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36.ほしくない

 手術中に夢を見た。


――お兄ちゃん野球に行かないで

 泣き叫ぶ幼い私。


――わかったよ、行かないよ。葉月とずっと一緒にいるよ

 外出をあきらめて、私をあやすいじらしいお兄ちゃんの小さな肩。抱きしめたい。

 これは、過去の事実だろうか。記憶を探っても、手ごたえがない。

 窓の外、西の空に、夕日が赤く沈もうとしている。

 風に乗って、橙の空に漂いながら思う。一年後の私は何をしているだろう。

 病気に好かれやすいこの身体を抱えて、私は頑張る。一度は勝てたのだから、今度もきっと勝てると信じて戦う。



――――葉月


 お兄ちゃんの声が聴こえる。

 目が開けたらお兄ちゃんがいた。



「本物だぁ……」


 お兄ちゃんは優しい声で、「寝ぼけてるの?」と、私の頬を撫でた。

 この手だ。

 夢の中と同じ、いつでもそばにあった愛おしい手。

 ちっちゃかったのに、今はこんなに大きくなった。

 手に手を重ねて目を閉じたら、日に焼けて虫取り網を片手に駆け回っていた頃の、かわいらしいお兄ちゃんが瞼の裏に浮かぶ。

 あの時、病に負けていたなら、私は消えて、今ここにいなくて、大人になったお兄ちゃんには会えなかった。だから、同じこの時に二人でいられるだけで、私は幸せだ。


「お兄ちゃん、私、また病気になっちゃった。でもがんばるよ。死なないよ」


「毎日俺の作った特製ジュース飲んでるから、大丈夫」


「毎日じゃないけどね。近頃お兄ちゃんは私をずっと放っておいたからね」


「ごめんな。でも、大丈夫。葉月は健康体だ。間違いない。検査結果が出たらわかるよ」


 頷きながら胸の中で、唇から紡ぐ綺麗な嘘とはまるで正反対の、腐敗してガスを吹き出す泥沼みたいなマイナスの未来像を描く。

 もしも腫瘍が悪性で、薬の副作用で苦しみぬいて醜く死ぬのなら、そうなる前に自殺したい。お兄ちゃんの腕の中で、優しい温もりに包まれて旅立てるのだとしたら、私は喜んで舌を噛む。

 どうせ死んでしまうなら、言いたいことを言い、好き放題をやりたい。

 でもできない。 

 今、お兄ちゃんのぬくもりを求めるのは、自己満足だ。私のいない未来を生きるお兄ちゃんの気持ちを、どうしたら少しでも救うことができるだろう。ただ、それだけを考える。

 きっと、出来るだけ軽やかに、飛び立つ鳥の様に颯爽と消えることだ。

 余計な足跡や思いを残さず、軽やかに、さわやかに。


 教育実習最終日の翌日、私はなじみのこの病院に検査入院をした。

 私はもう十六歳だが、特別に小児病棟でお世話になっている。

 入院一日目に諸々の準備をし、二日目に無事に手術を終えた。付き添いにずっとついていてくれたお母さんは、今は着替えを取りに戻っている。今日は何曜日かとお兄ちゃんに尋ねたら、土曜日だと教えてくれた。長い間眠っていたらしく、もう入院三日目の夕方だった。


「葉月はひどいな。どうして一番最初に、俺に話してくれなかったの? 俺じゃ、相談相手にならない?」


 お兄ちゃんは、横たわる私の手を握ったままで、ベッドサイドのパイプ椅子に腰を落とす。

 お母さん以外、誰にも告げずに手術を終えたのは、私の意思だ。

 

「結果がわかる前に、必要ない心配を誰にも掛けたくはなかったんだよ」

「心配するくらい、どうってことない。俺は、おまえを一人で泣かせたくないよ」

「私だって、お兄ちゃんが泣くのは嫌だ」

「俺は泣いたりしないよ」


 うそ。

 私の病状が一番ひどかったあの頃、病院の給湯室で隠れて泣いて、私の前では疲れ果てた顔つきで無理やり笑顔を作って見せる、お兄ちゃんはつらそうだった。


「こうして二人で病室にいると、においや空気で、あの頃のつらい気持ちを思いだすんだ。お兄ちゃんもそうでしょ。だからお見舞いに来てほしくなかった。負担をかけたくなかった」


「馬鹿だな。そんなことまで気にして。今一番大事なのは、葉月の体だろ」


 私の前でお兄ちゃんはいつも笑っている。

 いつもそばにいるからわかる。今日の笑顔は偽物。心を隠す武装だ。

 私も、本当は今すぐに泣きだしたい。

 お兄ちゃんがお見舞いに林檎を持ってきてくれた林檎を剥く。

 果物ナイフで器用にうさぎさんのりんごを作ってくれる。

 それを食べながら、私たちはいろんな話をした。

 お兄ちゃんの幼馴染のユウキが、結城先生だと知ってすごく驚いたこと。

 結城先生の見た目と性格が違いすぎること。

 実習期間中にお兄ちゃんの人気がすごくて驚いたこと。

 そして、近頃三瀬がすごくやさしくしてくれること。

 私が三瀬に抱きしめられた話をしても、お兄ちゃんの笑みは消えない。

 兄としてじゃなく、人間橘長月として、私と向き合ってほしくて、「お兄ちゃんは、私が三瀬と仲良くなっても平気なの?」と、馬鹿なことを口にした。


 問いかけにも笑顔でうなずくお兄ちゃんは、残酷だ。


「だって葉月の一番はいつでも俺だろ?」と、もっとひどいことを言うので、嫌味の一つも言ってやりたくなる。


「今はそうだけど、この先はわからないよ。私は、これから兄離れをするわけだからね」

「うん。そうだね」

「そうしたら寂しくて、心の隙間を埋めてくれる人を探すかもね」

「葉月は、恋人がほしいの?」

「ほしくない」

「なんで?」

 お兄ちゃんじゃないなら、いらない。

 なんて言えない。

お兄ちゃんは全部わかっているはずなのに、いつもこうしてはぐらかしてずるい。

「だって、その人をいつか悲しませるから」

 卑屈なことを言って、お兄ちゃんに背を向けた。

 お兄ちゃんが深く息を吐く音が聞える。


「なあ、葉月。前におまえは言ったよな。俺と葉月は血が繋がっていないから、仲良くしても問題ないって」


 お兄ちゃんは、大切な話をする時、少しだけ声が低くなる。

 私は頷く。衣擦れが枕元で鳴る。


「俺はね、血の繋がりなんて関係なく、葉月をこれ以上ないくらい大切に思ってる。それが悪いことだとは思わないし、外野にとやかく言われる筋合いも無い。でもね」


 お兄ちゃんの手が、私の髪に触れる。指先で梳かれる度に、胸のうらっかわがかゆくなる。

 

「そのせいで葉月が不利益を被るなら、少し控えた方がいいよね」


 嫌だよ。ねえ、ちょっとくらいならいいんじゃない? 今なら誰も見てないし……って、言いたい。でも、最初に離れようって言い出したのは私なんだ。


「ねえ葉月。妹離れってどうやるの?俺にとっては今まで当たり前にしてきたことだから、どこからが普通でどこからが異常か、よくわからないんだ。

 こうしておまえの髪に触れるのだって、他の兄妹はしないことなのかもしれないよな」


「うん。そうだね」


 私が頷くと、お兄ちゃんの指は離れていく。 


「本当にこれで、いいの?」

 お兄ちゃんの問いに、私は頷く。

 こんな時までお兄ちゃんは笑ってる。

 嫌になったから、離れようと思ったわけじゃない。

 だけど、「私はお兄ちゃんが大好きだ」って伝えることは、境界線のどっち側なのかわからないから口を噤んだ。

 こうして少しずつ、離れていくんだ。

 鼻の奥がつんとする。


「ああ、葉月、目が覚めたのね、良かった」


 お母さんが部屋に入ってきた。

 それからすぐに、医師せんせいが問診にやって来て、お兄ちゃんはあわただしく帰っていった。

 夕食を終えてお母さんを見送り、一人になって少し泣いた。


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