第10章 暗闇の中の奇跡
「ちょっとだけ、休んでいい?」
シロユキはそれまで疲れを見せないように頑張ってきたけど、もうかなり限界だった。美紀は帰れるか不安でいっぱいだったけど、シロユキもきっと自分以上に疲れてるだろうって思って、我慢した。
「いいよ」
2人は壁に背をもたれるようにして、そのまますとんと座り込んだ。シロユキは美紀の手をしっかりと握っていた。
「ねえ、あと、どれくらいで着くのかな」
「ごめんね、はっきり分からないけど、きっとすぐに着くから」
美紀の目から、せっかく乾いた涙がまた溢れそうになった。でも美紀は必死で耐えた。
二人はしばらく黙っていたが、そっとシロユキが口を開いた。
「ねえ、美紀」
「何?」
「さっきの話だけどね、お母さんの背中って、そんなに気持ちよかったの?」
「もちろんだわ。今じゃ美紀も大きくなっちゃって、もうおんぶしてって言ってもやってくれないだろうけどね。あれも『子供の特権』ていうやつなんじゃないかな」
美紀は笑った。
「シロユキもおんぶしてもらったことあるでしょ?」
「僕?」
シロユキは少し黙ってしまったけど、口を開いた。
「僕は、ないよ」
「え?どうして?お母さん、いないの?」
「ううん。ちゃんといるよ。でも僕とは離れたところで生活してるんだ」
「いつから?」
「僕がずっと小さい頃から」
「そうだったんだね・・・寂しくないの?」
シロユキはうつむいて、黙ってしまった。でも、ぼそっと呟いた。
「僕も、おんぶしてほしかったな」
またしばらく沈黙が続いた。美紀は喉が渇いてしょうがなかった。
「お水が、欲しい」
美紀はずっと我慢してたんだけど、とうとう我慢できなくなって、言った。暗さからくる不安と寒さがどんどん美紀の体力を奪っていき、美紀はもう限界だった。美紀の口調から、それはシロユキにも伝わった。
「もう、我慢できないんだね」
シロユキは優しく言った。
「そうだ、雨を降らせてあげるよ。僕の雨は、飲み水にもなるんだ」
シロユキは頑張って立ち上がり、また例のように両手をあげ、雲を作った。そして雲は瞬く間に雨を降らせた。
「さあ、これを飲むといいよ」
美紀は両手で雨水をすくい、飲んだ。その雨水は、とても甘くておいしかった。
「すごいおいしい。ねえ、シロユキも飲んだら?」
美紀がそう言った瞬間、バタッ・・・と、シロユキは崩れるようにしてその場に倒れた。
「シロユキ、どうしたの?」
「ご、ごめんね。ちょっと疲れちゃって」
「大丈夫?」
「うん」
美紀は両手で水をすくい、シロユキにも飲ませてあげた。
「ありがとう」
シロユキは続けた。
「ごめんね。もう少し、休んでいいかな」
「いいわ。私もこの暗いのに少しは慣れてきたし。今度はシロユキが休む番よ」
美紀は不安なのを必死で押し殺して、シロユキのためにそう言った。シロユキが作った雲からはまだ雨が降り続いていた。美紀はこの暗闇と雨の音の中だったら大丈夫だろうと、静かに泣いた。疲れてるシロユキに気付かれないように。そしたら涙が止まらなかった。美紀は目を閉じて、これまでの楽しかった事を必死で思い出そうとした。もうこれ以上、涙が出ないように。
(動物園のキリンさんやおさるさん、まだ元気にしてるかしら。またうさぎさんにご飯あげたいな。おばあちゃん家のとこの公園もまた行きたいな。はじめてお父さんとシーソーやったときは怖くて泣いちゃったけど、すぐに楽しくなって。お祭りも楽しみだな。もう今年は終わっちゃったけどね。お父さんに手を引っぱってもらって、りんご飴を買ってもらって、すごく甘くておいしかった。)
目を閉じてそんなことを思い出しているうちに、雨の音がだんだん消えていくのが分かった。雲が、なくなっていったんだろうなって、そんなことを思いながら、ずっと頭の中でいろいろなことを巡らせていた。
「泣いてるの?」
シロユキの声に、美紀ははっとして目を開けた。さっきまで真っ暗でまったく見えなかったシロユキの顔が、まだぼやけているけど、見えるようになっていた。
「え?どうして?」
美紀とシロユキの周りには、小さくて真っ白いものがいくつもいくつも降り注いでいた。それは美紀に触れると、その体温であっという間に溶けてしまった。
「これって・・・」
そう言いかけた美紀に、シロユキはほほえんだ。
「雪だ!」
二人は口をそろえて言った。真っ暗な洞窟の中で、その雪はまるで夜空の星のようだった。
「すごいきれいだわ」
「本当だね」
「でも、どうして急に?」
シロユキは少し考え込んでから言った。
「多分だけど、雪って冬に降るだろ?寒かったから、洞窟の中が寒かったから、きっと雨が雪に変わったんだ。雪の正体は、雨だったんだ」
「でも雨と違って、当たっても全然痛くないわ。当たったのが感じないくらい、優しいわ」
「冷たくても優しいなんて、なんか変だね」
シロユキは笑った。美紀も一緒に笑った。雪を見てると、さっきまで寒かったのが嘘みたいに暖かい気持ちになった。美紀はその場に座ったまま右手をかざし、触れては溶け、触れては溶けを永遠に繰り返す雪を、じっと見ていた。さっきまで不安だったのが嘘のように、美紀の口元は優しかった。
「ねえ、シロユキ」
「何?」
「雪ってこんなに綺麗なのに、生まれてすぐに消えちゃうんだね」
「そういうのって何て言うか知ってる?」
「何て言うの?」
「『はかない』っていうんだ」
「はかない?シロユキはやっぱり物知りね。いろんな難しい言葉を知ってる。でも、初めて聞くけど、なんか寂しい言葉だわ」
美紀は雪をつかもうとしたけど、すぐに溶けてしまう雪をつかむことはできなかった。
「雪もすごい綺麗だけど・・・私、人間に生まれてよかったわ。もっともっと長く生きられるもん」
「人間もいつかは死んじゃうんだよ」
「それはそうだけど、この雪よりはずっと長く生きられるわ。私たち、まだ子供じゃない」
美紀は続けた。
「私は人間ははかないとは思わないわ」
シロユキはうなずいた。その顔はやさしく見えた。
「でも、なんか夢みたいだわ。だって、私たちが見たがっていた雪をこんなすぐに見られるなんて。良かったわね」
「本当だね。きっと神様がプレゼントしてくれたんだ」
美紀はシロユキと並んで座り、片方の手を一緒にかざしたまま、雪の感触をしばらく楽しんでいた。そしてもう片方の手でシロユキの手をぎゅっと握っていた。
ふと我に返った美紀は、シロユキに言った。
「ねえ、あれを見て」
雪の明かりに照らされて、よく見ると美紀のかざす手の先に、大きな部屋があった。
「あれって、もしかして・・・」
「こんなに近くにあったんだ」
シロユキはびっくりしていた。そして、美紀に言った。
「あの部屋だよ。あの部屋にドアがあるんだ」
「やっと出られるのね!もう少しこの雪を見ていたいけど、やっぱり早くお母さんに会いたいわ!」
美紀は立ち上がった。そして、シロユキの手を掴んで、引っ張った。でも、シロユキは動かなかった。
「僕はここに残るんだ。美紀だけが行くんだよ」
「いいじゃない。どうせ戻ってこれるんでしょ?せっかくできたお友達だもん。お母さんに会わせたいわ」
シロユキはほほえんだ。
「ありがとう。でもね、あのドアの向こうに行ったら、なかなか帰ってこれないんだ。それに、僕は毎日、いちご畑にお水をあげなくちゃならないだろ。まだ読んでなくてたまってる本もたくさんあるんだ。絵も描きたいし」
「なかなか・・・って、どれくらい?1週間くらい?」
「・・・」
「もっと長いの?1ヶ月?1年?10年??」
「・・・」
「ここでお別れなの?お別れなんて嫌だよ」
美紀はまた泣き出しそうだった。
「泣かないで。永遠に会えないなんてわけじゃないんだから。またいつか会えるよ」
「いつかなんて嫌だよ。いっぱい約束したじゃない。いつかっていつなの?大人になってから?それじゃ美紀はシロユキのこと忘れてるかもしれないよ。それでもいいの?」
美紀の目からまた涙が流れた。
「またすぐ会いたいよ・・・」
シロユキは美紀とつないでいる手をそっと引っぱった。
「ちょっとしゃがんで」
シロユキは言った。美紀は言われたようにしゃがんだ。シロユキはもう片方の手で、そっと、美紀の頭を撫でた。
「安心して。僕はそんな遠くにいるわけじゃない。だから、安心して」
「本当?」
シロユキは優しくほほえんで、頷いた。そして、ずっとかぶっていた帽子を取って、美紀の頭にかぶせた。
「この帽子があれば、僕を忘れることはないだろ。また今度、その帽子を返しに来てよ。そうしたら、雲の作り方を教えてあげるよ。完成した絵も見せてあげる」
美紀はまだ涙を流していたけど、笑顔になった。
「さあ、涙を拭こう。そんな顔じゃお母さんに笑われるだろ?」
シロユキは自分の服の袖を美紀の顔に当て、優しく涙を拭いてあげた。
「もう行こうね。きっとお母さんが心配しているよ」
シロユキは美紀の手を離し、その手でそっと美紀の肩を叩いた。美紀は立ち上がって、雪の明かりに導かれるように部屋のほうに歩いていった。あたりを見回すと、その大きな部屋の右奥に、たしかにぽつんと、小さなドアがあった。しばらく部屋の中を進み、もうシロユキからは見えなくなるだろうというところで、美紀はシロユキの方を振り返った。
「ねえ、シロユキはどうするの?」
「僕?僕は少し疲れちゃったからね。もう少し、ここで休むよ。雪があれば、きっと戻れるから」
「私も頑張るから、シロユキも頑張ってね。それと、いちごありがとう。本当においしかったわ。心をこめて育てたのね」
美紀はほほえんだ。シロユキもその場に座りながら、優しくほほえんでいた。
「本当にありがとう、また会おうね」
そう言うと、美紀はまたドアのほうを振り返って歩き出した。本当はシロユキに教えてもらったいろいろなことを、教えてくれてありがとうって言いたかった。でもそれを言うとまたシロユキの見てる前で泣いてしまいそうで、もうそれ以上言えなかった。美紀はまた涙を流していた。泣いているのを見られないように、もう振り返らないように、美紀は歩いた。ドアは小さくて、ちょうど美紀が入れるくらいの大きさしかなかった。このドアを開けてしまったら、もうシロユキに会えないかもしれない。そんな不安でいっぱいだった。美紀はドアを開ける前に顔を上げ、一呼吸おいた。美紀の顔に向かって、まだ白い雪がぽつりぽつりと降り注いでいた。
ドアを開けた瞬間、後ろから、声がした。
「美紀!」
美紀はその声に反応して、とっさに振り返った。涙でぼやけていたけど、降り続ける雪の向こうで、こっちを見て立っているシロユキが分かった。下ろしている両手は力をこめているようで、顔は少しうつむき加減だったけど、その目は強く、美紀のほうを見ていた。初めはよく見えなかったけど、シロユキの目からは涙がこぼれていた。美紀はシロユキの涙を初めて見た。
「僕は美紀にいろいろ教えてあげるつもりだったんだ」
シロユキは続けた。
「でも、逆にすごい大切なことを教えてもらった。本を見てるだけじゃ、きっと分からなかった」
シロユキは声が震えていた。それでもその言葉は強く、美紀の胸に響いた。
「ぼくたちは、友達だ」
美紀はもう一度、シロユキのほうへ駆け寄りたくなった。でもそのとき、ドアの向こうから、何か強いものが強引に美紀をそっちに引きずり込もうとしていた。美紀は何も抵抗できず、何も言うことができず、ただそのまま、ドアの向こうへ吸い込まれていった。




