3.ハイルの嘘
リリとハイルが共に暮らし始めて数日後。
「良い話があるんだ」
そうハイルに持ち掛けてきたのは、商人のヘンリーだった。
「良い話?」
良い話なんて、どうせ碌なものじゃないのだろう。
ハイルが苦笑してしまうと「本当だって!」とヘンリーは大声で抗議した。
ヘンリーは各国を渡り歩く旅の行商人だ。
彼の品揃えは珍しいものばかりで、ハイルは数か月に一度やってくるヘンリーの訪れをいつも楽しみにしていた。異国のランプや、よく切れる東洋のナイフ、時には薬学書までハイルのためにと運んでくれるのだから頭があがらない。
ハイルは腕を組みながら、ヘンリーが今朝広げたばかりの品物に魅入っていた。ヘンリーは毎回市場の端に場所を借りて、簡易組み立て式の屋台で商売をしていた。
往来を通り過ぎる村人も、次から次にヘンリーに声をかけてくる。「元気にしてたかい」とか「まだ生きてたのか」とか。ヘンリーもそれに辛辣な返しをする。見慣れた光景だ。
ヘンリーは前かがみになりながら品を物色するハイルの顔を覗き込んだ。
「なあ、ちゃんと聞いてくれよ、ハイル」
「ああ。聞くだけならね」
「本当にいい話なんだ」
「わかった。聞かせてみてよ」
試すように言うと、ヘンリーはにやりと笑った。
「実はな、この近くの国境沿いである市場が開かれるんだ。各国のお偉いさんも来るって噂だし、露店を出すのも自由だ」
「それで?」
「俺ももちろん出店をしようと思ってる。そこで君のクスリも一緒に売りさばかないか?」
ヘンリーは怪しい取引のように声を潜めるが、陽光も眩しく子供たちの無邪気な笑い声が通り過ぎる市場では、ちっとも恰好がつかなかった。ハイルは「無理だよ」と首を横に振った。
「僕の薬はひとりひとりの症状にあったものを調合してる。大量生産は出来ない」
「万能薬はないのか?ほらあの、傷口に塗るクリーム状の。あれなら鍋にでも大量に作っておけば、小分けにして売れる。一匙銅貨二枚でどうだ?百人に売れば、金貨に変わる」
金貨に。
魅力的な言葉に、ハイルは真剣に考えて、それなら出来ないことはない、と思った。材料の葉と木の根も今の季節なら群生しているから作るにはうってつけだ。二、三日あれば余裕だろう。
「……上手くいくかな」
ハイルの迷った様子にヘンリーはしめたと早口にまくしたてた。
「大丈夫だって」
ハイルが頑なに「しない」と言うなら早々に諦めるつもりだったが、「どうしようかな」と迷うのなら可能性はある。
「安心しろよ。俺がついてれば絶対に売れる。絶対にだ。君の薬は香りも良いし、貴族のお嬢様なんかにも絶対ウケがいいはずだ。ついでに美容効果もあると言ってやればいい、倍は売れるぞ」
「嘘はダメだよ」
「ああ、もちろんだ。でも傷は確かに治る。殺菌効果もあるし、持ち運びにも便利だ。そういう利点はオレが細かく説明する」
「……取り分は?」
「君が七、俺が三でどうだろう?」
ハイルはしばし考えて、「わかった」と頷いた。ヘンリーはお調子者だが、計算は早いし口も達者だ。彼と組むなら全く売れないということはまずないだろうと思えた。
「やってみよう」
ヘンリーは「ハイルならそう言ってくれると思ったよ」と両手を握りしめてきた。ヘンリーは鼻歌交じりに早速これからの細かな相談をしようと持ち掛けてきた。メモ用紙を懐から取り出しながら「ああ、そうだ」と思い出したように声をあげる。
「ところで君、あの元気娘と結婚したんだって?」
「うん」
「素晴らしい。じゃあこれは結婚祝いだな」
そう言ってヘンリーは、並べた品の中にあったピンク色のクマのぬいぐるみを差し出してきた。
「ささ、遠慮はいらないよ。受け取り給え」
「……どうしてぬいぐるみなんだい?」
「ハンズビーにも伴侶がいるだろう」
その一言でハイルは思い出した。
ハンズビーは、昔ヘンリーの店で買ったものだったということを。
「一週間後?」
リリが素っ頓狂な声をあげてしまったのも無理はない。
一週間後、ハイルが唐突にヘンリーと共に行商に出るなどと言い出したのだから。
作りかけのシチュー鍋をよそに、リリはダイニングに座るハイルに向かって唇を尖らせた。
「何も、ハイルまで一緒に行くことないじゃない。薬だけヘンリーに渡して売ってきてもらえばいいわ」
ハイルはそれには同意できなかった。
「効能を正確に説明できる人間が必要だ。買った人が誤解して、火傷跡や別の使われ方をしたらたまらない」
「でも」
リリはシチューをかき混ぜていた木杓子を握り締めた。国境沿いは、あまりにも遠い。行って帰ってくるだけでも二月はかかるだろう。せっかくハイルと暮らし始めたばかりだと言うのに、これでは独り暮らしも同然だ。
「リリ、すぐに帰ってくるから」
「……本当?」
二月なんてあっという間だと言うように、ハイルは明るく返した。
「本当だよ。僕が嘘をついたことある?」
リリはふるふると顔を横に振って否定した。
「ないわ」
ハイルは真面目で誠実で、嘘など一度もついたことはない。それでも淋しさは拭えなかった。
「なるべく早く帰ってきてね」
「うん」
「お土産はいらないからね」
「わかった。じゃあクッキーもチョコも僕ひとりで食べることになるね。苺味の飴も」
「……意地悪」
リリが言うと、ハイルはくすくすと笑って両手を伸ばした。
「おいで」
リリが近寄ると、ハイルの膝上に正面を向いて座らされた。後ろから腰に手を回された状態でぎゅうっと抱きしめられる。背中に、ハイルの顔が押し当てられるのが分かった。
「リリって、いい匂いがする」
くぐもった声に、リリは微かに後ろを向いた。
「ハイルもいい匂いだわ」
「僕たちって同じ匂い?」
「きっとね」
ハイルが顔をあげる。
腰に回されていた手が緩まって、今度は横を向かされた。人形のように整ったハイルの顔が近づいてきて、そっと唇を重ねられる。離れて、角度を変えて、また、重なる。何度も重なる。しだいに激しくなるそれに、リリの呼吸はあがっていった。なんとか椅子から落ちないようにとハイルの背にしがみつく。リリはまだ、この激しい大人のキスに慣れていなかった。早く離して欲しいような、もっとして欲しいような気持ちになりながら、ハイルが満足するまでいつもされるがままだ。
「リリ、リリ。愛してる」
口づけの合間に囁かれる言葉にリリは「あたしも」と返したかった。なのに上手く息継ぎが出来なくて、結局はなにも言えなかった。
それにしてもハイルときたら、いったい何処でこんなキスを覚えてきたのだろう。
シチューの焦げ付く匂いに気づくまで、ふたりはそのまま抱きしめ合っていた。
一週間は、あっという間に経ってしまった。
ハイルは朝から晩まで薬作りに没頭し、リリはリリで、酒場の仕事とハイルの薬作りの手伝いとで奔走した。
ハイルが二月も家を空けるのは初めてで、薬草の世話はリリが行うことになった。しかし、幾種類もある草花の世話を覚えるのは容易ではなく、リリは目を丸くしながら、必死にハイルから世話の仕方を教わった。肥料の種類、頻度、天候による水のあげ具合等。
それに加え似たようで違う薬草もあって、リリは一個一個に立て札をたてて見分けることにした。
家庭菜園で、野菜を育てたことはあったけれど、薬草は全く勝手が違った。リリはハイルの作ってくれたノートを熟読して、毎日庭に出た。これからはあたしが世話をするんだからと。
そうしてついに旅立ちの日。
ハイルとヘンリーは大荷物を抱えて、村から外へでる道の前にいた。
見送りには酒場のマスターはもちろん、肉屋のマトソン、金物屋のジョンなど顔見知りが大勢集まっていた。ヘンリーが、自分が村を出るときは誰も見送りなんてしてくれないのに、と小さくぼやいた。
リリは自分自身に泣かないように言い聞かせながら、ハイルを見上げた。
「お世話頑張るわね」
「うん、宜しく頼むよ」
「気を付けてね」
「うん。リリも無理はしないように。なにかあったらマスターを頼るんだよ」
言って、ハイルはマスターをちらりと見上げた。マスターは「任せなさい」と大きく頷く。
「土産宜しくな!」「風邪ひくなよ」などと、集まった面々はハイルに親しみのこもった声援を投げた。そんな大げさなものじゃないんだけどな、とハイルは思って最後に瞳を潤ませたリリを見つめた。この少女をひとり残すことがこんなにも心苦しいとは思わなかった。
「……じゃあ、行ってくるね」
「ええ、行ってらっしゃい」
ざり、と砂を踏む音を立ててハイルは背を向けた。
そうして、何度も振り返りながら進んでいく。
ハイルとヘンリーの姿はすぐに豆粒ほどの大きさになり、やがて、見えなくなった。
それでもその場所から動こうとしないリリに皆が慰めの言葉をかける。
マスターは言った。
「二月なんてすぐだよ。リリ」
「ええ……」
わかってる。それでも淋しかった。
早く帰ってきて、と心の中で囁いて、リリは村に戻った。
二月なんて、すぐ。
ああ誰がそんなことを言ったのだろう。
それから三か月が経った。
ハイルは帰って来ない。
それから四か月が経った。
ハイルからの音沙汰はない。
半年が経った。
ヘンリーだけが、帰ってきた。