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35.見たくない

今回のみ、視点が長月に移ります

 いつかは来ると思っていた兄離れ宣言が不眠を招いた。

 実習は無事に終わったので、多少の寝不足も気にならない。

 俺は夜な夜なキーボードを叩く。

 眠り姫がつむに指を突かれた瞬間に、姫と共に眠りにおちる城の者は幸福だ。

 

はるかのいない世界は、いらない。

 彼女の消滅と共に、世界が終わればいい。

 想いだけが結晶化して空に羽ばたけば、きっと冬空に輝くポラリスよりも尊いきらめきを放つはずだ。けれど体の中にあれば、放出を待つだけのただの肉欲で終わる』


 太陽が黄色くて眩しい寝不足の朝、データを抱えてアドバイザーとの約束の場所へと急ぐ。

 


 結城は一口お茶を飲み、おもむろに批評を始めた。


秋生しゅじんこうがキモい。入院した妹を想いつつ、他の女で欲望だけ処理とか、気持ち悪すぎて理解不能」


 結城は一澤帆布のトートバッグから、手指の除菌シートを取り出して俺のタブレットと自分の指を丁寧に拭い、俺を睨んだ。

 いつもは的確なアドバイスをくれるはずの結城が、今日は少しおかしい。

 秋生しゅじんこうが気持ち悪いのは最初から変わらないし、このパターンで五巻までやってきたことは結城が一番よく知ってるはずなのに、今さらなんなんだろう。

 結城はなおも続ける。


「この小説、全然おもしろくないからもうやめちゃえば? 葉月ちゃんの病気は治ったし、お母さんも金持ちと再婚したんだから、長月がお金のために無理して書き続ける理由なんてもうないじゃん」


 結城はいらだちを隠そうとせず、不機嫌を俺にぶつける。

 感情のコントロールが上手で、滅多に怒らない結城には珍しい。


「結城、どうかした? 寝不足とか?」

 結城は大きなため息をつくだけで、俺の問いには答えない。


 教養校舎前の第一食堂で、俺は缶コーヒー、結城はミルクティーをすすりつつ、タブレットPCを挟んで向かい合っている。

 小学校からの腐れ縁の結城には、こうして俺の小説を時々読んでもらい、アドバイスをもらっている。

 生物的性別は女性である彼女に対して、がっつり濃厚な性交渉を含む文章を読ませることに抵抗が無かったわけでない。

 しかし、他大学を中退し社会人経験を経た上で四浪してうちの大学に入りさらに留年を繰り返している三十過ぎの先輩よりも、結城に相談する方が有意義だった。


 小説は、二十二歳の秋生あきおを主人公とするラブストーリーだ。

 病弱で、実は血の繋がらない十六歳の妹の春香は、秋生に恋心を抱いているが、秋生は鈍感なので気づかない。

 六年前、秋生が高校生の時に、妹の春香が病気で入院する。

 以後、入退院を繰り返して六年が経ち、ふたりの両親が事故死する。

 最初は保険金で春香の医療費を賄っていたが、やがて入院が長引くにつれて財政は逼迫していく。

 そんなときに知り合った謎の美人女社長の紹介で、秋生は夜の仕事を始める。

 寂しい女性の心を慰める、出張ホストの仕事だ。


 書き始めた頃は、秋生と春香の純愛を軸に話を進めていたのだが、いつのまにか客の女性たちと秋生との疑似恋愛と肉体的な接触の描写が主になっていった。現在五巻まで出版されている。


 「葉月ちゃんが、あんたの小説読んだらしいよ。もうちょっと主人公格好良くしなよ。葉月ちゃんが秋生とあんたと重ねて見たらどうするの」


 確かに、秋生が、俺の気持ちを代弁したことが一度も無いとは言い切れない、かもしれない。

 

「大丈夫。葉月は賢いから。現実と虚構の区別くらいつけられるさ」


「いくら賢くても、まだ十六の女の子だよ。自分の兄がそんな小説書いてて、いい気持ちするはずないし、大事なことから逃げてばっかりのあんたに、葉月ちゃんの本当の気持ちがわかるはずないんじゃない?」

 

「逃げてるって、俺が? 大事なことって何だよ」


 荒らげた俺の声が、食堂内に響き渡った。

 結城はひるむことなく、軽蔑の視線を俺に向けた。


「葉月ちゃんは、長月に隠し事してるよ。あんた本当は信用されてないんじゃない?」


 結城は言い放ち、席を立った。

 なんなんだ。

 一日中考えてみたが、結城の機嫌を損ねるようなことも、葉月の隠し事にも、心当たりがない。

 葉月が昼休みに当たる時間に電話をしてみるも、つながらない。というか、電源が入っていない。

 ずっと気になったままで迎えた夕方、家までの帰り道で葉月の携帯に電話を入れてみるが繋がらない。仕方なく自宅に電話をすると、憎たらしくて生意気な義弟が電話口に立った。


「ああ、あんたか。何の用?」

「葉月は帰ってる?」

「は? 今日からあいつ、検査入院してるよ。なに、あんた聞いてないの? マジで!」

「検査、入院?」

 

 三瀬の揶揄するような口調に腹立つ余裕もない。

 頭が真っ白になり指先が震え膝が笑った。

 定期検診で異常が見つかったのか。それならどうして、葉月は俺に何も言わなかった?


「何故おまえがそれを知ってる? おまえは葉月から直接聞いたのか」


「いや、違う。教育実習の最終日に学校で、結城先生が俺に教えてくれた。あの人って橘の何なの?」

 

 取り落とした携帯電話を、後ろから歩いてきた男が拾って渡してくれたが、指先に力が入らずに、携帯電話は再び舗道へ音を立てて落ちた。

 

 家に帰り、頭から布団をかぶった。

 身体の震えが止まらない。

 歯の根が合わず、がちがちを音と立てる。

 葉月を失えば、俺はただの死神だ。

 失えない。

 もう二度と、がりがりに痩せ、唇から血を吐き、死にたいと泣く葉月を見たくない。

 

 生まれつき、死を身近に感じざるを得なかった、これまでの時間を思う。


 俺の母は生まれつき身体が弱くて、心臓に欠陥があった。

 実の父親は、俺が生まれる前に死んだ。

 三歳の時に義父が出来たが、義父は車の事故で死に、母親はそのせいで胸を痛めて死んだ。

 四歳になった頃、、義父の弟の橘文月と、その妻の葉子に引き取られた。

 二人は、俺を大事にしてくれた。

 育ててくれたことだけじゃなく、葉月を、この世に産んでくれたことに対して、感謝してもし足りない。

 葉月はいつもそばにいて、無意味な俺の命に価値をつけてくれた。

 溢れるままに注いだ思いの分だけ、葉月は心も体もきれいに伸びた。

 葉月、俺の良心の全て。

 俺の中の甘く優しく美しくまっすぐなものの全ては、葉月になった。

 

 身体の震えはまだ止まらないが、布団をはねのけ立ち上り、財布を掴んで家を出た。

 川向うの彼岸に飛び立つ準備を始めたのか。

 唐突に離れたいと言い出したのも、此岸に残す俺のためか。

 葉月、今、おまえはどんな思いでいる? 

 

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