1.リリとハイル
「人違いですよ」
その引いたような彼の笑顔に、リリの心は冷たく凍てついた。
腕をそっと離される。
人はなんの悪いことをしていなくても、不幸に見舞われることがあるらしい。それは理不尽に、根拠もなく、唐突に、誰にでも降りかかる。
たぶんそれを皆、不運と呼んでいるのだ。
***
夕暮れ時。
リリの勤める酒場には労働を終えたばかりの村人が集い始めていた。
狭い入り口を誰かがくぐる度、リリの明るい声が店内に響いた。「元気だねえ」と笑ったのは肉屋のマトソンで、その後ろに金物屋のジョンと——今日は珍しく代筆屋のフレデリックまで顔を出していた。稼ぎ時ね、とリリは緩んできた前掛けのリボンを結びなおし「ご注文は?」と男性客たちの背後に立つ。肉屋の店主マトソンは既に出来上がったように顔が赤いが、これでシラフなのだった。太い指を三本立てて、リリにへらへらと笑いかける。
「ビールを三つにつまみと肉を三人前。俺が捌いた奴を出せよ、あの新鮮な」
「はいはい。わかってるわよ。あのくず肉ね」
「おいおい」
絡んでくるマトソンを軽くあしらい、リリは厨房にオーダーを通した。マスターが苦笑いで「あいよ」と声をあげる。
カウンターに並んでいる出来上がった料理をリリは器用に掌と腕を駆使し運んでいく。多少の熱さにはすでに慣れていた。片手には大皿をふたつ、もう片手にはビールを数杯分乗せた盆をバランスよく運び、「おまちどおさま」とオーダー待ちのテーブルに運んだ。
「細腕なのに、力持ちだね」とフレデリックが興味深そうにリリの腕を眺める。リリは「鍛えてますから」と握りこぶしを作ってみせた。その様子に、マトソンは丸太ような腕で頬杖をつきつつ、リリを見て深いため息を零した。
「リリ、お前なあ。そんなに可愛げがないと本当に嫁の貰い手がなくなるぞ」
リリは他のテーブル客の空いたグラスをてきぱきと集めながら、「ご心配なく」と口の端をあげて笑ってみせた。
「それなら見つかりましたから」
「はあ?」
「本当かい、リリ!」
声をあげたのは、マトソンだけではなかった。集まっていた村人たちは皆身を乗り出すようにしてリリを見つめている。ごくりと、唾をのむ音まで聞こえた。
「なによ失礼ね。本当よ!」
むっとして怒ったリリに「いや、疑ってるわけじゃないんだよ」と穏やかに言ったのはマスターだった。彼がもごもごと喋るたび、上唇と鼻下の間で綺麗にカットされた黒い髭が動いた。
マスターは勝手にもリリの父親のような気分でいた。みなしごだった彼女が手伝いをさせてというのを聞いてあげたのが運の尽きだったのだろう。同情半分で雇った少女はいつの間にか酒場の看板娘へと成長していた。今ではリリを目当てにやってくる客も少なくはない。
いつかはこんな日も来るだろうと思っていたがと、マスターはしんみりとリリを見つめる。
「それで、相手は誰なんだい?」
マスターに優しく尋ねられ、リリは顔を赤らめた。マトソンのようにぶっきらぼうに聞かれるとその勢いで返せるのだが、マスターのように温厚な態度をとられると改めて口にするのが気恥ずかしくなってくる。
「まあ、見当はつくけどな」
面白くなさそうに腕を組んで呟いたのは金物屋の一人息子ジョンだ。リリの幼馴染のひとりでもある。
「ハイルだろ」
リリをよく知る人物なら、その答えは容易に予想が出来たようだった。
マトソンは「ああ」と興味をなくしたように頷き、マスターは安堵した。フレデリックはひとり意外そうに「あのハイル君ですか」とリリに詰め寄る。
リリは観念した。
「ええ、そうよ」
「プロポーズはいつ」
「昨日よ」
昨日リリは、十六になったばかりだ。
この国の法律では、女は十六、男は十八になれば庶民は誰の許可もなく自由に結婚が出来た。子供の頃から男勝りで可愛げがない嫁には行けないなどと言われ続けてきたリリだったが、おそらく村の同年の誰よりも先に結婚をすることになるだろう。
「やるねえ、ハイルの奴」
村人のひとりが「おめでとう」とグラスを掲げた。口笛を鳴らされ、拍手を送られる。
「おい、誰かハイルを呼んで来いよ!」
叫んだマトソンに「ダメよ」とリリは慌てて首を振った。「仕事があるんだから」と。
ハイルは村で薬師をしている。ほんの少しだが魔力を有しているハイルの薬はよく効くと評判だった。だが、薬の精製には時間がかかる。材料となる木の根や草花を集めるところから始まり、それを乾かしたり煮たりして取れる微量な成分をさらに調合するのだという。何百種類もある薬草を覚えるだけでも大変な上、小さな粉や液体の配合には手先の繊細さが求められた。誰にでもできる仕事ではなく、そんな仕事を頑張っているハイルをリリは尊敬していた。夜にしか光らない薬品もあるとかで、今夜もその仕事に彼はつきっきりのはずだ。
邪魔をしてはいけないとリリはマトソンをねめつける。
「仕事場に行ったら承知しないから」
「なんだよ、こんな日ぐらいいいじゃないか」
つまんねえ女、とマトソンはビールを煽る。
「つまんなくて結構よ」
リリは焼きあがったばかりの肉の皿を、マトソン達の前にどんと置いた。
「そんなんじゃすぐに愛想尽かされるぜ」
「大丈夫ですよ、マトソンさん」
唐突に、リリの背後に優しい声が届いた。低めの、それでいてゆっくりとした話し方は、リリが知っている人物でただひとりしかいない。
「リリのことなら十分知ってますから」
「ハイル!」
振り返るとごった返した店内に場違いような顔の整った青年が佇んでいた。
「ここ、空いてる?」
にこにこと笑ったハイルはカウンターを指さした。羽織っていたローブのフードを外せば、艶やかな金髪が現れる。リリの欲目を除いても、ハイルは明らかな美男子だった。すっと通った鼻筋も、きめ細やかな白い肌も、まるで童話から抜け出してきたお姫様みたいだ—でも、こういうと彼が機嫌を悪くするから、リリは絶対に口にはしない。
「リリ?」
見惚れてしまっていたリリに、ハイルが首をかしげる。リリは我に返って「え、ええ、空いてるわ」とカウンターを勧めた。
「ハイル、仕事終わったのか?」
テーブル席から、マトソンが大声で話しかける。
「ええ、今日の分は」
ハイルはマスターに酒と食事を注文し、きょろきょろと店内を見渡した。
「僕になにか?」
やけに見られていることに、ようやく気付いたらしい。
「とぼけるなよ、済ましてやがって」
三杯目のビールを片手に、ジョンがぼやく。
「リリにプロポーズしたんだってな」
「おめでとう!」
「お幸せにな」
酔っ払い共の歓声に、ハイルはぎょっとしてリリを見つめた。
「もう言ったの?」
「ダメだった?」
「ダメじゃないけど」
ハイルは口元を抑え恥ずかしそうに顔を赤らめた。そうしてマスターにこっそりと声をかける。
「マスターすみません。後日改めてご挨拶にとは思っていたのですが」
「いやいや。いいんだよ。相手が君なら私も安心だ」
マスターは「はい」とハイルの注文した酒を前に置く。
「今日は私の奢りだ。お転婆娘だけど、リリを宜しく頼むよ」
「ありがとうございます」
酒を受け取ったハイルは照れくさそうに微笑んだ。リリは別の客に呼ばれ、場を離れる。ハイルがその小さな後ろ姿を追っていると、がしりと毛に覆われた腕が首に回ってきた。
「何をこそこそ話してるんだ?」
マトソンがハイルの首根っこを緩やかにつかみながら、酒臭い息をかけてくる。ハイルは苦しそうにその腕を解きながら、顔はにやけていた。
「マスターはリリの親代わりのような方ですから」
「お嬢さんを僕に下さいってか?幸せ者め」
マトソンはどっかりハイルの隣に腰を下ろし、肉を追加した。勝手にハイルの皿に盛りながら、食え食えと強引に勧める。
「今度俺の店に来いよ。最高ランクのとびきりの部位をくれてやる」
「ありがとうございます」
素直にほほ笑むハイルに、マトソンは「リリにこいつの三分の一でも可愛げがあればなあ」と思った。
「で、あんなじゃじゃ馬の何処が良かったんだ?花屋のメルもお前に執心だって噂もあったけど」
「メルだけじゃねえよ、うちの姉ちゃんもだ」
いつの間にか反対側に座っていたジョンが、ぶっきらぼうに言い捨てる。
「つまりお前は選び放題だったってわけだ。羨ましいねえ。それなのになんでリリなんだよ」
「リリは良い子じゃないですか」
ハイルはふと影を落とす。
「それに比べて、僕なんてつまらない男です。求婚するのに指輪のひとつも贈ってやれない」
勉強しかできない貧乏人。それがハイルだった。現にポケットに入った所持金はこの店の誰よりも少ない自信があった。使い古した布の小銭入れには銅貨が数枚入っているだけ。だからハイルは一番安い酒と食事を頼んだ。薬師はその膨大な労力に引き換え、得られる報酬はわずかだ。特にハイルのような個人経営では大きな収益は見込めない。それでも家業を続けるのは理由があった。
ハイルの懐事情を知っているマトソンは豪快に首を振った。
「バカ。男は金じゃねえ、ましてや顔でもねえ。心だろうが」
そうだぞ、とジョンが据わった目で会話に加わる。
「女は愛されてるって実感が出来りゃ幸福なんだよ」
「……そうですかね」
マトソンはバツイチだし、ジョンは恋人のひとりもいない。ハイルはふたりの助言を有り難く受け取って、安酒を空にした。
「見ろよ、あのリリの幸せそうな顔」
マトソンは隅のテーブルで注文を受けているリリを見て、満足そうにつぶやいた。
「幸せにしてやれよ」
もちろんです、とハイルはリリの明るい横顔を見つめた。先ほどから、客となにごとか話しては声をあげて笑っている。後ろでひとつに束ねた焦げ茶色の長い髪が、空気をはらんでふわりと揺れていた。
村の人たちはリリのことを“じゃじゃ馬”だとか“お転婆”だとかからかうけれど、ハイルは一度もそんな風に思ったことはなかった。それどころか、恥ずかしがり屋で傷つきやすい、繊細な少女だと知っている。マトソンに話せばきっと腹を抱えて笑われるのだろうけれど——リリは本当に優しい娘だ。
幼い頃から同じ時を過ごしてきたハイルにはわかる。
二つ年下のリリは近所に住む可愛らしくとびきり元気な女の子で、ハイルは自然と彼女の兄代わりになっていた。リリが男の子と取っ組み合いの喧嘩をして出来た傷を手当するのはハイルの役目だったし、馬に乗ったはいいものの、止め方がわからなくて振り落とされた彼女を抱きとめたのもハイルだった。そんな風にしていつも傷をこさえて帰ってくる彼女に「今日は誰と喧嘩したの」と尋ねるのはもはや日課になっていた。
だからハイルは彼女の怪我の理由を誰よりも正確に知っていた。リリは、ただのお転婆じゃない。彼女の行動にはいつだって理由があった。男の子と喧嘩をしたのだって親友がいじめられたのを怒ってのことだったし、馬に乗ろうとしたのは、ハイルに一刻も早く急病人がいることを知らせるためだった。その衝動的で激しいリリの正義感はお転婆と言えばそうなのだろうが、ハイルには異国の神話に出てくる戦の女神のように思えてならなかった。
「ちっとも怖くなんてなかったわ」と虚勢を張るその体が震えているのをハイルは知っていた。
後で泣き出してしまったことを、リリは誰にも知られたくなかったのだろう。「絶対に誰にも言わないでね」とハイルにクッキーを渡して口止めした。ハイルは苦くて硬い(つまりはリリの手作りの)クッキーをかみしめながら「僕は知ってていいの?」と尋ねた。
「ハイルはいいの」とリリは膝を抱えて言った。その記憶の中の少女は十歳くらいだろうか。二人して野っぱらに座り込み、暮れかけた夕日に照らされた田園を見るともなく眺めていた。
「みんなみたいにバカにしないもの」
「リリはバカなんかじゃない。優しくて強くて、僕はとても好きだよ」
リリは涙を浮かべてはにかみ、ハイルの肩に頭をのせた。
「あたしも、ハイルは大好き」
リリの猫毛のように柔らかな髪がハイルの首筋をくすぐった。
「でもね、リリ」とハイルは生傷の絶えないリリに、ほんの少し年上風を吹かせて言った。
「男の子との喧嘩はもうお止め。これからどんどん力では敵わなくなるよ」
しかしリリは、そこで大人しく頷く少女ではなかった。
「力で敵わないなら、口で負かしてやるわ」
「……わかった」
ハイルは神妙にうなずいた。
「じゃあその時は僕を呼んで」と。
リリの口は減らなかった。
「覚えてたらね」
そんな鉄砲玉みたいな少女はつい昨日、十六歳を迎えた。
相も変わらず元気で優しいリリにハイルは結婚を申し込んだ。ずっと心に決めていたのだ。この不器用な少女と生きていきたいと。
ただひとつ不安があるとすれば。先も述べた金銭問題だ。マトソンの言う通り金がすべてではない。大事なのは心だ。だが、金さえあれば遠ざけられる不幸も確かに存在する。
ハイルはせっせと働く婚約者を見つめ、幸せと小さな不安との間に揺れ動いていた。