白狐
窓辺で いつも空を見上げて
塀の向こうに広がる世界を憧憬して
感情を押し殺して眺めている。
「…っけほ、っこほっごほっ…けほけほ」
咳が止まる日などない。
毎日毎日、命を削り取っていく。
原因が分からない厄介なやつで、既存の薬を服用してはいるが効いているのかは定かではない。的外れの薬を飲んでいる可能性も否定出来ぬ。それ故にじっとしていないとすぐに咳に責め立てられる。犬が吠えるような咳、というものを耳にするが常にそんな激しいものが出るわけではない。常は軽い、こん、こんと、そんな程度のものだ。ただ段々と激しくなっていくので、そうなると意識がとぶこともある。そうならない為に咳が出ないようじっとしているしかない。
「ねーえ?」
縁側に身を乗り出して、女中の幼い娘が部屋をのぞきこむ。
「今ね、おかあさまたちいそがしいの。それでね、ひな、ひとりなの。つまんない。おにいさま、あそぼ?」
無邪気にそう言う。
口を開こうとしてまた咳が出たので、水を飲んで喉を潤した。
「…おにいさまね、けほっ、何も出来ないよ?何を…げほげほっ…したいの?」
「木にのぼろう。ひとりはあぶないの。だからひとりはだめなの。でもおにいさまがいればいいの。」
「いれば、いいんだねっこんこんっげほげほっ、げほっ、げほっ」
「だいじょうぶ?」
今日はすこぶる調子が悪いようだ。季節の変わり目はいつでも辛い。
「へーき、だよ、いつもの、こほっこほっ、ことだから。どこの木に登るの?」
「あそこ」
指差したのは塀のそばに生えている木だった。
「そこに、いればいいんだね?」
「うん!」
もう一口水を含んで、息をついて、まだ少し出るのを手で覆って隠して、少女に笑いかけると、少女はわくわくと目を輝かせた。
久し振りの外は相変わらずで、出ると解放された気分になれる。このまま飛んで行けてしまうのではないかと錯覚する吸い込まれそうな大空は澄んで青かった。
「空、青いね。」
「うん、そうだよ。あおいんだよ。でもね、あかくなったり、きいろくなったり、むらさきになったり、おかあさんみたい。いそがしいの。かおがいっぱい。」
「へぇ、そうなの。…けほっけほっけほっけほっ」
喉が思うようにならない。自分の意識の外で同じ動作を繰り返し続ける。その感覚がもどかしい。
「みててね」
「う…ん、けほけほっ」
背中を向けて、真剣な眼差しで足をかけ手を伸ばし、小さいながら着実に登っていく。
それを見ながら、だんだんひどくなっていく咳を袂で抑えて少しうつむいた時だった。
「きゃぁっ…!!」
悲鳴が上がり、驚いて見上げると落下する少女が目に入った。それと、その少女の腕を掴んだ少年も。
「おいおい、危ねーじゃねーか。保護者のくせに何やってんだ」
少年はどこから、どうやって入ってきたのだろう。塀は、少なくとも大人の男の背丈はあるというのに。
「あ、ありがとう、ござい、けほっ…ます…けほっけほっ…すみません、すぐ、けほっ…動けなくて…けほけほけほっ」
「風邪引いてんのか、全く、病人は寝てろ。こんな奴に子守させるとはえらい家だな。」
「いえ、こんっ…そうでは、こんこんっ…ないのですけど…けほっげほっげほげほっ」
「おいおい大丈夫かよ…」
「玲史郎さまっ!!」
離れの部屋と主屋を行き来するための廊下から、ひなの母親、女中のきみが名前を呼んだ。
「寝ておいでかと…!さあ早く部屋へ」
そばに走り寄ったきみは玲史郎の背中をさすりつつ言い、ふと木を見上げ目を見開いた。
「ひな!あなたは誰?!」
「わりわり、落ちそうになってたもんでつい。ただの通りすがりのガキですわ。」
たんっ、と地面に降り立ちひなを下ろし、
「よく分からんが子守は別のやつに任せた方が良いと思うね。そいつがかわいそうだ。」
玲史郎を指差しそう言った。
「子守って…」
きみは心外そうに眉をひそめ少年を睨めつけた。確かに彼女はよく仕事をこなす女中であったし、主人夫婦の大切な息子を自分の子どもの如く可愛がってきたつもりで、身持ちが悪く、この頃は咳も止まらなくなってきている玲史郎に子守を頼んだことは一度もない。しかし心の隅にある可能性を見つけたのか、はっとして下にいるひなを見た。
「ひな、まさか…」
「きみ、僕が出たの。けほけほっ、気分転換に…ごんごんごんっ、げほっけほけほ」
「玲史郎さま…ひな、後でお母さんのとこに来なさい。」
ひなは肩を落としてこく、と頷いた。
ひなを助けた少年は所在無げに立ち尽くしていたが、切りがいいと見えると
「兄ちゃん、無理すんなよ。よく寝て、ちゃんと薬飲むんだぞ。じゃ!」
玲史郎にそう言って少年はするすると木を登り、あっという間に塀の向こうへと消えていった。
***
少し前に女の子を助けた屋敷の前に、たまたま機会があったのでたまたま立っていた。
別にあのなよなよした、青年というには幼すぎる男が気になって来たわけでは断じて無い。断じて。
軽く飛んで瓦に掴まり上半身を引き上げると、目の前の部屋にちょうど、あの“レイシロウ”が居た。本を読んでいるようで、やはり袂で口を覆って、掠れ気味の乾いた咳を漏らしている。表情に抗う意思は感じられず、涼しい目元に暗い色を宿して、されるがままに咳をしている。その横顔がゆっくりとこちらを向いた。
「こんにちは。この間の子だね」
優しく、華奢な体のせいかどこか物悲しさを感じさせる笑顔を浮かべ、触れたら壊れてしまうのではないか、そんな風に思ってしまう程儚げで危うかった。
「こんにちは。調子はどう?」
「そう良くもないよ。きみは?」
「すこぶる良いね」
「良いことだよ。すごく大事なことだ。…こほ…こふっこほこほ」
顔を背けて、袂で口を覆う。
「悪い。休んでたのを邪魔したな。」
帰ろうとすると、
「待って。もっとこっちへ来ないかい?僕とお話ししよう」
慌てた表情でそう言った。だからというわけではないが、頷いて、塀を跨ぎながら、
「おう、ちょいと待ちな」
飛び降りて縁側まで行くとレイシロウは嬉しそうに、先程までのとは違う、明るい笑顔が浮かんでいた。
レイシロウに、外のことや最近あった事件、学校のこと、他愛のない世の中の様々なことをしばらく話して、きらきらと瞳を輝かせて聴く彼に戸惑いつつ終えると、
「すごいねぇ!何でも知ってるんだ。」
うっとりと、本気で言っているらしく、無邪気な分どう返すべきか分からなくなる。
「そう買いかぶられても困る」
「そんなことないよ。すごいよ、ちゃんと世の中のことを知ろうとしなくちゃそこまで分からないもの。」
「褒め言葉と受け取っておく」
「もちろんだ」
誰かが自分の名前を呼んだような気がして、顔を塀へ向けて耳を澄ますと、父親が大きな声で繰り返し呼んでいた。
「やべ、すっかり話しこんじまった。親父が待ってるからもう行くな。」
「あ、ごめんね。引き止めちゃって。話、ありがとうね。」
「いや、こっちも楽しんだから。また来て良いか?」
「もちろんだよ!」
手を振って別れた後、塀を挟んで、聞こえないように堪えた咳の音を聞いた。
***
いつものより
酷く
息を継ぐ間もなく
「う…げほげほげほげほっ、げほっ、げほっ、げほっ、ごんごんごん、ごんっ、ごんごんごん、げほげほげほっ」
たすけて
だれか------------
玲史郎はぼうっとした頭で、ようやく戸を開けて廊下に這い出て、柱に掴まって、きみのいる部屋まで行こうとした。
「……?」
じわじわと滲む視界に赤い点が見え、これは何だろうと、よく見ようと屈んだところ
ボタボタボタッーーーー
生温かい血が顎を伝い、床に血だまりを作った。
「血、だ…」
ゴフッとまた血を吐いて、ずるずると柱に体を預けたままずり落ちて、血だまりの上にうずくまった。
***
「お久し振りです、姉さん」
「いいわ、起こさなくて」
起きようとした弟の肩を軽く押し戻して寝かせ、久し振りの弟の顔をまじまじと見た。
「前より顔色が悪いわ。医者は何をやっているの」
「ちゃんと診てくださっているよ。」
「じゃあどうして。」
玲史郎は困ったように笑う。
「仕方が無いんだ。治療のしようがないのだもの。このままだと、もってあと」
「黙りなさい」
「半年」
「黙りなさい!」
涙が頬を伝う。
「そんなこと、聞きたくない」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ…」
動揺し、慌てて謝罪する弟を見ているとますます自分が情け無いような気がしてきて、合わせる顔がないと手で顔を覆った。
「ごめんなさい…ああ。情けない。」
「僕の方こそ、余計なことを」
「玲史郎、代わってやれなくて、ごめんね。私が死ぬのだったら、皆にとってどんなに楽だったか。」
「姉さん!そんなこと言わないでよ。姉さんが死んでしまったら僕が悲しむよ。それに僕、死ぬなんて一言も言っていないじゃないか。」
「…え?」
「半年とは言われたよ。でも僕はやりたい事がまだいっぱいあるんだ。姉さんと買い物に行きたいし、ひなとも遊びたい。読んでない本もある。だからまだ死ねないよ。だから死なない。」
「玲史郎」
「馬鹿だと思うでしょう?でも、こうでもしないと、けほっ…本当に、死んでしまう気がするから」
顔を背けて咳込み始めた弟の背中をさすって、
「良い考えね。頑張って。」
何とか捻り出した言葉をためらいがちに投げかけた。
「でしょ…っけほっけほけほっ」
青白い顔で笑う、弟の笑顔が私は好きではない。
いつの日か、頬をほんのり紅色に染めて笑う弟の顔を見れるように、何でもしようと心に誓った。
けれど。
母親が話した内容は、あまりに残酷だった。
「…分からない、訳じゃないの。ただ、あの子に言うには、余りに…可哀想で…」
肺に癌ができているのだと言う。
昨日の喀血は、それがかなり進行していることを示していた。
「もう、助からないの…?」
聞くまでもないことだったけれど、聞かずには居れなかった。しかし、手で顔を覆った母親は嗚咽を漏らすばかりで、何も答えてはくれなかった。
***
今日は客が来るとかで、家の者は皆朝から忙しく働いていた。
「玲史郎さま、ご飯、ここに置いておきますからね。」
「ありがとう」
きみが朝ごはんのお粥を部屋まで持ってきてくれ、枕元に置いて、「それでは」と言って部屋を出て行った。
折角持って来てくれたものであるし、食べたいとは思うのだが、どうにも食べる気になれず、横目に見てはため息を吐き、やがて湯気は途絶えてしまった。
相変わらず出続ける咳は、この頃更に酷くなり、ともすると息が出来ない程だった。呼吸自体、苦しくなってきている感じが否めない。息苦しさに苛立ちを覚え、それがまた更に息苦しくさせる原因になっていないとは言えず、もどかしさが募るばかりだ。
体の力を抜いて目を閉じ、眠ろうかと考えていた矢先戸の向こうから、
「玲史郎さま、起きていらっしゃいますか?」
丁寧なきみの声がして、起きていると返すと、
「お客様がみえているのですが、お通ししてよろしいですか?」
「お客様?どなたです」
「俺だよ、分かるか?」
その声は、以前に外の話を聞かせてくれた男の子の声によく似ていた。
「ああ、あの時の。どうぞ」
少年は入ってくるなり玲史郎の顔を見て眉根を寄せた。
「また更に顔色が悪くなったな。ちゃんと薬飲んでんのか?」
「残念ながら、これを治せる薬はないんだ。痛み止めだけ。」
少年の後ろできみが静かに部屋を出て行ったのが目の端に映った。
「治せない、ってことか」
驚きを隠せなさそうな少年に、玲史郎は静かに頷いた。
「もってあと三ヶ月。良くて、だから、もっと短いんだろうね。元々体弱いから」
「…諦めてんのか」
少年が静かな声音で玲史郎に投げかけた。
「随分落ち着いてるんだな。気に食わねぇ。生きていたくないのか」
少年の言いように少しむっとして玲史郎も言い返した。
「こればかりは慌てたってどうしようもないから。泣きわめいて治るのだったら、毎日でも大声で喚きながら泣いたさ。でもそうじゃない。どうしようもないんだ。僕だって死にたくはないよ。でも段々、悪くなってくるのが分かるから……」
息切れと嗚咽が混じって言葉を遮った。
少年は何も言わずに玲史郎を見ていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「玲史郎にだけは、本当のことを教える」
口を開いては閉じ、閉じては開いて、一生懸命何かを越えようとしているようで、絞り出すように、か細い声で、
「本当は、女、なの」
忙しく目を動かして、かなり緊張しているのがすぐに分かるほど手を震わせて、玲史郎が何と言うのか怯えて待っていた。
「それに、私、本当は、人間でもないの。父さんが、妖で。妖界に帰ってしまったから、母さんが一人で育ててくれて。周りから守ってくれて。だから、このことは、絶対に誰にも教えちゃいけないって言われているの。」
玲史郎は分からなかった。
そんな大事なことを打ち明けられるほど親密な関係だったわけではない少年に、今となっては少女ですらないが、打ち明けられた訳は何だろうと。
死ぬと分かっているからだろうか。
「死ぬから、打ち明けた?」
あ、と思った時にはもう時既に遅しで、少女は驚きの眼差しで玲史郎を見た。
「何で…」
「すまない。心にもないことを。ただ、余りにも驚いてしまって。」
「そう、だよね。うん。分かってる。」
「でも、聞いていいかい?どうして僕に話してくれたの?」
「分からない?」
「?」
少女ははあ、と盛大にため息を吐いた。
「女が男に大事なことを打ち明けるなんて言ったら、一つしかないと思うのだけれど?」
「…?ごめん、分からないや」
「…生きてて欲しいから」
「?…よく、聞こえないよ」
「あなたに死んで欲しくないと思うから!!諦めて欲しくないから、だから、言うの。心が負けてしまったらお終いなんだよ?治るものも、治らないから…」
溢れ出した涙を手でごしごしこすって、声が出ないように歯を食いしばっている彼女が、そのときひどく美しく映った。
瞳が金色に輝いたせいもある。でもそれ以上に、強く誰かを想う気持ちはなんと美しいことか。
それに比べ、自分の情けなさといったらどうだろう。一生懸命な彼女が微笑ましく、笑みをこぼしつつ穴があったら入りたい気分だった。
「ありがとう。そんなに必死に言ってくれるなんて思ってなかった。」
「私を、怖がらないの?」
「何を言うんだ!そんな訳ないだろう。でも、確かお父さんがいるはずだよね。」
「ああ、それはね。今私が寄生してる人間。全然関係ないよ。」
「そうなの。」
「うん。次はあなたに寄生するから。」
「どうして?」
「あなたがあっさり死んでしまったら寂しいから、そうね、あと二百年くらい生きていて貰おうかしら。」
「それは…」
「冗談よ。でも、一緒にいたいのは本当。だから、生きて。」
「そう、だね。」
にぃーっと笑った口元に犬歯がのぞいて、本当に人間ではないのだと思う。
「…こんこんっ、けほっけほっ」
それに、我慢していた咳がぶり返してきて、苦しいと思ったり、まただと思ったり。
「レイシロウ、どうかしたの?」
喉がごろごろしてのそりと起き上がったら、
「こんこんこん、……げほっ、がはっ」
「レイシロウ!!」
ダラダラと血が腕を流れ落ちていく。
「ゲホッゲホッ、…ゲホゲホゲホッ」
両の手があっという間に血まみれになり、服も、布団も、真っ赤に染まる。
「レイシロウ!!」
廊下から、ドタドタと足音が近づいて、戸が勢いよく開く。
「っ!!」
玲史郎の姉が真っ青になってよろよろと後退る。
「玲史郎…」
力が抜けて体がぐらりと傾き、目の前が真っ暗になった。
***
目を覚ますと、いつもと変わらない寝間の天井が目に入った。
「死んでない…?」
記憶が曖昧で、よく思い出せないのだが、確か大出血をしたはずである。よくぞ生き残ったと我ながら感心していると、
「ケーン」
聞きなれない音が、すぐ側からした。
頭をそちらに向けると、白い狐が玲史郎の顔を見下ろすように座っていた。
「!?」
驚いて跳ね起き、後ろに退こうとしたのだが、
「…こんこんっ、けほけほ、げほっげほっ」
急に動いたせいか咳が出て、すると狐が戸をガリガリ引っ掻いた。
「はいはい、…玲史郎!!」
玲史郎の姉が慌てて側に寄る。
「平気?お医者さま、呼ぶ?」
玲史郎が首を振ると、そう、と言って、
「この…狐?が、ずっと側についていたのよ。」
白い狐の方を見て言った。
「不思議よね。お医者を呼びに行って、戻って来たらスヤスヤ寝ているんだもの。本当に、平気なの?」
「平気だよ。…ところで、あの子は?」
「あの子?」
「女の子…じゃなくて、男の子が居たはずだよね。」
「…ああ。…ちょっと、分からないわ。いつの間にかいなくなっていたの。」
そう言う側で、あの狐が、何か言いたげにじっと玲史郎を見つめる。
(まさか…?)
きっと、そうだ。
瞳の奥で、あの少女が笑っているのが見えたような気がしたから。
狐の命を分け与えるので、やり過ぎると狐になる、というからくりです。
少女の姿をとっていましたが、力を使って出来なくなったので狐になりました。