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その三

 おじさんの家は、十一階の3LDK。

 エントランスの床は大理石だよゴージャス。


「時々なぜか床が濡れてて滑るんだよ。転んで頭打って運悪いと死ぬから気ぃつけろ」


 おじさんは言い、さりげなく私の腰の辺りに手を添えた。

 エレベータはあっという間に十一階へ私たちを運び上げる。


「おじゃましまーす」


「へいへい、おはいり」


 おじさんは靴を脱いでさっさとリビングへ歩いていく。

 使い勝手の良さそうなアイランドキッチンでおじさんは、二人分の紅茶を淹れてくれた。

 窓の外には、外国のグミキャンディみたいな原色の夜景が見える。

 ファブリックも収納も、インテリアの色調はすべてモノトーンの部屋に、私とおじさんは二人きりでいる。

 なんだか気恥ずかしいので、子どもみたいにはしゃいでみた。


「うわぁい、紅茶だー」


「飲みすぎるなよ」


「はーい」


 なにしろ、私の体はカフェインに弱い。少し飲むと、身体がふわふわと宙を漂う心地よさを味わえるんだよ、すっごく気持ちいいんだよ。と、自慢のつもりでお母さんに話したら、絶対にやめなさいと言われたのが中学生の頃。

 以来、家ではコーヒーも紅茶も飲ませてもらえない。

 だからこれは、お母さんに秘密の濃厚カフェイン。二人きりの時にだけの、秘密だ。


「橘、今頃波音聞いてンのかな」


 おじさんが、窓辺に立ち、紅茶を飲む。


「うん。たぶんそうだね。五年くらい前から、年に一度は海辺のきれいな病院に、一泊二日の人間ドックに出かけるよね。緑青さん、去年の今ごろもやっぱり今日みたいに騒いでたのに、全然覚えてないなんておかしいよね」


「ああ、あいつが変なのは今に始まった事じゃない。ほっとけ」


「変と言えば、おじさんも変だね」


「俺? どこが?」


「だって、今日、一人になりたくなかったんでしょ? だからこうして私をここに呼んだんでしょ?」


「は? なに言ってンだよ」


 私は、おじさんのそばに立ち、広い背中に後ろからぎゅっと抱きついた。

 



 秘密は他にもある。

 

 秘密その一。おじさんの部屋には、たくさんの隠された本がある。食品添加物の基礎知識本、癌患者が自己の体験をつづったエッセイ本、そして、お父さんが書いた料理本。それらがベッドの下に隠してある。

 おじさんのベッドはキングサイズ。

 本もたくさん隠れている。

 

 秘密その二。おじさんは一年に一度、冬のクマのようなる。冬眠するのだ。

 そして、私は知っている。

 おじさんの電池が切れる原因。充電が必要になる時期。

 決まって五月。

 お母さんの定期検診。


 その時期に、おじさんは必ず一週間ほど家に引きこもる。

 仕事先の海外からでも日本へもどり、このマンションで冬眠する。

 そして、お母さんの体に異常がないと知ると、春を迎えた野原の賑わいよろしく、晴れ晴れとした顔で下界へ飛び出す。

 おじさんの世界は、お母さんを中心に廻っている。


 私のお母さんは魔女だ。

 三十過を過ぎても、私とほとんど変わらないぷりぷり肌は、お父さんの献身的で健康的な料理の賜物だとしても、見た目が美魔女だっていうだけじゃなくて、中身もひどい。

 お母さんは、おじさんの気持ちを全て知っている。

 それなのに、おじさんを解放しない。

 

 秘密その三。私は、おじさんがかわいくて仕方がない。結婚したい。だから、お母さんのことをちょっとだけ憎んでいる。

 でも、お母さんには勝てる気がしない。

 これまではずっと、そう思ってきた。


 だけど、今年はちょっと違うらしい。


 おじさんが、冬眠前の衰弱したおじさんが、やつれた顔を私に見せてくれた。

 死を予期した猫みたいに、弱ると姿を消してしまうおじさん。

 オラオラ顔でボールを蹴って、星の数ほどの言い寄る女たちと適当に遊んで本気にはならないおじさん。

 いつも不貞腐れた顔をして、誰をどれほど傷つけても痛くもかゆくもないですみたいなキャラを演じるおじさん。

 そんなおじさんの素顔が今、私の目の前にある。

 寂しげで、少年みたいな、この人の素顔。


「おじさん、お母さんが心配なんだね。お母さんを失うのが怖いんだよね。お母さんが、大好きなんだよね。かわいいね。いい子いい子」


 私は手を伸ばす。頭三つぶん、上にあるおじさんの頭を、幼子にするようにすりすりと撫でる。

 一発叩いたら――

 この恋患ってポンコツ化した脳が覚醒するならそうしたいところだけれど、ここは鞭より飴でしょう。おじさんの背中に耳を押し当てて、鼓動を確かめながら、ゆっくりとおじさんの髪を梳く。


「おじさん、いつまでいい弟のふり、続けるの? 過去を引き摺りまくってるくせに。隠してるつもりかもしれないけど、全然隠せてないよ。痛い人だよ。ばかみたい」


「ひでぇな」


「こっち向いて。キスして」


「はぁ!?」


 おじさんは、素っ頓狂な声を上げる。

 おじさんは、たぶんこう言う。


「何言ってんだ、ガキのくせに」


 ほらね。やっぱり。

 そして、きっと拒まない。

 

 私は、おじさんの首に両腕を巻き付ける。

 おじさんは目を閉じないから私も目を閉じない。

 五秒も、十秒も、その倍も倍も、長い時間、唇をくっつけあった。

 鼻息が荒くなった。

 恥ずかしいけど、でもやめない。

 私がガキじゃないってこと、知らせたい。

 おじさんを自由にしてあげたい。

 それができるのは、きっと私だけだ。


「なあ、弥生」


 おじさんが、私の名を呼ぶ。

 声が少し掠れている。

 私の心臓は張り裂けそうに、早鐘を打つ。

 こんなことをして、ばかみたいなのは、痛いのは私の方だよね。

 今、おじさんに拒絶されたら、恥ずかしすぎて二度とおじさんと会えないよ。

 どうかお願い、私を受け入れてほしい。

 おじさんの次の言葉までの数秒が、永遠みたいにながい。


「昔の女のSNSって、見るもんじゃないよな」


 私は、思わず顔を上げた。

 おじさんは無表情で、何を考えているのかわからない。ただ、頬が少しだけ赤い。

 

「今日、結婚式をあげましたー、とか、子どもがうまれましたー、とか。写真がアップされてたりしたらさ、怖いもん見たさでついつい見ちゃうわけ。そんで、幸せそうだと嬉しいんだけどさ。すんげえわけわかんねえ気持ちになるんだ。未練なのか、後悔なのか。なんかよくわかんねえけど、もしもあの時もっと話し合えたら、今横にいたの俺だったんじゃないかとか、思うんだよ。んで、見なきゃよかったーって気持ちになる。わかる?」


 わかんない。知りたくもない。


「俺にとって弥生って、なんかそんな感じなんだ。愛しくて、大切で、せつない、触れられない別次元の、甘い思い出の結晶、みたいな」


「勝手に決めつけないでよ。私は私だよ。お母さんとセットにしないで。触れられるよ、もっと触れてよ、私、おじさんが好きだよ。私が幸せにするよ。悲しい顔させない。健康だよ。女だし年下だし、おじさんより先に絶対に死なないよ。だから、私にしてよ。お母さんのことなんてもうどうでもいいじゃん」


 ここで泣くのはずるいと分かっていても、涙が出ちゃうんだよなぁ。

 おじさんが、私の涙に弱いってこと知ってるから、絶対泣きたくなかったのに。

 

「ぁあ、もう、泣くなよ」


「じゃあ、背中トントンして。子どもの頃みたいに、一緒に寝てよ」


 私は、隣の寝室を指さす。キングサイズのゴージャスなベッドがそこにある。

 

「おまえ、ひどい女だな」


 おじさんは、すごく困った顔をした。

  

「もういいんだよ、幸せになっていいんだよ。私、すいついたら離れないすっぽんみたいに、おじさんに一生張り付いてやる」


「なにそれ、こえええ」


 私はおじさんに絡みついた。

 もう嫌だ、勘弁してくれって音を上げるまで、許さない。

 無限の幸せ地獄に突き落としてやる。

 

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