しかしその後、「ヘルプ・チーム」と北信機械を結びつける話題が、ついぞマスコミに出ることはなかったので、大方、想像はつく。

 私と共に応接室に残された警備員たちは、罰の悪そうな顔で、私に向かって会釈しながら愛想笑いさえ見せた。

 あまりにも意外な展開で、私はほっとするというより、救世主の降臨を目にしたかのように興奮していた。

 実直で内気な青年の俊彦君が、会社の上層部を相手に啖呵を切るとは、そんな勇ましい底力を秘めていたとは知らなかった。

 タイミングも良かった。録音をまず弁護士に聞かせたことだ。

 パワハラの証拠を公表すれば、負の影響は計り知れない。弁護士なら一度くらいは、そんな案件の相談を受けたことがあるだろう。

 顧問をしている会社のほうが大事と、パワハラの証拠を握りつぶしたりすれば、法の番人としての資質が問われかねない。弁護士としての矜持を優先させなければ、つかんだばかりの弁護士人生に傷がついてしまう。

 北信の幹部にしても、いったんパワハラが報道に乗ってしまったらどうなるか。 

 一部上場とはいえ、北信は全国から優秀な学生が殺到する有名企業というわけではない。

 理系の学生は文系と異なり、優秀な学生の多くは、大学の研究室や教授個人の推薦、紹介で就職先が決まる。

 令和の現代、日本で最も必要とされる人材は、一にも二にも三にも、IT技術を駆使したAIのエキスパートだ。

 ひと世代前の古い人間が作ったお仕着せの映像や、小学生のなぞなぞを複雑にした謎解きに熱中する若者らは、進取の気性というにはいささかもの足りない。

 そんな時代の金の卵にパワハラするような会社に、自分の教え子を推薦する教授がいるだろうか?

 一方、偽計業務妨害か何かの罪で、私を警察に引き渡したところで、北信の社業にメリットは何もない。むしろ世間から笑われるだけだ。

 社員教育がうまくできず、貴重なIT技術者を使いものにならなくさせた末に、その社員本人にだまされる……どこまで間抜けな会社なんだと言われかねない。

 俊彦君は、理不尽なパワハラを経験し、精神的ダメージを受けたものの、ひと皮むけて人生観が変わったのかもしれない。

 この不公平で不正が公然とまかり通る、国の支配層からして嘘をつきまくる、ろくでもない社会で生きていくには、善意でおとなしくしていては駄目で、自分の立ち位置と権利をはっきりさせ、権力者の身勝手な言動に対して、言うべきことはその場で言わなければいけない。

 そうしないと、自分が一方的に搾取され傷つけられるだけだ。この社会は敵にあふれている。油断ならない精神の闘いの場だ。

 彼はそんなことを悟ったのではないか。



 この日、私は身元をチェックされることもなく、現場に集まった誰からも制止されることなく、あっさり放免となった。

 五人の警備員のうち、当初、私に座っていろと指示した男は、無言で右手を差し出し、軽い握手を交わしてから、全員が敬礼して送り出してくれた。

 受付の横を通ると、おばさんは、あいさつすべきかどうか迷ったのか、立ち上がりかけはしたものの、座りなおして私の姿を目で追っていた。

 俊彦君は後に、こんなメールを寄越した。

「自分は当事者だからどうなっても仕方ないけど、何とかしてあなたを守らなくちゃと思いました。こっちの世界に、あなたを引きずり込んだのは僕ですから。あなた守の人生に被害が及んだら、一生後悔すると思いました。正直、僕はあなたのような調子のいい生き方はできないし、好きじゃありません。でも、お世話になったこと、わずか一万円の日当で、親身になっていただいたことに感謝しています」

 私を巻き込んでの破滅は避けたかった……彼は自分よりも私の人生を心配してくれた。

 ただ、蛇足ながら、会社側の芝居がかった対応は、よくよく考えてみれば不自然ではあった。

 本気で我々を罪に問うつもりなら、人件費のかかる弁護士や警備員など並ばせなくとも、警察に被害届を出せばいいだけだ。

 要するに、会社をおちょくった我々に、厳しくお仕置きをすることが目的だったのかもしれない。

 結果的に、俊彦君は、自主退職を受け入れた。

 組織としては、それがギリギリの落としどころだろう。

 俊彦君は傷病手当もなくなり、収入を完全に断たれ、生活は厳しくなった。

 しかし、再就職に前向きになり、休職やブランク期間などの経歴より、現時点での実力を重視する外資系企業の日本法人などにアプローチしているという。

 折しもGAFA隆盛が一段落し、次の時代を作る新技術の開発拠点として、日本を選ぶ欧米、アジア他、世界中の企業が、日本国内の理科系の若者の採用を増やしている。

 彼のような無口な実力派は、演出されたダサい自己PRなどせずとも、正当に評価されると信じたい。

 お互いにもう無関係であることは、電話で確認したが、その後も時々、彼はどうしてるかなと思い出すことがある。

 果たして、君の未来は開けたのか……?

 本来、接点を持つことはあり得なかった純朴な理系青年の人生に、幸多かれと願う。


全能だが善人ではない神

 

 三月三〇日、埼玉県の中心部にある大きな公園の駐車場。

 関東平野は快晴の陽光の下、温かい南の風が吹き、大量の桜の花弁が散り始め、時々周囲の景色が見えなくなるほどの桜吹雪になっていた。

 かたわらにいるのは、私を「ヘルプ・チーム」に勧誘したあの竹内さん。

 私たちの前方、少し距離を置いたところに、純白で生地が薄手のロングのワンピースに身を包んだ二四歳の女性が立っている。

 すらりとした後ろ姿。白い靴のかかとはせいぜい五センチ程度で危なげが無い。肩の下あたりまで垂らした茶色がかった髪が、時折、強い風に巻き上げられ、その都度、渦を巻く桜吹雪に包み込まれたように見える。

 彼女は新潟から来る三歳年上の男性を待っている。もう約束の時間を一〇分ほど過ぎているが、春の行楽シーズンで道路が混んでいるようだ。

 なかなか姿を現さない車を待って、彼女は身じろぎもせず、駐車場の入口を見つめている。

 身長は一六〇センチを少し上回るくらいか。ほっそりしているので、ワンピースがワンサイズ大き過ぎるように見える。

 昔からある西洋風の着せ替え人形を、そのまま大きくして八頭身にしたような印象だ。

 表情はいかにもにこやかで丸みを帯びて優しい。頬の肌は触れただけで表面が切れて出血しそうに澄んでいる。 

 遠方に住むこんな女子とたまたまネットで知り合えて、親しくつき合えるようになった彼氏の舞い上がりようが想像できる。

 自分は何て運がいいんだと、思っているだろう。

 しかし……今日は、ふたりにとって特別な日になる。

 そう彼女が決めた。その決意が、きれいなうなじが印象的な、清潔な後ろ姿にみなぎっているようだった。

 竹内さんが、ぼそっと言った。

「素敵なお嬢さんなのにねえ」

「あれっ……今日は珍しいですね。いつも他人様のことをほめたりしないのに」

「私、あの娘のこと好きになったかもしれない」

「気立てが良さそうですよね。でも……」

「でも、何よ?」

「彼女、恐くないのかな。今日、我々が恋人に会った時点で、彼女の未来への希望は完全に絶たれてしまうんですよ」

「ご自分で望まれたことだから……恐いとは思ってないでしょう」

「そうだとしても、彼女の決断は『ヘルプ・チーム』が存在するからですよね。我々がいなければ、彼女はもっと考え抜いて、別の選択肢を見つけられたかもしれない」

「駆け落ちとか?」

「あの娘の性格なら、そんな無責任なことはしないでしょう」

「世の中、何をどうひっくり返しても、変えられない運命ってあるのよ」

「それは、そうかもしれませんが……」



 この案件を担当するに至ったのは、「ヘルプ・チーム」の仕事のやりがいが頂点に達しつつあったた、ある日の晩だった。

 めったに鳴らないスマホの着信音が聞こえると、何回も際どい案件を無理強いしたくせに、いざ顔を合わせるとこちらの苦労をねぎらうどころか、必ず憎まれ口をたたく、あの常に一言多いおばさんの番号が表示された。最早、最大の鬼門である。

「生きてる?」

「何ですか、そのあいさつは。お陰様で、まだ何とか生きてますよ」 

「最近、ぜんぜん会わないから、孤独死したのかなと思って」

「勝手に殺さないで下さい」

 きつい案件で、寿命が縮むような思いをしてきたのは確かだが……。

「もうね、竹内さんからの依頼はおことわりしようかと思ってるんです。あまり危ない橋は渡りたくありませんから」

「いきなり何よ、失礼ね、この恩知らず。本当に足を洗っちゃうの?」

「そういうヤクザ言葉はやめて下さい。伝染したら本業に差し支えます」

「あら? 他人様に言えないお仕事してたって言ってなかったっけ?」

「だからってヤクザとは限らないでしょう。本業でお声がかかるかもしれないので、できるだけ安全な依頼だけ受けるようにします」

「あらまあ、あなたほどの人がもったいない」

「そんなこと、微塵も思ってないでしょ。いつも口先だけなんだから」

「本当に思ってるわ。きつい仕事ばっかりやってもらったから疲れてるのよ。もうお互い、悪口はやめましょうって、銀座で約束したばかりだものね。私が癒してあげましょうか」

「いえ、それは大丈夫です。困っている人のために一生懸命、演じるのは嫌いじゃないですよ。ただ、ずっと続けられることではないかなと」

「ごめんなさいね。何か心配ごとがあるんでしょ? 何があったの」

 竹内さんが、いつになくしんみりきいて来た。

「クライアント様同士が知り合いだとか、もし後でわかったらたいへんな迷惑がかかっちゃうじゃないですか。それを考えると、急に不安になったんです。私自身の立場がどうこうということではないです」

「嘘! 一件あったでしょ。もったいぶらずに教えなさい」

 くそ! また、騙された……何なんだ、この豹変ぶりは。

「一件だけ、前橋の件ではらはらするできごとがありました。長い話でね」

「私、知ってるわよ。警察に逮捕されたでしょ」

「知ってたら、きかなきゃいいでしょう。逮捕じゃありません。群馬県警から任意で話を聞かれただけです」

「何だつまんない。逮捕されたら面白かったのに」

「悪い人だ。あなたも一蓮托生ですからね」

「それでね、今度の依頼なんだけどね。今、とんでもなく困ってる人がいるのよ」

「誰が困ってるんですか」

「私よ、私」

「相変わらず、あつかましいですね」

「今回はたいへんなの。複雑な女心の変化が理解できて、最後まで完璧に演じられる人でないと無理なのよね。あなたは人当たりは悪くないし、要領がいいから、」

「要領が良ければ、会社で出世してますよ」

「そうね、出世は無理そうね」

「けなしてるんですか、ほめてるんですか」

「ほめてるに決まってるじゃない」

「ぜんぜんうれしくないです」

「人助けだから、お願い、私たち天使なんだから、おことわりしたらクライアント様がお気の毒だわ。イタリアンのコース料理もご馳走していただけるのよ」

「またグルメですか。竹内さんの選択の基準がようやくわかってきましたよ。食事付きかどうかで選んでるでしょ。いったいどんな天使ですか」

「天使だってお腹が空くわよ」



 クライアント様の藤沢紗季さんは、埼玉県のさいたま市に住んでいる。

 さいたま市は、かつて上品な文教都市の誉れ高かった浦和市と、東京と東北、上信越をつなぐ交通の要衝である大宮市などが合併した政令指定都市だ。

 合併から何年たっても、「浦和は県庁以外草っぱらばかりで、新幹線は素通りだ」とか、「大宮のデパートにはヤンキーとギャルしかいない」といった、出身地をめぐる中傷合戦が続く、日本で最も大人げない人々が住む街だ。

 ただ、本来の埼玉オリジナルは、陰湿で皆が無口で、洒落など縁遠い土地柄だから、それに比べれば、あの映画に登場する人物はずっと洗練されている。

 依頼内容は、女性の父親として、クライアント様と、彼女の彼氏と、竹内さんと四人でレストランで会食する。時間は二時間前後。

 竹内さんは母親役かと思ったが、母方の親戚のおばさんとのことだった。

 彼氏は海外にも知られた有名な食器メーカー勤務で、地元・新潟の伝統的な物作りに従事するのが子供の頃からの夢だったそうで、新潟から他所に移ることは考えていない。 

 紗季さんとはネットで知り合ったという。

 我々が都内の喫茶店で彼女と初めて会ったのは会食予定日の一〇日前だった。

 このとき既に、彼女は決意していた。この先ずっと実家を離れるつもりはなく、結婚はしない。今の彼氏には、そう遠くない時期に別れを告げる。

 別れると決めたのに、なぜ今さらフェイクの父親やおばさんを仕立てて、彼氏に会わせる必要があるのか? 

 実は本心では彼女は別れたいと思っていなかった。

 別れたくないけど、やっぱり別れるしかない葛藤……ことここに至るまでの、クライアント様と、彼女の家族と、新潟の恋人と、それぞれの愛憎が交錯する人間模様の痛ましい帰結に、我々は胸をしめつけられる思いだった。

 運命のいたずらと言ってしまえばそれまでだが、ひどく底意地の悪い仕掛け人がいたとしか思えない。

 全能だが決して善人ではない神と、そのおぞましい気まぐれを忠実に実行する、我々とは違う種類の天使たちが、この世にはいるのだ。



 紗季さんに、出会いのきっかけについて尋ねた。 

「会食中に話題になるかもしれないので、どんなサイトか教えていただけますか。

最近の……いわゆるマッチングアプリですか?」

「ぜんぜん違います。とっても面白いサイトですよ。アニメや漫画から、フィギュアのデザインや模型を作ったり、それぞれ専門は違っていて、彼はアニメの世界観をジオラマで再現するのが得意で、本当に器用な人なんです。フィギュアもジオラマも、自分で設計して形にするって、才能がないとできません」

 解説してくれたクライアント様の顔は生き生きとしていた。

 外見はしっかりした大人の女性に見えるが、一生懸命しゃべろうとすると、ちょっと舌足らずなところがかわいらしい。

「仕事も趣味も充実してるわけですね」

「はい、尊敬してます。でも、ぜんぜんカッコよくないんですよ。俳優のムロツヨシさんに似ていて、見かけは普通の人です」

「お付き合いするようになったきっかけは?」

 竹内さんが、わき腹を小突いた。

「あなたね、『新婚さんいらっしゃい』じゃないんだから」

「構いません。きっかけは彼の匂いでした。私は匂いに敏感で、あまり男臭かったり、香水とか苦手なんですが、オフ会に行って彼の隣に座ったら、いい匂いがしたんです。昔、使ってた石鹸のようなほのかな匂い」

「彼氏さんは石鹸を持ち歩いてるの?」

「馬鹿! ごめんなさい、お嬢さん。匂いだけじゃないわね。きっと、彼は優しいんでしょう。この人みたいに他人の悪口なんか言ったりしないんでしょ?」

「フフフ……そうですね。悪口は一度も聞いたことないです」

「女の子はね、男性のそういうところにこだわるの。だからあなたはこんな年になっても……」

「竹内さんだって、人の悪口大好きじゃないですか」

「あらっそうだったかしら? ムロツヨシさんね。会うのが楽しみだわ」

 しかし、その彼氏は、長年、家庭に頭の痛い問題を抱えていた。

 母親が、ある新興宗教の熱心な信者だという。

 信心しないと不幸になると脅し、壺やお札を高値で買わせたり、高額のお布施をノルマにする、いわゆる霊感商法で社会問題になったこともある団体だ。

 父親が職場の工場で大けがをするなどの不幸が重なり、救いを求めてこの宗教にのめりこんだ。 

 父親のけがの補償金、傷病手当や保険金まで、教団に貢いでしまい、そのため、彼氏が一家の生活費の大部分を負担したこともあった。

 母親の宗教への傾倒は止まらず、それでも表向きは何とかまともな生活を保っていたが、最近になって若年性アルツハイマーの発症が判明したという。

 何の前触れもなくフッと姿を消し、徘徊することが何度か重なった。

 家から何キロも離れたスーパーのアイス売り場に入り込み、店員が気がついたときには、アイスクリームをむさぼるように食べていたこともあったという。

 そんな異常行動に走る間にも、教団から指示されるまま献金は続いていた。

 彼氏が警察に「認知症の患者に献金させるのはおかしい」と訴えても、警察は介入しようとしなかった。

 友人たちと共に教団に直談判に出向いたが、信者らから物を投げられるなどヒステリー状態で、話にならなかったという。

 そんな事情を彼氏はつき合って間もなく、彼女に打ち明けていた。

 うちの母親が、ちょっと困らせることがあるかもしれないと……。

 しかし特段、深刻に捉えられてはいなかった、あくまでふたりの間では。

 娘から遠距離恋愛を打ち明けられた紗季さんの家族は、当初は祝福ムードだった。

 だが、彼氏の家族の事情を聞かされると、両親の顔色が変わった。

 家族は昔から仲が良いそうだ。それは中学校の校長先生をしていて頼りになる母親の存在が大きかったという。

 母親は市や県の教育界で注目され、学校現場で問題が起こると、地元テレビ局にコメントを求められるほどの有名人だった。

 教育者という立場上、新興宗教などにのめりこんでしまう人々の洗脳の根深さと、それによる家庭破壊の悲劇を、彼女はたくさん見聞きしていた。

 若年性アルツハイマーについても彼女なりの知見を持っていて、脳が萎縮する体質は遺伝すると信じていた。

 実際、欧米の研究では、若年性アルツハイマーの一割程度は遺伝性であることが確認され、家族性アルツハイマーと呼ばれている。 

 彼氏は紗季さんに、母方の身内はいずれも亡くなるまで正常で、早くに発症したのは母親だけだから、遺伝の心配はないと説明していた。

 だが、医師でも研究者でもない彼氏の見立てに、裏付けがあるわけではない。

 紗季さんの母親は彼氏の家族に強い不安と不信感を抱き、自分の危機意識を娘にも共有してもらおうと説得を始めた。

 それは、母娘がより大きな苦難へと導かれる一里塚だった。

「最初は、早く家に連れてきなさいってみんなで言ってたのに……俊道さん、とても楽しみにしてるんだよ」

「相手の方の状況をよく考えなさい。結婚は単なるおつき合いとは違うのよ」

「どう違うのよ」

「精神的な問題、健康上の問題で苦しむ人は多いの。お母さんは、担当するお子さんたちを通して、様々なご病気でご家族が苦労するのをたくさん見て来たわ。毎日、その子たちの顔を見るのがつらかった。あんな切ない気持ちは、もう味わいたくないのよ」

「そのママの経験と、私の結婚とは関係ないでしょ。彼は健康で大きな病気もしたことないんだよ」

「だから、お母様のほうよ。お気の毒だけどね。ひとりにしておくと、何をするかわからないんでしょ。宗教も認知症も、本人より家族がたいへんなの」

「でも、お父様もいるし、ご兄弟もすぐ近くにいるし、警察や市の福祉の人たちとか、NPOの見まわり隊の若い人たちも、気をつけてくれているんだって。心配し過ぎだよ」

「今の生活は何とかなったとしても、母さんが恐いのは未来よ。あなたたち若いふたりがいつまでもご家族のお世話ばかりじゃ、いずれ行き詰るわ。あなたにはたいへんな思いは、これっぽっちもしてほしくない。はつらつとしていてほしいの。旅行もスポーツも自由に楽しめる生活。それがぜんぜんかなわなくて、義務ばかりの人生を送っていれば、あなたの健康すらむしばまれてしまうわ。今の好きな仕事もできなくなる。そんな人生、嫌でしょ」

「何それ……どうしてそんなふうに悪いほうにばかり考えるの? 私が俊道さんと結婚したら、旅行も行けなくなって必ず不幸になるみたいな……すっごく嫌な言い方。親なのに、そんな悲しい決めつけしないで」

「親だから言ってるんじゃないの」

 新興宗教と若年性アルツハイマー、前者は精神的な病が背景にあるとも言われる。

 後者は、最新の医学でも投薬によって進行を少し遅らせるくらいしかできない。

 そんなお姑さんがいるところへひとりで行かせたくないというのは当然の親心だろう。娘はいずれ、子育ての大きな負担も背負わなければならない。

 


 恐れから発する忌避……それをも悪しき差別と呼ぶべきだろうか。差別は上から目線の高慢ちきだが、紗季さんの母親が抱いていたのは純粋な恐怖だ。

 ただ、教育者として、あまりに多くの気の毒な家庭に接してきた経験が、恐れを必要以上に増幅させた面はあるのかもしれない。

 とはいえ、娘の人生を心配する親心は、どんな理想論を振りかざしても否定しきれるものではない。

「俊道さんとの交際には反対じゃないのよ。すぐ絶交しなさいとは言いません。でもね、いずれタイミングを見て彼の前からフェードアウトしたほうがいい。その覚悟は持っていなさいと言ってるの」

「覚悟だなんて大げさ……意味わかんない」

「あなたは社会に出たばかりじゃないの。それがネットで知り合ってすぐに好きになって結婚するって、急ぎ過ぎなのよ。もっと落ち着いて、視野を広く持ちなさい。母さんの知り合いの若い先生方にも、立派な男性が大勢いるのよ」

「私、そういうのいや。先生とか役所の人って別に何とも思ってないし……」

「それは実際に会ってないからでしょ。遊び仲間もいいけど、結婚は遊びだけじゃないんだから。そのうち母さんが、あなたを幸せにしてくれそうな人を紹介して上げるから」

 今の女性の多くは、社会的地位も収入も安定した人生を重視する。実際、結婚相手の職業として公務員は最高ランクだ。

 だが、クライアント様に、そのような価値観はなかった。

 彼女が母親に反発すればするほど、お互いの価値観の相違が露わになっていった。

 年下の娘として真正面から頑なに反発するのではなく、一時的でも母親の説得に耳を貸す態度を見せていたら、母親のほうだって、機関銃のように性急な言葉を連ねることはなかっただろう。お互いの精神的負担は、少しは軽くなっていたかもしれない。

 一途なまじめさが、自分以外の人を傷つけてしまうことがある。

 ついに実行されなかった配慮と妥協という選択肢は、後々クライアント様が自分を責め続ける、大きな災いを生むこととなった。



 娘に対する母親の説得は、毎晩のように繰り返された。

 今のうちに何とかしなければと必死だったのだろう。口調は日増しに厳しさを増したという。

「苦労するとわかりきっている結婚なんて、絶対に許しませんからね」

 ところが、ある晩、母親はいつになく元気がなかった。

「紗季、明日、また話そうね」

 そう言って、常備している頭痛薬を飲むと早めに床に就いた。

 翌朝、母親はいつも通り起きて朝食を用意し、家族を送り出した。

 クライアント様の自宅は、県道に面した戦前からある和風建築だという。梁や柱、屋根瓦などの重厚さと、引き戸と障子を多用し、ドアがなくサッシの窓もほとんど無い作りで、明治時代を描くロケに使われたこともあるそうだ。

 午前七時半ごろ、母親が出勤しようと玄関まで来たとき、急に異変が襲ったらしい。

 彼女は気を失い倒れた。脳梗塞だったという。

 あいにく、家族は皆、出勤した後で、いたずらに時間だけが過ぎていった。

 学校の朝の職員室のミーティングに校長は登校しなかったが、教職員は誰も不審に思わなかった。

 まことに皮肉なことに、校長は倒れる前に電話で、頭痛などの体調不良のため掛かりつけ医に寄ってから登校すると学校に電話していたからだ。

 しかし、午後になっても校長の姿は見えず、携帯にかけても応答がなかったため、教頭がもうひとりの先生を伴って家を訪ねた。午後二時を過ぎていたという。

 玄関に鍵はかかっていなかった。ふたりが引き戸を開けると、あと数センチのところで、校長は倒れていた。あと、わずか数センチ……。

 もし、引き戸にかろうじて手が届いて、最後の力を振り絞って開けていたら、家の前の県道は通学路であり、出勤や買い物で歩く人も多かったから、ご近所さんか通りがかりの誰かが異変を察知したかもしれない。

 だが、善人ではない神は、そのわずかな可能性をも無情に切り捨てていた。

 教頭は、意識のない校長をうかつに動かすことは危険と判断し、そのままにして消防に通報し、救急車を待った。

 駆けつけた救急隊員が慎重に病院に搬送するまで、結局、三時頃まで時間がかかってしまった。

 脳のダメージが進んでおり、奇跡的に命はとりとめたものの、重度の全身麻痺が残った。

 自発呼吸は困難でサチュレーションが八四と低く、常時人工呼吸器が必要だが、目を開いたり唇や瞼が動くことはある。

 だが、そんな動作が、彼女の意志を表すものかどうかはわからないと専門医は言った。



 一家の生活は一変した。

 父親は建設会社に勤めていたが、出張の多い仕事と介護が両立できるはずもなく、会社を早期退職した。

 変わってしまった妻の姿を他人の目にさらすことを嫌がり、介護は主に父とクライアント様と、既に他家に嫁いでいる姉の三人で交代で行うことになった。

 三人がどうしてもしんどいときは、介護福祉士やヘルパーに頼むこともあったが、三人のうち誰かが立ち会うと決めていた。

 クライアント様は家の家事を一手に引き受け、治療費の足しにするため会社勤めを続け、その他の時間はできるだけ母親の世話をした。

 家族は皆、疲弊するばかりで、母親の状況を知らせる以外、会話はほとんどなくなった。

 父親はかつて、娘の恋人について、自分の仕事を立派にこなしながら親のめんどうもみる、今時、よくできた青年だと評価したこともあった。

 娘の気持ちにできるだけ寄り添いたい、支えになってやりたいという父親らしい気持ちもあり、母娘の議論に加わることは避けていた。

 だが、最愛の妻が倒れてからは、考えが変わり感情的になってしまった。

 なぜ、誰からも頼られるしっかりして聡明な女性だった妻が寝たきりになってしまったのか? 食事の献立や運動など健康なライフスタイルを心掛け、病気など無縁な人だったのに、どうして急に、こんなことになってしまったのか? 

 おかしいではないか! まだ五八歳と若いのに……。 

 気持ちが落ち着かなくなり、心身に過剰な負担が、かかったからではないのか?

 そうだ、原因は……娘の男だ。

 娘がふさわしくない男との結婚話に固執したことで、妻の心労が重なった。

 父親はまだ会ってもいない男を、心の底から憎むようになった。

 一日が終り、次の日になろうとする頃には、疲れをいやそうと、以前は酒量をセーブしていたのに、日本酒をグラスに並々と注いであおるようになった。

 それは悲嘆にむせぶ酒か、あるいは恨み酒だったか。

 父親は、娘の前で一度だけ、ひとりごとの愚痴とも、叱責ともとれる言葉を口にした。それは、親として決して言ってはいけないことだった。

「お母さんが、あんなことになったのは、余計な気苦労を負わせたからだ。おまえがろくでもない男にだまされて……お母さんが守ってきたこの家も、家族の幸せももう何もかも終りだ。いずれは結婚したいと、おまえは思っているかもしれないが絶対に許さん。その男の顔も見たくない」

 間もなく、家族だけでなく近場に住む身内も集まり、新潟の男との結婚は認めないと彼女に告げた。

 事ここに至っても、そんな男に走るのであれば、この家の敷居は二度とまたがせないと……。



 一通り説明を終えたクライアント様は、あわただしく家に帰って行った。

 案件の内容があまりにも衝撃的で、我々はすぐに席を立つ気にはなれなかった。

「悪く言えば、家族によるつるし上げよね。あの子は何も悪いことしてないのに……」

 と、竹内さんは、疲れた顔で言った。

 二四歳の若い女性が、家族や親戚から非難と圧迫を受けて、平常心を保っていられることが驚異だった。

 一族の意向には従うと決めたものの、まだ恋人には伝えていない。

 変わらない好意を示してくれる彼氏を傷つけたくない。傷つくのは自分ひとりだけでいいと彼女は言った。

 そんな彼女の気遣いについて「立派ですね」と漏らすと、竹内さんは感動するでもなく、意外なことを口にした。

「新潟の彼氏さんだけどね。私ね、その男、ずるいんじゃないかと思う」

「な、何を言い出すんです。どうしてずるいなんて言うんですか?」

「家庭の事情をね、どうして早めに彼女に説明する必要があったのかってこと。だって、それで自分の肩の荷は下せただろうけど、彼女に全部背負わせて、次に彼女のお母様に背負わせちゃったんでしょ。そんなの絶対ずるいわよ。誠実なんてきれいごとで済ませるのは違うと思う」

「じゃあ、どうすれば良かったと言うんですか?」

「それぞれの家庭の事情なんて、どうせおいおいわかってくるものよ。だから、わざわざ一度にすべて告白するなんて性急な行動は、すべきじゃなかったと思う。時間がたてば家族同士の理解も自然に深まってくるんだから、今は放っといたほうが良かったのよ。それに、希望的観測かもしれないけど、息子が結婚するとなったら、それが刺激になって向こうのお母さんも少しは変わったかもしれないし」

「う~ん、そんな、なし崩し的にうまくいくことってあるのかな……」

「逆よ、逆。あなたはドラマの見すぎです。ドラマみたいに、一言で劇的に人生が変わるケースなんてそうそうないんだから。現実には流れに身を任せる人がほとんどでしょう。おとなしくしてりゃいいのに、僕って偉いだろみたいな……迷惑だよ。紗季さんのお母さんの立場になってみなさいな。娘の恋人に会ってもいない段階で、相手の家の良くない話をいきなり聞かされるってどうなの? お母様はびっくりしちゃったのよ。それがずっと尾を引いてたんじゃないかな」

「男の側に甘えがあったと……?」

「そう。甘えなのよ。同情してほしかったのよ」

「そこまできつく言わなくても……彼はずっと苦労して来たんでしょ。竹内さんはいつもクライアント様の心情には無関心でドライなのに、今回は珍しく踏み込みますね」

「だって気の毒じゃない。彼氏がもう少し気のまわる男だったらさ、こんな最悪の結果にならなかったでしょう」

「厳しいなあ。完璧な人間なんかいないし、未来を予測できる人もいません。今みたいな悪口、彼氏さんに直接言わないで下さいよ」

「ご本人に言うわけないじゃない。あくまでお仕事ですからね」

 クライアント様は、彼氏と過ごす時間を、まだ失いたくはなかった。今の彼女にとってそれが唯一のやすらぎだったから。

 ところが、彼女のモラトリアムは思わぬ問題を引き起こした。

 彼氏は彼女の家庭がたいへんな事態になっていることは薄々わかっていたが、

「自分もできるだけ協力するから。どんな状況でも僕たちふたり一緒ならやっていける。お父さんやお姉さんにぜひ会って、今後のことを話したい」

 と、姿勢はあくまで前向きだった。

 母親のことで周囲から色眼鏡で見られることもあっただろうが、今までめげずに立ち向かって来たという自負が彼にはあるのだろう。

 だからこそ、彼女の実家の苦難にも、自分なら役に立てると考えた。

 第三者から見ればその意気やよしだが、彼女の母親の心労を引き起こしたというレッテルが貼られている。

 それを自覚していない彼氏は、すぐにでも彼女の家にお見舞いに行きたいと強く望み、あまつさえ、こんなことまで言い始めたという。

「サプライズで、お父さんたちにごあいさつに行っちゃおうかな」

 彼にしてみれば、恋愛ドラマや漫画のストーリーに触発された、冗談半分であったのかもしれない。

 だが、クライアント様は息が詰まりそうになるほど驚き、困惑した。

 本当に彼氏が家に来てしまったら、家族の憎悪と、彼氏の困惑と落胆は収拾がつかないほどの混乱を引き起こすに違いない。

 彼を傷つけずに、あふれんばかりの意欲をいったん収めてもらうためには、家族と会わせるしかない。

 そう、偽者の家族と……。  

 彼氏との会食はレストランで行い、実家に呼べないことについては、

「家の中が荒れてしまっているので、落ち着けないから」

 と彼氏に説明する。

 彼氏の実家の状況については、いっさい話題にしてはいけないとクライアント様に口止めされた。

 もし彼氏が、悲劇の起点は自分だったのかと感づいて、自分を責めるようなことになったら嫌だからと彼女は言った。

 自分が逆境にあるのに、相手の気持ちを心配する。あくまで優しい女性。

 そんな彼女の、本当の願いに思いを致すと、こちらもどうしていいかわからなくなりそうだ。

 我々が彼女の依頼をかなえたところで、彼女にとって何もいいことはない。

 今までの個人的な案件では、その先には必ず、クライアント様の希望の実現が見えていた。

 今回はそうではない。成功の先に控えているのは、今よりさらに暗澹とした未来だ。

 これでいいのか……胸の中のモヤモヤはつのるばかりだ。


 

 約束の日曜日、めったに着ない紺のスーツにネクタイをして、身なりを整えた。

 スーツはアナウンサーの制服のようなものだが、最近は副業の日雇い労働ばかりのせいか、どうも体にしっくりこない。

 大宮駅のコンコースにあるコーヒー店。竹内さんは、茶色のアンサンブルという、これ以上ないくらいのお年寄りフアッションでやって来た。

「先日会ってから一〇日しかたってないのに、ずい分老けましたね」

「失礼な……わざわざ日暮里まで行って一番地味な服を買ってきたのよ」

「はあ、そこはどうでもいいような」

「できるだけ彼氏の印象に残らないようにって思ったの。私たちのことは、すぐに忘れてもらわなきゃいけないんだから」

「そりゃそうですね……」

「明るい顔でしゃべり過ぎないでね。変に期待持たせたらいけないわ」

「少し心配になってきました。『娘さんを下さい』なんて言われたら、返答に困ってしまいますよね。関係がここまで複雑にからんでると……」

「親の代役はたくさんやってきたじゃない。あなたなら自然にできるわよ」

「竹内さんは先日、彼氏さんへの不満をぶつくさ言ってましたが……」

「その言い方! あれはね、女として見た個人的な感想。今日は何も考えずに自然体でいるわ」

 竹内さんが急に視線をそらして立ち上がった。

 目の覚めるような雪のように白いクライアント様の姿があった。

「今日はよろしくお願いします。父が家を出るのを見届けてから来ましたので、少し遅刻してしまいました。すみません」

「こちらこそよろしくお願いします。どうでしょう。服装とか見た目はこれで問題ないですか」

「ええ、いいと思います」

「こちらはどうです? あなたのおばさんにしては老け過ぎかなって思うんですけど……」

「また言った! この人いつも、すぐ口を滑らせて他人様を傷付けるんだから。外に出ると必ず嫌われるタイプ」

「うるさいです。竹内さんは賢いのに、私の見方だけは頓珍漢ですね」

「人にはね、自然とにじみ出るものがあるのよ」

「汗とか」

「ああ、はいはい。そうね、脇の下とかね……ってボケてる場合じゃないでしょ。今日は特に気をつけなさいよ! 絶対に余計な事言っちゃダメだからね」

「そこはお互い様ですよ」

 クライアント様が笑っていた。でも、本気で笑ってはいない。表情がさびしげでうつろだ。

 築き上げてきた家族との信頼、彼氏との信頼を自ら幻にしてしまったら、彼女はこれから何を支えにして生きていくのだろう。



 それにしても、不思議だなぁと思っていた。

 クライアント様の顔や姿勢のどこにも疲弊した様子がない。

 OLとしての仕事と家事全般と介護。すべて引き受けていたら体がもたないと思うし、女性の表情は正直だ。強い心労があれば、すぐに顔色が悪くなる。

 多少、大げさに言えば肌が土気色になって、化粧の乗りも悪くなり、心中の闇を隠しようもなくなる。

 彼女はどうやって、自分をコントロールしているのだろう。

「彼氏さんは直接、レストランに来られるんですね」

「はい、ネットで場所は確認したそうです」

 不思議のもうひとつの種はこれだ。彼女の受けごたえが、あまりにも淡々としている。いや、淡々とし過ぎてはいないか。 

 大宮駅から一〇分ほど歩いた、素朴で閑静なサクラ公園。周辺の住宅地に華美な高級感はないが、車通りが少なく落ち着いた雰囲気が好ましい。

 クライアント様が予約したレストランは、公園のすぐ向かいにあった。

 広めの対面通行の道路に面して駐車場があり、そこで待っていたが、彼氏からさらに一五分ほど遅れると連絡があり、とりあえず三人で先に店に向かった。

 店は一見したところ、フランス・プロバンスの農家風の趣。公園の緑の中を散歩する人々が借景になっていて、ロケーションといい、建物といい、彼女のセンスの良さがうかがえる。

 年期を感じさせる、白く粉を吹いたようなレンガ・タイル。チョコレート色の材木に真っ白な漆喰壁。入り口の脇にはワイン樽。その上に無造作に置かれたザルには、たくさんのコルク栓。

 麦やパプリカ、ニンニクなどの食材を乾燥させ、大きなお皿に盛られている。 

 店内に入ると、粗削りのむくの材木を使ったテーブルセットが六つ並んでいた。

 食卓も椅子も小さめで、自然木を組んだような素朴な作りが家庭的な雰囲気を醸し出す。

 一番奥の窓際、リザーブドと書かれたテーブル席についた。

 我々のすぐ後に、彼氏は走ってやってきた。   

 外光を背中に浴びて、思ったより小柄な青年が立っている。

 小太りと中肉中背の中間のような筋肉質のスタイル。彼女が言うように、すらっとして面長の今風なイケメンではないが、笑顔から受けた第一印象は、陽気でひょうひょうとした好人物のようだ。

 黒のスーツ上下に白いシャツ姿は定番だが清々しい。

 どれも新品らしく、しわひとつない。この日のために気合を入れてきたのだろう。

「こんにちは。父の孝雄です。こっちは私の姉の涼子です。紗季にとってはおばになります」

「初めまして、北条俊道と申します。よろしくお願い致します」

「どっかで聞いたことあるようなお名前ですね」

「ルーツをたどれば戦国時代の武将なんだそうです。北条氏と言えば小田原が有名ですが、落ち武者が新潟に移ったようです。どうして新潟だったのか、倉にある古文書には書かれているようですが、解読できる人間がいなくてわからないんです。そのため、父は時代劇や大河ドラマをたくさん見て。ヒントを探しているそうです。単に時代劇が好きなだけじゃないかと思いますけどね」

 彼の声は控えめに抑えた感じで、温厚な性格を表すように耳障りがよい。

「そう、あなたも時代劇がお好きなんですか?」

「いや。僕はもっぱらハリウッド映画ですね。ジオラマを作りやすいんですよ。日本より大雑把なところがあって……」

 クライアント様が楽しそうに微笑みながら、言葉を継いだ。

「西部劇のワンシーンを切り取ったジオラマをたくさん作ってて。凄いですよ、駅馬車とか、明日に向かって撃てとか、シェーンとか……」

「昔のハリウッドのほうが人間ドラマに優しさがありましたよね。特にシェーンなんて、今のハリウッドでは絶対に作られないストーリーです。だからジオラマの作りがいがあるんです」

 ていねいな物腰や、整然としてはっきりした語り口に好感が持てる。

 自分の考えをしっかり持っていて、笑顔を絶やさず社交的で頭もいい。

(どうしよう。こんな青年を傷つけなければいけないのか。もっと馬鹿丸出しのお坊ちゃんなら気にならなかったのに……) 

 


 四人一緒に席について、丸テーブルを囲んだ。

「遠くまで来ていただいて……お疲れなんじゃないですか」

「お父さん、疲れるなんて……」

「お、お父さん?」

「ええ、お父さん。もう昨夜から興奮状態ですから、疲れてなんかいられません」

「そ、それはまた……」

 いきなり「お父さん」と呼ばれて、とまどってしまった。

 こんなセリフがけれんみなく自然に出て来るのは人慣れした人物でないと無理だ。

 普段から、もの怖じなどしないのだろう。だからこそ、早く家族に会わせてほしいと熱心に望んだ。

 しかし、彼女がすぐに来訪を承諾しなかったという時点で、立ち止まって考えるべきではなかったか。

 自分が彼女に疎まれているのではないとしたら、彼女の側に何かのっぴきならない事情があるのではないかと……。

 想像力が少々足りないのか? というより、真っすぐで裏読みなどしたがらない性格なのかもしれない。若いのだからそれもありだろう。

 キャラを素直に受け止めれば、堅苦しくもなく、遊び人風でもなく、一本筋が通ったしっかりした男で、これで伝統工芸のエキスパートとくれば、もし、私が自分の娘から彼氏と紹介されても、失望はしないだろう。

「ここはいい店ですね」

「彼女が……いや、娘が見つけて来たんですよ」

「さいたま市はいいですね。田舎とは違います」

「今時、フレンチやイタリアンの店は、どこの地方にもあるでしょう」

「そうでも無いですよ。お父さん」

 また、お父さん、か……ちらっとクライアント様を見ると、彼氏の横顔を一心に見つめている。

 彼氏の発言にとまどった様子はない。「お父さん」と信じて疑わない彼氏を、彼女は楽しげに見守っている。

 これで最後になるかもしれない彼氏との逢瀬。

 それでも、とうに迷いを振り切った彼女には、嘘偽りのない形で実現するはずだったこの光景が、好ましいドラマのように見えているのだろうか。

「お料理はコースを予約してありますから、何か飲み物を……」

「私はお酒はちょっと……」

 と、竹内さんは左手を小さく左右に振った。

「いやいや、こういう席では皆で一杯、開けないとね」

「何言ってるの。お車で来られてるのよ」 

「えっ、ああそうだった。じゃあ、ワインを軽く一口だけにしようか」

 乾杯ひとつでグダグダな会話。

「それだったらいっそのことシャンパンにしましょう。ねえ、お父さん」

「シャンパンはねえ……結婚披露宴の乾杯で飲むものだけど、あなたは何でも気が早いなぁ」

 アハハハ……と彼氏はひとり大笑いしつつ、クライアント様と視線を交わしている。

 我々は笑えなかった。痛ましくて、そこまでは合せられなかった。



 料理が運ばれてきた。前菜は、定番の魚介のマリネや、など。

 シャンパンをほんの一口飲んだ後、彼氏に向き合った。先手を打って、今の状況を説明しておかねばと思った。

「今日は新潟からわざわざ来ていただいて感謝してます。娘とは誠実におつき合いしていただいてるようで、親としては安心しています」

「お父さん、こちらこそありがとうございます。実は、できるだけ早くこちらへ来たかったのは、こんなきれいなお嬢さんを、東京の連中がほっとかないだろうと心配したからなんですよ。皆さんのご迷惑になりましたらお詫びします」

「いやいや、詫びはいらんよ。ただ、そうだねえ……率直に実情を言いますと、ご存知のような事情で、今はもう家族みんながいっぱいいっぱいなんですよ。家族で新しいステップに進むのは、私たちには身心共に困難な状況です。この娘が家から出てしまったら、どうなってしまうか……いつまでもこんな状態が続くわけではないと思いますが、状況が落ち着くまで、もう少し待っていただけませんか」

 青年の顔からみるみる笑みが消え、つばを飲み込む音が聞こえたような気がした。

 今日、彼はどこまでことを進められると期待していたのだろう。

 事態が好転する材料は、何ひとつ無いというのに。

「うちも厳しいと言えば、厳しいんですが……」

「ある程度、話は聞いています。だいぶご苦労されたそうですね」

「いえ、大丈夫です。僕は平気ですから。お父さん、どうでしょう。当面、式や披露宴はできなくても、早めに籍だけ入れて、きちんとしたいのですが」

(そうか、そうやって食い下がってくるのか……どうにもならない現実と未来が、君には見えていないのか。もう「明日」はないんだ)

 すがるような目だった。置いていかれた子供が必死に母親を追いかけるような。

「本当に申し訳ないが、さっきも言ったように、まだ前に進めるタイミングではないんですよ。この先、家庭をどう立て直していくのか、親族も交えて皆で話し合っている最中です。倒れた妻の容体が少しづつでも良くなるように、皆ができるだけのことをしなければいけません。妻があんなことになってしまったのは、家族全員の責任ですから。それは、娘が一番よくわかっていると思います」

 流れるように予定稿を口に出してしまってから、ハッと気づいた。

 竹内さんが嘆き悲しむように下を向いてかすかに首を振っている。それは義理の妹の境遇を嘆いての演技ではない。

 私が遠まわしにクライアント様が傷つくような発言を、不用意にしてしまったことを嘆いているのではないか。最後のフレーズは言うべきではなかった。失態だ。

 彼氏は返答を考えあぐねていた。

「俊道さん、大丈夫ですか? がっかりさせてしまったなら申し訳ない」

「いや、平気です。ただ、ひとつだけ後悔してます」

(後悔だって……いったい何を言い出そうとしているのか)

「こういうときは、うまい酒で気分を変えたいですよね。車で来なきゃよかったです。新潟に帰ったら、地酒を飲みまくりますよ」

 私と竹内さんは、やっぱり笑えなかった。

 クライアント様だけが、かすかに微笑んでいた。

 空気はどうしようもなく重くなっていた。

 支払いはまとめて私がした。事前に少し多めの額を、彼女から預かっている。

 後日、清算する予定だ。

 レストランの外へ出ると、風は幾分強まったものの気持ちのいい天気で、少し公園のわき道を散歩することになった。

 四人で歩道を歩くのは不思議な気分だ。

 恋人同士は前を行き、私たちはそのすぐ後ろをついて行く。

 ふたりの後ろ姿は、肩を寄せ合い頬がぶつかりそうになるくらい接近し、目と目を見合わせ、幸せにあふれたカップルに見える。

 そう言えば、ふたりきりで最後の旅行に行ければいいなと、クライアント様は言っていた。沖縄か北海道に、二泊三日くらい行きたいと……。

 でも、今日を境に、そのささやかな願いもかなわなくなるだろう。もちろん彼女自身も、それはわかっているだろう。

 我々が呼ばれたのは、彼氏を排除するためなのだから。

 なぜ、こんなに若い善良なふたりの人生に、逆境がつきまとうのか。 

 多くの宗教家は言う。前世からの「因縁」がもたらす「業」なるものがあると。

 だが、そんなものが今の時代に生きる若者に、どんな影響があるというのか。


 ひとしきり公園の遊歩道を散歩して、駐車場に戻ってきた。

 これで彼を無事に送り出せば、我々の任務は完了だ。

 ところが、彼の車のそばまで来たとき……、

「せっかくですから、皆さんをご自宅までお送りします」

 驚きを顔に出さないようにして、竹内さんと顔を見合わせた。

 危険だ。自宅まで送ってもらって、「はい、さようなら」というわけにはいかない。

 それに、自宅にはクライアント様のお姉さんやその家族、介護士さんもいるかもしれない。

 我々と初対面でも、まったく臆することのなかった彼のことだ。

「一目、お母さんにごあいさつだけでも」

 などと言い出しかねない。

 クライアント様は、何も言えずにうつむいた。彼女からは、ことわりにくいだろう。ことわる理由が無い。

 そのとき……、

「あのね、お気持ちはうれしいんだけど……ご近所の目もあるしね。いろいろご迷惑をおかけしますって、あいさつまわりしたばかりなのよ。しばらくは目立たないようにしていたいの。私が言ってる意味、わかっていただけるかしら? 本当にごめんなさいね」

 竹内さんの、精一杯優しい声での返しだった。

 しかし、冷たい。とてつもなく冷酷な響きだ。彼の表情に陰がさした。

終わりに見た街  

 金曜日の夜八時をまわったころ、竹内さんから電話がかかってきた。「ヘルプ・チームへ」の依頼は週末の夜が多い。

 クライアント様の心境を察するに、昼間、お天道様の下では、他人様をあざむくことがはばかられ、決心がつかないのだろう。

 しかし、週末の夜ともなれば解放感もあり、最後は夜景と酒、そして外を歩く人々の幸せそうな顔が、クライアント様の背中を押すのかもしれない。

 今回のクライアント様は東京・新宿区に住む三五歳・独身の女性会社員だ。

 依頼内容は、

「女性の父親として二時間、彼女ともうひとりの女性と三人で会食すること」

 ふたりの女性の関係は特別だ。依頼内容のあまりの意外さに、しばらく茫然としてしまった。

 ふたりはいわゆるLGBT(性的少数者)のレズビアンであり、クライアント様はその男性的立場の女性。

 どちらがどっちなのか混乱するので、便宜上、クライアント様を「彼氏」と呼ぼう。

 彼氏のお相手の「彼女」は長野県に住む三二歳、やはり会社員の女性。

 一年前に、LGBTばかりが集うマッチングアプリで知り合い、交際することになったという。

「ねえねえ、ふたりがどんな関係性なのか、興味ある?」

「そりゃ予備知識として知っておきたいですよ」

「純粋に愛し合って一生を誓い合った仲だそうよ。あなた、性的偏見を持ってないでしょうね」

「失礼な! 私は職業がら、偏見なんか微塵も持っていません。言っていいことと悪いことがありますよ」

「急に怒らないでよ。あなたに危ない性癖がないかどうか尋ねただけなんだから」

「ちょっと何言ってんのかわかりません」

「ごめんね、つまんないこときいて」

「ぜんぜんつまんないことじゃないです。人の尊厳に関わる大事なことです」

「あらっ、突然、優等生になっちゃって。もっとダメな人だと思ってたのに……だって、その年まで女性とお付き合いしたことないんでしょ」

「今の発言は、男性に対するド偏見です。言わせてもらいますが。竹内さんのほうがよほど差別主義です」

「話の流れで、ポロッと言っただけじゃない」

「そのポロッとがいけないんですよ。その甘さを排除しない限り、世の中から差別や偏見はなくなりません」

「役所の啓発イベントみたいだけど……ちょっとあなたのこと、見直したわ」

 なぜ彼氏には父親の身代わりが必要なのか? 父親はご存命だという。なぜ、本ものの父親ではダメなのか。

 彼氏がLGBTであることを、父親が理解してくれないというなら腑に落ちる。

 しかし、彼氏の言によれば、父親は優しく、彼氏のどんな選択にも理解を示してくれる人だそうだ。

 彼女との交際にも反対していない。

 だが、三人での会食には来ない。

 理屈では理解していても、感性では戸惑っているのだろうか。 

 長野の彼女の家庭の事情はといえば、この先、彼氏と一緒になることの前提として、双方の家族の理解を得たいと望んでいるという。

 身内から離れて孤立するのは嫌ということだろう。そのため、ふたりの関係を、それぞれが親に認めてもらうことが、一緒になる必要条件となる。

 つまり、彼氏は自分の「父親」を、どうしても彼女と会わせなければならない。

「ご依頼の趣旨は何とか理解できるんですが、クライアント様の話がすべて本当なのかどうか、理屈に合わないからちょっと不安なんですよね。後々、何かとんでもないことにならないかと……」

「今まで理屈に合わないことばかりだったじゃない。あなたはいつものように、良きパパを演じたらいいわ」

 竹内さんの声が、いつもより力が弱い。やはり彼女も、何か不穏な空気を感じているのかもしれない。

「三〇代の女性同士で、ふたり共会社員で、立派な大人なんだから。あまり非常識なことはしないでしょう」

「それは、私もそう思いたいですよ。ただ、アブノ……いや、そんな言い方しちゃいけないのか。おふたりの『特別な関係』を理解しているはずの父親が、会いたがらないというのがひっかかるんですよ。何か秘密があるはずです」

「私たちのお仕事で、何も秘密がなかったことなんてあった?」

「そうですね。現場に行ってから、びっくりしてばかりでしたね。でも、今回の秘密は奥が深そうです」

「じゃあ、おことわりする?」

「いや、やりましょう。その代わり、今回が最後ということで」

「やっぱりやめるつもりなの? もったいないな……」

 竹内さんはいつになく控え目な言い方で、本当に私のフエードアウトを惜しんでくれているようだった。

 それはともかく、人は引き際が大事とよく言われる。

 今回のクライアント様は、自己実現のため、入念なプランを立てた上で、「ヘルプ・チーム」に依頼した。

 派遣された私がその計画通りにうまくやれなければ、彼氏が事件の引き金を引くことはなかっただろう。

 そう、手を引くのは、一歩遅かったのだ。


 翌日、追加の情報がもたらされた。

 彼女さんのほうは両親と姉妹四人の、仲の良い円満な家庭で育ったという。そんな家族に彼氏はすでに紹介されている。

 彼氏のほうは、現状、家族と呼べるのは父親だけで、別居している。 

 彼氏の交際に矛盾する意向を示している父親とは、いったいどんな人物なのだろう。

会食は二時間と決められ、彼氏からは、絶対に途中で帰るなと指示されている。

 父親が短時間で帰ってしまうと、彼女さんが父親から嫌われたと思って不安になってしまうからというのがその理由。繊細な人のようだ。

 そうした気使いができる彼氏は、男性の彼氏より彼氏らしいのかもしれない。

 微笑ましくもあるが、家族同士、理解しあってが理想形というのであれば、先々、私が呼び出される可能性はないのだろうか。

「ああ、それはご心配なく。父親を彼女に会わせるのは今回一度限りと決めてるそうで、その後は絶対にありえないそうよ」

「はあ? またですか。絶対ありえない、なんて断言できないと思いますけど、うのみにしちゃっていいんですか」

「いいえ、絶対にないんですって。そこまで言うんだから、ないんでしょ」」

「理由になってませんよ。本当の父親との親子の縁はどうするんですか。この方が一方的に切れるんですか」

「まあ……そこはぜんぜん触れてなかったわね」

「じゃあどうして『絶対にありえない』なんて言えるんですか」

「知らないわよ……これ以上のことは、当日、ご本人にきいて下さい」

 竹内さんの説明は、肝心なことになると中途半端で終わってしまう。

 実はそれもまた、彼氏の大胆なプランの秘密が原因であることに、思いが及ぶことはなかった。

 親子の関係のつかみどころのなさからくる不安は消えない。 

 だが、依頼を受けると本人に伝わっている以上、今になって私がことわれば、彼氏はがっかりするだろう。


 それに、あえて告白すると、私はLGBTの方々とは浅からぬご縁がある。

 若いころ、真剣にアプローチされたことが何度かあった。

 実は昔から「隠れLGBT」の方々は、とても多かったのではないか。

 私は女性に愛されたためしはぜんぜんなかったので、もしかすると、自分自身もホモセクシャルなのかと疑った時期もあった。

 しかし、いくら男性から求愛されても、ぜんぜん気持ちが高ぶらなかったので、素質があったわけではない。

 最初は大学二年のときだった。

 中国地方や九州をまわるひとり旅の途中、宿泊した広島のユースホステルで、米国人の五〇歳くらいの大学教授と知り合った。

 というより、他に宿泊客がいなかったので、自然にふたりで会話することとなった。

 宿のペアレントは英語が苦手で、食事や風呂など彼の身のまわりのお世話を頼まれた。

 私だって英語はさほど得意ではなかったが、夕食後にお互いの趣味や、住んでいる地域のことなどを平易な単語で語り合った。

 相手は聡明な教授らしく、私に合せてゆっくりしゃべってくれる包容力のある穏やかな紳士だった。

 その夜、二段ベッドが四つ並ぶひとつの部屋に、私と教授は少し離れて寝た。

 消灯後しばらくして、教授がベッドから起き出してドアを開け閉めする音が聞こえた。

 トイレに行ったのかと思っていたら違った。

 教授は足音を忍ばせて私のベッドの前に来ると、カーテンをそっと開けるや、顔を押しつけて私の頬や唇にキスを始めた。

 彼がドアを開けたのは、廊下に人がいないことを確かめるためだったのだ。

 彼はさらに全身でおおいかぶさろうとしたので、ようやく本格的な肉体関係を求められていることに気付き、「ノー、ノー」と言いながら顔の前で両手を振った。

 教授は驚いた様子でベッドを降りると振り返り、がっかり感のこもった声で、

「イージリイ(落ち着いて)」

 と繰り返しながらカーテンを閉め、自分のベッドに戻ってくれた。

 翌朝、私が目覚めたときには彼はすでに出発していて、米国シアトルの住所が書かれたメモをペアレントに残していた。

「米国に旅行したら、ぜひ私の家にも来て下さい」

 そのとき私の脳裏には、前夜の教授の、ある一言が鮮明に浮かび上がった。

「日本人の女性は好きですか」

 と私がきいたとき、彼は確かにこう言ったのだ。

「アイ・プリファー・ラ・マン(私は男のほうが好きだ)」

 外国人だけではなかった。後々日本人の何人かの男性にも私は求愛されることとなる。

 下宿の近所の八百屋の旦那さんと仲良くしていたら、夜中に街灯の傍にただずんでいるのを見かけて、どうかしましたかと尋ねた。

「恋しくてたまらないんです。部屋に行ってもいいですか」

 昼間の威勢の良い声とはぜんぜん違う、消え入りそうな、へりくだったような声の響きにとまどった。

 しかし、普段、大好きなきゅうりやナスの浅漬けなどをサービスしてもらっていたので、部屋に上がってもらい、ふたりでコーヒーを飲んだ。

 旦那さんは身長は一八〇センチ以上あって、がっちりした体格で、間近で見るとプロレスラーのようだった。

 襲われたら逃げようと身構えていたが、彼もソフト・ホモだったのか、その晩は語り合っただけで、外が明るくなる前に仕入れに出て行った。

 だが、ホモセクシュアルがプラトニックラブで済むことはありえないとわかっている。申し訳なかったが、三日後には引っ越した。  

 それ以後も、男性に告白されることは何度かあったが、いずれの方々も紳士的だった。LGBTの方々のやむにやまれぬ愛情は、とても純粋で真剣だと知った。

 だから、双方の感覚が一致する良い相手と出会えるなら、まさしくハッピーだ。

 彼氏と彼女も、そんな幸せの入口に立っているのだろうか。

 


 彼氏は自分の生い立ちについて、竹内さんには一通り説明したものの、矛盾ばかりで彼女もいぶかっていた。

 彼氏が幼いときに両親が離婚し、母親は家を出た。

 それからしばらくは祖母が彼氏のめんどうを見てくれたが、小学生になる直前に亡くなり、それからはずっと父親とふたりきりの生活だった。

「お父さんは東京メトロの谷底大橋駅の近くで洋食レストランのオーナーシェフをしているそうよ。もう四〇年近くやってる店で、値段が安くて美味しいと評判ですって。あなた、家が近くだから、食事がてら行ってみたらどう? どうせいつも侘しいひとり飯なんでしょ」

「どうせ、って何ですか。侘しいも余計です。私はまだ、孤独老人と決まったわけじゃありません」

「ぷっ、無理しちゃって……」

「うるさいですよ。今さらですが、あなたは他人様に物事を頼む作法が、失礼極まりないです」

 竹内さんは、電話の向こうで、突然静かになった。

「また……そうやって、女をいじめるんですか」

 女優泣きであることは十分にわかっている。まったくもって、めんどくさい。

「わかりました、わかりましたよ。一度、食べに行ったらいいんでしょ」

 自分が演じる予定のクライアント様の本当の身内に、事前に会ったことはない。

 彼氏にも、このことは報告していない。

 のちに私は、報告しなかったことを大いに後悔することとなる。

 その週の土曜日の午後、「キッチン大橋」に出かけた。

 混雑するランチと夕食の時間帯は避け、夕方の四時に地下鉄の駅を降りて店を探した。

 そこは二三区内でも、いわゆる繁華街ではなかった。

 エスカレーターもない小さな駅の狭い階段を上ると、小ぶりなマンションやアパート、ミニ戸建てが並ぶ、ゴチャゴチャした住宅密集地だった。 

 車も入れないような狭い路地が縦横に走っている。

 古びた街灯に、商店街の色あせた「のぼり旗」、雑貨や総菜などの小規模な店の看板が立ち並ぶ、クネクネしたメインストリートに人通りはほとんど無い。

 古色蒼然としたパン屋や文房具屋の中に、一軒のコンビニだけが目立つ。

 驚いたのは、今にもくずおれそうな木製のひさしに「紙屋」と書かれた店。

 二一世紀の東京にあって、木製の台の上に和紙をメインに紙類が並ぶ。

 街全体が時代のトレンドに取り残されている、というか、昭和でも戦後間もない、かなり古い時代の街……そんなレトロな印象だった。

 「キッチン大橋」は二階建ての民家の一階に店舗があり、間口は非常に狭く、外見はおよそスマートには見えなかった。

 赤い瓦のひさしの下に、枠の板が風雨で痛んでざらざらになった扉と、こじんまりした二段のみのガラスケース。

 料理サンプルは何年も掃除をしたことがないのか、ほこりをかぶって黒ずんでいる。

 見るからにまずそうで、初めて来た客はドン引きして帰ってしまうのではないか。

 かつライスが七〇〇円。カレーライスが五〇〇円。生姜焼きとチキンかつのセットが七〇〇円……料理のサンプルは六つだけで、飲み物は置かれていない。

 値付けはお手頃だが、「洋食店のオーナーシェフ」とは、いささか趣が異なる。

 ただ、店構えがボロでも、すこぶる美味しい穴場の店は全国にたくさんあるそうだから、そんな店のひとつなのかもしれない。

 お化け屋敷に入るかのように、おっかなびっくり引き戸を開けると木枠がきしむ音がした。

 右手に八席ほどのカウンターがあり、その向こうに厨房。左手には四人がけのテーブル席がふたつあるが、日焼けで赤茶けた手書きの「予約席」の紙が置かれている。昨日や今日、置かれたものではないようだ。

 何となく客を拒絶しているように感じる雰囲気だ。

 カウンターの上のソースや塩の容器は、油とホコリの汚れが目立つ。

 壁にはカレンダーと、学生が貼ったであろうイベントのポスターがある。ただ、そのイベントは五年も前のものだった。

 カウンターの向こうに立っている主人らしき男は、短く刈り上げた白髪のせいか、五〇代という割には老けた印象だ。

 下腹がつきでた体に、アクリル系の紺のセーターとポリエステルのズボンに、薄汚れた前掛け姿。

 コックさんの白い帽子をかぶっているので、かろうじて料理人とわかる。

 彼は振り向くと、興味もなさそうに前に視線を戻した。

「………」

 あいさつも笑顔もない。どうやら私は歓迎されていないようだが、どうしてこんなに不愛想なのだろう。

 躊躇していると、主人が水の入ったコップを持って来て私の目の前に置いた。

 やはり無言だ。

「か、かつライスを下さい」

 彼は返事もせずに、冷蔵庫から大きな肉の塊を取り出し、慣れた手つきで切り身にすると、たくさんの金属針のついた道具で、切り身をたたいて伸ばしはじめた。

「ご主人、ビールはどこの銘柄を置いていますか?」

「酒はないよ。うちは学生相手の店なんだ」

「あ……そうでしたか。失礼しました」

 壁のテレビが、お笑い番組の再放送を流している。つまらなくてうるさい。

 間もなく、学生らしいラフなトレーナー姿の若い男がふたり入ってきた。

 常連らしく、「いつもの」と注文。

 主人は彼らにも無愛想で返事もしない。

 誰にでもこういう態度なら、私の振る舞いで気を悪くさせたのではない。ちょっとホッとした。


 冷蔵庫から鶏肉の塊を出し、ボールの中にためた調理済みの薄切り豚肉をフライパンに落としている。「いつもの」とはチキンカツと生姜焼きのセットのようだ。

 どちらも量が多そうで、学生にはありがたいメニューだろう。

 私が頼んだとんかつが油の中に投入されたが、低温でじっくり揚げる作り方なのか、揚げる音がほとんど聞こえてこない。

 手持無沙汰なので、カウンターの端に置いてある新聞を読もうと移動すると、

「新聞は駄目だよ」

 ピシャリと言われてしまった。

「えっ? で、でも、料理ができるまでの間だけ……」

「うちは読み物は置かない。新聞もだ。長居されるのは嫌いなんでね」

 新聞は店主が読むものであって、客には触らせないということか。

 混んでいるわけでもないのに、長居云々と嫌みを言うとは……どうやら彼氏さんが竹内さんに説明した父親像は怪しくなってきた。

 かつライスはなかなか出てこない。

 学生ふたりの定食が先にカウンターの上に並び、彼らはせわしなげにぱくつき始めた。

 厚みのあるチキンカツと脂身たくさんの生姜焼き、それに白いご飯との組み合わせは、見るからにうまそうだが、連続して口の中にかっこんでいるのは、長居を嫌う主人に気を使ってのことだろうか。

 ようやく、かつライスが目の前に置かれた。

 キャベツとごく少量のナポリタンが添えられた、オーソドックスな組み合わせ。

 肉は厚くもなく薄くもなく、横から見ると、きめが細かくて質は悪くなさそう。

 衣が少々厚めだが、かんでみるとサクッ、フワッとして軽いのに驚く。

 かなり長時間揚げていたのに、油のベチャベチャ、ギトギト感がない。 

 よほど上質な油を使っているのか、揚げ方に秘密があるのか。

 肉は思った通り上質なかみごたえのあるロースで筋も臭みもない。

 脂身はしっかり自己主張している。柔らかく舌にとろけて、うまみが口の中に広がる。

 衣にうっすら塩味がついていて、ソースをかけなくても味わい深い。

 どんぶりに山盛りの白いご飯は、粒が元気に立っているのにしっとりとしてほのかな甘みがあり、これまた一部のファミレスなどのパサパサしたライスとはぜんぜん違う。

 メインのカツとご飯は、普段食べている大衆食堂の水準を超えている。

 店構えはボロで、主人の態度は最低だが、美味しいものを食べさせてもらえれば見方も変わる。

 気難しくて人当たりは良くないが、仕事のできる料理人なのだろう。

 経験を重ねると、そんな偏屈なキャラになる料理人は少なくないと聞く。



 かつの二切れめを口に運んだところで、ふたりの学生は食べ終わり、主人に皿を渡して出て行った。

 お金は払っていない。今時珍しく、ツケにしているようだ。

 この店が好きな常連客が、少なくともふたりいるとわかった。

 テレビはお笑い番組が終わってニュースになっている。

 画面を見ながら食べていると、スッと画面が消えて真っ黒になった。

 主人に目を転じると、テレビのリモコンを調理台に音を立てて放り出し、学生たちが食べた定食の食器を洗い始めた。

 ガチャガチャという大きな音がわざとらしく響く。お皿が今にも割れそうだ。

「ご主人、ニュースを見せて下さい」

 返事はない。食器のあたる音と、絶え間なく流れる水の音で聞こえないのか。

「ご主人、ニュース見たいんですけど」

 食器を洗う手が止まった。タオルで手をふきながら私をにらみつける。何と、顔面に憤怒の色が、皮膚が腫れたように浮かんでいる。

「うちのテレビを俺がどうしようと俺の勝手だ。うるせえな。黙って早く食え」

「いや、あのう……ニュースだけ見せてくれませんか」

「テレビはもう無い」

 心底、呆れた。元々テレビをつけていたのは自分ではないのか。

 客を客とも思わない無礼さに加えて、底意地が悪い。

「これだから一見は嫌いなんだ。うちは学生相手の店だって言っただろ。ここは俺の店だ。言うことを聞けよ、馬鹿が!」

「ばっ、馬鹿がって……だったら、表にそう書いておかなきゃダメでしょ」

「何だと! おまえなんかに、誰がうちで食べてくれと頼んだ。おまえが食べた分で五〇円しか利益はねえんだ。朝の五時からひとりで仕込みして、たったの五〇円だ。学生相手だから我慢してその値段にしてんのに、さっきから何を勝手なことばかり言ってんだ。さっさと食って出ていけ。この田舎者が。二度と来るな」

 しばらく何かにとりつかれたように、支離滅裂な悪口をまくしたてた後、彼はおもむろに煙草に火をつけた。

 スパスパと何度も強く吸っては、こちらを向いて煙を吐く。煙で瞬く間に狭い店内は霞み、息苦しくなった。

 自分が作った料理の香りと味を煙で台無しにしている。水道の水はずっと出しっぱなしだ。

 殺伐という言葉で表現するしかない状況だ。いったい私は、こんな仕打ちを受けなければいけないようなことを、しでかしたのだろうか?

 もう何も言わず、向かって来る煙を散らしながら食べ続けた。

(彼氏が「ヘルプ・チーム」に依頼した理由はこれだ。商売人失格などというレベルじゃない。人格が破綻している。これではとても恋人に紹介などできないし、LGBTを理解してくれと言っても、とうてい無理だろう)

 なのに「父親は理解してくれている」と竹内さんに告げたのは、彼氏の見栄か、やるせない願望だったか……いずれにせよ、過去にはこの父親の病的な性格を、さぞもてあましてきたに違いない。

 この男とふたりきりで暮らし始めたとき、クライアント様はまだ小学生低学年だった。幼いころからふたりきりで二〇年……想像しただけでもぞっとする。

 ささいなことで激高するばかりの父親と、それに従うしかない幼いひとり娘……立ち込める煙草の煙にむせる幼い娘……テレビのスイッチを切られて、シクシク泣くしかない幼い娘……そんなふたりきりの親子の織りなす、この上なく荒涼とした“家庭”の様相が想像され、不覚にも目が潤み周囲がぼやけた。

 親がいつも笑顔なら、子供はそれを真似していつも笑顔の大人に育つ。

 親がいつも不機嫌なら、子供はそれが当り前なのだと誤解してしまう。

 彼氏は悲しいかな、決して前者ではないだろう。

 学生相手、学生相手と、主人は繰り返していたが、庶民的な住宅街で、近くにたくさんの民家がある。なのに、土曜日の夕方五時半を過ぎたというのに、家族連れの客がひとりも来ない。

 料理の腕は悪くない。メインのおかずに限っては堂々たるプロのレベルだろう。かつライスの七〇〇円の値付けは驚異だ。

 繁華街の老舗の豚カツ専門店なら、倍の一五〇〇円にしてもおかしくない。それ相応の素材が使われている。だから主人の言う「利益五〇円」は本当だろう。

 もったいない……もし、この男がまっとうな商売人であったなら、私は、このご縁を機にリピーターになっていただろう。

 この店は「意図して学生相手の店にした」のではなく、「結果として早食いでおとなしい学生しか来なくなった店」なのではないか。

 主人は私に二度と来るなと言ったが、再びこの店に来たいと思う客など過去にいたのだろうか。

「ヘルプ・チーム」とは、市井の見知らぬ人々の、そら恐ろしいほどの善悪入り混じった本音の綾に、否が応でも自分から絡まざるを得ない。

 過去、クライアント様は、ただれるような心の痛みにもがいてきたに違いない。

 彼女さんと交際するようになってからも、常に恐怖感にさいなまれただろう。

 迎えた人生の大きな節目で、「ヘルプ・チーム」以外に、頼れる存在はなかった。

 それで人生が好転するなら、彼女さんとの平穏で明るい日々が実現し、新たな人生の展望も開けるのなら。まさに嘘も方便。価値ある嘘だ。 

「ごちそうさま、カツは美味しかったですよ」 

 主人はそっぽを向いたまま、振り返ろうとはしなかった。

 


 彼氏と彼女との会合場所として指定されたのは、渋谷のセンター街の中の雑居ビル五階にある飲食店だった。

 若者向けのようだが、「アートスペース・戦国忍者屋敷」という長いタイトルの通り、忍者屋敷に似せた作りが売りの店のようで、巨大な看板に戦国時代の武将や黒装束の忍者が大きく描かれていた。

 歴女ブームにでもあやかったか。

 渋谷には突拍子もないアイデアをためらうことなく実行する店が進出し、流行ったかと思えば、あっと言う間に撤退する、独特のダイナミズムがある。

 そうやってしょっちゅう変化する飲食店ビルは自由で楽しい。いろいろ疑問符がつくところもあるが、いわゆる突っ込みどころ満載で会話が盛り上がる。

 エレベーターを降りると、目前の上方に瓦屋根のレプリカがあり、その下に白い土壁や障子。まさに戦国時代のお城の一部を切り取った形だ。

 部屋は和風で細かく仕切られ、歩きながら両サイドを見ると、どんでん返しや隠し部屋もどきもあるようで、本物の忍者屋敷に迷い込んだ印象は一応ある。

 指定された番号の部屋の障子を開けると、ちゃぶ台の向こうに小太りの”男”があぐらをかいていた。

 髪は短くかりあげているから、男性と紹介されてもまったく違和感がないほどボーイッシュ。

 アニメのキャラが大きく描かれただぼだぼの白色のトレーナーに、紫がかった紺のパンツ姿。上下が少しアンバランスだが、思い切りリラックスできるスタイルではある。

 顔の輪郭も鼻も口元も丸っこく、不機嫌そうな顔立ちが父親に似ていて、一瞬「キッチン大橋」の不快感がよみがえったが、気を取り直して父親の名前で自己紹介した。

「こんばんは、山崎義男です」

 彼氏はふふんと鼻で笑う。

 初対面なのに、さげすむような視線と態度は不可解だ。  

「あんたさ、酒、飲める?」

 そっけないもの言い。視線は、あさっての方に向いている。若い女性なのに、どうしてこうもけんか腰なのか。

「はい、あまり強くはありませんが、だいたい何でも飲めます」

「あっそう。飲んでほしくねえんだよな」

「えっ? ああ……はい、そうですか。わかりました」

 最初から「今日は酒は飲まないで」と言えば済むことなのに、どうしてこんなまわりくどい言い方をして、相手を嫌な気持ちにさせるのだろう。

 彼氏の声は、男性のように低くて太い。

「三人で話をした後、あんたは取引先の人と会うってことになってっから」

「はあ……わかりました」

「九時になったら自分でそう言って、勝手に部屋を出てっていいから」

「はい、そうします」

「うまくやれよ。下手うったら金は返してもらうからな」

 彼氏の言動がいちいち気にさわるが、何と言ってもあの男とふたりきりで三〇年近く生きてきた「女性」だ。

 子供は身内から理不尽な振る舞いを受け続ければ、自分を守るために、無意識のうちに精神的なバリヤー……まず相手を疑うことを覚えるという。

 ぶっきらぼうなセリフも、甘い顔を見せて付け込まれることを警戒しているのかもしれない。だとしたら、あまり怒る気にはなれない。



 彼氏は一応OLとしてフルタイムで勤務している。

 会社ではまさかこんな態度ではないだろう。

 自分が呼んだ父親役を、ことさらに邪険に扱って、相手が投げやりになってしまえば、彼氏にとっては重大なリスクのはずなのに、なぜそんな単純な損得計算に、気がまわらないのか。

「あんた、何でこんな仕事やってんの」

「まあ、人助けですかね」

 彼氏の顔が強張り、にわかに気色ばんだ。 

 おまえなんかに助けを請うたわけではないとでも言いたいのか。

「クソじじいが、えっらそうに。本当はリストラされて仕事がねえんだろ」

「そ、……そうですね。クビになったわけではありびませんが、定年退職しなければいけなかったので……」

 傲岸不遜……ずっとこんな調子で扱われるのか。

 あまりに蔑まれるのであれば、彼氏が大事に思う彼女と対面したところで、私は絶対に言ってはならないことを口走ってしまうかもしれない。

「私はこいつの父親なんかじゃない。金で雇われた日雇い労働者だ。こいつは嘘をついている!」

 そうやってケツをまくったところで、八〇〇〇円のギャラがもらえなくなるだけだ。

 しかし、ケツをまくると、すべからく後味は良くないものだし、カップルの関係に大きな傷跡を残すだろうから、それはそれで後々寝覚めが悪くなりそうだ。

 自分の気持ちのためにも、ここで切れてはいけない。

 とはいえ、年齢を重ねるにつれて、感情のコントロールがしにくくなっているのも事実だ。

 不本意ながら、日雇い労働を始めてから、何度か派遣先の差別と悪口雑言にさらされ、脳に滓のように不快な記憶が累積した。

 そのため、前頭前野の抑制回路が機能不全を起こし始めたか、怒りで頭と顔が熱くなり、暴発しそうになることがある。

 アンガ―・コントロールを提唱する学者などは、怒る前に五秒考えろ、などと言うが、五秒で収まる怒りなど、元々たいしたことないだろう。最愛の恋人を殺されても、五秒考えさえすれば、それで怒りは消えるというのか。

 警察や病院を長く取材した経験で言えば、心理学者と精神科医については、あまり尊敬する気になれなかった。論文は分析ばかり延々と続き、その先の処方箋が見当たらないない例が多かったから。

 街中で自分の立場に影響のなさそうな人間と、トラブルになったときは止まらない。

 たいていの場合、相手も譲らないから、口汚いののしり合いになってしまったことも一度あった。

 外出すれば、今時は、そんなふるまいをする人間が急造していることがわかる。

 朝の田園都市線の車内で「押すな馬鹿野郎」と喧嘩が始まり、区立図書館では朝刊の奪い合いで老人が追い出され、昼のカフエでコーヒーの量が少ないと店員を足蹴にし、ビジネス街の歩道で、歩きスマホをめぐって押し相撲。

 夕方のスーパーでレジが遅いと怒鳴り、診療所で女性看護師をブスとののしり……吐ける限りの怒声を上げ、胸を突いたり腕をつかんだり、暴行罪すれすれの暴力を都内では頻繁に目にする。

 自分もホッカンの牧歌的な生活から、東京での一人暮らしになった時点で、感情の反応が変化したように感じていた。

 この彼氏との関係も、今のうちに和らげて置かないと自分自身が不安だ。

 考えてみれば三五歳は中年への入口とも言える。もはや女の子ではなく、世間ではおばさんと呼ばれ始める年齢だ。

 言わば大人同士、心を開いてくれれば、まともな会話も成立しよう。

「お父さんはあなたの選択に、理解を示してくれたそうですね」

「何だと……おまえが父親じゃん! 間違えんな」

「あっ、失礼しました。どうもすみません」

「ちゃんとやれよ、この野郎」

「はい、すみません。ごめんなさい」

「あんまし似てねえしなぁ。何でおまえみたいな、とろいのが来たんだ?」

「ははは……顔はどうにもなりませんが、父親役は何度もやってますから」

 クライアント様とは事前に情報をやり取りして、あうんの呼吸で意志を通じ合い、状況の変化には力を合わせて対処できるようにしたい。

 それがプランを成功に導く必要条件だが、今日の安全係数は最低だ。



 障子がゆっくりと開き始めた。

 いよいよ彼女さんの登場か? 類は友を呼ぶというから、大方、彼氏と同じように精神的に屈折して他人にからむ、態度の悪い娘だろう。

 この彼氏に、明るく穏やかな女性という設定は、ドラマや漫画だとしても不自然に過ぎる。

 おもむろに振り返ると、スラリとした小学生の女の子のような足が目に入った。

 足首から膝までが腕かと思うほどか細く、足首は今にも折れそうだ。

 目線を上げていくと、清楚だがやや子供っぽいピンクのワンピースに包まれた、スレンダーな体形がまず目に入り、そして、端正な容貌の幼い少女のような表情に驚き、私の目は彼女に釘付けになった。

 年齢は三二歳と聞いていたが、一〇代前半と言っても通りそうなあどけなさ。

 卵形の小顔にはっきりとした二重の目、唇は薄くルージュが鮮烈なアクセントになり、肌は化粧っ気が薄そうなのにしみや影は見えず、触れたらつるつるしていそうだ。

 最初の瞬間は幼く見えたが、好ましい化粧を薄くして清らかさを表現しているところは、しっかりした大人の女性のようだ。

「こんばんはー、遅れてすみません」

 声は意識しているのか、きゃぴきゃぴしていて音程が高め。アニメの女性声優のしゃべり方の定番だ。

 彼氏の無骨さとは全体が対照的で、こんな組み合わせだからこそ「恋愛関係」が成立したのかと妙に納得した。

 レズのカップルは、宝塚歌劇団の男性役のような、長身で化粧が濃い優男風とは限らないようだ。

 彼女は私を指さしながら、彼氏に向かって小首をかしげた。

「おとうさん?」

「ああ」

「京子がお世話になっております。父の義男です」

「浅沼美羽です」

「みうさん……? どんな字を書くの?」

「美しいに羽根です。ちょっと恥ずかしいんですけど、自由に空を飛ぶ鳥のようにって祖父がつけてくれました」

「きれいな名前ですね、夢があって」

 会う直前まで勝手に予想していた、ヤンキーみたいな不良っぽい女性像は完全に消えた。

 性格は素直そうで、外見と声と相まって純真さが際立つ。

 彼氏はうつむいてメニュー表をいじくっていた。

「ところで、この店ずい分ユニークだけど、どちらが選んだの?」

 彼女が何か言いかけたが、彼氏が上書きするように制止した。

「うるせえなあ。そんなこと、どっちだっていいだろ」

 そう言うと、彼氏はメニュー表を無造作に投げ出した。こんな荒れた言動に、彼女が何の反応も示さないのが意外だった。もう慣れっこということか?

「三人とも同じセットでいいよな」

 彼氏が壁に設置されたボタンを押す。ほら貝のような音がして、店員がすぐに障子を開けた。廊下で待機しているらしい。

 注文する彼氏の左腕のトレーナーの袖がまくれたままで、肌が露出している。

 何だか腕の腹側の表面がおかしい。最初は、トレーナーが安物で、繊維がほどけて肌に付着しているのかと思った。

 そうではなかった。

 無数の罰点がくっきりと規則正しく並んでいる。同じ大きさの×の形の傷跡が並ぶのは……アームカット、自傷行為だ。

 以前にも夜の飲食店の女性の腕を見せられて驚いたことがあった。

 その女性の場合も、左腕の薄い生地の下の皮膚に、×の字の形の傷跡が整然と並んでいた。

「高校時代に、結構いい女子高行ってたんだけど、私ひとり成績悪くて、家では叱られるし、友達もできないし……自分が嫌いで、生きているのが嫌で仕方がなかった」

「深く切ったわけじゃないし。切ると気分がすっとして、でも、何もする気になれなくて泣きそうになって切るしかなくなって……でも、リスカじゃないから。リスカは失敗すると死んじゃうから」

 リスカ=リストカットは手首を深く切ることだ。傷が動脈に至れば、失血死の危険がある。アームカットは表面だけだから、それより安心と言えばその通りだ。

 だが、傷跡が残るほど切りつければ血まみれになり、痛みもひどいだろう。あまりにも無惨だ。原因が、親や同級生の無理解というのも切なかった。

 外圧に立ち向かうのではなく、外敵と一緒になって自分を傷つけてしまうのは、激しい痛みでしか、そのストレスを紛らすことができなかったのか。

 彼氏もそんな状態に追い込まれていたのだろうか。

 男っぽいしゃべり方や低音には、もちろんLGBTとしての素質はあったのかもしれないが、何らかの心理的な圧迫により、男性的な方向に自ら向かっていった可能性もありはしないか。

 ありふれた日常があってこそ、人は、ときに人生の輝きを感じられるという。 

 彼氏に、ありふれた日常は、あったのだろうか。

 輝きは、あったのだろうか。



「おとうさんはお料理得意なんですよね」

 しばし呆然としていた私は、彼女の声で、はっと我に返った。

「いやまあ食堂を……じゃなくて、レストランを長くやってるだけです」

「自分のお店を持つって憧れます。今度、食べに行ってもいいですか」

(げっ! あの店に行っちゃうの? そりゃまずいだろ)

 この可愛らしい娘さんがあの男に彼氏との関係を打ち明けたら、どんな罵詈雑言を浴びせられることか。想像するだけで血の気が引いてくる。

 これは早くも危険水域だ。店に来るなと言うのも変だし、どうつじつまを合わせたらいいのか……。

「残念でした。もう店は閉めるんだよな。年だから」

 彼氏が助け舟を出してくれた。店がすぐになくなるなら違和感はない。

「えっ、ええ、そうなんですよ。最近は朝の仕込みもたいへんで、ひとりで全部やるのはさすがにしんどくなって……いったん閉めて他の店を誰かと共同でやるとかいろいろと考えてまして……」

「そうなんですかぁ。ちょっと残念です」

「いずれどこかで落ち着いたら、ぜひ食べに来て下さい。美味しい洋食をご馳走しますよ」

 ひとまず無事に収めることができたが、事前の準備不足に起因する綱渡りは、それからが本番だった。

「お父さん、ドライブ好きなんですよね」

(何だと? ドライブ好き? それはそうだが、女性ふたりなのに車が話題になるとは意外だ。ふたりは走り屋なのか。隠れ暴走族か……)

「雪道でも、すごく運転がうまいって聞いてます」

(やばいな……予備知識がぜんぜんないから、何をどう答えていいかわからない)

 それとなく彼氏を見ると、今さらメニューを見ている。今度は口をはさむつもりもないらしい。まったく、なんて無責任な奴だ。

「長野の私の家は小さなスーパーをやっていて、冬に雪が降っても私が配達とか行かなきゃいけないんです」

(そうか、それで車を話題にしたのか。確かに地方でひとりに一台はあたり前だし、女性は赤い軽など、好きな車をマイカーにするという)

「東京の雪なんて、年に二回積もるかどうかというくらいだけど、長野はたいへんでしょうね。どんな車に乗ってるの?」

「あれっ……聞いてませんか? スバルです。女の子なのに変わってるって言われますけど」

「ああ、スバルは四駆だから、長野で乗るにはいい車ですよね。栃木や群馬の山岳の村でも皆がスバルでしたよ」

 彼氏がジロリと横目でにらんで来た。

 しまった……東京生まれ、東京育ちのはずなのに、北関東を語ってどうする。

「……てね、那須高原の親戚に聞いたことがあります。ハハハ……」

「でも、やっぱり恐いですよ。遠くの一軒家に配達しなきゃいけないこともあって舗装してない山道なんかも」

「ご実家は、長野のどちら?」

「信濃大町って知ってますか?」

「知ってますよ。近くに仁科三湖って湖がありますよね。木崎と青木と中綱だったかな」

「えっ? すごい! ぜんぜん有名な観光地じゃないのに、どうして知ってるんですか」

「あのへんは夏でも涼しいから、東京の学生に結構人気があったんですよ。学生村というのがあってね」

 彼氏が割って入った。

「学生村? 何だよ、それ。美羽は聞いたことあるか」 

「ない、地元だけどぜんぜん聞いたことない……」

「半生記も前のことだから。農家のおばあちゃんとかが、自宅を改造して宿にして、一泊三食千円で泊めてくれたんだ。机やスタンドもあってね。勉強に行ったのか遊びに行ったのかよくわからなかったけどね。ええと……何の話だっけ。そうだ、車の話だった。スバルはお金がかかるでしょう」

「中古なのに一五〇万円もしました。配達に使うから親が半分出してくれましたけど……どうせならもっとおしゃれな車でもよかったかなって思ってます」

「あの車は衝突防止装置もいいのがついているから、あなたにはいいんじゃないかな」

「それって……私の運転がへたくそってことですか?」

 彼氏が目の奥からこっちを見てにらんでいる。恐い恐い……って、こんな些細なことで一々にらむな!

 幸いなことに、このタイミングで料理が運ばれてきた。二回目の綱渡りも、どうにかしのげたようだ。

 オードブルと呼ぶべきだろうか。

 大きなどんぶりに入った野菜サラダと、鶏肉のソテーに、何かのパテのような茶色の塊。エビや貝のアヒージョ風、アスパラのコンソメスープにフランスパンと申し訳程度のバター。イチゴのデザート。

 サラダ以外は小ぶりだ。

 そもそも戦国時代がコンセプトなのに、洋風オードブルではミスマッチだ。

 インテリアに凝っている分、手間のかかる和食では採算が合わないのだろう。

「私、取り分けますね。お父さんのから」

 彼女は体を乗り出して、トングで取り皿によそってくれようとする。細く頼りなげな白い腕。

「親父は食べてきたんだろ」

 彼氏が投げやり気味に言うと、彼女さんは「でも……」と困った顔をした。

「いいんですよ。ふたりで食べて下さい。たくさん食べて、女性はもう少し、ふっくらしたほうがいいと……」

 その瞬間、またも彼氏に、にらまれた。思わず出た本音、今回はNGだ。

 狭い部屋で、まあまあ若い女性ふたりと過ごしているのに、ほとんど実感がない。

 何だか景色がフワフワして、すべてが現実ではないような気がしてくる。

 これは「ヘルプ・チーム」ならではの特異な現象だ。リアルな現実世界の中で、自分だけがフィクションになっている。

 すると、周囲の紛れもない現実が、自分からは、逆にあたかも架空の映像のように見えてしまう。まるでVRゴーグルをつけたように。

 ただし、この逆転現象にはまってしまうと、映画鑑賞のような気分になってしまい、緊張感が薄れてしまう。危険だ。 

 彼氏は自分の父親について、たくさん彼女に話しているようだ。しかも、好ましい人柄、好ましい趣味、好ましい関係であることを前提に……。

 そうでなければ、初対面の彼女が私に対して警戒心のかけらも見せず、親しみを込めた笑顔で接してくれることはないだろう。

 本当の父親は、始終プリプリして爆発する、対人地雷のような男だった。

 もしかすると彼氏は、彼女が期待する暖かく和やかな親子関係のバーチャル・ワールドを、頭の中にせっせとこしらえて話をしてきたのかもしれない。

 自分の親の真実を知られれば、彼女の気持ちが離れてしまうと不安だったのか。

 親が子供に余計な精神的負担を背負わせるのは、その程度を問わず罪だ。子供は親を選べない。

 うろたえてばかりで寿命の縮む展開だが、彼氏に対する不満や怒りは、彼女の優しさと相殺され治まっていた。



 何か話しかけようにも、話題がない。

 三〇歳も年下の女性ふたりとでは、立往生するのもむべなるかな。女性が関心を持つようなテーマと言えば、フアッションやコスメかアニメかゲームか、いずれも自分には縁遠く、ネタ振りできるわけがない。

 悩んでいると、はたと思い当たった。車の話題は、若い女性にとって、そんなに面白い話だったろうかと……。

 若い人たちにうんちくをたれるのは、老人にとっては掛け替えのない楽しい時間だ。

 ただ、彼女は車好きと聞いていた老人に気を使って、いい気持ちでしゃべらせてあげようと気を使ったのかもしれない。

 彼女がそこまでの気配りをする人だとしたら、彼氏は果報者だ。

 すでにかなりの時間が過ぎ、そろそろ二時間になろうとしている。

 退室する予定の時間だ。彼氏に目配せすると、そっぽを向いた。

 まだ早いとすれば止めるだろうから、今なら退出OKということだろう。

「では美羽さん、申し訳ないけど、これから仕事の打ち合わせがあるので、私はこれで……」

「新しいお店の打ち合わせですか」

「えっ? うん、それもあるし、まあいろいろ……」

「お父さん、よろしくお願いします。今日会えてほんとに良かったです。また、車のこと教えて下さい」

 テーブルと壁と低い天井との窮屈そうな空間で、彼女は中腰になって微笑んでいる。

 少なくとも、嫌われずには済んだようだ。ただ、それは多分に好ましい性格の彼女のおかげだった。

 きゃしゃでしなやかな姿態はともすると頼りなげに見えるが、礼儀や気遣いは年齢相応にしっかりしている。良い家庭環境で育ったのだろう。

 いつかまた会ってみたい、彼女と会った誰もがそう思うに違いない。

 そう感じれば感じるほど、不思議さの増すカップルだった。

「ふたりとも元気で、一緒に楽しい時間を過ごして下さいね、美羽さん。こいつをよろしくお願いします」

「この店、複雑だから俺が案内するよ。美羽はここで待ってて」

「はい」

 障子を閉めながら何度か会釈をして、彼女に別れを告げた。彼女は最後まで笑みを絶やさなかった。

 彼氏の後について出口へ向かう。

一度通った通路のはずだが、複雑で経路がさっぱりわからない。薄暗い迷路を三回ほど曲がり、ようやくエレベーター前に着いた。

「ひとつ聞きたい。車が好きだとか、いろいろ彼女に話してたことを、どうして前もって言ってくれなかった?」

「ああっ、忘れた」

「忘れたって……いきなり話を振られたから、最初はあわてたじゃないか」

「いいじゃん、うまくいったんだから」

「たまたま、だよ。たまたま」

 彼氏はまた不機嫌そうな顔になってから、そっぽを向いた。ふとどき千万。

 靴をはいて出ようとしたら、後ろから声がかかった。

「あのさ、あんたさー」

 無礼なもの言いは、もう聞きたくない。仏の顔も三度だ。

「何でしょうか? クレームなら竹内さん、いや、あの最初に話を聞いた女性に行って下さい。私は彼女に言われて来たので」

「そんなんじゃねえよ」

 彼氏は口ごもって、通路のほうへ踵を返そうとした。

 でも、一歩足を踏み出したところで立ち止まった。

 ぎこちなくこちらを振り返り、ためらいがちに口を開いた。 

「あのさ、どこの誰だか知らねえけど……ありがとな」

 言い終わらないうちに向きを変えて行ってしまった。最後まで笑顔らしい笑顔は見られなかった。

 目も合すことなく発した、たった一言だったが、彼氏が曲がりなりにも礼の言葉を口にするなんて、今日の予定にはなかっただろう。

  彼氏は「ヘルプ・チーム」に依頼したことで、実の父親と今日できっぱり縁切りできるだろうか。本当にもう一生、会わなくてすむのだろうか?

 人は長く生きれば生きるほど、いろいろな重荷を脳内に抱え込むことになる。

 奇跡的に何ら大過なく、他人から攻撃されたこともなく、とびきり幸福な人生を送れた人は別だが、ほとんどの人は、決して望まなかった不幸な記憶、あるいは自ら招いた黒歴史を抱えているだろう。

 それは貧困による惨めさであったり、心無い人々から浴びせられた蔑みの言葉であったり、自分自身の失敗が招いた事件、事故であったり、暴言、暴力、憎悪、悲嘆、錯誤、後悔……その由来と形質は様々でも、絶対に記憶回路から消えてくれないしぶとさと、呼びもしないのに何かの拍子に鮮明によみがえってくる点で、記憶とは厄介この上ない。

 人間は自分に都合よく、嫌な記憶を消すことができるから、記憶につぶされることなく生きていけると、例によって心理学者は断言する。

 彼らには他人の脳の中身の嫌な記憶のみ消えるところが見えたのだろうか?

 もし本当に個別の記憶項目を削除できるなら、人は常に前向きに積極的に暮らせるだろう。

 そうできれば幸せだが、実際には暗い記憶の呪縛から逃れられはしない。少なくとも自分はそうだ。

 彼氏にしても、人生をリセットせざるを得ないのは、長かった日々の辛い記憶が、執拗に蘇って来るからではないか。

 その日の夜遅く、飛び切りの緊張から解放された安心感に浸りつつ、テレビを見ながら、酎ハイをちびちび飲んでいた。

 夜中、酒を飲みながら何も考えずにテレビをザッピングして見るのは、体も心も休まる至福の時だ。

 だが、この晩はそうはいかなかった。

 偶然にも、どこかで見たことがある風景がテレビに映るのを目にし、反射的に身を乗り出した。

 そのニュース映像は、午前0時からの首都圏ローカルニュース枠のトップで報じられたもので、画像を見るなり間髪をを入れず、テレビ内臓レコーダーのスイッチを押した。

 画面に映る風景は薄暗く、街灯の周辺くらいしかはっきり見えない。住宅街一面、墨を流したようにモノクロームで、地味で目立たない。

 しかし、それは確かに、あの、一度だけ訪れた街だった。

 嫌でも、恐ろしい想像が浮かんできた。

 何気なく聞き流していたが、「彼氏」は、こう言っていた。

「父親とは、もう二度と会うことはねえし」

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