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28.家族だからじゃない

 ざらざらでくすぐったい。それになんだか、ぬめぬめする。

 振り払っても、首筋に張り付いて離れない。

 これは、舌?

 目を開けた途端に金色まんまるの目と目が合って、「に」と、かわいくあいさつされた。


 おいしいかい? 塩味かい?

 喉の上に乗り、子猫が私の鎖骨を舐めまくっていた。


 昨夜、子猫を見つめたまま、転寝のつもりが熟睡してしまったらしい。

 この暑いのに、引越作業で汗をかいた身体を、一晩放置してしまったのだ。

 ただでさえ汗でべとべとの体が、さらに子猫のよだれでどろどろになり、気持ちが悪い。

 シャワーを浴びたいし、朝から塩分採りすぎの子猫に水を飲ませてやりたいし。

 まだ少しぼんやりした頭と子猫を抱え、部屋を出た。

 

*


 確かここだったよなぁ……バスルーム。

 うろ覚えでドアを開く。その先の広すぎる脱衣場で、窓からの朝日を受けて鏡に向かい、歯を磨いていたのは三瀬だった。

 なんで全裸?

 一瞬だったけれど、見てしまった。

 すぐに出て、ドアを閉めた。

 ごめんねくらい、言えばよかったのだろうけど、驚きすぎて何も言えなくて、夏……


 別に、これくらい平気だ。

 見慣れてるもん、お兄ちゃんの裸……(子供の頃だけど)

 あ~あ、朝からえらいものを見てしまった。


「みゅ」


 落ち込む私を慰めるように、子猫が鳴く。  

 ドアの前でへたり込んでいると、


「おはよう葉月。こんなところで何してるんだ? 」


 これまた上半身裸で、お兄ちゃんがやって来た。

 まあ確かにね、暦の上では残暑とは言え、近頃は温室効果ガスの影響で地球の気温は上がっているらしいからね。今日も朝から暑いもんね。

 お兄ちゃんの浅黒い肌よりも、三瀬の肌はもっと日に焼けて黒かったな。しかも、Tシャツの形に白かった。って、思いだして比較している場合じゃない。


「どうした、葉月。風呂上がりの犬みたいにぶるぶる頭を振って、具合でも悪いのか」


 お兄ちゃんは顔を曇らせたが、私の胸元に視線を落とすなり目を細め(子猫を見つけたのだろう)、一瞬で笑み崩れた。


「葉月。抱っこ、していいか?」


「うん、どうぞ」 


 お兄ちゃんが腕を伸ばす。

 嬉々として抱きしめたのは子猫ではなく、私の方だった。

 私の体はあっという間にすっぽりとお兄ちゃんの腕にくるみこまれ、おでこにおでこをくっつけられた。


「うん。熱はないな。今日も元気で何より」


「抱っこって、猫じゃなくて私?」


「そうだよ。子猫を抱いた葉月がかわいすぎて、たまらなくなった」


 お兄ちゃん!

 身体をくっつけ合ったままでそんな甘いことを言われたら、さすがに私も勘違いしそうだよ。

 頬が熱い。

 だって、あと二センチ顔を動かしたら、キスだってできるくらい距離が近いのだ。

 

「冗談でもやめて」


「なんで? 俺はいつでも本気だけど。葉月は、世界で一番かわいい」


「もう! ほんとにやめてよお兄ちゃん」


 胸が破裂しそう。

 思わずギュッと目を閉じたその時、背後でドアが開く音がした。

 同時に私の身体は何かに押されて、お兄ちゃんとの距離がぐっと近づいた。

 

 一瞬だけど、唇に、軽く触れただけでふにっとつぶれた、柔らかすぎる何か。

 そっと瞼を押し上げると、驚いているお兄ちゃんと目が合った。

 お兄ちゃんは指先で唇を抑えて、かすれた声で呟く。


「もしかして今の……」


 お兄ちゃんは腕をほどき、後ずさりをした。


「ごめんな、葉月。そんなつもりじゃなかったんだ、キスするつもりなんて……」


 早口に弁明するお兄ちゃん。

 その顔は、今まで一度も見たことが無いくらいに、真っ赤だった。


「いいの。平気」


 わざとでもいい。お兄ちゃんとなら構わない。私は、お兄ちゃんが好き。だから、謝らないで。謝られたら悲しくなる。

 言いたいのに、胸がどきどきしすぎて痛いくらい。声が出ない。


「おい! いちゃいちゃしてんなよ、ここは欧米じゃねえんだよ、阿呆か」


 扉の向こうから、不機嫌全開の三瀬が顔を出す。

 自分がこの事態を引き起こしたことに気が付いていないらしい。

 

「まさかおまえら、毎日そうやってあいさつ代わりにキスしてるわけじゃねえだろうな」


 いつも以上にガラが悪い。輩みたいに三瀬がお兄ちゃんに絡む。

 適当にあしらえばいいのに、「いや、これが初めてだ」とお兄ちゃんは真面目に答えている。

 たぶんまだ、動揺から抜け出せていないのだろう。


 不意に三瀬が、私の腕をぎゅっと掴む。

 まっ黒い三瀬の目が、真摯に私を見つめている。


「言っとくけど、見せつけられたくらいで俺の気持ちは変わんねえから」


「なに? 何の話?」


「橘。おまえの気持ちなんかどうでもいい。おまえが俺を嫌いでも、俺はおまえが好きだ。わかったか。覚えとけ」


 最後の二文だけは、私ではなくてお兄ちゃんに向けて、三瀬が半ば叫ぶように言った。

 おかしいな。

 どうして朝からこんなことになってしまったんだろう。

 三瀬に対するいらだちとともに、胸の中に、するりと冷たいものが降りた。


 ここで私が本音を――――私はお兄ちゃんが好きだから、三瀬の出る幕はないと言ったところで、誰も得をしないので、


「わかった。覚えておくね」


 と、小首を傾げて笑っておくことにしよう。

 

 どういうわけかわらかないけれど、三瀬が私を好きだと言うのなら、そのままでずっといればいいんじゃないかな。

 私は、三瀬を家族として、それなりに大切にするつもりだ。

 優しくして、時には甘えて、少しくらいならサービスもして、ずっと私を好きでい続けてもらえるように努力をしようと思っている。

 

「うれしい、私のこと、ずっと好きでいてほしい」


 そして、三瀬以外の誰かと私が幸せになる様を、そばで指を咥えてみていてね。

 いつか、私の結婚式にも出てね。私を想ったままで。

  

 お兄ちゃんは、じっと黙って私を見つめている。

 視線が頬に突き刺さっているのが良くわかる。

 きっと今私は、悪い魔女みたいな顔をしているに違いない。

 お兄ちゃん。

 こんな私を見ても、変わらずに言える? 葉月は、世界で一番かわいい、って。

 お兄ちゃんの顔を見るのが怖いので、私は逃げた。

 私は三瀬の身体を押しのけて、バスルームへ閉じこもった。

 お風呂で子猫が水を飲ませてから、シャワーを浴び、着替えてドアを開けたら、廊下にお兄ちゃんが立っていた。

 まさか、ずっと待っていたのかと思ったが、右手にいつもの野菜ジュースを持っているので、そうではないだろう。私がシャワーを浴びている間に、作って来てくれたんだろう。


「葉月、その猫の名前、リーフっていうんだって」


「三瀬がつけたの?」


 お兄ちゃんは頷き、グラスを差し出す。


「『ゆっとくけど、そいつは俺の飼い猫だから。おまえにくれてやったわけじゃねえから。後で返しに来いよ。リーフに会いたければ、俺の部屋に見に来いよ』って、葉月に伝えてくれってさ」


「三瀬がそう言ったの?」


「うん。敵ながら賢い作戦だ。抗いがたい巧妙な罠だね」


 お兄ちゃんは、なぜか感心している。

 私は、子猫、リーフの小さな頭を撫でる。

 そっか。

 おまえは三瀬の思いやりじゃなくて、刺客だったんだね。


「リーフに会いに行くときには、襲われないように気を付けるんだよ」


 お兄ちゃんは笑顔で言う。

 なんで? いつもならもっと怒って、絶対に部屋になんて行っちゃダメだって言いそうなものなのに、さっきの言い方はまるで、私が三瀬の部屋を尋ねるのを許可しているみたいだ。


「いいの? お兄ちゃんは、それでいいの?」


「わかってるよ。復讐の一環だろ? でも、危ないと思ったら、すぐに俺を呼びなさい。身体の関係は、葉月にはまだ早いからね」


「何それ……、あり得ないよ。そんなこと。だって、私は……」


 お兄ちゃんが好きなんだもん。

 

 どうして、こんなタイミングで。

 他の男に告白されて、「嬉しい」と笑って受け流したその唇で語られる気持ちなんて、どうしたって薄汚れて見えるに違いない。それでも、言わずにはいられない。


「私はお兄ちゃんが好きだよ。一番好きだよ。お兄ちゃんだからじゃない。家族だからじゃない」


「ありがとう。葉月。俺も好きだよ」



 お兄ちゃんはお兄ちゃんの顔のままで優しく微笑む。

 そう言う意味じゃないのにまたうまく伝わらない。

 こんなにもやわらかい、甘い笑顔で、やんわりと拒まれてしまう。

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