後編
一枚だけ持っていた外出着の白いワンピースを着て、私はあの人に会いにいく。女性と二人で。
手には、一輪のフリージア。
「久々です、私。あの人に会うのは」
降り注ぐ光は温かい。しかし、時折吹く風はまだ冷たく。そんな絶妙な気温。ワンピース一枚で外へ出るというのは、あまり相応しくなかったかもしれない。薄いものでも構わないから、上着を羽織ってくるべきだった。もっとも、今さら言ったところで意味なんてないわけだが。
「そうなの。今日は、伝えたいことをすべて話すといいわ」
「はい。ありがとうございます」
あの人には、もうずっと会っていない。だから楽しみ。懐かしい顔を見ることができるのが、楽しみで仕方ない。早く会いたい。
「ここよ」
女性が足を止めたのは、石造りの四角いものの前だった。
「あの人はどこですか」
「ここよ」
「なぜ。見当たりません」
彼女はそう言うけれど、そこにあるのは石で作られた四角い物体のみ。あの人の姿は、どこにもなかった。見逃しているのかと周囲を見回してみたが、見当たらない。
あの人はここにはいない。
それなのになぜ、彼女は、私をここへ連れてきたのだろう。
こんなくだらない嘘をつくはずはない。となると、恐らく何らかの意味があるのだろう。だが、私にはその意味を察することはできなかった。もちろん考えてはみたが、導き出せる答えはなくて。
「……貴女は分かっていないの?」
女性の顔に浮かぶのは、哀。
「貴女を生み出したあの人は、もういないのよ」
「……会えないのですか?」
「そう。人はいつかいなくなってしまうの」
握っていた一輪の花が、手からこぼれ落ちた。
「悲しいことよね。けど、それが真実」
「離れているだけでは……ないのですか」
今は離れているけれど、いつかはまた会える。私が生まれてまもない頃に見た、始まりの群青の瞳を、もう一度見ることができる。そう信じて、疑わなかった。
けれど、そんなものは幻想に過ぎず。
結局、私は夢をみていただけだったのか。
「えぇ。あの人は、とうに亡くなったわ」
足から力が抜ける。
立っている、ただそれだけのことが、今はこんなに難しい。
「では、もう会えないのですか……」
「そうね」
「もう二度と……微笑みかけてもらうことさえ、できないのですか……」
「悲しいけれど、そういうことよ」
太陽光を、雲が遮る。
私の胸の内もそれとよく似て、薄暗かった。
静寂が二人を包む。
私も女性も、言葉を失ってしまった。二人とも、何一つとして発することができない。
穏やかな日であったはずなのに。
「あの、大丈夫ですか?」
それからかなりの時間が経った時、痛いくらいの沈黙が、何者かの声によって破られた。
私でも女性でもない声の登場に、戸惑いつつ振り返る。
「え……」
そこに立っていたのは、群青の瞳を持つ男性。
二十歳を少し越えたくらいだろうか、その表情には瑞々しさがあった。
私が生み出された時、あの人は既に年老いていた。だから私は、あの人の若い頃は知らない。しかし、今、目の前にいる彼は、多分あの人の若い頃に似ていると思う。
「体調不良か何かですか?」
「……いえ」
青年は私に微笑みかける。
初対面のはずなのに。
「立てます?」
あの人によく似た彼は、私に向けて手を差し出した。
「……はい」
私はその手を握った。
差し出されたからといって、絶対に手を取るかといえば、そうではない。相手が見知らぬ人なら、なおさらだ。普通は、警戒して、すぐには手を取らないだろう。
けれど、今は、彼の手を取ることに躊躇いはなかった。
「無理しないようにね」
「はい」
「では、これで」
青年は一度柔らかく微笑むと、私たちに背中を向けて歩き出す。
待って!
行かないで!
そう言いたいけれど、どんな顔をして言えば良いのか分からない。それに、相応しい言葉も思いつかない。
「あ、あの……!」
彼を何とか引き留めようとして——私は、半ば無意識のうちに叫んでいた。
私の声に、青年は振り返る。その群青の双眸は、確かに私を捉えた。
「……え」
「待って下さい!」
冷たい風が頬を撫で、通り過ぎる。
「行かないで!」
こんなところで大声を出すべきではないと、分かってはいる。分かってはいるのだ。一応、ではあるが。
けれど、彼を引き留めないわけにはいかなかった。
私の生みの親によく似た青年。あの人と同じ、群青の瞳を持つ彼を、このまま行かせたくなかったのだ。
「え? ……何ですか?」
青年は戸惑ったような顔をしながら私を見ている。
言え。言うんだ。
ここで言わなければ、思いを伝えなければ、彼は行ってしまう。そうしたら、多分、もう会うことはない。それこそ、永遠の別れだ。
「あ、貴方は! 私の、大切な人に! 似ていて!」
発する言葉は途切れ途切れ。とてもまともではない。
それでも、私は言う。ここで別れて、後悔するのは嫌だから。
「また……また会えますか!?」
暫し、沈黙。
その後、青年は優しげに口角を持ち上げる。
「きっとまた会える。そう思います」
「ありがとうございます……!」
心から礼を述べる。
すると彼は、ふふっ、と笑みをこぼした。
「またいずれ」
そう言って、片手を軽く掲げた後、青年は私たちに背を向けて歩き出した。風に散らされる花弁のように、彼はこの場から去った。
またいずれ。
その確かな意味は分からないけれど。
でも、彼は確かにそう言った。それだけは間違いのないこと。
彼が迷いなく言ったのだから、きっと、また出会えるだろう。私はそう信じる。
「良かったわね」
群青の瞳の青年が去ってからしばらくして、一緒に来てくれていた女性が声をかけてきた。
「彼、あの人の甥御さんよ」
「え」
女性はとても穏やかな表情で述べていた。
「そうなのですか!?」
「えぇ、間違いないわ。昔、会ったことがあるもの」
「そうだったのですね。なら……また会えるでしょうか」
すると彼女は、地面に落ちていた白色のフリージアを拾い、それを私へ差し出してくる。
「えぇ、きっと」
白色のフリージアを受け取ると、私は、石造りの物体の前にそれを手向けた。
「ありがとうございます。出会いを、下さって」
フリージアは、あの人が好きだった花。
だからきっと気に入ってくれるだろう。
「これから、面白いことになりそうね」
「はい」
あの人はもういない。もう会えない。あの人の群青の瞳を見ることは、二度とできない。
それは事実。
けれど、彼が私にくれた新しい出会いは、きっと……。