26.玉の輿だねえ
「お兄ちゃん、泣いてるの?」
涙で滲んだ鼻声を聞かせたくないので、返事の代わりに腕に力を込める。
一度は抜け落ち、再び生えそろった髪へ、健気に脈打つ葉月の首筋へ、雫が滑り落ちていく。
何度こうして涙を落としただろう。
涙は枯れて、心は死んで、もう一度生まれる。
それを何度も繰り返した。
葉月の傍にいて俺は、強くも弱くもなった。
葉月を失うことより他は、なんとも思わない。
ある意味無敵で、最弱でもある。
今日、葉月がカメラを買った。
初孫を喜ぶ老人や、子どもの入園式間近の若夫婦が好むような、ライトな一眼レフカメラだ。
商品を紹介するカタログには、シャッターとママのキスを同列に並べたキャッチコピーと、小さな女の子の誇らしげな笑顔がある。
「私ね、お兄ちゃんの写真をたくさん撮りたい。料理してる時とか、私の髪を染めてくれる時とか、真剣な顔のお兄ちゃんってちょっと寄り目なの。あの顔が大好き。写真を撮ってお兄ちゃんに見せたい」
「そんなしょうもないものより、もっと有意義なものを撮りなさいよ」
「しょうもなくないよ。どの瞬間のお兄ちゃんも、私には全部宝物だよ」
葉月は、まだ十五歳だ。いや、この夏休みが終わるころには十六になるのか。
病のせいで遅れていた第二次性徴が、健康の回復ととも怒涛のように葉月の体を変えていく。
「ありがとう、葉月。おまえこそ、俺の宝物だよ」
今、俺がどんな顔をしているか知らないが、醜い物思いがにじみ出ていないよう願う。
邪な俺の『宝物』と、葉月の唇からこぼれる軽やかな『宝物』が、同じ意味であるはずがない。それなのに俺は勝手に期待して、無邪気な葉月の言葉に桃色の意味をつけ、密かに悦に浸る。
夕焼けの街、俺の腕を取り、うさぎが跳ねるようにして葉月は歩く。
押し付けられて揺れる質量、腕を引く重み、山と谷を転がるようにころころと高く低く響く声、振り向けばそこにある笑顔。
世界中の誰もが手を伸ばす高価な宝石や金も、葉月には換えられない。
俺の宝物。
「まずはお母さんと三人で写真を撮ろうね」
俺は写真が死ぬほど嫌いで、毎年一月の家族写真撮影には同行しないし、旅行先の記念写真でも向けられるレンズから全力で逃げる(俺の百メートル走のタイムは11秒代後半で、陸上部からのスカウトも走って逃げた)。
だから、アルバムに収められたどの写真にも、まともに俺が映っていない。
写真嫌いの原因は、よくある話だ。
最初の家族写真が出来上がる頃に、俺以外皆が死んでしまい、一人で見る羽目になった。それ以来、写真とカメラが嫌いになった。
その晩、葉月はケースに入れたカメラを、大事に抱いて眠った。
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葉月はカメラに名前を付けた。
カメオ。
俺のペンネームとかぶっている。
葉月が愛おしげにカメオを呼ぶたびに、複雑な気持ちになる。
カメオの初仕事は、セルフタイマーで家族写真を撮る事だった。
片付いたアパートの居間で、笑ったりふざけたりしんみりしたりしながら、俺たちは何枚も写真を撮った。
その日、俺たちはアパートを引き払い、三瀬陽光の傘下に入った。
俺はこの度の母の結婚を、次のように考えている。
傾きかけた我が『橘商店』が、『三瀬コンツェルン』に買収されたのだ。
経済的な利点が無ければ、この結婚には絶対に賛成しなかった。
アパートの下で待ち構える三瀬陽光のレクサスに乗り込み、下道とバイパスを使って十五分ほど走り、繁華街のど真ん中で車は停まった。
葉月や母はどうか知らないが、俺は引っ越し先の詳細な住所や外観は知らなかった。
窓を開けて、呆れ返るほどの豪邸を眺めるうちに、自然と口が開く。
三瀬陽光が指紋認証とパスワード入力をすると、厳めしい鉄柵がぱっくりと口を開け、車ごと俺たちを飲み込む。
「お母さん、なんだかすごいね!」
葉月がはしゃいだ声を上げる。気持ちはわかる。これは俺でもテンションが上がる。
「本当ね、お母さん、こんな豪邸見たことないよ」
母さん、それはおかしい。結婚相手の自宅を知らないなんてことはあり得ない。
「だって、くつろぎの時間はいつもホテ……「その話はもういい」」
そんな事情は知りたくもない。
「見て見て! 屋上にプールがあるよ」
「すごいねえ、芸能人のハワイの別荘みたい」
「お帰りなさいませ」
車から降りた俺たちを出迎えたのは、和服姿の中年女性だ。
「どなたでしょうか。仲居さん?」
「ようちゃん、旅館じゃないんだから。お手伝いさんだよ」
三瀬陽光がこともなげに放った言葉に衝撃を受けた。
ここまで金持ちだとは聞いてない。
外観は、コンクリート打ちっぱなし、三階建て、屋上にプール。
庭は軽く見積もって三百坪。季節の花が咲きそろう、手入れのされた緑がきれいだ。
部屋の中もすごかった。
「すごいねお母さん、玉の輿だねえ」
目を丸くする葉月。
母は、「ほんとにそうよねぇ」と、今さっき気が付いたように驚いている。
こういうのを、無欲の勝利というのだろうか。
それとも、すべて計算ずくだろうか。
笑顔の陰で、何を考えているかよくわからないのが女だからなあ……
俺の前では天使みたいな葉月だって、三瀬粉雪に対してはどんな顔を見せているか知れたものじゃない。
目が合うと葉月は「お兄ちゃん、どうしたの?」とかわいらしく笑った。




