表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/43

31.ありえねぇ

「橘さん。そろそろ家に帰った方がいいわよ」


 白衣の保健医に促されてのそのそと身を起こし、胸元のリボンを整えていると、


「橘先生に迎えに来てくれるように頼んでおいたわ。一人で帰宅するのはつらいでしょ?」


 と先生が言った、GJ! 久しぶりにお兄ちゃんと話を出来る。そう思うとテンションは一瞬でマックス。笑みすら浮かべる私の目の前で、絶妙のタイミングで誰かが扉をノックした。

 

「大丈夫かよ」

 

 期待に胸を膨らませて損した。三瀬だった。

 あんたじゃない。

 思わず喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 私は三瀬に手を引かれて、保健室を後にした。

 こういうのってはたから見れば恋人同士にしか見えないだろうな。付き合ってると噂されたとしても、根も葉もないとは言い切れない。

 橘先生と結城先生の場合は、どうなんだろう。

 

 電車が鉄橋に差し掛かる頃、窓の外の海を眺める私に、三瀬が言った。


「おまえ、バカ兄と喧嘩でもしたのかよ」


「なんで?」


「おまえが具合悪ぃから一緒に帰ってやってくれって、あいつが俺に頼んできたんだ。研究授業の準備で忙しいからとかなんとか言ってたけど、ありえないだろう。いつもなら、何を差し置いてもお前が一番大事で、他のことは何もかもどうでもいいって感じで、病的なレベルで気持ち悪いほど妹激ラブのあいつが、よりにもよって俺に! 大事な妹を託すなんておかしいだろう?」


「そこまで言う?」


「事実じゃん」


「喧嘩なんて、してないけど……」


 ここまでくると、さすがに気のせいじゃ済ませられないない。

 私、お兄ちゃんに避けられてるのかもしれない。


 翌日は金曜日で、五分休みにふらふらで廊下を歩いていると、「あなた、長月君

の妹さんだったのね」と、結城先生に声をかけられた。


「似ていないね」

 

 そう言う結城先生の唇だけが笑っていて、目は敵意に満ち満ちているように見えた(あくまで私の主観)。


「長月君に聞いたわ。若いのに大病をして大変だったわね。かわいそうに」


 結城先生の赤い唇がぬめぬめと動きまわる間、私は一言も声を発しなかった。

 眩暈がしそうに苛立ち、その場を立ち去る事しかできなかった。

 病気のことは、誰にも知られたくない。

 かわいそうだと言われるのは、大嫌いだ。

 お兄ちゃんはそれを知っている。

 だから、お兄ちゃんが、私の病気のことを他人に軽々しく話すはずがない。

 信じてる。

 信じてるのに、涙が出る。

 人目が気になって、悲しみに浸りきれないのが幸いした。

 唇を噛みしめて、しょっぱい涙をごくごく飲んだ。


 うちに帰ったら、お母さんもミセチチも、もちろんお兄ちゃんもいない。三瀬は自室でくつろいでいるっぽい。 お手伝いさん(名前は田中さん)までがなぜかいない。三瀬がおかしなことを考えて、人払いを頼んでいるんじゃないだろうか。なんて、くだらないことを考えていなければ、涙の海に溺れてしまいそう。

 お兄ちゃんが、結城先生に私の体の秘密を話したなんて、そんなことがもしも事実だとしたら、私はしばらく立ち直れそうにない。

 呆れるほど広いキッチンの、ダイニングテーブルの上にはメモ書きがある。達筆な田中さんの文字で、『野菜のスープと、クリームソース、サラダを用意しました。冷蔵庫にスパゲティの生めんがあるので、温めて召し上がりください』とある。

 涙と鼻水でお腹がいっぱいであまり食欲はないけれど、食べないともっと悲しみの深い沼の底へと沈んでいきそうなので、鍋に湯を入れてIHのスイッチを入れた。


「みょぁ」


 足元で黒猫のリーフが鳴いて、私のふくらはぎのあたりに愛らしい桃色の鼻先をこすりつけた。


「ああ、リーフ! いたんだ」


 両手で抱え上げたリーフの温もりに、私は救われた。ものすごく救われた。

 きっと、涙をこらえるべきじゃなかったんだ。

 涙の中に悲しみの科学的な成分を閉じ込めて吐き出して、心を空っぽにする必要がある。何を悲しんでいたのか忘れてしまうくらいまで。目玉が充血して蕩けてしまうまで。瞼がピンポン玉みたいになるまで。よーし! 泣くぞー!

 私は気合を入れて泣いた。

 沸騰したお湯に麺を投入し、タイマーを掛ける間にも涙を流し続けた。

 ぴぴぴぴぴぴぴぴとタイマーが鳴る頃には、私の腕の中でリーフはずぶぬれになり、濡れた毛が肌に張り付いて、随分とスリムに見えるようになった。

 それを見たらおかしくなって、ふふふと笑ったら涙が止まった。

 ゆであがったスパゲティにホワイトソースをかけて、湯気を上げるクリーミーなそれを口に入れたら、再び涙があふれ出した。料理には、作った人の愛情が込められているんだなぁ。田中さんはこれまでの人生で、このおいしい料理で何人もの人を幸せにしてきたのだなと思ったら、泣けてきた。

 今ならもう、何が起きても泣けるだろうな。私、ずっと泣きたかったんだろうな。他人事のようにそんなことを思った。


 とてとてとてと、リーフの足音が聞こえる。それに重なって、とんとんとんと、重い足音が聞こえる。


「にぃ」


「おぁ! なんだリーフおまえ、痩せたな! って言うか何だこれ、ずぶぬれか!」


 三瀬はリーフを見て驚いて、泣きながら無言でスパゲティを食べている私を見つけてさらに驚いたみたいだ。


「おぇ、何だよおまえ帰ってたのかよ。それならただいまくらい言えよ」


「言ったって、どうせ聞こえないでしょ。広すぎるんだよ、この家!」


「は? おまえ、泣くのか怒るのかどっちかにしろ。っつうか、なんで泣いてんだよ。理由を言え」


 私は三瀬の腕の中からリーフを奪い取り、


「なんで知りたいのか、理由を言いなさいよ」


 と三瀬に意味不明な悪態をつく。三瀬が困ったような顔で私を見ると、少しだけ胸がすっとした。もっといじめたくなった。


「私がこんなところで一人激しく心を痛めて、子猫を抱いて涙に暮れていたとしても、それが三瀬の人生にどういう影響を与えるの? 私が納得できるようにわかりやすく説明出来たら、教えてあげるよ。私が泣いてる理由」


「酔っぱらってんじゃねぇだろうな」


 三瀬はものすごく嫌そうな顔をして髪を掻き毟り、だああ! と叫んでからこう言った。


「言わせてどうすんの? 言ったらなんかご褒美でもくれんの? 好きだからだよ。おまえが好きだから気になンの! 悪ぃかよくそしね!」


 三瀬は半ギレしながら喧嘩腰で言った。 

 私は、胸がすーーーーーーーーーーっとした。

 三瀬が、「言ってやったぞ、くれよご褒美」とかなんとか言いながら抱きついてきたので、ぶっ飛ばしてやった。

 床に転がって呻いている三瀬を見ていたら急に申し訳ない気持ちになり、わたしはぽつぽつと、唇から言葉を落とした。

 それは、悩み相談というやつだった。

 少し前に屋上でお弁当を食べながら、三瀬が『悩みがあるなら相談しろ』的なことを言った時には、『絶対しないわ』と思ったのに、それが今はどうだろう。このざまだ。我ながら情けないとは思うけれど、今は他に相談できる相手はいない。義理でも、家族なんだし。

 だって、いままでずっと、悩み事は包み隠さずあらいざらい、何もかも、私の中の表も裏も、全部お兄ちゃんに相談してきたんだ。

 

「お兄ちゃんが、何を考えているのかわからない。こんなことはじめてで、どうしていいかわからない」


 私が言うと、三瀬は深くため息をついた。


「あのなぁ、俺から言わせれば、わからないのはおまえのほうだよ。自分以外の誰かが考えてることなんて、わからなくて当然だ。っていうか、わかる方がおかしい」


「でも、今まではわかってた。私たちはずっと分かり合ってたよ」


「ありえねぇ」


「なんでそんなこと言うの!」


 また涙が止まらなくなる。


「三瀬は、何のためにそこにいるの? 三瀬が言えっていうから、別に言いたくもないのにこうして悩み事をおしえてあげたのに、そうやって泣いてる私をもっと悲しくさせるようなこと言うために、三瀬はここにいるの? そうなの!?」


 開いたままの私の両目から涙がだばだば流れ落ちる。

 三瀬は、まっすぐな瞳で私を見つめて呟く。


「ごめん、違う」


 三瀬は仕切り直しの合図に咳払いを一つした。

 それから私の肩を掴み、ぐっと顔を近づけて、見たことも無い真面目な顔でこういう。


「大丈夫だ。おまえは強い。俺は知ってる。だから黙って目を瞑れ」


「だからって何、意味わかんない」


「いいから瞑れ」


 温かい掌に瞼を撫でられ、反射的に目を閉じた。

 つむじに、温かくて柔らかいものが触れる。

 そのまま、胸の中に抱き寄せられた。頬に、シャツ越しに三瀬の鼓動が伝わる。

 速く強く、脈打っている。なんだかとっても不本意ながら、安心する。

 突き飛ばせる雰囲気じゃないし、今度はそうしたいとも思わない。

 ああ、私にはお兄ちゃんがいるのに。

 ごめんね。

 スキなのはお兄ちゃんだけ。

 今でも今は、誰かに必要としてもらえなければ、立っていられそうにない。

 ごめんね、私、面倒くさい生き物なの。我ながら嫌になるくらい。


「とにかく気を強く持てよ」


 三瀬のやさしい声。少しだけ、胸に響いた。

 前髪に、何かが押し当てられた。たぶん、キスされた。

 抵抗する気力もない。

 今はむしろ、温もりが嬉しい。

 あたたかい唇は額に、頬に。

 次はきっと、唇。

 私は両手で唇を抑えた。

 右手の甲の上に、三瀬の唇がそっと触れた。

 三瀬は、「泣くな。胸が痛むんだっつーの」と呻いた。

 私は今、三瀬を利用して、心にあいた穴を塞ごうとしている。

 温もりがほしいだけなら、足元でずっとにゃぁにゃぁ鳴いてるリーフで十分なのに。

 

「ほら、慰め、おわり。こんなもんでいいかよ」


 唇を尖らせ、三瀬が腕を解いた。

 温もりが消え、外気がひどく冷たく感じる。


「うん、上出来。ありがとう。元気出たよ」


 その言葉は嘘じゃなかった。

 三瀬が伝えてくれた言葉が、光り輝いて私を照らしてくれるような気がした。

 自分ではわからない。

 自分の価値はきっと、誰かに必要とされることでしか感じられない。

 私は目を閉じて、もう一度三瀬にお礼を言った。


11/3 0:05 修正済 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ