その四
葉月の視点です
今日私は、年に一度の検査を終え、帰宅した。
結果は身体のどこにも異常はなし。
嬉しくて浮かれ気分でサプライズパーティーを企画したのがこの悲劇へのプレリュード(号泣)だった。
また一年、永らえることができた幸運を噛みしめ、悔い無く過ごす決意を新たに、厳かな気持ちでいればよかった。パーティーだなんて浮かれないでおとなしくしていればよかった。
こんなことになってしまい、三瀬にも弥生にも大変申し訳がない。
パーティーを開こうと決めたのは、ほんの数時間前。三瀬がもうじき海外に長期間出かけるのでその激励会と、私のお祝いをかねて、料理は長月さんと二人で用意した。はっきりいってただの思い付きだ。
三瀬に弥生のお迎えをお願いして、二人が帰ったらクラッカーを片手に陽気に飛び出すつもりで待ち構えている間に、私がベッドで転寝をしたのが諸悪の根源。
目を覚ますと、ドアに張り付く長月さんの姿があった。背中に絶望の二文字が浮かび上がって見えた。
そんなわけで私と長月さんは今、三瀬のマンションで、娘のあれやこれやを隣室のドアの隙間からのぞき見するという最悪の罰ゲームを味わっている。
ずっと黙って見ていた長月さんだが、ついに我慢の限界を超えたらしく、小刻みにぷるぷる震えだした。
「葉月、だめだ。俺、これ、見てられない」
隣室では、弥生が三瀬に抱きついている、というか、首にぶら下がっている。
三瀬は困り果てた顔をしている。長月さんが怖いのか、三瀬は絶対にこちらを見ようとしない。
「長月さん、とにかくいったん落ち着こうね」
背中を撫でると、長月さんの震えはおさまった。なぜか恨めし気に私を見つめて言う。
「葉月は冷静だね」
「そんなことないよ。ものすごく動揺してるよ、ほら」
ドキドキしすぎたのか、冷えてしまった長月さんの手を握り、高鳴る私の胸に押し当てる。
長月さんは頬を赤くして、黙り込むのだからかわいい。
結婚してもう長く経つのに今さら何を照れてるのって思うけど、それほどまでに私を好きでいてくれるのかと思えばうれしくもある。愛おしいなぁ。抱きしめたい。
「葉月、こんなことしてる場合じゃ」
私の腕の中でもがく長月さんのつむじに頬ずり。
「見てられないなら見なきゃいいじゃない。こっちだけ見てよ、お兄ちゃん」
にっこり笑ってキスをしたら、長月さんは鼻からふうーーーぅと長くため息を吐き、私の上唇を甘噛みした。
「いひゃい……大丈夫だよ大丈夫。ベッドはこっちの部屋だから、三瀬も最後まではできないよ」
「いや、ソファもあるし、いざとなれば場所なんてどこでもできるだろ」
「そうねぇ、床の上で背中が痛くても、それすら気持ちいい、みたいな?」
「やめてくれ、想像しちゃうだろ!」
長月さんは頭を抱え、うずくまってしまった。ちょっといじめすぎた。
「冗談だよ。三瀬は私たちがここにいるのを知ってるんだから、今頃どうしよどうしようって、心の中でパニックで、手を出すどころの話じゃないよ、きっと」
慰めてみても、長月さんは元気にならない。
確かに、普段は私達の前では無邪気な姪と見守る叔父の関係を全うする二人が、人目の届かない密室では男と女に変わると知れば、父としてはショックだろう。だけどその可能性を少しでも想像しなかったのだとしたら、鈍感にもほどがある。
でも思えば昔からこの人は、私が何度好きだと伝えても俺も好きだよ、と曇りない家族愛で返事をするような人だったんだよな。つまり鈍感なんだから、驚くのも仕方ないかもね。
私としては、恋愛は自由だと思うし、弥生が誰と付き合おうと反対なんてする気はないし、キスだってそれ以上だって、自己責任でいいと思ってる。
それに、いつかこんな日がくるってことはわかっていた。弥生が誰を好きか、見ていればすぐにわかった。私は母だし、三瀬とは長い付き合いだから、弥生が彼のどこに惹かれたかが痛いくらいによくわかる。
⋆
「おまえ、弥生に何してくれてるわけ?」
夜更け、長月さんは激怒した。
「見てたならわかるだろ。俺は被害者だっつうの。怒るならおまえの娘のほうにしろよ」
「避けないおまえが悪い。素早く避けろよ」
「無茶言うなよ」
「無茶じゃない。女子高生のキスの一つも避けられないで、ヘディングできるのかよ」
「それとこれとは全然ちげえ。っていうかおまえら、いくら合鍵持ってるからって、勝手に人ンち入り込んで何やってるわけ? パーティーなんて俺、全然聞いてないんだけど!」
「え? 長月さんが連絡してくれたんじゃないの?」
私は、長月さんを見遣る。長月さんはすっとぼけた顔で言う。
「留守電聞けよ」
「っざっけんな!」
そっか。三瀬は、寝室に私たちが潜んでいるとは知らなかったのか。
それはほんとに、ほんっとーに悪いことした。ごめんね。
「っていうかおまえこそ、親に無断で人の娘を夜更けに部屋に連れ込むなんて何考えてるわけ?」
「無断じゃねえよ。電話したわ」
「俺は知らない」
「留守電聞けよ」
「ふざっけんなよ」
どっちもどっちだよな。一番の被害者は弥生だ。大丈夫だよ。お母さんはいつでも弥生の味方だからね。
私と長月さんと三瀬は、ダイニングテーブルを囲んでいるが、料理に手を付けているのは私だけで、男たちはワインだけをがぶ飲みし、勝手にどんどんヒートアップしていく。
私も飲めたら仲間に入れるのに、残念ながら下戸なので、傍観者に徹するのみで正直つまらないけど仕方がない。みんなが子どもに戻ったら収集がつかないから、ここは私が大人になっておくとしよう。
「二人と声が大きい。弥生が起きちゃうよ」
弥生は寝室で寝ている。
あれから、弥生の肉迫にたまりかねた三瀬が、ブランデー入りのチョコレートを弥生に食べさせたのだ。弥生には、お酒に弱すぎる私の体質が遺伝した。ほんの少量のアルコール摂取で呆気なく昏倒してしまう。
「おいおまえら、弥生の酒の弱さをなんとかしないとやべぇぞ。大学生なんかになったら飲み会だらけだろ。男からしたら酔わしたら直ぐ寝る女なんて、持ち帰りやすくて最高の鴨だわ」
「やめろ!」
「なんだよ事実だろ。不都合だからって、真実から目ぇ逸らしてんじゃねえ」
「まあ確かに、三瀬の言うことも一理あるね」
「葉月! おまえまで何を不吉なこと言うなよ」
「だってさ。私が大学生の時は、長月さんと三瀬が私の参加する飲み会にもれなくついてきて、がっちりガードを固めてたからそういうことは起きなかったけどさ、それは私たちが同世代だからできたことでしょ? それでもかなり有難迷惑だったけどさ。弥生の場合はそうはいかないよね。新歓でも合コンでもなんでもかんでも父親や叔父さんが付いてくる女子大生なんて、周りはドン引きだよ」
「うーん、どうすっかな」
「……っ」
三瀬は腕組み。長月さんは、思考を放棄したようで、サラダを食べ始めた。
「まあいい、その時はその時だ」
「開き直ってんじゃねえよ」
「いいんだ。俺は弥生を信じる」
「いいのかよ。あいつ、男見る目ねえぞ。だから見た目に騙されて俺なんか好きになるんだよ」
「それを自分で言うって、俺様かっこいい! って言ってるのと同じことだってわかってる?」
「うっせえよ」
その時、長月さんが妙にきっぱりと、
「弥生は、人を見る目はちゃんとある」
言い放ち、私と三瀬は目を丸くした。
「何言ってンの? 酔ってんの?」
「あの子は見た目だけで簡単に人を好きになったりしない。きちんと中身を見たうえで、弥生がおまえを好きだって言うなら、そうなんだろ。茶化さないで真剣に受け止めてやれ」
「は?」
「私も同感。選ぶ選ばないは三瀬の自由だから、どう転んでも何も口出しはしないよ」
「それ、本気で言ってんの?」
三瀬が声を低くした。
射すくめるように強い目が、私の瞳を真っ直ぐに捕える。
「弥生は俺の娘みたいなもんだ。今さら女として見るなんて無理!」
「十年後ならどう?」
「そしたらあいつもいい加減、目ぇ覚めるだろ」
「別に、今すぐ結論出せなんて言ってない。私が言いたいのは、もういいよってこと」
「いいって、何がだよ」
ちょっと勇気を出すために、大きく一つ深呼吸をする。
「三瀬はさ、私達が小学生の頃のことを、後悔していたでしょ。だから長い間ずっと罪滅ぼししてくれたよね。見守ってくれてありがと。嘘でも偽物でもなく、本当の優しさだってこと、よくわかったから、もういいよ」
「いや、俺はこいつのやさしさなんてこれっぽっちも知らないけどな」
長月さんが口を尖らせて言う。
「でもお兄ちゃんだってあの時黙って見ていたのは、三瀬のことを心の底では信頼している証拠でしょ。そうじゃなければすぐに飛び出して行って、三瀬を殴り倒していたんじゃない?」
「それは、弥生を傷つけたくなかっただけだ」
「それならそれでもいいけど、とにかく三瀬、もういい。昔のことなら私、忘れた
「どういう意味だよ」
「これからはもっと自分勝手に幸せになってよ、ってこと」
「うっっわ、なんだよこのキモい空気、マジでキショ! あほかよキショ」
三瀬はキショキショ言いながら席を立ち、部屋を出て行く。
やがて廊下の奥から水音が聴こえてくる。シャワーでも浴びているのかな。
「まあ、確かにキモい空気だったね」
と、長月さんが笑う。
「だよね。でも私、決めたんだ」
「何を?」
「自分に正直に生きる。言いたいを言って、やりたいことをするよ。そしたらもっともっと、自分と世界が愛しくなって、力がどんどん湧いてくるってわかったんだ」
「いいね。俺もこれからそうしよう」
「うん。人生一度きりだもん。楽しい方が絶対にいいよ」
「そうだね。葉月は賢いなぁ」
長月さんは私の頭をぐりぐりと撫でまわしてから髪を掌に救い上げ、そっと唇をよせる。
「なんかちょっと馬鹿にしてない?」
「してないよ。かわいいかわいい俺の葉月。愛してるよ」
恥かしすぎる甘い言葉を吐きながら、お兄ちゃんの唇がゆっくり近づいてくる。
「私も、大好きだよ」
いつになく、お兄ちゃんの唇が熱く柔らかい。ただのキスなのに気持ちいい。人様の家で不謹慎ながら、なぜか気持ちが盛り上がる。
と、不意に大きな音を立てて廊下へと続くドアが開き、
「おまえら、人ンちで何やってんだよ、ふざけンなよ帰れ!」
髪から水をだらだら滴らせて、三瀬が激怒した。
⋆
数日後に弥生と二人で、日本を発つ三瀬を空港へ見送りに行った。
三瀬は困惑しながらも、弥生を邪険にはしなかったところは偉かった。
「おじさん、いってらっしゃいぃぃっ」
「泣くなよ弥生、半年で帰ってくるんだから」
ラウンジで涙ぐむ健気な弥生の姿を見ていたら、私まで泣けてくる。
本当は三瀬に抱きつきたいだろうに、私がいるからそれもできないんだろうな。私のことは気にしなくていいから、お別れのキスの一つもしてやりなさいなって言ってあげたいけれど、老婆心すぎる。きっと余計なお世話だろうからやめておこう。
「じゃあな。勉強頑張れよ」
と、らしくない言葉を残し、三瀬は行ってしまった。
空港からの帰りの車の中で、弥生が言う。
「ねえお母さん、愛されるってどんな気持ち?」
「ええ!? あなたが私にそれを聞く? あなたが? 私に? ソレヲキクノ? 弥生はめいっぱい愛されてるよ」
「違うの、そういうことじゃなくてさ、恋愛の話」
「うーん、どんな気持ちって、そうねぇ。幸せ、かな?」
「だよねぇ」
と、弥生はどこか上の空で言う。
信号が赤になり、ゆっくりと踏んだブレーキに応え、タイヤは静かに動きを止める。
「お母さん、私ね、おじさんを幸せにしたいんだよね」
「うん」
「驚かないの?」
「うん、そうね」
「お母さん。もうおじさんを解放してあげて」
弥生の呟きに重なるように、後続車がクラクションを鳴らす。
信号はとっくに青になっている。
答えに詰まり、聴こえないふりをした。
復讐なんてとっくに忘れた。
突き放す言葉なら、何度もぶつけた。
わざと目の前で長月さんにあまえて見せても、三瀬はそばを離れていかない。
これ以上、どうしたらいいのかな。
なんて、弥生に聞けるはずもないし、長月さんにも何となく言いづらい。
「まあとにかく、がんばれ弥生」
後はあなたに任せる。
更新が大変遅くなりました。ご覧いただきありがとうございます! 次話で終わる予定です。なるべく早く更新したいです。




