1-13.小学生時代の思い出
■ ■ ■
小学生時代。
俺の卑屈な性格は既に完成しつつあった。
周りに馴染めず、母子家庭だったという事もあり、父親がいない事にも劣等感を感じていた。
地味で、暗くて、口数の少ない俺に関わりたいと思う学友はおらず、俺の周りには本と親父が残してくれた数枚のCDぐらいしかなかった。
「楓君! 遊びましょう!」
「......」
それともう一つ。
ポプラもいた。
小学生時代から母親のような厚かましさで、俺に対してちょっかいを出してきた。
孤独になりたいのにちょっかいを出される事が嫌で嫌で仕方がなく無視をし続けているのに、ポプラは諦めようとしなかった。
ポプラの性格もこの時に既に完成しつつあったのだろう。
ただ、どこか心の中でポプラに感謝もしていた。
小学生といえば多感な時期。
周りは友人を作り、仲良くしている中、俺は机に突っ伏し寝ているフリをしていた。
それがその時は恥ずかしいと思っていたので、話しかけてくれるポプラが有り難かった。
「ハロー! 楓!」
あと一人、俺に話しかけてくる人物。
それが、ダイアン先生、その人だった。
ダイアン先生は語彙力の少ない言葉で言うと、快活で、美人で、そして、誰からも好かれる人。
俺は、そんな先生の事が嫌いだった。
先生は、誰からも好かれていて余裕があるから弱者を気遣う事が出来るんだ。
俺は、弱い人間だと思われてるんだ。
と劣等感の塊だった俺は、先生の優しさをそのまま受け止める事が出来なかった。
先生への評価が逆転したのは、俺が5年生だった頃か。
あまりにも喋らなく、目付きが悪いので俺は、良い意味でも悪い意味でも他人から避けられておりイジメの対象などにもならなかった。
だが、イジメの対象となるのは道端で人の肩と肩がぶつかるような必然的な確率であり、その番が俺にも回ってきた。
確か、休み時間に教室内でボール遊びをしていた連中の流れ弾が机に突っ伏していた俺に当たったのだ。
そこで俺が間の抜けた声を出した事がキッカケで「あいつ、殴っても抵抗しないんじゃない?」というような空気感になり、そこから悪口を言われるようになったり、足を引っかけられるようになったりと日常的に虐められるようになった。
虐めを受けている時は本当に辛かった。
一人で居たいのに、平穏な生活をしたいのに、毎日毎日、猿のようなクラスメイトにちょっかいを出されるのが本当に辛かった。
クラスメイトの一人。
確か、榊とかいう奴がクラスの中心で、イジメを率先して行っていた。
こいつを叩けば平穏な暮らしを取り戻せる。
と思い、俺は、授業中、榊の背後から椅子で頭を殴打してやった。
後々、仕返しをされたら面倒なので、何度も何度も必要に、恐怖を植え付けるように椅子を叩きつけた。
そこから後は大変だった。
救急車が来たり、警察が来たり、母親が榊の家に謝ったり。
平穏な暮らしとは真逆の暮らしが続いた。
その内、学校に行く事も億劫になり、家に引きこもるようになった。
「あぁ。最初からこうすれば良かったのか」
家に居れば、必要以上に他人から関わりを求められないし、周りの目もないのに孤独を感じる事がない。
自宅こそが俺にとってのオアシス。
それを再認識し、俺は泣いた。
「ハロー! 楓!」
「......マジかよ。あいつ」
ダイアン先生は、事件が起きた日から毎日自宅に来るようになった。
雨の日も風の日も毎日毎日。
母親に「家にあいつをあげるな」と言っても、母親の制止を振り切り、自室の前に来て。
「楓は、一体何が好きなんだ? 趣味は? 食べ物は?」「私の国は、花が沢山咲いていて、アルプスの山々が.......」とかクソみたいな雑談ばかりベラベラと喋っていた。
一人で居たいのに、どうして、俺に構うんだ。
こいつの頭もカチ割ってやろうか。
俺は一度起こした事を二度起こそうとしていた。
ただ、それに踏み切れない理由が一つあった。
それは、ダイアン先生が「学校に行け」と言わなかったからだ。
そもそも、”学校”という話題すら出ない。
恐らく、俺を気遣ってくれていたのだと思う。
気遣いを掛けられるのは好きではない。
「先生、もう、来なくていいよ」
「......どうして?」
引きこもり生活6ヶ月目。
窓ガラスにこびりついた無数の水滴、口を開けば白い息が天井に上り、薄暗い部屋には雨音と廊下から話しかける先生の声が響いていた。
その日は12月だというのに外は滝のような雨が降っていた。
「好きじゃないんだ。先生の事」
「そっか。でも、私は楓の事好きだよ」
「いや、いいよ。そういうの。どうせ、学校の人に『あいつを学校に連れて来い』とか言われているんでしょ」
「私は、私が来たいから来ているんだよ。誰かに言われてとかそういうんじゃ......」
「______何でもいいよ! もう、放っておいてくれ!!!」
金切り声のような、胸につかえた靄を払うような、自分でも驚くほどに大きな声が出た。
「......楓」
「俺がイジメられていたとか、友人がいないとか、父親がいないとか、可哀想だから先生は俺に構うんだろ! そういうの本当に嫌だ!」
「違う! 違うよ! 楓!」
「違くない! 絶対にそうだ!」
「楓! 話を.......」
「話なんて聞きたくない! いいから早く帰れ! 毎日毎日、ウンザリなんだよ!!!」
喉が痛い。
背中には妙な湿り気があり、額には大粒の汗を掻いている。
数秒の沈黙の後、ドア越しの先生は口を開いた。
「じゃあ、もう、来ないよ」
え?
自分で先生に対して要求してきた事が受け入れられた。
喜ばしい事、悲願の勝利であったこと。
ただ、なんだろう。
この心のこそばゆさは。
ギイっと床が鳴る音がする。
トントンと足音が聞こえ、階段を下りる音もする。
本当に帰るのかよ、先生。
自分でも頭で言ったこと、心で感じることの矛盾に違和感を感じていた。
足音が聞こえなくなる直前、俺は包まっていた布団を取り、立ち上がった。
でも、それ以上の事はしなかった。
いや、出来なかったと言った方が正しいかもしれない。
俺がもっと子供っぽい性格や思考なら、先生の胸に飛び込んでいたかもしれないが成熟した理性はぶっ飛んではくれなかった。
次第に、額に掻いた汗と共に、高ぶった感情は砂に落ちる雫のように痕跡なく消えていった。
「喉が渇いた......」
喉が張り付くほどに、喉はカラカラ。
生憎、今日は母親がいない。
部屋を出て、一階の冷蔵庫がある場まで行くのは多少億劫だったが身体が水分を求めるのは必然で、俺は建具の取ってに手を掛け、自室を出た一歩目に横からドンと何かにぶつかりそのまま押し倒された。
「うわ!!!」
強盗? 殺人者?
突然の衝撃に、俺は、分かりやすいくらいの怯えた声を出す。
ぶつかってきた人物。
それは瞬時に判明した。
「ハロー、楓! やっと会えたね」
「だ、ダイアン先生!? 帰ったんじゃないのかよ!」
「ハハハ! 私がそう易々と帰ったと思ったのかね? チッチッチ。甘い甘い。小学生に怒鳴られたくらいじゃ私は帰らないのさ」
「いや! 帰れよ! っうか、これ、犯罪だろ! 小学生の男子押し倒すとか有り得ないだろ!」
先生は、俺を押し倒し、馬乗りのような態勢。
絹糸のような美しい金髪と、日本人離れした端正な顔立ちの先生。
小学生である俺からしてみても先生が一般的な女性と比べても魅力的な部類に入るというのは分かった。
大人の女性に馬乗りで見下される行為。
俺が精通を迎えていれば完全に危ない状況だっただろう。
「でも、こうでもしないと楓は出てきてくれなかったでしょ~?」
「そ、そうだけど! いいからどけよ! 重い! デブ!」
「楓~。女の子にそういう事言ってはいけないのよ~。それに、先生はデブじゃない。出る所は出て、凹む所は凹んでいるんだからね!」
そんなの見れば分かる。
俺は、先生を傷つける為に罵倒したんだ。
「いいからどけ!」
「どかないよ」
「どけよ!」
「どかないよ~」
「学校に行く! それでいいか!? だからどけよ!」
先生は、遠回しに俺を学校に行かせようとしている。
ならば学校に行くと宣言してやればこの状況から逃れられる。
「どかないよ~」
俺が学校に行くと言っても、先生は俺の上からどこうとしない。
「本当に行くって! 嘘じゃない! なんなら、明日から行ってもいい! 無理矢理にでも連れて行け!」
ちょうど、部屋に引きこもるのも退屈していたことだ。
学校には、保健室登校という特殊な登校形態も存在する。
保健室登校であればお菓子も食えるらしいし、保健の先生が甘やかしてくれると聞いた。
仕事で日中家にいない親よりも利用価値が高いと予想。
「いや、いいよ、学校に行かなくても。というか、学校に行かないで欲しい」
「は?」
先生は一体何を言っているんだろうか?
学校に通わせる為に俺を説得していたのではないのか?
頭の中では終始クエスチョンマークが浮かぶ。
「あー! もうダメ! 我慢出来ない!!!」
そう言うと、先生は白いブラウスのボタンを上から下に徐々に外す。
焦っているのか、先生の手はマゴマゴとしていた。
「え!? いや、え!?」
露になる白い柔肌、下着に収まりきらないほどにたわわに実った二つの果実。
その果実が重力に従うように目の前まで垂れ落ち、俺の顔面を覆う。
先生の適度に肉付きがある腕が俺の後頭部に回り、抱きかかえるようにして上体が起こされる。
息苦しい、でも、脳が揺れるような良い匂いが鼻腔を伝ってくる。
麻薬や覚醒剤のようなものを勿論、今も昔も使用した事はないが、もし使ったらこんな感じなのかな。と冷静に考えた。
「ンギュアアアアア!!!」
「可愛い!!! 可愛い!!! 楓、可愛い!!!」
ポコポコと背中を殴るが小学生の非力な力では抵抗及ばず。では、戦略を変えよう。
俺は、先生の内ももに思い切り、爪を立てた。
「いっ!!! イイ!!!」
その瞬間、肩からストンと力が抜けたのか、先生のホールドは解除。
このタイミングを逃してはいけないと思い、俺は、忍者のようにスルリと先生から抜け出した。
べたりと床に横たわる上半身下着姿の先生。
危なかった。
内ももを抓らなければ殺されていたかもしれない。
「か、楓......。ご、ごめんさい。う、うぅぅぅぅ......」
冷静さを取り戻したのか、先生はポツリと謝罪。
その直後に先生は猫のように丸まり、書き損じた手紙を潰すように顔を手で覆って泣いた。
指と指の間から染み出る大粒の涙。
「泣きたいのはこっちだよ!」と言ってやりたかったが、大人の女性が泣いている姿に思うところがあり、俺は自室にあった布団をソッと掛けてあげた。
「あ......。ありがとう、楓」
「ど、どうして、あ、あんな事したの。せ、先生らしくない」
頭が混乱したあとだ。
心臓がバクバクと音を立て、頭もパニック状態なのでドモるのも仕方がない。
どうして、俺の方から先生にそう質問をしたのか。
未だに分からない。
ただ、俺も動揺していたんだな。
とそう思う。
先生は丸まりながらも赤ちゃんが離乳食を咀嚼するように一言一言話す。
「わ、私、だ、男性が怖くて......。でも、人並み以上に男性には興味あって......。だから、自分よりも小さな子であれば怖くなくて......」
「お、俺は、怖かった」
「う、ううぅ......。そうだよね。ごめんさい。ごめんさい......」
我に返ったようにむせび泣く大人。
大人という生き物は漠然ともっと凄いと思っていた。人前では泣かないし、小学生のようにバカな発言をしない。
そういう生き物だと思っていた。
ただ、目の前の大人にはまるで大人としての性質が備わっていない。
大きな子供?
ううん。少し違うな。
大人になりきれない子供と言った方がいいのかも。
「で、でも、べ、別に先生の事、き、嫌いになったとか、そういうんじゃない。でも、怖くて、でも......。う、うぁぁぁ!!!」
人前で心がこんなにも動かされたのはいつぶりだろうか。
状況が掴めなく、論理的な思考が停止した俺は、大粒の涙を流した。
薄暗く、冷たい空気が辺りを覆う自宅の廊下で上半身下着姿で床に突っ伏して泣く教師。その教師の横で下手くそな泣き方をする引きこもりの小学生。
後々からこの光景を思い返すとあまりにもおかしく、他にも言い方はあるかもしれないが異質な光景だったと思う。
それから、先生は多くを語る事無く、逃げるように俺の家から出て行った。
ハッキリ言って、これは小学生からしてみればトラウマ中のトラウマでこれを機に精神をおかしくしてしまったと言えば、面談ナシで障害者手当が支給されるだろう。
ただ、俺は先生を訴える事も、障害者手当をもらう事もしなかった。
それよりも、翌朝、俺は、自宅を出て、半年ぶりにランドセルを背負い、学校に登校した。
親も、先生も俺の変化に目を丸くしていた。
あまりにも自然に定位置だった机に座っているので、クラスの連中も何も言って来なかった。
そして、俺は再び学校に通うようになった。
しばらくしてから先生は、俺に質問をした。
「どうして? 先生あんなに酷い事したのに」
伏し目がちの先生は自身が行った行いにそれなりの罰が下ると予想していたのだろう。質問には「何故、学校に来たのか?」という意味も含まれる。
「それは______」
そこで、全くもって、他人から理解されない事を一つ言わせてもらいたい。
あの時、あの瞬間、俺は嬉しかったのだ。
初めて心が揺れ動いた事で、人間であることを再認識出来た。
他人からは理解されない事は重々承知だ。
ただ、俺の中で先生に襲われた事は思い返せば良い思い出だった。
それから、先生とはよく喋るようになった。
自分の性癖をさらけ出した事で気を許したのだろう。
男嫌いを治す為に、俺は先生の話し相手になったりもした。
期間で言うと小学校を卒業するまでの間。
一年足らず。
一人の人間と密に過ごした時間は初めてで、先生に好意を寄せるのは自然の流れだった。
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「うわ。どうしたのお兄ちゃん。顔赤いよ」
恥ずかしがる俺を小ばかにするように、ポプラは俺のことを見てクスクスと笑った。
しょうがないだろ。
先生は四年前と変わってなくて、むしろ綺麗になっているんだからよ。
「お兄ちゃん......か」
先生はポツリと言葉を発した。
風のうわさを先生も色々と聞いていたのだろう。
そういえば、先生に何も言わないままだった。
「そういえばさ! ダイアン! 伊地知光ちゃんのクラス知らない?」
「ん? 光ちゃんなら私のクラスだよー」
ほう。
光ちゃんはダイアン先生の生徒だったのか。
光ちゃんの生活風景を目視で確認しようとしていたが、先生から色々と話を聞いた方が早そうだ。
俺は当初の予定を変更し、ダイアン先生から光ちゃんがどういう生徒なのか話を聞くことにした。