7.おかえり、俺の葉月
ローファーのかかとを鳴らして駆け上がる。
古くてにぎやかな県営住宅、A棟五階の21号室、それが我が家。
病み上がりの頃は息が切れたけれど、最近は割と平気だ。
玄関前の踊り場にたどり着くといつも、私が扉を開くよりも先に、足音を聞きつけたお兄ちゃんが(地獄耳)、
「おかえり、俺の葉月、無事だな、元気だな」
満面の笑みで、迎えてくれる。
「うん。ただいま、お兄ちゃん」
私も同じくらいに力一杯に微笑んで、お兄ちゃんが拡げた腕の中に飛び込む。
スーツ姿の胸元に頬をよせると微かな煙草のにおい。
家ではお兄ちゃんは煙草を吸わない。
「ああ、葉月、会いたかった」
お兄ちゃんの頬が、つむじをぐりぐりと撫でる。
「生きてるね、葉月。ありがとう」
お兄ちゃんは、息もできないくらいに強く、私を抱きしめる。
最初から、このように気持ちの悪い兄弟だったわけじゃない。
六つも齢が離れているし、昔はそれほど仲良くも無かった。
きっかけはやっぱり、私の病気だろう。
『お兄ちゃん、もっとぎゅっとだっこしてよぉ』
病床で、息がつまるとき、骨が削られるように痛む時、死ぬのが怖くて仕方がない時、私はお兄ちゃんにねだった。(もちろん、そばにお母さんがいれば、お母さんに)
手当という言葉の意味を実感した。
自分以外の誰かの温もりだけが、ただ一つの救いだったあの頃。
ねえお兄ちゃん。私は元気だよ。だから、もう抱きしめてくれなくても平気だよ。
その言葉を、いつも飲み込む。
まあ、しばらくはこのままでいいや。お兄ちゃんに恋人ができるまでは。
「さあ入って、ほら、靴脱いで。買い物袋、よこして。あれ?」
私の靴を三和土に並べてお兄ちゃんは、不思議そうに言う。
「葉月、黒いソックスなんて履いて出かけたか?」
お兄ちゃんは鋭い。
傷を隠すために、スーパーで着圧ソックスを買ったんだ(半額でお買い得だった)。
「うん、朝から履いてたよ」
「そっか。入れよ。飯できてる」
お兄ちゃんは優しい。
お兄ちゃんは世話好きで、時々ちょっとだけ意地が悪い。
時に下僕のように従い、時に王子様のようにエスコートし、時にはお父さんのように叱る。
きちんと私のためにやさしい。
朝起きるとまず私の顔色を見て体温を測り、髪を梳かしてご飯を食べさせてくれる。
お兄ちゃんの意地悪なところは、私の困った顔を見たがるところ。見ると、すごくうれしそうな顔をする。私が赤ちゃんの頃の、全力の泣き顔を思いだすらしい。それのどこが楽しいのか、私にはわからないけど、お兄ちゃんが楽しいならそれでいい。
私のお兄ちゃん。
親しくない誰かに接する時、お兄ちゃんは豹変する。人を人とも思わない対応。
相手の年齢、見た目、性別、性格、全く関係ない。
入院中に、私の担当の看護師さんが兄ちゃんに言い寄る場面を偶然に見た。その時のお兄ちゃんはそれはもう酷かった。お兄ちゃんよりもずっと年上のその看護師さんを号泣させた。彼女はショックで辞めてしまった。
はじめて、お兄ちゃんを怖いと思った。
私に向けるのと、彼女にむけたの。どっちが本当のお兄ちゃんの顔か、知る必要はない。知りたくない。
六畳の居間(畳敷きで、どう頑張ってもリビングとは言えない)に入れば、夕食の匂い。ほっとする。
「いい匂い」
「今日は、みそ汁と煮魚と青菜のお浸し、納豆、それにミックスジュース」
「今日は」と言うよりも、「今日も」という方が正しい。
私が病気をしてからは、添加物の多いインスタント食品は食べさせてもらえない。お兄ちゃんのご飯は今日もおいしい。
「母さん遅いな。もう八時過ぎなのに。あ、葉月、その煮つけ、味付け濃いか? ゆっくり噛んで食べな」
「うん、濃くないよ、出汁がきいてちょうどいい。お母さん遅いね」
私は理由を知ってる。
めだかさんが嘘をついたのでなければ、今、お母さんは、きっと恋人と会ってる。夜にラブホテル街でお母さんが男の人といるのを見たと、めだかさんが少し前に教えてくれた(余計なお世話だ)。きっと、パート先に好きな人がいるんだろう。
なんとなく、お兄ちゃんには言わないでと口止めした。
「入学式、どうだった?」
「うん、まあ普通だよ。あんなもんだね」
嘘。
私に入学式は鬼門だ。
三瀬のせいで最悪だった。
あ、私の鬼門は入学式じゃなくて、三瀬の方かもしれない。
「ふうん。そうなんだ。本当に?」
食べ終わった皿を片付けて戻ってきたお兄ちゃんが、私の顔を覗きこむ。
お兄ちゃんは鋭いから、私の表情の小さな変化を読み取る。
だから私はどんな顔をしていいかわからずに、不自然に睨み返す。
ここは笑えばよかったかもしれない。
「うん、普通。平和だった」
「ふうん?」
嘘だよ。全校生徒の前で生徒会長に絡まれた上に、呼び出しまで食らったよ。
「あ、あのね、生徒会長がすっごく変だったよ」
私は立ち上がる。流しで皿を洗うためだ。
「そうそう、帰りにめだか書店によったら、めだかさんがサインしてくれって、しつこかったよ。断わったけど」
「あのおっさん、葉月に心労かけるのは許せないな。ちょっと殴ってこようかな」
振り向くとお兄ちゃんは笑っている。
「冗談だよ。今度行ってしてくるよ、サイン」
皿を洗い終え、拭いてから戸棚にしまう。
上の方には手が届かない。気が付いたお兄ちゃんが仕舞ってくれた。
「葉月、お風呂焚いてあるよ。先に入りな」
「うん、ありがとう、お兄ちゃん」
脱衣場には、洗い立てのパジャマがきちんとたたんで用意されていた。お兄ちゃん、新妻みたいだ。
湯船につかると、傷がお湯にしみる。
緊張がお湯の熱で溶けて、どうしてか涙が出た。
涙が止まるのを待っていたら少しのぼせてしまって、ふらふらと浴室を出た。
「よく温まったか? ほら、葉月。喉乾いただろ」
お兄ちゃんが差し出すのは、ビールジョッキくらいの大容量で、うちで一番大きなグラスだ。
中身は、林檎と蜂蜜、ニンジンとバナナ、ブロッコリーとレモン、そして牛乳をジューサーで砕いたもの。
「こんなにたくさん、飲めないよ」
「だめだ。さっきご飯を少し残してたろ、全部飲みなさい」
「はあい」
一気に飲むのはちょっと無理で、ちびちびと飲み込む。その一口ごとに、胸が熱くなる。
「おにいちゃん、また何かおかしな薬混ぜたでしょ」
「薬酒だよ、これくらい平気だろ」
「未成年はだめだよ! それに私すぐ酔っちゃうから、やめてよね」
言ってるそばから、めまいがして立っていられなくなる。
「ほら、こっちおいで」
お兄ちゃんが私を抱き上げて、ベッドへと運ぶ。
この年になってそんな環境はおそらく世にも珍しいだろうが、私とお兄ちゃんは同じ部屋で寝ている。二段ベッドの上が私、下がお兄ちゃんだ。
今は足元が覚束なくて梯子を上れないから、下の段を借りることにした。
「ちょっとありえないくらい、お酒に弱いよね、私って……」
「遺伝だろうな。母さんは下戸だし、父さんも弱かった」
「じゃあ、どうしてお兄ちゃんはお酒に強いの?」
「さあ、どうしてかな。隔世遺伝とか?」
お兄ちゃんは言いながら、向こうの部屋へ行ってしまった。
歯磨きをしていないことに気がついた時、目の前にお兄ちゃんが歯ブラシ(歯磨き粉がのってる)を差し出した。「磨いてやるよ」と、お兄ちゃんは膝を叩く。
「膝枕で?」
「うん、そう。膝枕で」
「もう、ばかだ」
私は笑って、歯ブラシを口に突っ込む。「遠慮しなくてもいいのに」と、お兄ちゃんが言うのを無視して。
磨き終わる頃にお兄ちゃんが、プラスチックのコップに水を入れて持ってくる。私はそれに口を付けうがいをし、中に水を吐いた。
具合が悪くて立ち上がれないときは、いつもこうする。闘病生活で身につけた技。
「何から何までごめんね、お兄ちゃん」
「おまえのためならなんでもやるよ」
目を閉じる。
遠のきかける意識を、お兄ちゃんの声が引き止める。
「なあ葉月。その脚の傷、どうした?」
「……みせにぶつけられて……」
自分の口からこぼれた言葉の意味を理解してから、私ははっと覚醒する。
まずいことをした。
「ミセって、誰?」
「違う、寝ぼけて、夢を見てたの。ミセって人じゃなくて、そう、めだかさんの店でぶつけたの」
「何に?」
「脚立だよ」
「そうか。それなら今度めだかさんに会ったら、文句言っとくよ。脚立しまっとけって」
「いいよ。悪いのは私だから、そんなこといちいち言わなくていいよ。お兄ちゃんは過保護だよ」
「なあ、葉月」
耳元で、ベッドの柵がぎしりと軋む音。
目を開けると、お兄ちゃんが木枠にもたれて私を見ている。
「なんでも話せよ。確かに俺は過保護だし、お前のことに関しては、すぐに冷静じゃなくなるところがあるって、自覚してるよ。でもさ、だからって、俺がそのミセってやつを探し出してぶん殴ったりするわけないだろ」
「うん」
「俺はおまえの嫌がることはしないよ。ただ、浮かない顔を見ていたくないだけだ」
「ありがと。お兄ちゃんあのね」
ぽつりぽつりと、今日の出来事を話した。
入学式で、あまり会いたくない人に再会した。
この怪我はその人に負わされた。
その人が憎くて、復讐してやりたいと思った。
そんな醜い自分の感情が怖い。
私が話し終えると、お兄ちゃんは言った。
「なんだ、そんなことか」と。
「いいか、葉月。おまえは何も悪くない。復讐でも逆襲でもなんでもやれ。それでおまえの気が済むなら、お兄ちゃんが手伝ってやるよ」
「え? そ、そうなの?」
思っていた展開と違った。三瀬のことは忘れて、新しい生活を楽しみなさいとかなんとか、無難に窘められると思った。これは、心強い、のか?
「葉月。弱気は禁物だ。中途半端な気持ちで、本当にこんなことしていいのかなぁとか思うなら、最初からやらない方がいい。やるなら心を鬼にして、徹底的にやれ。これはおまえの、ひいては兄である俺の、存在証明を懸けた負けられない戦いだ。わかるか?」
お兄ちゃんのスイッチが入った。
目の色がさっきまでと違う。
戦闘モードのお兄ちゃんを見るのは久し振りだ。
街中で私をナンパした男を撃退した時以来だ。
「その三瀬ってやつはイケメンなんだろ。自分で言うのもなんだが、俺もそうだからそいつの苦労は多少はわかる。おそらく、女に嫌気がさしている。幼い頃から近所のお姉さんに痴漢されたり、同級生が自分を取り合って喧嘩をしたり」
お、お兄ちゃん、そんな苦労を……(涙)
「だから、おそらく三瀬ってやつは、童貞かやりちん(失礼)かのどちらかだな。心の底で女を嫌悪しながら、身体でそれを発散するため軽蔑しながら女を抱く。あるいは、最初から女を遠ざけて、触れることもしない。そいつはどっちのタイプだ?」
いえ、そんなこと、恋愛経験どころか初恋もまだの私にはわかりません。
っていうか、お兄ちゃんはどっちなのさ。
「わからないなら、観察しろ。そして俺に報告しなさい。俺が三瀬ってやつの好みの女を分析するから、おまえはその通りに振る舞って、三瀬を惚れさせるんだ。めろめろにな」
「そんなこと、できる気がしないんだけど……」
「大丈夫だ。おまえは俺の妹だ。見た目はもちろん、中身も似ているはずだ。やればできる、冷酷になれる!」
「そう、かな」
「おい、ヤル気あんのか、葉月!」
「は! はいっ」
お兄ちゃんの尋常じゃない気迫に押されて、思わず即答。声が裏返った。
「『俺、もう、おまえなしじゃ生きていけねえよ、愛してる』ってところで『私は好きじゃないですさようなら』でとんずらだ。いいか、葉月。焦るなよ。これは長期戦だ。場合によっては年単位だ。気長にやろう」
お兄ちゃんは乗り気だ。
私の方が及び腰になっている。
「わかったらもう寝ろ。明日も早いぞ」
温かい掌が、私の両目を塞いで、優しく瞼を閉ざす。
頬に、お兄ちゃんの柔らかい唇が触れる。
「おやすみ、葉月。何も心配しないで。俺がいるよ」
お兄ちゃんの優しい声で、意識は闇へと溶け落ちた。