前編
私が生まれた日から、何日が過ぎたのだろうか。
研究所の隅にある狭い一室で、私はふと考える。窓辺の椅子に座り、便箋と封筒の乗った机に頬杖をつきながら。
窓からは、そのすぐ向こう側にある花壇に植わっている、白いフリージアが見える。
それは、懐かしい花。
私をこの世に生み出したあの人が好きだった。
——そう、私は人間ではない。
私を生み出したのは、群青の瞳の優しい人。
今は離れているけれど、彼は私に、たくさんのことを教えてくれた。
空の色が時間によって変わること。花を美しいと思うこと。離れて暮らしている人へ手紙を書くこと。そして、人は誰かを愛するということ。
あの頃の私にはよく分からなかった。しかし、今なら少しは分かる気がする。もちろん、完全に理解できるようになったわけではないのだけれど。でも、徐々に理解できるところへ近づいているように感じる。
「こんにちはー」
一人の女性がやって来た。
彼女はいつも、私に会いにきてくれる。研究所の隅に放置された私を、彼女だけは、ずっと気にかけてくれているのだ。
「こんにちは」
「今日もいい天気ね」
「はい」
女性はこちらへ歩いてきて、私が肘を乗せている机を覗き込む。彼女の優しい眼差しは、便箋へと注がれていた。
「お手紙?」
「はい」
「切手、持ってこようか」
今日も彼女は親切だ。私に気を遣い、協力しようとしてくれる。それはとてもありがたいこと。
「いえ。結構です」
ありがたいし、感謝してはいるのだけれど、今はまだ切手という段階ではない。というのも、何も書けていないのだ。
離れて暮らしている人には手紙を書くもの。それを教えてくれたあの人へ、手紙を書こうと思い立ち。しかし、まったく何も書けないまま、時間だけが過ぎていっていたのである。
「まだ書けていないので」
女性は首を傾げつつ、小さな声で「そうなの」と。
「それにしても珍しいわね。貴女がお手紙を書くなんて」
「はい」
「誰に送るの?」
柔らかな笑みを浮かべながら尋ねられたので、私は静かに答える。
「あの人に」
強い風が吹いたのだろう。古ぼけた窓枠が、震えるように音を立てた。窓から見えるフリージアも、波打つように揺れている。
「私を生み出してくれた、あの人へ」
暫し、沈黙。
その果てに、女性はふっと笑った。
「なるほどね」
日差しが弱まったのか、部屋へ降り注ぐ光量が減ったのを肌で感じる。
無論、元々それほど明るい部屋ではなかったが。
「生みの親にお手紙を出そうと考えたのね」
「はい」
「でもね、切手じゃそれは届かない」
女性の顔に、陰が滲む。
なぜなのかは分からないが。
「もういない人に手紙を送ることはできないのよ」
彼女は私を、いつになく悲しそうな瞳で見つめる。その意味をすぐに理解することはできなかった。ただ、何となく察することはできた——彼女は今、切ないことを言っているのだと。
「けれど、あの人は言っていました。離れて暮らしている人には手紙を書くものだと」
「そう。離れて暮らしている、ならね」
「私とあの人は離れて暮らしています」
「この世とあの世で、でしょう? それは無理なの」
無理。
その言葉が、妙に胸に響いた。
手紙を書けば、あの人に感謝の気持ちを伝えられる。想いを文字にして記せば、きっと伝わる。そう、彼自身が言っていたように。
私はそれを信じて疑わなかった。
だけど、もし、届かないとしたら……。
「では、どのようにすれば言葉が伝わるのですか」
悲しげな静寂の中、私は問う。
目の前の女性に。
「何をすれば、この気持ちを伝えられるのですか」
私はただ、彼女の瞳をじっと見つめる。それでも彼女はしばらく黙っていたが、一分ほど経過したのではないかという頃になって、ようやく口を開いた。
「……良い方法があるわ」
「教えて下さい」
「直接お話しに行けばいいのよ」
そう言って、女性は、どこか切なげな笑みを浮かべる。
「貴女が望むなら、一緒に行こうか?」
「どこへですか」
「あの人が今いるところよ。伝えたいことがあるのでしょう?」
そう。彼女の言う通りだ。私には、あの人に伝えたいことがたくさんある。
それは、生み出してくれたことや、様々なことを教えてくれたことへの感謝。
あの人がいなければ、私がこうして生を受けることもなかったのだから。
「もしよければ、一緒に行くわよ」
「はい。よろしくお願いします」
私は手紙を書くことを諦め、窓際の椅子から立ち上がる。
「今から行く?」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「少しだけ、待っていただけますか」
女性は首を傾げていたけれど、私は心を決めていた。
あの人が好きだった花、フリージアを摘みにいこうと。