9.会ってほしい人がいるの
その日、私はフラフラになって帰宅した。
お兄ちゃんはいない。
お兄ちゃんには別荘がある。賃貸コーポのワンルームだ。大学にほど近いその別荘は、お兄ちゃんの仕事部屋でもある。今夜、お兄ちゃんは帰ってこない。飲み会でもあるのかもしれない。メールをしても返信が無い。
お母さんも遅い。
一人で食べる夕ご飯。
降り出した雨の音をBGMにして、もぐもぐする夕食のメニューは、鶏挽肉と豆腐のパンバーグ、レタス、わかめの味噌汁、そして例のミックスジュース。
個食じゃ味がぼやける。
ちびちびと噛み砕いていると、玄関で鍵をガチャガチャとやる音がして、ややあって少し疲れた顔をしたお母さんが居間に顔を出した。
「ただいま、葉月。遅くなってごめんね」
「お帰りお母さん。仕事お疲れ様」
めだかさんがいらんお節介を焼いてくれたせいで、近頃お母さんを意地悪な目で見てしまう。
髪が濡れていないか、シャンプーやせっけんの香りがしないか。
お母さんの栗色に染めたボブの後ろ頭に少しだけ、朝からの寝癖が残っている。メイクは夜になって薄くなっている。この自然なくたびれ具合から察するに、今夜はデートじゃなかったっぽい。
「なあに? 葉月。そんなにじっと見て。お母さん恥ずかしいよ」
首を傾げるお母さんは、客観的に見てかわいい。肌が白くてぷりぷりで、四十代半ばには見えない。
「お母さんって、職場で男の人にモテるでしょ」
「急にどうしたのよ。そりゃまあ、それなりにはね。って言っても人並みよ、人並み。そんなにモテやしないわよ。長月や葉月に比べたら、私なんて普通だわ。ほんとに、ふつう普通」
お母さんは箸を置き、顔の前で右手を激しく振る。
「そうよ。あんたたち兄妹はほんとに心配。まあ長月は男だから自分でどうにかするだろうけどね。葉月。問題はあなたよ。あっという間にこんなにきれいになっちゃって。血気盛んな男子高校生たちが、私の大事な娘を毎日血走った眼で舐めるように見つめてあれやこれや妄想にふけるのかと思うと、お母さんもう、気が気じゃないわよ」
「お母さんやめてよ。そんなわけないじゃん」
「いいえ。葉月。あんたは自分で自分の顔を毎日見ていてわからない? 母親の私ですら時々はっとして見とれる。それを自覚して生活しなさいな」
「大げさだなぁ。そんなこと言われても、具体的にどうしたらいいのさ」
「まずはこれよ」
お母さんはバッグの中から見慣れないピンク色の丸いものを出して見せる。手のひらサイズ、プラスチック製で、端に青いリングがぶら下がっている。
「ピンチになったらこのリングを引くの。すんごい音がするよ。痴漢や変態に出会ったら使いなさい」
「ありがとう。使う機会が無いことを祈るよ」
三瀬に指をなめられたあの時、これを持っていたら鳴らしたかもしれない。
「ねえ葉月」
食事を終え、皿を洗っていると、お母さんが神妙な声で私を呼ぶ。
「なに?」
私は何気ない振りで、実は心臓がどきどきしてる。虫の知らせ。予感があった。
「もしもね、お母さんに好きな人ができたら、葉月は嫌かな」
私の意見。
お母さんにはいつも笑っていてほしい。
だけどね、お父さんを忘れてほしくないとも思うんだ。
もう少しだけ、お父さんの妻でいてほしいと思っている。せめて私が高校を卒業するまで。
なんて、言えない。
「嫌じゃないよ」
お母さんはほっとしたように笑って、私が恐れていた言葉を口にした。
「今度ね、葉月と長月に、会ってほしい人がいるの」
「うん。いいよ」
そう言うしかないよね。
今まで散々苦労を掛けてきたお母さんに、幸せになってほしいよ。それだけはほんとの気持ち。
「さあさあ、お風呂、入っちゃお」
お母さんが笑う。
これでいいんだ。
お風呂上がりにベッドの上でバストアップ体操(両掌を胸の前で合わせる。その時、肘から手首までをなるべく水平に保つべし。両手に力を込めて、掌を押し合う。これで胸筋が鍛えられる)をしている時に、枕元に置いた携帯電話が鳴った。
『もしもし葉月。元気か、無事か』
「うん。無事だよ」
『そうか。今日も元気だな。ありがと』
電話越しの優しい声。
お兄ちゃんの透明な腕が、私の身体を抱きしめるような甘い錯覚。
私は、ほうっと息をついて目を閉じる。
「お兄ちゃん。明日は帰ってくる?」
『うん。帰るよ。葉月に会いたいからね』
「私も、お兄ちゃんに会いたいよ」
お兄ちゃんがいない夜は、暗闇が濃い。眠るまでに時間がかかる。怖い夢を見る。
『葉月。学校どうだった?』
「うん。三瀬のファンクラブに入った。三瀬はサッカー部で、昔はジュニアユースに入っていたんだって。三瀬と同じ中学出身の女子が言うには、彼女はずっといなかったって。どう? これで作戦立てられそう?」
『そっか。スポーツマン。女嫌いの童貞か』
「でも経験値は高そうだよ」
『なんでわかる? 彼女いないんだろう。三瀬は』
「あ、うん。見た感じが何となく、そんな感じ」
『なんで、おまえにそんなことわかる? もしかしておまえ、そいつになんかされた?』
鋭すぎる。なんて言おう。お兄ちゃんには知られたくない。
「何にもされてないよ。ただのイメージだよ。なんか唇がてかてかして、やらしい感じだなって、だから女好きっぽいなって思っただけ。それだけ!」
く、苦しいか、この言い訳。
お兄ちゃんは全く納得していない様子で、不機嫌そうに、
『とりあえず、普通に人として感じの良い対応から始めるべきだろうな。もう少し相手を知るために。まずは友達になれ』
って、お兄ちゃんは簡単に言うけれど、私にはそれが難しい。
頑張りたいよ、だけどもともと大嫌いだった上にあんなことまでされて、三瀬と友達には、なりたくない。
できればもう近づきたくない。
でもそれを言えば、お兄ちゃんは理由を知りたがるに決まってる。
沈黙。
『葉月。おまえやっぱり変だぞ。何があった? 言いなさい』
「でも、言ったらお兄ちゃん、私を嫌いになるかもしれない」
「葉月! そんな日は永遠に訪れない。言いなさい。いいから言いなさい!』
お兄ちゃんの声が震え、動揺を私に伝える。
「あのね、指を舐められた。学校で、放課後に」
『なぜだ! どんな経緯でそんなことになるんだ!!』
お兄ちゃんの声が大きすぎて耳が痛い。
「知らない。きっとそう言う趣味の人なんだと思う」
『葉月、無防備にもほどがある。明日の夜、説教だ。覚悟しておけよ、おやすみっ』
電話は切れた。
ベッドに倒れ込み、電気を消す。
お兄ちゃん、かなり怒ってた。
結局、明日私はどうしたらいいんだろう。
その夜は、遅くまで寝付けなかった。
目を閉じると、三瀬のことばかり考えてしまう。
三瀬は、本当に覚えていないのかな。私のこと。白豚眼鏡のこと。
そんなに簡単に忘れる存在なら、どうして私をいじめたの?
空気のように無視してくれたらよかったのに。
そしたら、こんな気持ちにならずに済んだ。