第11章 絆
「ずっと前のお話なんだけど、今でも鮮明に覚えてるの。でもね、きっと夢だったのよ。不思議なことばかりだったわ」
「素敵なお話ね」
母は弱々しいけど優しい口調で言った。涙はもう乾いていた。
「でも私は夢と思いたくないな。初めて触れたあの雪の感触、あれが幻だったなんて信じられない・・・って思うときがあるの。それに・・・」
美紀は子供のように柔らかい顔になった。
「シロユキの暖かさも幻だったなんて思えないの。私にお兄さんがいたら、きっとあんなふうに優しくしてくれたんだろうな」
「帽子は、あったのかい?」
ずっと黙って聞いていた悟が口を開いた。
「ううん。だからやっぱり夢だったんだろうね」
「ねえ」
「何、お母さん」
「もっとよく、その子の顔を教えてくれない?」
「え?」
「どんな目をしてたの?どんな鼻で、どんな口で・・・どんな髪型だった?笑顔を、もう一度教えてくれない?」
母の声はか細く、美紀はまた不安になった。このまま自分がしゃべっている間に、母は遠くへ行っちゃうんじゃないか・・・美紀は不安になった。でも、少しでも長く、母と会話をしたかった。
「いいわよ」
美紀はもう一度丁寧に、なるべく楽しそうに、シロユキのことを教えてあげた。
「大きなまん丸い目をして、鼻は少し小さくて、口も少し小さくて、すらっとして、こんがり焼けた顔の男の子。それでね、帽子は・・・」
「白い野球帽で、裏にシロユキって青いペンで書いてあったんじゃない?それで、その隣に『みき』って小さい名前を赤いペンで」
美紀が帽子のことを話そうとした瞬間、それを遮るように母が言った。
「え?なんで・・・?」
美紀は驚いた。シロユキからもらった帽子は、まさにその通りだった。母には言い忘れていたが、シロユキと川で休んでいるとき、友達になった証として、そこに名前を書いてと頼まれたのだった。
「あなたがね、あなたの目が覚めたあの時、あったのよ。病室のあなたのベッドの、あなたの隣に」
母は急に、何かを理解したかのようにうなずき、その瞳から再び涙がこぼれた。大粒の涙が。
「私は別の部屋で休んでたの。それでね、あなたが目覚めたって知らせを聞いて急いで駆けつけて。あなたの方で夢中だったからはじめは気付かなかったんだけどね」
美紀はまだよくつかめていなかった。でも、大粒の涙を流す母に声をかけられなかった。
一時の沈黙。先に破ったのは母だった。
「ねえ」
「・・・何、お母さん」
「美紀の意識が回復してね、また一からやり直そうって決めたときに、封印した記憶があるの」
母の声は震えていた。悟は美紀の手を強く握った。
「美紀が小さかった頃、何度かお話したことがあるのよ。あなたのお兄さんのお話。生まれてすぐに亡くなった、お兄さんのお話」
美紀は一生懸命、記憶を辿った。でも、思い出せなかった。思い出せないのに、なぜか急に胸が苦しくなった。
「おかしなお話ね。白い雪が降ってたからシロユキだなんて」
母の声は震えていたが、顔からは笑みが浮かんでいた。
「桜だったのよ」
「え?」
「満開の、桜だったのよ。あの子が生まれる前、同じように、病室のベッドで、窓の外を見ていたの」
母は、まるで子供のような穏やかな笑顔になった。
「春ってね、はじまりの季節でしょ。この新しい世界を、広い世界を、ムリしなくていい。思うように、伸び伸びと生きて欲しい。広い世界を行くって書いて、『広行』にしたのよ」
母は一呼吸おいて、さらに続けた。
「結局、一度も窓の外の世界を見ることなく、亡くなってしまったんだけどね」
母は美紀の顔をしばらく見ていたが、そっと、反対の、満月を眺めた。そして、そっと、ささやいた。
「美紀を、助けてくれたのね」
美紀の中で長い間ほどけていた糸が、この言葉によってするするとつながっていくのを感じた。同時に、あの一言を思い出して、辛さに耐えられなくなってしまった。
「あんなに優しくしてくれたのに。私、ひどいこと言っちゃった・・・人間ははかなくなんてない、なんて。」
悟は美紀の手を優しく離し、美紀の肩にそっと手を回し、震える美紀をそっと抱きしめた。
「でも、でもあの時、笑ってたのよ・・・」
また、沈黙が続いた。
「ねえ、美紀。もう一度、その子のお話聞かせて」
母は、満月を見ながら言った。
美紀はしばらく間を置いた末に、言った。
「いいわ」
美紀は頑張って、もう一度、シロユキの話をしようとした。でも、すぐに声が詰まった。美紀の瞳から大粒の涙がこぼれた。
長い沈黙。気の遠くなるような、長い沈黙が続いた。
「お父さん、遅いね」
母が口を切った。とても、弱々しい声で。
ちょうどそのとき、病室のドアが開いた。父が、美紀の息子たちを連れてやってきた。父に手を引かれる息子たちは、満月の光だけが照らすその病室の中で、ぼんやりと見える美紀の表情に、ただただキョトンとしていた。父は息子たちの手を離さなかった。
子供たちを振り向いた美紀の目からは、まだ涙があふれていた。
「今度は広行のお相手しなきゃね。私も忙しいわ」
満月の光がいつまでも暗い病室を照らしていた。夜空には、その満月を取り囲むように無数の星が輝いていた。




