2.短い新婚生活
それから数日後。
リリは間借りしていた酒場の二階から、ハイルの家に引っ越した。引っ越しとは言っても狭い村だ。歩ける距離の移動に、リリのそれは半日で終わってしまった。
ハイルの家は村外れの、森の入り口付近にあった。煉瓦と土壁で出来た古びた家はハイルの先祖が代々継いできたものだ。そこは買い物へ行くのには少し不便だが、薬草を採るのや育てるのに都合が良いのだと言う。しかも家の庭先で栽培している特殊なハーブや薬草は、永い時をかけて作られたその土でしか育たない。ハイルの一族がこの土地を離れない理由のひとつでもあった。今ではその一族も、ハイルが最後のひとりとなってしまったけれど——。
「これだけ?」
リリの運んできた荷物を見て、ハイルは少し驚いた声をあげた。
リリの荷物は少なかった。
服の入った衣装葛籠が二つと、細々した雑貨類を詰めたボストン。それからクマのぬいぐるみとチョコレートの入っていた外国の城が描かれたブリキの缶だけ。ぬいぐるみとブリキ缶は、どちらもハイルから貰ったものだった。ほつれても、絵が薄れてしまっても、リリは大切に大切にしまっていた。
「まだ持ってたんだ」
ハイルはリリの荷物の中から懐かしむようにクマのぬいぐるみを抱き上げた。布地は擦れてしまっていても愛らしいビーズの黒目は健在していた。
「もちろんよ。ハンズビーを捨てられるわけないじゃない」
ハンズビーは、ふたりで一緒にクマに付けた名前だった。ハイルは「もちろんだとも」とおどけて見せて、ハンズビーに向かって「久しぶり」と声をかけた。
リリはくすくすと笑って、ハイルの一軒家のリビングを見渡した。麻のカーペットに、木製のダイニングテーブル。その上には花瓶に活けられた黄と桃色の花が飾ってあった。ちらりと覗いたキッチンは清潔に片づけられた跡があり、料理の腕をあげないと、とリリは少しばかり気を揉んだ。料理は昔から、ちょっとだけ不得手だった。
「リリ、こっちに来て」
ハイルに呼ばれ、リリは狭い階段をあがって二階へ向かった。
二階へあがるのはいつぶりだろうとリリはわずかに緊張した。二階はプライベートすぎる空間で、ここ数年は軋む階段の音すら聞いていなかった。子供の頃の記憶では、二階にあるのは寝室と物置部屋がひとつ。寝室には中央にベッドがひとつと、その横に小さなサイドテーブル、それから壁際にクローゼットがあるはずだった。
「なあに?」
ドキドキする感情を押し隠しながら、リリは扉の開かれたままの部屋に足を踏み入れた。部屋は、リリの記憶のままの配置だった。ベッド横の水差しの乗った小さなサイドテーブルと、壁際のクローゼット。
ただひとつだけ違っていたのは、中央に据えられたベッドだった。
記憶では、ベッドはこんなに大きくはなかったはず。優に大人二人は寝ころべるサイズのそれに、リリは驚いてハイルを見上げた。
「ハイル、これ……」
ハイルは照れくさそうに脇に抱えたままのハンズビーを撫でた。
「中古で申し訳ないけどシーツは新品だよ。二人で寝るのに前のは小さすぎたし、古かったから」
立派な木枠は、中古だとしても安くはないはずだ。
リリは嬉しいのと恥ずかしいのとで顔を赤らめる。このベッドで、これからリリは毎日彼と眠って起きるのだ。ふたつ並んだ真新しいふかふかの枕に顔を埋めるのは、さぞ心地良いだろう。
「ありがとう。でも、無理しないで」
リリは傍に立って、口づけをしようとしてきたハイルのシャツを掴む。
「無理なんてしてないよ」
ハイルは囁くように言いながら、リリの額に唇を押し当てた。
「リリには出来る限りのことをしてあげたいんだ」
「あたしは今のままで充分幸せよ」
こんな歯の浮くようなセリフ、ハイルの前でしか口にできない。リリは猫のように額をハイルの胸に擦り付けた。「もっと幸せにしてあげる」ハイルが囲うようにリリの身体を抱きしめる。石鹸と薬草の香りに包まれ、リリは心の底から安堵した。彼はどんなリリでも受け止めてくれる。彼の前でだけは、いつも虚勢を張らず素直になれた。
親がないリリを、昔から暖かく優しく見守ってくれたハイル。そんな彼をリリが異性として見てしまうのも無理はなかった。
ハイルは村中の女の子の人気の的で、想いを寄せていたのはリリだけではなかった。花屋のメルも、村一番の美人のショーナも、彼が好きだという噂をリリは耳にしていた。
ハイルは誰にでも分け隔てなく優しい。
リリは勘違いしてしまわないように正しい距離を保ちながら、その恋心を抱えていた。綺麗で優しいハイルには幸せになって欲しい。出来れば彼には悲しいことなんて一切起こらないで、一生を穏やかに健やかに過ごして欲しい。それが、リリのささやかな願いだった。
その為ならリリは妹役で構わなかった。近所のお転婆な、怪我ばかりする知人。その位置でも構わなかった。
だからリリは、十六の誕生日の日、彼に告白をされた時はきっと夢を見ているのだと思った。結婚をしようと差し出された花束は美しく、リリは歓喜に涙を零した。
こんなに嬉しいことはなかった。
「夢なら二度と醒めないで欲しいわ」とリリが言うと、その涙をハイルが指の腹で拭ってくれながら「君がずっと眠ったままだと困る」と笑った。
「指輪はもう少し待ってくれる?」
ハイルは申し訳なさそうに言った。隣街にある宝石屋に行ってくれたそうだけれど、良いものがなかったのだそうだ。リリはそんなものはいらないと首を振った。ハイルがいてくれるなら、それだけで良かった。それだけで、本当に良かったのだ。