6.『お兄ちゃん、もっと! ぎゅっと! だっこしてよぉ』 著・カメナシ・カメオ
帰り道、電車を降り、近所の商店街へと足を伸ばす。
行き先は、めだか書店。
店主のめだかさんは、私のお父さんの同級生で、ふっくらとした恵比須顔のおじさん。
めだかさんは、お父さんのお葬式で誰よりも大きな声で泣いてくれた人。私達家族がびっくりして泣き止むくらい、それは見事な慟哭で、お父さんを見送ってくれた。
そのめだかさんの店は今、経営難に陥っている。
地元駅前に、大手系列のショッピングモールが開店したせいだ。
コーヒー一杯で、お好きな書籍を読み放題のこぎれいで居心地の良い大型書店と、店主が常ににらみをきかせる気づまりな狭小店。
どちらが人を集めるかなんて言うまでもない。
私はめだかさんが好きだから、何とかしてお店に協力したい。だから必要な本は必ずめだか書店で買うようにしている。
それくらいしかできないからねぇ。つらいねえ。
そんな思いに胸を痛めている小市民、橘家。
母、葉子(45)
長男、長月(21)
長女、葉月(15)
ついでにお空の父、文月(享年35)
そんなめだかさんは今、お兄ちゃんのサイン会を開こうとしている。お兄ちゃんは嫌がっている。それなのにめだかさんはしつこく誘う。
だから私は、少し怒った顔をして、店内に踏みこんだ。
「いらっしゃい、お! 葉月ちゃん。今日もきれいだねえ」
店内には今日もお客はゼロ。帰り道、通りすぎた大型書店は大賑わいだったのに。
「めだかさん、地元の国立大の赤本、ある?」
「あるある。これ、はい、どうぞ。ところで葉月ちゃん。カメナシ先生のことだけどねぇ、サインをねぇ」
「知りません!」
その話は、直接お兄ちゃんにしてほしいと何度もお願いしているのに、
「だって長月君、嫌だっていうからさ。大好きな葉月ちゃんのお願いなら、長月君の心も動くかもしれないだろ」
と、めだかさんは私を出しに使おうとする。
私は赤本をめくる手を止め、顔を上げてめだかさんを睨む。
めだかさんは、器用に話をそらす。意外と策士なのだ。
「ところで今日は入学式だね。ぶん(めだかさんはお父さんをこう呼ぶ)も空で喜んでいるよねぇ。きっと心配して見に来ていたんじゃないかな、あいつは本当に、葉月ちゃんを溺愛していたもんねぇ」
そうかな。嫌だ。あんな最低な入学式、お父さんには見られたくない。
「葉子さんは、今日もパート?」
「うん、店長に頼まれたから休めないって」
お母さんは、スーパーでレジ打ちのパートをしている。
「葉月、入学式に行けなくて本当にごめんね」と、何度も謝っていた。
「そんなこと言ったって、葉子さんだって娘の入学式なのに、酷い店長だねぇ。葉子さんは人が良すぎるよねえ」
めだかさんが思うほど、お母さんはお人よしじゃないと思うよ。でも、言わない。
赤本をぺらぺらとめくる。やっぱり私にはまだ早いようで、どの問題もちんぷんかんぷん。両手でぱたんと本を閉じ、ずらりと並んだ赤い背表紙の群れに戻した。
「今日はもう帰るね」
「あ、ちょっと待って、葉月ちゃん」
「なに? お兄ちゃんのことなら、もう」
「これ、サインお願い! この通り、お願い!! お願いしますっ!」
そりゃあね、めだか書店のためなら力になりたい気持ちはあるんだよ。でもね、こればっかりはちょっと、私の本能が拒絶してしまうのだ。
めだかさんが差し出す右手には、肉色の表紙。
『お兄ちゃん、もっと! ぎゅっと! だっこしてよぉ 』 著・カメナシ・カメオ
というタイトルが、金文字で大きく、書かれている。
アニメみたいな絵柄で描かれた、一見幼稚園児にしか見えない女の子(実際は成人している設定だったはず)が、目を背けたくなるような仕打ちを受けて、涙目でこちらを見ている(裸で)。
若者向けの、ちょっとえっちな恋愛小説なのだ。
手を触れるのもためらわれる。
私は、あからさまに嫌な顔を見せている自覚がある。
めだかさんは言う。
「こんな表紙だけどね、涙なしでは読めない純愛なんだよ」
それは知ってる。
そもそも、きっかけはお兄ちゃんが趣味で、日記代わりに携帯でつけていたブログだ。
ブログが面白いと一部で密かな人気になり、どういう経緯でそうなったのか知らないけれど、相当な本好きだけが知っているような小さな出版社から、小説を書いてみないかと誘いかけられた。
担当者は、ブログに時々登場する妹(つまりは私)に対する描写がいたくお気に入りで、私とお兄ちゃんをモデルにして、難病の妹と、それを支える兄の、許されざる恋愛を題材としてほしいとお兄ちゃんに頼んだ。
その頃、私は闘病の真っただ中で、お兄ちゃんとお母さんは交代で私の看病をしてくれていた。
だからお母さんは録に働けなくて、お兄ちゃんがどんなに新聞配達を頑張っても、家計は火の車だった。
そんな矢先に舞い込んだ依頼を、お兄ちゃんは二つ返事で受けた。
その方が売れるからと担当に言われ、当初の予定にない過激な描写もお兄ちゃんは頑張った(どんな内容なのか、私はなんとなく見ることができない)。
出来上がった第一作が届いた時に、予想と違うビジュアルにちょっと引いたけど、嬉しかった。お兄ちゃんの愛が、形になって私の手元に届いた気がしたのだ。
だからね、私が嫌なのはその本じゃない。ましてやお兄ちゃんでもない。
表紙の絵を描いたイラストレーター!
もうちょっとどうにかならなかったのかな。
「ね、長月君にさ、カメナシ先生にサイン、お願い! 匿名掲示板でちょこっと宣伝したらさ、『めだか書店にカメナシ・カメオのサイン本売ってた!』って書き込んだらさ、『まじでか、買いに行く』って、書き込みがあったんだよ、十件も!」
「え、じゃあ、私がこれを十冊持って帰ってお兄ちゃんに渡すの? この本を? 私が?」
「だめかな」
あほか。
「ねえ、めだかさん。いい加減にしてよね。私、駅前の本屋さん通りすぎて、うちの前も通りすぎて、わざわざここに来てるのに、そんなにしつこいと駅前のあいつに浮気したくなるよ」
めだかさんは黙ってしまった。
「サイン本はお兄ちゃんに直接頼んで。サイン会だけは絶対にダメ! ただでさえ、あの顔で何かとトラブルに巻き込まれがちなんだから、お兄ちゃんをこれ以上つらい目に合わせたくないんだよ」
「わかったよ、葉月ちゃん、ごめんね」
「もういい、また来るよ」
言い残して、店を出た。
もちろん、『お兄ちゃん、もっと! ぎゅっと! だっこしてよぉ』は置いてきた。
思ったよりも長居してしまったな。
これからスーパーに寄って、鮭とブロッコリーを買って帰ろう。
お兄ちゃんは、もう家に戻っているかな。
外はもう、すっかり夕暮れの景色。