第1章 満月の夜
「お父さん、遅いね」
「仕方ないわよ。こんな山奥なんだもん」
そう答えた母の顔は、口元こそ緩んでいたが、青白く、言葉もおぼつかなかった。病気が母の外見を別人に変えてしまった。きれいな黒髪、暖かくて優しかった肌の弾力、生き生きとした声の持ち主は、もうそこにはいなかった。
美紀は不安でいっぱいだった。
「お母さん、頑張ってね」
美紀は涙が出るのを堪え、ベッドサイドの椅子に腰掛けて、そこに横たわる母の目をじっと見ていた。
悟は美紀の手をとり、隣に静かに座っていた。美紀の手が震えてるのを感じていた。
「いい旦那さんを持ったわね」
「お母さん、ムリにしゃべらないでね」
「いいのよ。私はまだ元気だもん」
母は優しくほほえんだ。
「カーテンを開けてもらえない?空を見たいな」
母は美紀に頼んだ。でも美紀は辛くて動けなかった。これを開けてしまったら・・・これが母が見る、最後の景色になりそうで・・・
悟は美紀の手をそっと離し、静かに立ち上がると、美紀の両肩を優しくなでた。そして窓に向かい、カーテンを静かに開けた。母の目に、大きな満月が飛び込んだ。満月を見て、母は子供のような穏やかな顔になった。
「悟さん。もう一つお願いしていいかしら。明かりを、消してもらえますか?」
悟は母の顔を見て、それから美紀の顔を見て、少しの沈黙の後に「はい」と答え、スイッチを消しに行った。
またしばらく沈黙が続いた。薄暗い病室の中で、美紀は母の瞳に輝くものを見た。月明かりに照らされたその涙は、まるで宝石のようだった。
「あのときも、ちょうどこんな満月の夜だったわね」
急に母が口を開いた。
「え?」
「美紀は覚えていないだろうけど。ちょうどあなたの目が覚めた瞬間よ。私、今でもはっきり覚えているわ」
「目が覚めた・・・って、あの、小学校のときの・・・?」
「ええ。もうこのまま目を開けることはないんじゃないかって、不安でいっぱいだったわ。目覚めたあなたを私が抱きついて、そのとき窓越しに見えたお月さまは丸くて大きくて、でもすぐに涙で見えなくなっちゃって」
「ごめんね・・・覚えてなくて。本当いろいろ苦労かけたね」
「ううん。はじめは私もお父さんもすごく驚いたけどね。でも、もう一度、一から育てよう・・・って。そう考えたら元気が出てね。あれはあれで楽しかったわよ」
「交通事故の事ですよね?」
しばらく黙って聞いていた悟が口を開いた。
「ええ。美紀はまだ小学校に入学したばかりだったわ。脳を強く打って、しばらく意識が戻らなかったのよね。それで、意識が戻ったときには過去の記憶がほとんどなくなってて」
「今の私があるのは、あれからもいつも明るく接してくれたお母さんやお父さんのおかげだわ。おかげで、少しずつ記憶を取り戻して、すぐに普通に生活できるようになったんだよね」
母はそれ以上は何も言わなかった。いろいろと過去を思い出しているのだろう。目に涙をためたまま、ずっと満月を見ていた。しばらくの間、沈黙が続いた。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「私ね、笑われると思ってずっと黙ってきたんだけど、おかしな記憶があるの。高校卒業するくらいかな、思い出したのは。一度思い出したらね、どんどん鮮明になっていって。小学生のときの・・・多分、交通事故にあうちょっと前の頃だと思うんだ。小さな男の子との不思議なできごと」
「面白そうね、聞かせて」
母の目には、まだ涙が残っていた。でも口元は、そっとほほえんでいるようだった。
美紀は静かに口を開き、母親に聞かせてあげた。もう、20年も前になるであろう、昔々の、とっても不思議なお話を。




