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29.生きていたいです

 新学期初日の帰り道。電車の中。

 三瀬は今学期から、周りの女子を気にして私と距離を取るのをやめることにしたらしい。

 学校でも、堂々と私に話しかけてくる。

 

 女子A:「あの二人、付き合ってるのかなぁ」

   B:「やだぁ」

 三瀬: 「うっせ」


 というやり取りが、其処此処で何度も繰り返されると言う、そんな何とも気疲れする一日だった。

 それにしても大きな手だなぁ。三瀬の手。

 三瀬は吊革の輪っかを内側からではなくて外側からぎゅっと握り、正面の座席に座る私の方へと身体を倒し、見おろすようにしてこう言う。


「まるでアントニオ・バレンシアだな、おまえは」


「え? 誰?」


「時速35キロで走れる男。マンUの俊足ミッドフィールダーだ。ルイス・アントニオ・バレンシア・モスケラ」


「ああ」


『まんゆー』と『みっどふぃーるだー』がそもそもわからない。でも、質問すると馬鹿にされそうなのでやめておく。


「私、運動は苦手。脚が速いなんて、生まれてこの方誰に言われたことも無いよ」


「だろうな。おまえ、昔からとろいし」


「売られた喧嘩なら買いますけど?」


「いや、違う。俺が言ってるのは、生き方の話。おまえは、世界で一番速く走れるサッカープレイヤー並に、人生という名のフィールドを全速力で駆け抜けてるぞ、という比喩だ」


「ああ」


 とりあえず頷いておく。

 

「おまえ、さっきから生返事むかつくからやめろよ」


「だって、大した話じゃなさそうだと思って」


「ひでぇ……聞けよ」


「わかったよ、続けて」


 今の言い方、ちょっと威圧的だったかな。

 三瀬は気にしていないみたい。


「おまえはさ、橘。生き急ぎ野郎なんだよ」


「私は女だから、野郎じゃないね。女郎めろうだね」


「おまえは、生き急ぎ女郎なんだよ」


 素直に言い直す三瀬がおかしくて、少し笑った。

 今日の三瀬はいつもみたいに、怒りっぽくない。

 

「生き急ぎ……まあ、そうかもね。だって急いで逃げないと、飲み込まれちゃうかもしれないし」


 ――――あ、弱音、吐いたかもしれない。よりにもよってこの男に。

 

 たぶん今、見つめられてる。

 つむじが焦げそう。視線には熱がある。三瀬に見つめられるようになって、初めて気が付いた。

 顔を上げたら予想通り、妙な半眼の三瀬とばっちり目が合った。

 三瀬は瞼の淵を桃色にして(この人、照れるとおかしなところが赤くなる。おもしろいので、最近はわざとからかってストレス解消するのがマイブーム)、


「ンだよ、見ンなよ」と呟いて目を逸らした。


 電車はがたごと鉄橋を渡る。

 三瀬の背後の窓から、素敵な景色が見える。

 温かい黄色の太陽が海に溶け落ちる様。

 消えかけの線香花火の玉みたいな夕日。

 その最後の閃光みたいなきらきらの海。

 ほんの数秒だけ流れていったその景色を、目を閉じてもう一度思い出す。

 カメオは大きくて重いので、学校には持っていけない。

 もしも今、カメオを携帯していても、用意してシャッターを切るまでの時間に景色を見損なってしまうくらいなら、肉眼でじっくりねっとり見つめたい。

 それを胸と脳に記憶して、いつでも引っ張り出せるように訓練をしているんだよね、私、今。

 それが、私を追いかけてくる黒い影から、逃げきるための力になる。

 現実の世界が広がらなくても、心の中は無限に広げられる。そうでしょ?

 手に入らないものを嘆くより、手に入れたいと願う心の動きをいとしみたい。

 

 なんて――――

 

 ドラッグストアで見つけた超絶好みの香水とか、クレーンゲームの非売品のぬいぐるみとかなら、そんなきれいごとで諦められるけど、ことお兄ちゃんのこととなると、私はどうしてあんなにも…………

 ああ。あのみっともないはじめてのキス。

 思いだすだけで恥ずかしい。

 取り乱して、闇雲に欲しがって、好きで好きで、もっとそばにいたくて、できることならもう溶け合って一つの生き物になってしまいたいとか思う始末。

 これじゃあまるで痴女みたいだ。処女なのに。発情しすぎだ。


「三瀬の言う通りだね。確かに私、生き急いでる」


 主に愛に。

 私が世界で一番好きな人が、私のことを世界で一番好きだと言ってくれているのに、満足できないなんて、どうかしてる。

 このままでいいんだ。

 きっと、これ以上を望むのは正しくない道なんだ。

 今はまだ。

 お兄ちゃんの写真を撮って満足しよう。何枚も撮りためよう。

 いつか、私が健康な大人になったら、きっと手に入れるんだ。

 私が、一番欲しいもの。





 新学期が始まったというのに、二日目から私は学校を休んだ。

 検査を受けに、いつもとは逆へ走る電車に乗り、懐かしい病院へと足を向けた。

 足取りはやはり、軽くはない。

 診察室で。

 お世話になった先生は、私の顔を見るととてもうれしそうな顔をする。

 救えなかった子どものことを思う悲しさも、私みたいに生き残った者の顔を見ると乗り越えられるのだそうだ。

 昔から先生は、気休めは言わない。

 きっと大丈夫だよとか、すぐに良くなるよとか、安易な励ましはしない代わりに、黙って私の不安に寄り添ってくれる。

 

 ひととおり検査を終え、二週間後にまた来てねと、先生が言う。


「私、今年も来年もそのさきもずっと、生きていたいです」


「うん。そうだね。僕も、葉月ちゃんの孫の顔を見るまで生きていたい」


「先生、それはちょっと欲張りすぎですね」


「夢は大きく持たなきゃつまらんだろ」


 先生は笑う。

 その笑顔が、言葉よりも強く私に思いを伝えてくれた。

 

 

 病院を出ると、外の世界は眩しくて暑い。

 ひんやりと暗い、洞窟みたいな病院内とは別世界だ。

 二度と、あの暗闇に戻りたくない。

 少しだけ、涙が出た。

 

 お兄ちゃんは昔から私が病院に通う日は、必ず近くのバス停で待っていてくれる。

 学生なのに、アルバイトだってやっているのに、まだ日の高い時刻に、病気でもない私のために時間を割く必要はないから、今日は来ないでね。

 今朝、確かにそう告げたのに、バス停にはお兄ちゃんがいた。

 

 私は慌てて涙を拭いたけど、お兄ちゃんにはすぐに見抜かれる。

 お兄ちゃんは何も言わずに右手を差し出す。

 いつものように大げさにお兄ちゃんが私を愛でるのは、私が心身ともに元気な時だけだ。

 私に元気が無いと見抜くと、急に静かになる。

 そして、黙って右手を差し出すのだ。今みたいに。

 私はその手を握る。

 

「お兄ちゃん、明日から教育実習だね。お兄ちゃんが先生だなんて、私、すっごく心配だよ」


「そう? 前々から準備をしっかりしてあるし、塾講のバイトもしてるからそれなりにやれるよ。葉月が気に病むことは何もないさ」


「ううん。心配なのは、女生徒とのごたごた」


「ああ……」


 お兄ちゃんはすこし表情を曇らせたけれど、すぐに顔を上げて、


「大丈夫。俺、ロリコンじゃないから、女子高生に興味ない」


 と、笑顔で言った。

 私は、少し、いやかなり傷ついたけど、もちろん口には出さない。


「お兄ちゃんに興味が無くても、相手が群がってくるのがいつものパターンでしょ。気を付けて」


「わかったよ」


 お兄ちゃんは頷いて、私の手を握る力を強めた。

 それでも、気を付けてどうにかなる問題じゃないってことは、私自身、身に染みて知っているので、やっぱりすごく心配だ。

 だけど、少し楽しみでもある。

 お兄ちゃんの教育実習が終わる頃には、今日の検査結果も出ているだろう。

 

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