表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/43

33.すき焼きすき?

「何の用ですか? 放っておいてください。私いま、一人になりたいんです」


 階段の手すりの影から顔を出した結城先生に背を向けて、私は言った。言ってしまった。

 結城先生の反応が怖い小心者の私の前で、アイラインをきっちりひいたアーモンド形の目頭と目じりの両方からぼろぼろと涙を零し、「あんた……」と声を震わせて、結城先生がこちらへ手を伸ばす。

 まさか、私のあの一言に、大人の女性を泣かせるほどの破壊力があるとは思えない。でも、じゃあどうしてこの人は泣いているんだろうか。

 怖くて後ずさるが、そのままじりじりと壁際に追い詰められてしまった。

 

「あの、私ちょっと嫌なことがあってぴりぴりしてて、さっきのは八つ当たりです、ごめんなさ、んむぐ」


 鼻と口が、柔らかくて弾力のあるボールのようなもので塞がれた。

 息ができない私の背中を、結城先生が両腕できつく抱きしめたらしい。石けんのいい匂いがする。

 温かい水滴が落ちてくる。


「葉月ちゃん、あんた元気になってよかったねぇ、ほんとにほんとによかったねぇ」


 結城先生は、急に親戚のおばちゃんみたいになってしまった。

 もしかして、以前にどこかでこの人に会ったことがあるのだろうか。

 記憶を探ってみるが、酸素が足りないのか、脳が上手く働かず、思いだせない。

 

「ずっと葉月ちゃんと話をしたかったんだ。でも、バナナがいっつもなんだかんだ理由つけて、会わせてくれなくてさ。あいつほんとに葉月ちゃんのこと大事に思ってるんだよ。わかってやってね。傷つけてごめんね。心配することないからね」


「バナナ?」


「あ、そうそう。知らない? 長月の昔のあだ名。私ね、長月と長い付き合いで、小学生のころからの腐れ縁なんだ。だからね、葉月ちゃんの病気のことも知ってるんだ。お見舞いにも行ったんだよ。でも、葉月ちゃんいっつも寝てて、起こそうとするとバナナの野郎がすんごく怒るから、寝顔しか見たことなかったんだよね。それにすっかり痩せちゃったから、全然わかんなかったよ。ほんとにきれいになったねぇ」


「せんせ……、息が、出来な……」


「あ、ごめんね。かわいそうに、こんなにずぶぬれにされて。誰にやられたの? 仕返しどうする?」

 

 実習生とは言え、先生にあるまじきことを言う。

 顔に押し当てられていた結城先生の胸が離れて、やっと大きく息を吸えた。

 結城先生のV字の鋭角も鋭いカットソーは、私の頭と同じ形の染みが出来ている。

 あんなに恨めしかった巨乳に顔を埋める日が来るなんて思わなかった。

 踊り場で目を赤くして泣いている結城先生と、びしょ濡れの私を目撃した男子生徒が上げた「うぉっ」という驚きの声 (そりゃそうなるよね)を合図に、私ははっと我に返った。急激な寒さを覚え、唇が震える。

 

「葉月ちゃん、体操着に着替えておいで。家まで送るよ」


 腕を引かれるままに、結城先生に身を任せる。

 此処で逆らう手はない。お兄ちゃんのいろんな話を聞き出せる千載一遇のチャンスだから。

 

「葉月ちゃん、すき焼きすき?」


 結城先生が言ったのは、電車が大学前駅に差し掛かり、電車がブレーキ音をたててホームへと滑り込んだ時のことだ。

 結城先生は返事を待ってくれない。

 気が付けば腕を引かれてホームへと降りていた。


「あ、それなら家に電話……」


「いいよ。たまには心配させてやればいい。スーパーに寄って帰ろう。私んち、すぐそこだよ」


 と、結城先生は朗らかに笑う。

 学生街のスーパーで、ねぎとしらたきと白ワイン、ブロッコリーとチーズを買った。


 結城先生の部屋は、鍵を持たない外部の人間はエントランスに入れないタイプの、セキュリティのしっかりしたマンションの五階だった。

 私は友達がいないので、こうして他人様の家にお邪魔する機会なんてめったにない。ちょっとドキドキする。


「さあ、入って」


 結城先生が玄関のドアを開いて招き入れてくれた。

 抱きしめられたときに嗅いだのと同じ、さわやかで甘い香りがした。

 部屋には、その人が現れるらしい。結城先生の部屋は八畳のリリビングと、キッチンとダイニングがわかれている。リビングの壁はすべて書棚で覆われていて、たくさんの本が並んでいる。


「本がお好きなんですね」


「大好きだよ」


 私は、何もない自分の部屋を思い出す。

 死を意識して、無理やり生きてきた証を消そうとして、生きているのに半分死んでいるみたいな、そういう生活をいつまでも続ける私。宙ぶらりんで、地に足が付かない私。


 温めたホットプレートに牛脂を引いて、肉を焼くと、醤油と砂糖の甘じょっぱいかおりが部屋を満たしていく。


「実家から、いい牛肉がたくさん送られてきたんだ。一人じゃ食べきれなくって、困ってたんだよね。葉月ちゃん、たくさん食べてね」


「私じゃなく、本当はお兄ちゃんと一緒に食べたかったんじゃないですか?」


「長月と? いや、別にそれでもいいけど。呼ぶ? でもあいつ今日、仕事の打ち合わせがあって遅くなるらしいよ」


 私も知らないお兄ちゃんの予定を、結城先生が知っていることにいちいち傷つく。


「結城先生は、恋人とかいないんですか? お兄ちゃんを、狙ってるんですか?」


「え? ああ。そっか」


 結城先生は唐草模様をした陶器ののワイングラスを片手に、目を丸くして動きを止めた。


「そうだよね。誤解を解くのを忘れてたね。結論から言うと、あり得ないから。私、恋人いるし、長月を恋愛対象として見たことは一度も無いよ。あいつと知り合ったの、鼻水垂らした小学生の頃だもん。地元のサッカークラブが一緒でね」


「あ! もしかして……」


 私は不意に思いだした。

 お兄ちゃんの話の中に、ユウキという人がたびたび登場していた。『今日学校でユウキが給食のごはんを三杯おかわりしたとか、今日クラブでユウキが相手チームと喧嘩して鼻血だした、なんていう話だ。

 内容からして祐樹とか、裕貴とか、そんな名前の男の子だと思っていたが、そうか。あれは結城先生のことだったんだ。

 ほっとした。

 すき焼きを一口食べた私を、結城先生はにこにこしながら見ている。


「いっぱい食べて、栄養つけなよ」


 優しい顔をしている。

 こんな人が、お兄ちゃんの友達でいてくれてよかった。

 結城先生が、お兄ちゃんを恋愛対象外だと思っていると知った途端に、緊張が解けた。それと同時に、急速に親近感を覚えるなんて、我ながら虫が良すぎるとは思うけれど。


「なに。にこにこして。急に機嫌がよくなって、わかりやすい子だね」


 結城先生は少し酔っていて、声がいつもより高い。

 今回の教育実習で、私に何らかの不利益が生じないために、お兄ちゃんがいかに心を砕いていたかを結城先生は熱く語った。

 始まる前から、私に対して事務的な対応以外では話しかけないと決め、女子同士のごたごたを避けるために結城先生と必要以上にべたべたとした関係を装い、私のいる自宅へ帰ることも止めたのだそうだ。


「家に帰ってこない意味がわからないです。それに、私のことを思って色々対策を立ててくれたのなら、最初からそう説明してくれたら、こんな気持ちになることも無かった」


「うーん、まあ、その辺は私が言うことじゃないから詳しくは言えないけど、あいつもあいつなりに色々思うところがあるんだよ。わかってやってよ」


「わかりません!」


 急に胸が熱くなって、私はテーブルを両手で叩いた。


「あれ? 葉月ちゃん。それ、ワインのボトルなんだけど……。ミネラルウオーターじゃないよ。飲んじゃったの?」


「大丈夫です。お兄ちゃんがいつも野菜ジュースに養命酒を入れるんです。お酒には慣れてます」


「ええーーー……」


 結城先生は若干ひきつつも、私の胸に溜まった鬱憤を、黙って最後まで聞いてくれた。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ