34.要検査
思いは迸った。
止められない、止まらない。お酒の力って怖い。
自分でも何が何だかよくわからなまま、喋りつづけた。
「私に好かれたのは、お兄ちゃんの自業自得です。
他の誰よりも私にやさしくて、べたべたに甘やかして、好きだよ、大事だよ、俺の葉月って、毎日とろけるような声で耳元で囁かれて、催眠術みたいに。
私もう、お兄ちゃんなしじゃ生きていけない体です」
「その使い方は誤解招くよ」
結城先生は笑う。
「今は違っても、いつかはそうなりたいって思ってます。
だけどお兄ちゃんは、そうじゃないみたい。
お互いいつまでも子供でいられるわけもないのに、私がおとなになったら急に突き放すなら、最初から安易な猫かわいがりなんてしてほしくなかった。
今さら逃げるなんてずるいです。
私、お兄ちゃんの本を読んで、お兄ちゃんの好みも勉強しました。
すっごく気持ち悪かったけど、受け入れる覚悟はあります。お兄ちゃんのことが好きだから」
「長月が、どんな思いであの話をかき上げたか知りもしないで、気持ち悪いなんて言うな」
結城先生が、私の頬を平手で叩いた。ピタンと間抜けな音がする程度の、痛くもかゆくもない強さでも、私を泣かせるには十分だった。
「あれは長月の趣味じゃなくてフィクションだよ。
あいつ、参考資料にしたいからって、高校の先輩とか友達にエロ本借りてた。
妹馬鹿の長月がついに女に興味をもったって、周りの反応がすごかったけど、葉月ちゃんが助かるなら、どんなことでもするって言ってたんだよ。
その気持ちを、葉月ちゃんがわからないはずないよね」
突き放すように、結城は、テーブルの下に投げ出されたままの私の学生鞄を指さして言う。
「ねえ、葉月ちゃん。電話が鳴ってるよ。家からじゃない?」
鞄の中からバイブ音が聞こえる。
「ちょっとすみません」
立ち上がり、フリップを開きながらキッチンへと移動する。
「もしもし?」
お兄ちゃんか三瀬かお母さんだと思っていたが、違った。
耳に押し当てた電話からは、私の命を救ってくれた医師の声が聞こえた。
心臓が跳ね上がった。
いつかはこんな日が来るかもしれないと、恐れていた内容だった。
――――要検査。でも、詳しく調べてみなければまだわからないよ。だから悲観だけはしないでほしい。
医師の声が洞窟の中から聞こえた。もう二度と戻りたくない、薄暗い病室。背筋が寒くなった。
電話が切れてからも、しばらく身動きが出来なかった。
様子を見に来た結城先生が、泣いている私を見つけて、抱きしめてくれた。
「ごめんね、さっきは言いすぎたから、もう泣かないで。葉月ちゃんを泣かせたって長月に知られたら、私がめちゃくちゃ怒られるから。あいつ、本気で怒ると超怖いんだよ」
結城先生が頭を撫でてくれる。
結城先生の柔らかな身体に包まれて、悲劇のヒロイン気分で涙に暮れるうちに、胸の痛みは甘い陶酔へと形を変えていく。
私ってかわいそう。
どうして私ばっかり。
情けない呟きを、結城先生は柔らかく受け止めてくれた。
これがお兄ちゃんだったら、私はただひたすら悲しむことはできない。もっと強く抱きしめてほしいとか、おでこにキスしてほしいとか、いろんな欲望を抱いてしまう。
これが三瀬だったら、危険を感じて涙も止まる。下手したらまた、指の一つも舐められると思うと、うかつに弱みを見せられない。
今そばにいてくれたのが、結城先生でよかった。
私は泣いて泣いて泣いた。
嗚咽と共に、思いを吐いた。
「お兄ちゃんは、私を甘やかしてくれるけど、やりすぎなんです。
血が繋がってないってこと、私が知らないとつい最近まで思ってたんですよ。
馬鹿ですよ。
だって、アルバムにお兄ちゃんの赤ちゃんの頃の写真だけないし、私とお兄ちゃんって全然似てないし、あの溺愛っぷりってどこから見てもやっぱり異常だし。
気づかれたくなかったんなら、もっとしっかり証拠を隠蔽すべきなんですよ。
アルバムが火事で燃えたとか何とか、いくらだって嘘をつけるでしょ」
結城先生は苦笑いをしたまま、時々、「うん、わかるよ。葉月ちゃんは頑張ってるよね」と、私がほしい言葉を絶妙なタイミングで投げかけてくれる。
「私、お兄ちゃんの傍にいたいです。お兄ちゃんの『好き』が家族愛か恋愛か、悩んだってもう無駄なんです。
この世で起きるすべての出来事が、霞んでしまうんです。生きるか死ぬかの分岐点に立てば、嫌でもわかります」
「葉月ちゃん?」
「私は、ただ、お兄ちゃんが傍にいて、笑っていてくれればそれでいいんです。
わかっているのに、幸せな毎日の中では、すぐに忘れてしまうんです。
今すぐじゃなくても、百年後には全てが消えているんです。
例えその時が今でも、悔いが無いように生きるべきなのに、馬鹿だから、すぐに忘れるんです」
「葉月……、ちゃん? 何かあったの?」
「いいえ。なんでも、なんでもないです。このくらい平気です。今さら泣いても喚いても、逃げられないです。そんなこと、何年も前から知ってます。身体からは逃げられないもん。魂だけじゃ、生きれれないもん。ぽんこつでも、こわれかけでも、私はこの身体でしか生きられないもん」
「葉月ちゃん話して。どうしたの?」
結城先生が強く肩を掴む。真剣な瞳に見つめられて、私はぼろぼろと涙をこぼす。
「検診で、異常が見つかって、要検査って……」
「長月に電話するよ。迎えに来てもらうから」
「だめ。お兄ちゃんには絶対に言わないで」
「なんで?」
「あと少しかもしれないなら、悲しい顔、させたくない」
「そんなわけない。そんなこと言わないで」
結城先生の胸が震えている。
お兄ちゃんの親友を泣かせてしまった。
しばらく泣いた後、冷めてしまったすき焼きを、ふたりしてまぶたをぱんぱんにはらして言葉もなくつついていると、インターホンが音をたてた。部屋の壁に取り付けられた小さなディスプレイには、スーツ姿のお兄ちゃんが映った。
ほどなくして玄関に現れたお兄ちゃんは、微かに煙草のにおいを漂わせていた。
「葉月、遅くなるなら家に連絡しなさい。心配するだろ」
お兄ちゃんが怒ってる。
ここに来る前の私なら、怒ってるのはこっちの方だと、実習中に抱いた数々の不審をすべてぶつけていたに違いない。でもいまなら、フラットな気持ちでお兄ちゃんと向き合える。
「お兄ちゃん、ごめんね。結城先生、ごちそうさまでした」
玄関で靴を履きながらお礼を言う私に、結城先生は言葉を返さない。
「ユウキ、世話になったな」
お兄ちゃんに声をかけられ、結城先生は顔をはっとしたように上げた。
「長月……」
結城先生の言葉をさえぎって、私は暇を乞う。
「結城先生、長居して、ごめんなさい」
秘密を、背負わせてしまってごめんなさい。
お兄ちゃんの部屋へは、結城先生の家から歩いて五分とかからなかった。コンビニで歯ブラシと着替えの下着と、プリンを買った。
コーポの二階の角部屋、六畳一間(結城先生の部屋から移動してくると、いつも以上に貧相に見える)には、パソコンとデスク、学校の教科書らしい難しいタイトルのハードカバー、他には何もない。玄関から続く廊下にあるキッチンには、ジューサーがある。時々泊まりにくる私のために、お兄ちゃんが買ってくれた。
お兄ちゃんはコンロで湯を沸かして、梅こぶ茶を用意してくれた。
抱きつきたい思いを堪えて、今私はお兄ちゃんの向かいに座る。
「ユウキに何か変なことを吹き込まれなかった?」
お兄ちゃんと見詰め合ってゆっくり話をするのは、久しぶりだ。
「ううん、何も。おいしいすき焼きをごちそうしてくれた。いい人だね」
「そう、いい奴だよ。うん。仲良くしてやって」
それからお兄ちゃんは、結城先生がさっき私に話したのとほぼ同じ話をした。
「葉月は何かと目立つ存在だろ。今まで学校ではいろんなつらい目にあってきたのは良く知ってるから、今回の実習が葉月の学校生活にマイナスを与えることだけはどうしても避けたかったんだ。今日も、びしょ濡れで悲しそうにしているおまえを、助けに行けなくてごめんな」
「お兄ちゃん、私ね、もう平気みたい。今日私、自分で敵を追い払えたんだよ。すごいでしょ」
「本当に? すごいな」
「うん。だからもう、平気だよ。私はもう十六になったよ。ここまで大きくなれたよ、だから、もう平気。お兄ちゃんは、私のことばっかり気にしてないで、もっと自分の好きなように生きて。私も、もっと兄離れしなくちゃね」
言いながら、ちぎれるように胸が痛む。
嘘だよ。離れたくない。いつまでも子どもでいい。お兄ちゃんに守られたい。
だけど、胸に確信がある。
つないだ手は、今じゃなきゃ放せない。
お兄ちゃんは表情も無く、天井を仰いだ。
温かい手が、床に投げ出した私の手を握る。
お兄ちゃんは、私の兄離れ宣言にノーリアクションだ。
しばらく私の手をにぎにぎしていた。
やがて、「寂しいけど、それがいいかもな」と、本当に寂しそうに言った。




